第66話 飢餓
前回までのあら筋!
師匠は筋肉神の神影だった!
鍛え上げてきた肉体が激痛と衝撃に軋む。
筋繊維は膨大な回数の断裂と修繕を繰り返し、そのたびにより強固に結びつく。むろん、無限に可能なことではない。
多大なるエネルギーを消耗しながら、肉体を作り替えているのだ。
燃やすべき脂肪は、もうほとんど残っていない。枯渇する。目の前で牙を剥き、飢餓状態で襲い来る魔神と同じくして。
「ぐがっ!」
魔神の猛攻を受けきれずに数歩、背後によろめく。追撃を両腕でガードし、押し返す。魔神の頬を打ち、しかしこめかみを打ち抜かれる。
神域の風に乗って、血と肉片と赫色の甲殻が霧となって立ちこめていた。
「らぁ!」
「ギ……ッ」
もはや自身のダメージも、相手のダメージすらも測れない。
殴り、殴られ、殺し合う。
だが漢は、自身の肉体から徐々に力が抜け始めているのを感じていた。
足りないのだ。肉体のエネルギーが。己もまた飢餓に陥っている。
筋繊維の修繕ができなければ自ら大ダメージを負って、その時点で動けなくなる。
燃やすものはあるか? 燃やせるものは残っているか? 筋肉の進化をここで止めるか? 止めて魔神を仕留められるか?
フー……フー……!
酸素を求めて喘ぐ。呼吸が整わない。
絶えず目に入ってくる血が煩わしい。全身の痛みに気が遠のくが、続く痛みで意識をすぐに取り戻す。その繰り返しだ。
防御を捨て、回避を捨て、ただ殴る。
肉体はどうせ壊れる。修繕すればいい。だがそのための脂肪がもう尽きかけている。
左腕の血管が破裂した。細胞の修復が間に合わない。
構わず、その腕で殴る。
「ぐおらぁ!」
「ガアアァァッ!」
拳を躱され、腹部を前蹴りで突き放される。
「ぐうぅ……!」
視界が歪み、魔神が三体に見える。
頭を振って外眼筋に力を込め、三体の魔神を一体に絞った。
しっかりしろ! あのときのようにまた死なせるのか、己は!
魔神もまた、先ほどまでとは別種の必死の形相で拳を振るい続けている。
漢の全身へと叩きつけられる赫色の拳はまるでミスリル鉱のように硬く、その先にあるものを確実に破壊する。
ぐちゃり、ぐちゃり。
魔神の放つ一撃が、水気を帯びている。漢の修繕が魔神の破壊速度に対応できず、潰され始めているのだ。肉体が。長年手塩にかけて育ててきた筋肉たちが。
徐々に。
徐々にではあるが、漢の拳の数を、魔神が上回り始めていた。
頬を殴られ、軋む痛みを頭蓋に感じる前に吹っ飛ばされ、かと思えば背を打たれて止められ、気づけば顎が跳ね上がり、視界に空を捉え。
「セイさん!」
「……ッ」
一瞬の隙。
意識のノイズを振り払い、跳ね上がった顎を引き戻す。
戻した視界の中で、魔神の背中が遠ざかる。
神影と合流するつもり――否!
「逃がさない!」
南方へと駆ける魔神へと、少女が走った。
瞬間、頭蓋の中で警鐘が鳴り響く。
何かが違うと、漢の本能が告げていた。
「……待……て……っ」
喉が潰れて声が出ない。
フィリアメイラが駆ける魔神の側面へと飛びかかり、空中で身をひねって右脚を引く。両者が交叉した瞬間、魔神の手が少女の喉をつかみ上げていた。
「ぁ……が……っ」
魔神の指に押されて少女の首が曲がっていく。肉体と垂直に。
死へのカウントは秒もない。抗う術もない。
喰らう気だ。魔神は。少女を。喰らって力とするつもりなのだ。そのために逃走する振りをした。騙されたのだ。己も、少女も。
絶望が心を支配した。全身の毛穴が開いた。
息を呑むより速く、その瞬間は訪れる。
少女の瞳に恐怖が浮かんだ瞬間、その頭部を掠めて真っ赤な鱗の拳が魔神の鼻面へと叩き込まれていた。
投げ出された少女を片腕で支え、生態ゴーレムが叫ぶ。
「セイッ、何をしているッ! ……ぐっ」
ゴーレム・レーヴが片膝をついて、少女を自らの背後へと押しのけた。
魔神の鼻面に叩き込まれたはずの拳がない。いいや、右腕部が付け根ごと引きちぎられている。
あの瞬間。魔神の顔面を打った瞬間、魔神は自らの顔面を打ち抜いたレッドドラゴンの鱗に守られた腕に両手をかけた。
持って行かれた。引きちぎられたのだ。あの一瞬で。
傷口を押さえて、レーヴが苦悶の表情を浮かべる。
「レ、レーヴさん……っ」
「下がっていろ、ゴンブト足! もはや我々の力が及ぶ段階ではない!」
「う、腕が……」
レーヴが残った手で炎を発し、傷口を灼いて流血を止めた。
「構わん。私はゴーレム。腕などまたつければいい。痛みならば耐えられる」
魔神は夢中でレーヴの腕を喰らっている。
レッドドラゴンの鱗から造られた体表を鋭い牙で噛み砕き、比類なき力を持った巨人の腕部を喰らい千切る。
やがてすべてを平らげる頃、全身のあらゆる箇所がひび割れ、体液を垂れ流し続けていた魔神の傷がすべて消えていた。
ダメージがすべて回復した。ゴーレムの魔素を喰らい、全快した。
「ま、魔神の傷が……」
「当然だ。私はおまえたちとは違い、魔素を捨ててはいない。腕一本とはいえ、神影よりもよほどの養分となってしまっただろう」
「そ……んな……。セイさんはもう限界なのに……! どうしてわたしを助けたの!? こんなことなら、魔素を持たないわたしが食べられていた方がよっぽど――!」
「黙れ。あいつが誰のために戦っているのか、わかっているなら黙っていろ。おまえが死ねば、あいつは即座に戦意を失う。足を引っ張りたくなければ生きろ」
イブルニグスが厭らしい笑みを浮かべて、再び満身創痍の漢の前に立った。
しかし漢はその姿を見てはいなかった。
ただ歯がみし、己の不甲斐なさを悔やんでうつむく。
あのような言葉を少女に吐かせてしまった己に、腹が立つ。レーヴが助けてくれなければ死なせてしまっていた己の覚悟のなさに、腹が立つ。
そう。足りなかったのは力ではない。筋肉ですらない。
すべてを出し切る覚悟だ。
「……オマ……オマエ……モ……喰ワ……セロ……!」
「セイさん!」
赫色の拳の追撃を受け止めた漢の瞳に、覚悟の色が宿った。
嘲笑を浮かべる魔神と、怪物エルフが至近距離でにらみ合った。
「グガア!」
「おおッ!」
両手を組み合わせて、互いの額をぶつけ合う。
漢の全身の血管が破れて、肉体のあちこちから血が噴出した。
だが、微動だにしない。
完全回復を果たした魔神を相手に、漢は一歩たりとも退くことはない。歯を食いしばり、額を擦り合わせて考える。
己は何のために存在している? 燃やすものがないだと?
「おおおおおおおッ!!」
「ググガアアアアッ!!」
まだある! なけなしのものではあるが、まだ、あるだろう!
少女も、世界も、いずれも守れぬような命ならば!
「……ッ」
いっそすべてを燃やし尽くせッ!
漢の全身から白煙が立ち上った。湯気ではない。白煙だ。
焦げ付いていく。肉体が。
「ぐ、ううううううッ!」
「ガアァァ……ッ!?」
押す。漢が。全身から血と白煙を立ち上らせながら、魔神の背を背後へと折っていく。
何も救えぬ不甲斐ない存在であるならば、いっそこの場ですべてを燃やせ! たどり着く先が永劫の孤独であろうとも、愛する者たちを生かすため、今すべてを燃やし尽くせ!
そう決めたのだから。
魔神の嘲笑が消えた。
力比べを嫌がるように自ら身を低くして後退する。
漢はゆらりと立ち尽くしたまま、ゆっくりを魔神に歩を向けた。
「すまんな、レーヴ。おまえには何度も助けられる」
「私も一度はあきらめた。だが、あの小生意気なレヴァナントに救われてしまってな。またグラアのもとに逝かせてはもらえなかった。まったく。おまえたちと出会ってから、何一つ思い通りにはならない。だが、人生とはそういうものだろう?」
片腕を失ったゴーレムの頬に、不敵な笑みが浮かんだ。
「今、大陸中の神影が神域へと向かってきている。だが、南方では貴様の師とレインフォレストのエルフたちが、西方にはディアボロス・リゼルの一派が、北方はオークタウンの豚どもと……そして私の義妹がかつての配下を引き連れ、命をかけて神影の侵攻を抑えている」
ゴルゴーンの瞳。
おそらく豚どもだけでは一瞬で抜かれてしまうだろう。視線を合わせた生物すべてを石化させる魔眼を持つゴルゴーン族のステナがいるのであれば、北方も問題はない。
漢の頬にも笑みが浮かぶ。無邪気に喜ぶ子供のような笑みが。
魔神はレーヴの腕を喰らって腹を満たした。
だが、漢は。漢は言葉を噛みしめて、心を満たした。
「そうか。アズメリア大陸がようやく一つになったか」
「ああ。みな、おまえに託したのだ。最後の希望を。安心しろ。神域に神影の援護はない。だから――」
漢の肉体から立ち上る白煙が、さらに勢いを増していく。
焦げ付き、異臭を放ちながらも、漢は微笑む。
腕を失ってなお、堂々と立っていたゴーレムが、静かに涙を流しながら告げた。
「……だから、頼む。……アズメリア大陸を……グラアの妹たちが生きるこの大地を守ってくれ……。……もう……おまえしかいないんだ……」
漢はこたえる。ただ一言で。
「任せろ」
漢と魔神が同時に腰を落とし、拳を引き絞った。
(およそ300年前のクリスマス・イブ)
ふぉっふぉっふぉ、ムキムキメリィ~クリスマッスル!
良い子のお嬢ちゃんは~、(内緒で)筋肉神の神影にしてあげようなぁ!
/フフ ム`ヽ
/ ノ) ) ヽ
゛/ | (´^ω^`)ノ⌒(ゝ._,ノ
/ ノ⌒7⌒ヽーく \ /
丶_ ノ 。 ノ、 。|/
`ヽ `ー-'_人`ーノ
丶  ̄ _人'彡ノ
:(´・ω)ω^`) <……てなことをしてしまったわけですな?
:/⌒ つ⊂⌒ヽ




