第9話 深淵を垣間見し者
前回までのあら筋!
胸鎖乳突筋とは胸骨・鎖骨と側頭骨を繋ぐ首の筋肉である!
えっちな妄想をしてしまった青少年は反省するんだゾ!
縄でひとくくりにした人間たちを放し、二人のエルフへと地響きを立てながらサイクロプスが迫る。
「くく、おもしろい。かかってくるがいい。貴様の筋肉を見定めてやろう」
大きい。セイさんの三倍はある。でも、だからといって。
サイクロプスが膝を曲げて屈み、草原の大地ごとすくい取るように二人のエルフへと右腕を薙ぎ払う。
――ギャガアアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーーッ!!
フィリアメイラはそれを跳躍で躱し、夜空を舞った。
しかし拳を握り込んだ誠一郎は、真っ向からその巨大な掌へと拳をたたき込む。
「ぬんッ!!」
肉の弾けるすさまじい音が響いた。
サイクロプスの豪腕が夜空に跳ね返る。だが同時に、誠一郎の全身も大地を足で掻きながら滑って後退していた。
「むう……!」
――ガァ……!
互角、いや、わずかに。
顔をしかめた誠一郎が拳を解いて、右腕を震わせている。それにサイクロプスは後退してはいない。
押し負けた……?
「セイさん!」
空中で回転しながら、フィリアメイラが叫ぶ。
サイクロプスの猛攻が続く。
誠一郎へと、鉄槌のように拳を振り下ろしたのだ。頭頂部で腕をクロスして、それを正面から受け止めた誠一郎の足場が、大地の悲鳴とともに沈み込んだ。
「ぬぁッ!」
――ゴギャアアァァァ!
二体の怪物を中心として、地盤が激しくめくれ上がる。
なおも振り下ろされた拳を受け止めた怪物エルフの表情に、初めて苦悶が浮かんだ。それを好機とみたか、サイクロプスが猛攻を開始する。
両手を拳にして、連撃を誠一郎へと放ち始めたのだ。
――ギャガアアアァァァッ!!
だが、退かない。このエルフは退くどころか、避けもしなかった。
振り下ろされた拳を腕で受け止め、突き出された拳には己の拳をぶつけて相殺させ、打ち合うたびに踏みしめた大地で後退を余儀なくされてなお、エルフは猛る。
猛ったのだ。
汗の玉を散らしながら。咆哮した。まるで野生の獣のように。
「ぬがああああああああああッ!!」
――ガアアアァァァァッ!!
互いの拳がぶつかり合うたび、すさまじい暴風を伴って骨の鈍い音が夜空に響いた。
額から飛び散る汗の玉と、うっ血した両腕から飛び散る血の雫が、二体の足場を穢す。
フィリアメイラは暴風に緑髪を激しくなびかせながら着地した。
無謀。あまりに無謀。
肉体を構成する質量が違いすぎるのだ。正面からまともに打ち合うことなど、できるはずもない。あんな戦い方では誠一郎の肉体がもたない。遠からず壊れてしまう。
なのに、どうして? どうして避けないの? あなたはすべてを、受け止めて。
我知らず、少女は悲鳴のような声で叫んでいた。
「ダメッ、逃げてぇぇーーーーッ!!」
しかし。怪物エルフは。
苦悶の表情のまま、その唇を歪める。微かな笑みの形へと。
「クク、ハハハ。これだ。いいぞ。受け止めれば全身どころか魂まで痺れるような、この筋力。待っていた。少しは楽しめそうだ」
次の瞬間、サイクロプスの振り下ろしを、誠一郎は己の肘を側面から打ち付けることで受け流していた。これまではすべて受け止めていたのに、唐突に受け流したのだ。
サイクロプスの拳は的を逸れ、すさまじい震動を残して大地を抉る。
爆発した地面からの石礫を避けるように、誠一郎が一度大きく距離を取った。
その表情には、確かな歓喜と興奮があった。
「セイ……さん……?」
「ん? ああ。すまない、心配をかけてしまったか。少しばかり甘くみていたようだが、問題ない」
誠一郎が裸足の両足を軽く開き、掌を空へと向けながら両肘を腰で固定した。
「サイクロプスよ。貴様の優れた筋肉に敬意を払い、その深淵を少しだけ魅せてやろう」
口をすぼめて息を吸い、大胸筋を膨らませると同時、拳を握り込む。
「粉ッ!! ぬああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
刹那、彼の全身の筋肉たちが一瞬にして筋張り、血管を浮かべる。
もわり、と場の熱量が上昇した。
ただそれだけだ。ただ、それだけ。しかし。
「……さあ、かかって来い」
言われるまでもなく、サイクロプスはすでに右腕を振り下ろしていた。誠一郎の全身が再び豪腕の影に呑まれた瞬間、フィリアメイラは息を呑む。
誠一郎が、またしてもサイクロプスの攻撃を正面から受け止めようとしていたからだ。
「セイさ――ッ」
「小癪ッ」
ボギャ、と骨の砕ける音がして、今度はサイクロプスの右腕が跳ね返されたのだ。なおも突き出された左拳を、今度は同じ正拳突きで跳ね返す。
――ガアアアァァァァ!
「すりゃあ!」
再び骨の砕ける音が鳴り響く。
フィリアメイラが次に見た光景は、とても信じられないものだった。
誠一郎はその場から一歩たりとも引いてはいないのに、誠一郎の拳を受けたサイクロプスが両足で地面を掻いて後退したのだ。
先ほどとは、立場が完全に入れ替わっていた。
「――っ」
いや、それだけではない。サイクロプスの拳が完全に解けている。両手の十指をあらぬ方向に折り曲げられ、ぼたぼたと血を滴らせながら、微かに震わせて。
――グ、ガ……ァ……ァ……?
両腕の機能を破壊されたサイクロプスが、ふらりとよろけて尻餅をつく。
腰砕けとなった巨大なサイクロプスへと歩み寄り、誠一郎は朗々と告げた。余裕の表情で、笑みすら浮かべながらだ。
「悪くはない。悪くはないが、まだまだだな。無駄に膨らませただけの未熟な筋肉だ。質が伴っていない。貴様は優れた師に巡り会えなかったのだな」
フィリアメイラの頬を汗が伝う。
「我流では、おれには勝てん」
両者の間には圧倒的な質量差があったはずだ。それを覆すほどの拳速を、一瞬にして生み出したのだ。益荒男誠一郎という漢は。漢が持つ筋肉は。
なるほど、あれなら魔法など必要としないだろう。表情から察するに、彼はまだまだ余力を残しているのだから。
その証拠に、先ほど漢は言った。
筋肉の深淵を少しだけ魅せてやろう、と。
「あれで……少しなの……?」
フィリアメイラの喉が大きく動いた。
筋肉の深淵が、まるで見えない……。
両腕を砕かれて激痛に表情を歪めながら、サイクロプスが誠一郎に背中を向けて走り出す。ついに逃げ出したのだ。
巨大で凶暴なる怪物サイクロプスが、小さく心優しき怪物エルフから。
いや。
サイクロプスはフィリアメイラのもとへと走っていた。人質にするつもりか、それとも怒りの矛先をぶつけるためか。
牙を剥き、目を血走らせ。
より小さく、より細い、一見すれば筋肉などない、ただのハイエルフにしか見えない少女へと駆ける。
その光景を見たなら、誰もが目を覆いたくなるだろう。
近い未来、その身を食い破られた少女の血肉が弾ける様を予見して。
だが、誠一郎は。この漢だけは。
怪物の背につぶやいていた。
「……阿呆め」
フィリアメイラは恐怖した。
大質量の地響きが迫る。あまりに大きく、あまりに凶暴な怪物が、自身に食らいつこうとして歯を剥き、すさまじい殺気を放ちながら走ってくるのだから。
噛みつかれればひとたまりもない。
なのに。
五十年という歳月を、鍛えに鍛えてきた身体は。
自然に動いていた。
トン。
反撃など意識していなかったのに。
片足で地面を蹴って垂直に跳躍し、サイクロプスの噛みつき攻撃を躱しながら空中で身を翻す。オーバースカートのスリットからエルフにはあるまじき肉感的な足を出し、大きく振り上げて。
己の眼下を通り過ぎる無防備な頸部へと、フィリアメイラは弓なりに肉体を反らせてから、大腿筋を膨らませた渾身の蹴りを放っていた。
「シッ!」
自身の足首が、サイクロプスの首筋へとズムリとめり込むのがわかった。
次の瞬間にはまるで爆発音のような音が轟き、頸部を蹴り抜かれたサイクロプスが数歩よろけ、大地を揺らして膝をつく。
――……カ…………!?
サイクロプスの単眼が歪んだ。
音もなく、ふわりと着地したフィリアメイラは――。
「ふふ」
月光の中で高揚していた。恐怖など微塵も感じなくなっていた。
不思議なほどに、血と、そして筋肉が騒ぐのだ。
だからつぶやく。深緑色の髪を片手で払いながら。
「ほんと、見かけ倒しですね」
やがてサイクロプスは、野太く低い、しかしひどく弱々しい声を漏らしながら、フラフラと北方へと逃げ始めた。
単眼から血の混じった涙を流し、怯えるように頭を抱え込みながら。
「追いますか?」
「放っておけ。両腕が使い物にならん状態では、そう悪さもできないだろう。それに今日の敗北を機に、やつもまた筋トレを始めるかもしれん。強くなったサイクロプスとの再戦もまた、おれたちにとって一つの筋トレとなろう」
ちょっとレベル高すぎて同意できない。
「それより今は彼らが心配だ」
誠一郎の指さす先には、縄で縛られた人質たちが、震えながら二人のエルフを眺めていた。
貴様が筋肉の深淵を覗くとき、深淵もまた貴様にポージングを魅せているのだ……。
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