第67話「従姉弟」
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「痛たたた、まだ少しだけ痛むや」
まさか人生で背骨を折られる経験をする日が来るとは、思いもしなかった。
服を取りに行ったアリスと真奈が駆けつけ、慌てて彼女を止めて上級回復魔法を掛けてくれなかったら、多分今頃は死んでいたのではなかろうか。
魔王よりもヤバい人と言ったのは自分だが、まさか本当に魔王と戦ったときよりも死にかけるとは。
骨が折れて泡を吹いた瞬間、少しだけ三途の川を見たような気がした。
いやはや、本当に酷い目にあったものだ。
蒼は疲れた顔をすると、まだ痛みが残っている身体を我慢して服を全て脱ぎ、洗濯機に放り入れて浴室に入る。
傷は全てアリスの魔法で完治しているのだ。後は湯船にゆっくり浸かれば、残った痛みも引くだろう。
そう考えながら洗い場でお湯を2回ほど頭から被ると、蒼は熱いお湯で満たされた浴槽に浸かった。
「ふぁ、気持ちいぃ」
少しだけ艶めかしい声が出てしまうが、これは仕方のない事だ。
風呂のお湯に使われている我が家の錬金術殿のお手製の入浴剤のおかげで、蒼の疲れやら背中の痛みは完璧に無くなる。
流石は真奈様。
リフレッシュした蒼は湯に浸かりながら、花の香りを楽しむ。
すると向かい合うように、誰かが湯船に浸かる。視線を向けるとそこにいたのは、危うく僕を殺しかけた金髪金眼の少女──ヒメ姉だった。
先程から彼女は、ズーンと重たい空気を纏って、珍しく落ち込んでいる。
嬉しさの余り従弟を殺しそうになった事に対して、流石にヒメ姉も反省したらしい。
よく見ると額が少しだけ赤く腫れている。アリスから回復魔法を掛けてもらっている僕に対して、土下座をしながら頭を何度も床に打ち付けたせいだろうか。
ふと視線が合うと、ヤツヒメは再び謝罪の言葉を口にした。
「本当に申し訳ない。まさかあそこまで脆いとは思いもしなかったんだ……」
「ヒメ姉、あんな大木も耐えられないような力で抱きしめられたら、誰だってああなると思うんだけど」
「……ああ、そうだな。なんせ蒼は男から女の子になったんだ。もう少し丁寧に扱うように心掛けるよ」
いや、違う。そうじゃない。
男だったとしても、あんな力で抱きしめられたら背骨が折れると思うのですが。
考え方の基準がおかしいのは昔からなのだが、ヤツヒメという少女は人間の身体が鉄で出来ているとでも思っているのだろうか。
少しばかり呆れた顔をすると、僕は浴槽から上がり洗い場に座る。
お詫びに身体を洗うのを手伝うと言ってついてきたヤツヒメは、それに続くと蒼の後ろに座った。
それから真奈お手製のシャンプーを手に取り、彼女はシャワーで濡らした蒼の白く長い髪を丁寧に洗っていく。
完全にヒメ姉に身を委ねた僕は、シャンプーからリンスまでやってもらいながら、5年前もこうして一緒に風呂に入っていた事を思い出した。
歳上とはいえ彼女とは2つしか年齢が離れていないので、当時は女の人の裸にドキドキしたものだ。
なんせ中身はアレだが、外見は誰が見ても綺麗な美少女だ。男の子なら一緒にいて意識しないわけがない。
そう思ってぼんやりしていると、ヒメ姉が耳元で囁くように言った。
「身体は手で洗うぞ。今のおまえの肌は、下手な物を使うとすぐに傷つきそうだ」
「うーん、普段はボディスポンジ使ってるけど、ヒメ姉のお好きにどうぞ」
「わかった、大船に乗ったつもりで任せてくれ」
「骨は折らないでね」
「……根にもってるのか?」
少しだけね、と返してあげるとヤツヒメは再び謝罪した。
それから僕の真っ白で柔らかく細い身体を、ヒメ姉のボディソープを泡立てた両手が、円を描きながら優しく念入りに綺麗にしていく。
先程の出会い頭の雑な扱いと全く違い、まるで宝物に触れるかのように慎重な手付きだった。
それから身体の隅々までしっかり汚れを落とすと、シャワーで肌についた泡を全て洗い流す。
これで終わりかな。
そう思うと、不意に彼女は後ろから優しく抱き締めてきた。
突然の抱擁に少しばかり驚く蒼に対して、ヤツヒメは溜め息混じりに耳元でこう言った。
「従弟よ、本当に女の身体になってしまったんだな」
「……うん、そうだね」
「本当にすまない。一番大変な時期に我は、おまえの側にいてやることができなかった」
「ヒメ姉?」
蒼が振り返ると、ヤツヒメは顔を伏せていた。
背骨をへし折ったからではない。
性転換した僕に対して、何の力にもなれなかった。その事を悔いている様子だった。
そもそもヤツヒメは国外に留学していたのだ。彼女が性転換した蒼に対して、負い目を感じる必要は全くない。
でも真面目な彼女は自分がいくら言ったところで、けして納得はしないだろう。
だから蒼は、そのままヤツヒメの話を黙って聞くことにした。
「男のおまえが、急に女の身体になったんだ。この一ヶ月は、さぞ苦労した事だろう」
「まぁ……最初は取り乱して、それはもう大変だったよ。優がいなかったら、多分今頃は引きこもりになってたんじゃないかな」
「そうか、ユーが助けてくれたのか。それはちゃんと従姉として、お礼を言わないといけないな」
なんせ、おまえは我の大切な従弟なのだからな。
ヒメ姉は優しい笑みを浮かべると、僕に向かってそう言った。
それが蒼には、とても嬉しかった。
彼女は自分にとっても大切な従姉だ。
勝負事では容赦ないが普段は世話焼きさんで、昔はよく妹の沙耶と2人で彼女に色んな所に連れて行ってもらった。
人見知りである沙耶が両親と兄以外の人に懐いたのは、優を除けばヤツヒメだけである(龍二は未だに避けられてるが)。
蒼は大事そうに自分を抱き締める彼女の腕にそっと触れると、瞳を閉じて心の底から感謝の言葉を口にした。
「気遣ってくれてありがとう、ヒメ姉。すっごく嬉しいよ」
「我はおまえの従姉だ。従弟を心配するのは当然のことだろう」
「でも従弟だって言ってくれるだけで、僕にとっては十分なんだ」
満面の笑顔をヤツヒメに向ける。
すると彼女は頬を少しだけ赤く染めて、それから視線を逸らした。
「その笑顔は、余り他の人間に見せないようにしろ」
「なんで?」
「バカ、おまえは隙だらけなんだ。そんな笑顔を向けられたら、勘違いした良からぬ虫が寄ってくるだろ」
「隙だらけとは失礼な。こう見えてどんな襲撃があっても対応できるように、しっかり心構えは出来てるよ」
「……天然とは、これは参ったな」
そう言ってヤツヒメは、首を傾げる蒼の頭を優しく撫でるとため息を吐くのであった。




