序章
自己紹介をさせてほしい。
私は由緒正しいアンネマリア公爵家の長女にして、次期国王陛下である現王太子ラファエル・エヴァンディアの婚約者、リディス・アンネマリア。
花も恥じらう麗しの乙女、朝露に濡れるような美少女と美女の狭間の色気と清楚さを兼ね備えた完璧な美貌の十八歳。
そんな私は、結論から言ってしまえば、馬車の事故で死んだ。
そう、死んでしまった。
――多分。
私は今、何もない真っ白な空間に突っ立っている。
私の前には馬鹿に布の多いこれまた白い服を着た少年が、空中に浮かぶ不思議な球体型の椅子の中に座ってふわふわしている。
どうでも良いのだけれど、とても座り心地が悪そう。
球体型の椅子の中にぴったりおさまっている少年だなんて、もしかしたら母体回帰願望でもあるのかしら。心配ね。もしかしたらご両親に愛されずに育った方なのかもしれませんね。
そんな事を考えながら、私は真っ白な空間に背筋を伸ばして真っ直ぐに立って、少年の姿をまじまじと見ている。
人生の走馬灯とは、生まれてから今までのことを一瞬で繰り返すのではなかったのかしら。
まさか見ず知らずの少年が我が物顔で私の記憶を支配してくるとは、予想外だわ。
私は私の記憶にある最後の日の、質素な灰色のドレスを身に纏っている。
体の痛みはないし、案外意識はしっかりしている。
確かに馬車の事故にあったと思うのだけれど。私を乗せた馬車は私ごとひっくり返り、崖の下へと落ちていった筈だ。気絶でもしたのだろう。途中から、記憶が無いけれど。
それで――どういうわけで、この少年は私の前にいるのかしら。
球体に座ったままの少年は、何故か胡乱な表情で私を上から下まで眺めて、深い溜息をついた。
「……リディス。君はどうして死んだのか、分かる?」
どうして、とは。
この走馬灯は話をするのかと驚いたが、アンネマリア家に産まれた淑女としては動揺は顔にだしてはならない。
「馬車が崖から落ちたからでしょう。あんな悪路で馬鹿みたいに先を急ぐからですわ。愚かしい」
私は胸を張って答えた。
馬車はどういうわけか奇妙なほど速度を上げていたような気がする。それにぐらぐらと蛇行していた。山の中の細い道で、危ないなとは思っていた。
とはいえ私は逃げないように体を縛られていたし、口を出せるような立場になかったのだ。どうしようもない。
腹は立つし、できることなら御者の頬を叩いて罵りたいけれど、今更どうすることもできない。
なんというか、まぁ、十中八九私は死んでしまったのだろうし。
「そうではなくて、君がどうして馬車の中で縛られるような羽目になったのかをよく考えろと言っているんだよ、リディス」
少年はどことなく偉そうに言った。
「あなた、先ほどから私の名をリディスと呼んでいますけれど、失礼じゃありませんこと?」
「失礼?」
「だってそうでしょう、私はあなたがどなたかを存じませんのよ」
少年とはいえ、見知らぬ男性に名前を幾度も呼ばれるなど、輿入れ前の淑女としてはしたない行為である。
私は死んでしまったので、もうラファエル様のお嫁さんにはなれないのだけど、これは気分の問題だ。
せめてリディス嬢かアンネマリア公爵令嬢と呼んでほしい。
私の正当な申し出に、どういうわけか少年はものすごく苦いものを食べたような渋い顔をした。
「我は、カミシール。お前たちの暮らすエヴァンディア王国を含めた、七つの王国からなる大地の唯一神だ。創造神、と呼んでくれても良い」
「寝言は寝てから言ったほうがよろしくてよ。それに私は、お前という名前ではありませんわ」
私は他者をお前などという失礼な呼称で呼ぶ方の事を、基本的には信用ないことにしていますし。
「なんとまぁ、不遜な女だ。不憫に思い救ってやろうと思っていたのに、ちょっと嫌になってきてしまったな……」
私が親切に教え諭して差し上げると、カミシール少年は眉間にシワを寄せる。
私は知っている。自分を神だと言うような人は、ちょっと危ない人か可哀想な人なのだ。
「ともかく、我が神だということを信じようが信じまいがお前の運命は変わらない。だが、お前が心を入れ替えて悔い改めるというのならば、もう一度だけ希望を与えてやろう」
「どういうことですの。私には入れ替えるべき心などございませんわ。常に清く正しく美しく、骨の髄まで教育されつくした、雪薔薇の令嬢リディスとは私のことですのよ」
雪薔薇とは、雪の中にも咲く青い薔薇のこと。
雪深い山の中でしか咲かないとても珍しい植物である。
その植物に例えられるほど、私は高貴であり清らかで美しいと、皆私を褒めたたえるし実際私もその通りだと思っている。
「そういうところがいけない。可愛げがない。せめて生き返らせてくださいと縋ったらどうかと思うぞ」
「縋るなどとはしたない。王妃に必要なのは、賢さと精神力と懐の深さですわ。私が死んだというのならば、私はそれを受け入れましょう。さぁさぁ、地獄でも天国でも連れて行ってくださいまし。そこがどこだとしても、私は必ず登り詰めてみせますわ」
私は腰に手を当てると、胸をそらせた。
カミシールは視線をそらす。きっと私の豊かで熟したグリスの実も裸足で逃げるほどのふわふわとした胸部が目の毒だったに違いない。
自称神様も虜にしてしまう私は、とても罪深い。
しかしそれは美しく産まれてしまったものの原罪である。仕方ないのだ。
カミシールには申し訳ないけれど、私は少年はあまり好みじゃないので、ごめんなさい。
「いいかい、リディス。ぜんっぜん、まったく、これっぽっちも理解していないみたいだから、教えてあげるけれどね。君は、生前シンシア・カッツェを虐めただろう」
「シンシアさんを?」
「あぁ、事あるごとに目の敵にして、無駄に絡んで、罵倒しただろう」
「教育的指導ですのよ。私は、貴族社会の厳しさを教えて差し上げていましたの」
シンシア・カッツェ男爵令嬢のことはよく覚えている。
修道院で育ち、ごく最近になってカッツェ男爵の落とし子だったと判明し、男爵家に引き取られた令嬢だそうだ。
私の方が美しいが、まぁまぁ愛らしい令嬢だった。別にそれだけならなんの問題もない。
しかしあろうことか、エヴァンディア王立学園に入学してしばらくすると、シンシアさんは私の婚約者であるラファエル様に色目を使いはじめ、私の地位を奪おうとしたのである。
だから私は婚約者のいる男性にみだりに近づいてはいけないと、教えて差し上げた。
最初の教育的指導でどういうわけかシンシアさんは泣いた。
そして不可思議なことにそのあとから、シンシアさんに群がる馬鹿な男たちが増えた。私は悩みを相談してきたそれぞれの男性の婚約者の方々のためにもと思い、それから本来ならばどうでも良かった存在のシンシアさんに、教え諭して差し上げていたのだ。
適度な距離感や礼節や立場を弁えた態度とはどういうことかについてを。
「リディスにとってはそうだっただろう。確かに君の言っていることはそう間違っていなかった。しかしね、物事にはやり方というものがある。君はだから虐めの首謀者へと祭り上げられて、馬車で娼館おくりにされる羽目になったんだよ」
「それがどうにも不思議なのですよね。百歩譲って婚約破棄はわかりますわ。ラファエル様が浮気男だったと、まぁそういうこともありますわよね。でも、私を娼館に送るといういのは、どういう罰なのかしら……、まぁ、私は娼館においても頂点に上り詰めるつもりでしたので、特に問題は無かったのですけれど」
「どうして君はそう無駄に前向きなんだ。泣きながら悪あがきでもすれば、死ななくてすんだかもしれないのに」
「無様さを晒すのならば死んだ方が良いのです。それにあなた、カミシールと言いましたか。あなたは自らを神だと言いながら、娼館で働く女性たちのことを哀れむつもりですの?」
娼館には娼館の事情があり、誇りをもって娼婦をしている女性もいるに違いない。
王妃だろうが、娼婦だろうがそれは仕事だ。私は仕事に妥協をするつもりはない。立場が変わったというだけだ、悲観する必要なんてない。
「あぁ、それは……、その、悪かったよ。リディス、ともかく君は嵌められたんだ。でもね、それには君の態度とか、行動とかにも問題があって、つまり同情の余地があったからもう一度やり直させてあげようと思って」
「やりなおさせてあげようとは、随分と恩着せがましいこと」
「良いかいリディス。もう少し謙虚に、控え目に、言葉を選ぶんだよ。時々は、可愛げも必要だ。君は根本的にはそう悪い人間ではないのだから、そうすれば死なずにもう少し生きることができるはずだよ」
カミシールは私の返答を無視して、私の目の前で、ぱん、と一度手を叩いた。
私はもう一度文句を言おうと思ったのだけれど、その前に意識が暗闇の中に落ちて行った。