第37話 ディアボロス・カラミティ
前回までのあら筋!
目を覚まして早くツッコミを入れて!
フィリアメイラの眠るベッドの横で、漢は一人、黙々と腕立て伏せをする。
まずは右手のみ親指一本からの開始で、百回。次に人差し指一本で、百回。両手すべての指で合計千回だ。
ゆっくり、ゆっくりと、焦らずに、筋肉を意識しながら。
「フー……フー……フー……」
次は腹筋。その次は片足スクワット。
次々と筋トレをこなしていく。それに応じるかのように、漢の筋肉は湯気を立てながら膨れ上がる。
「フー……フー……フー……」
「キモ」
「!?」
開け放した扉横に立ち、キュバスの女が顔をしかめていた。
「部屋が汗臭くなるからやめてくれない? もしくは外でやって」
「うぬぅ、ならば外で続きを――」
立ち上がりかけた漢の頭に、手刀が軽く落とされる。
「バカ。本気に取らないでよ。ちゃんと看病しろって言ってんの。それに、深夜に外になんて出ていたらさすがにバカでも凍え死ぬわよ」
いや、その状態を何日もこえてやってきたのだけれど。
まあ、そのようなことを言ったところで始まらない。
「ふむ。……ところでキュバ子よ。あなたは魔法を使えるか?」
「誰がキュバ子よ。変なあだ名つけないで」
訝しげな表情でキュバスの女が尋ね返す。
「使えるけど、それが何? 天候を変えたり風雪を凌ぎ続けるような魔法は使えないわよ」
「キュバスの魔法は、他者の夢に入り込むものだと聞いた」
真顔でこたえた漢に、キュバスの女はあからさまに顔をしかめて見せた。
生ゴミかそれ以下の物体を眺めるような目つきで吐き捨てる。
「何? あたしとヤリたいの? キュバスったっていろいろいるって言ったはずよ。あたしはそういうのは――」
「レインフォレストの族長に頼みたいのだ」
「出張サービスもしてないっ!」
「言伝だ。あと、族長は女だぞ」
一応な、と心の中で付け加えた。
キュバ子が頬を染めて怒鳴る。
「それを先に言いなさいよ!? 恥掻いたじゃないの!」
「いや、おれは他のサービスに関しては一言も口に出していないのだが……」
豊満な胸の下で腕組みをして、むくれ顔で女が吐き捨てた。
「あーもう、うるさいうるさいっ! さっきのはもう忘れなさいよ! で、何を伝えてほしいの!? 言っとくけど、夢で伝えたって、夢は夢って割り切っちゃうヒトも結構いるからね!?」
「かまわん。念のための保険だ。今回、フィリアメイラが倒れてしまったことで己の認識の甘さを思い知らされた」
「あんた、さっきから何の話をしているのよ?」
誠一郎はテーブルに備え付けの椅子を引いて、キュバスの女に座るように促す。
「少し長くなる」
「あら、粗暴っぽいのに、レディの扱い方は知っているみたいね」
「フ、おれは筋肉紳士だからな」
それからしばらく。己の旅の始まりからこれまでを掻い摘まんで説明する。
話を終えたとき、キュバスの女の表情は変化していた。
「あんた……あたしたちを救ってくれたあのディアボロスの弟子だったの……?」
「まあな。だが、重要なのはそこじゃあない」
「……そうね。早ければ十日後にはもうリゼル一派とストラシオンの人間軍が衝突する、か。……そうなってしまえば、確かに大規模な人魔戦争は避けられないわね……」
誠一郎が深くうなずく。
「おれたちはライゲンディール地方を端から回ってきたからわかるのだが、今人魔戦争が起これば、おそらく魔族は人間族に蹂躙される。よもやここまでイブルニグスによる被害が出ていたとは思わなかった」
「……でしょうね。もうライゲンディールの魔族には、人間の軍を受け止めるだけの力はないわ」
部屋の隅の壁に背中を預け、筋肉紳士はつぶやいた。
「滅ぶぞ、すべての魔族が」
「……そしてイブルニグスは新たなる獲物を求めて、ライゲンディールから人類領域であるエルザラーム地方へと南下し、魔族に対してそうしたように人間族も食い荒らす。そして次は亜人ね」
「そうだ。アズメリア大陸は死滅する」
これが現在考え得る中で最悪のシナリオだ。
それだけは防がなければならない。
「だからあなたに頼みたい。レインフォレストにはまだ三人の屈強なるエルフがいる。もしもおれやフィリアメイラが師匠と合流できず、魔神イブルニグスを討ち漏らした場合には、魔族でも人間族でもない、ハイエルフの手で王都からの派兵をとめておいてほしい」
「そんなことできるわけないでしょ……」
片手で前髪を掻き上げて妖艶に長い足を組み直し、女はため息をついた。
「たった三人のハイエルフよ? レインフォレストの長といえば大魔女リガルティアだったわよね? いくら彼女がいたって、さすがに王都ストラシオンの全軍をとどめることなんてできないわ」
彼女は知らない。大魔法使いリガルティアの成れの果てを。
だが、現在のリガルティアの姿を知る漢は笑顔を浮かべて言うのだ。
「できる。ばーさんならな。ただ――」
「ただ?」
一度伏せた目を不安げに持ち上げて、誠一郎は不安げにつぶやいた。
「――フェンバートやルフィナ姐ならばともかく、あのばーさんだと、むしろやり過ぎんかの方が不安だ……」
大木を倒すのに、己であれば拳をぶつけて粉砕する。
ところがあのばーさんときたら、腕一本の手刀で無造作に幹を斬り飛ばすのだ。単純なパワーこそまだ己が上回ってはいるものの、つけた筋肉を扱うという一点においては、他の追随を許さない。
というかむしろ、現時点ですでにパワーすら抜かされている可能性も無きにしも非ず。
「普段は沈着冷静だが、ひとたび怒らせるとなぁ~……」
ぶるり、自然と肉体が震えた。不意に思い出したのだ。
彼女に筋トレを始めさせてからのこと。一度だけリガルティアを本気で怒らせてしまったことがあったのだ。
そのとき己は、地獄の鉄拳制裁で頭蓋骨が陥没させられるかと思った。
己はただ、己の師がディアボロスであることを打ち明けようとしただけだ。だが、ディアボロスは魔族の頂点、つまりエルザラーム地方に住む人々にとっては、悪意に満ちた敵性種族である。
ゆえに、探りを入れるためにこう言ったのだ。
――なあ、ばーさん。おれにディアボロスの友ができたと言ったら、どうする?
リガルティアはこたえた。
上腕筋を膨らませ、ゴツゴツの拳を固く握りしめながら。
――ハッ、知れたこと! こたえは拳骨だッ!
頬を撲たれたと理解した瞬間には全身がねじれにねじれ、超高速でレインフォレストの樹木を突き破っていた。何度も叩きつけられて跳ね上がり、水切りのように水面を切って、気づけば集落からはかなり遠く離れた位置で土を舐めていた。
理解が追いつかなかった。何が起こったのかわからなかったのだ。
その時間が数秒か数十秒だったかは定かではないが、己が視線を上げたときにはリガルティアはすでに眼前にいて、優しく凜々しく禍々しく、歯を剥いてニタリと笑いながら己に手を差し伸べてくれていた。
――貴様がグレることは我が許さぬ。斯様な不良とは即刻縁を切るがいい。
――あはい……。
頭蓋陥没どころか、目玉が飛び出るかと思ったくらい痛かった。首がねじ切れたかとさえ思った。
正直、油断して気を抜いていたとはいえ、師匠に鍛えてもらっていなければ、あれで息絶えていたであろう一撃だった。
以降、己は長老リガルティアに、師匠のことを話すことができなくなった。
だからフィリアメイラとともに黙って旅立ったのだ。師匠、すわなちディアボロスを救う旅に。
「へえ、人類の大賢者スカーレイと並べて称されるくらいだからね。とてつもなく美しい姿をした大魔女だって噂には聞いていたけれど、そんなにすごいのね」
「ああ、すごい……」
己が二百年と五十年をかけてようやっとたどり着いた筋肉の境地へと、わずか五十年の筋トレのみで並ぼうとしているのだから。
もっとも、キュバ子が予想している強さとはまるで別種の強さだけれども。
「で、あんたこれからどうするの? イブルニグスはバケモノよ」
「メイラが目を覚まし次第、おれたちは名もなき村を通ってモルグスへと向かう。おそらく今のおれではイブルニグスには勝てん。師匠ですら無理ならばな。だが、おれと師匠がそろえばどうにかなるはずだ。他にも頼れる仲間はいる」
「さっきの話に出てた、名もなき村のリゼルに、パラメラ砦のレーヴ。それに大魔女リガルティアに、あたしたちを救ってくれたディアボロスか……」
少し考えるそぶりを見せた後、キュバスの女はあきらめたようにため息をついた。
「どうせおとなしく待っていてもいずれはイブルニグスに殺されるんだから、あんたに世界の命運を賭けてみるのもいいかもね」
「ああ、この筋肉に賭けろ。――ふんっ、フハハハハ!」
白けた視線で女がつぶやく。
「や、あんたはどうでもいいの。でも、不思議とあんたの周囲には、とてつもない大物ばかりが集まってる」
誠一郎の長耳がションボリと垂れ下がった。
「そ……うか……」
「いいわ、リガルティアへの言伝はあたしがしてあげる。他にも遠くに離れている人に何かを伝えるなら伝えてあげるわよ。ただし、あんたがここにいられる間だけよ」
「………………ならば、あなたを救ったディアボロスに――」
そこまでつぶやいて、誠一郎は穏やかな笑みを浮かべる。
「いや、いい。あの人が今どこにいるかわかるか?」
「モルグスじゃないかしら。もしくは東の都市ガルザミル……か。ただ――」
「ただ?」
キュバスの女が、沈痛な面持ちで声を絞り出すように言った。
「ん。この先、どこかで情報を持つ誰かに会えたとしても、マドラスの生き残りには、あの方のことは尋ねない方がいいわ」
「なぜ?」
少し言いよどみ、女がつぶやく。
「マドラスが滅亡したのは、あんたの師匠が名もなき村の瀕死のリゼルを連れて西へ逃げたからなのよ」
「……あぁ?」
「それを追ってイブルニグスは西へと進路を取った。結果としてあんたの師匠がイブルニグスを、マドラスやパラメラ砦に連れてきてしまったのよ」
絶句する。
「だからあんたの師匠はリゼルを安全域においてからすぐにマドラスに戻ってきたんだけれど、そのときはもうマドラスは壊滅状態になっていたの」
「……そういうことだったのか」
「勘違いしないで。イブルニグスをこの目で実際に見た今ならわかる。あんたの師匠が連れてこなかったとしても、いずれマドラスは襲われていたわ」
ぶるり、女は肉体を震わせて。
「……あれは人を殺すことを楽しんでいる表情だった……」
漢は歯がみし、女は思い出される恐怖に頭を抱える。
「領主の館にいたあたしたちは、死に物狂いで魔神と戦ってたあんたの師匠の背中を見ていたから、その正義がわかる。でも、そうじゃない大半の生き残りにとっては、あんたの師匠は不吉を連れてきた不気味な存在なの。あの魔神を連れてきた、災厄の悪魔」
また少し言いよどみ、キュバスの女はつぶやいた。
「……だからあの方はブルニグスを追い払った後、マドラスの老人や子供に石をぶつけられ、罵声を浴びせかけられていたわ……」
「……!」
苦い。なんとも言えない苦い気持ちになって、誠一郎はうつむいた。
だが、と。だが。
顔を上げた誠一郎は、晴れ晴れとした表情で言ってのける。
「大丈夫だ! たとえ世界があの人を拒絶しようとも、それでもあの人は笑って世界を、みんなを守ろうとする! そんなもの、筋肉をつけてみればわかることさ!」
しばらく。
しばらくあって、キュバスの女も釣られて微笑む。
「そうね……ほんと、そう」
「ああ、そうとも! ならば早速、おれとともに筋トレ――」
「筋肉の件はわからなかったけど」
「!?」
廃都マドラスの夜が、静かに更けていく――……。
え? みんなから石をぶつけられた?
投げ返したったらええやん!
(´^ω^`) n
⌒`γ´⌒`ヽ( E)
( .人 .人 γ /
=(こ/こ/ `^´
)に/こ(
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