スーパーボール
加筆修正しました2018.9.11
夏祭りに行こう、と誘われたのは当日の昼過ぎだった。一緒に食べるためにゆでていたそうめんをざるにすくいながら、横目で顔を覗く。暇だしさ、彼女は笑う。ほら、久しぶりに君と遊ぶしさ。なるほど、と蛇口をひねった。
やらなければいけないことを彼女も私も多く抱えているのはわかっている。それでも大学生というものは暇なのだ。そういう存在なのだ。私はうん、と頷く。行こうか、夏祭り。冷えきらなかったそうめんをつかんだ指が、ぢっと熱を持った。
祭りの開始を告げる空砲の音を会場で聞いたのは初めてだった。浴衣なんて可愛らしいものをもっていない私たちはシャツにジーパンだけれど、せめて髪を上げて飾りをつける。彼女の緩いお団子を支える、二年前の誕生日にあげた真っ赤なシュシュがまぶしい。その二か月後にもらった私の紺のシュシュは、彼女にどう見えているのだろうか。
お面を冷やかし、射的の景品を眺め、知らない間に種類が増えていた屋台のフルーツ飴に悩む。原型をとどめているものの、フルーツたちは色のついた飴に固められ、光を反射して輝いている。イチゴは赤くてブドウは紫。サクランボはピンクでキウイは緑。結局王道のリンゴを選んだ彼女が口元を赤く染めながら飴を舐めるのを眺めつつ、聞いた。
「なにか遊ばないの」
屋台をまわっていろんなものを食べてはいるが、輪投げや金魚すくいのような遊べる屋台には寄っていない。せっかくだから遊ぼうよ、と言うと彼女は頷いてリンゴを持ちなおした。大きな一口。飴を貫通した彼女の前歯がリンゴの肌を削って果汁を飛ばす。ドラキュラもかくやといった顔の彼女は大きく肩を回し、指を伸ばした。
「スーパーボールをすくおう」
掬いたいのか救いたいのかあいまいなイントネーションで彼女は言い、満足そうに頷いた。
青色のプラケースの中にはられた水の中に、色も形もとりどりのゴムでできたボールが浮かんでいる。透き通ったものや、透過していないもの、ラメが入っているものや、表面に模様が描かれているもの。浮いたり、沈んだり、ぶつかったり、避けたりしながらそれぞれ水面を漂っている。
「どれを狙おうかな」
半袖を更に捲った彼女がプラケースに近づく。金も払わないままポイをもらおうとするから、財布を開いて後を追う。一回三百円。全く取れなくても必ず一つもらえるが、どれだけ取れてももらえるのは好きなものを三つだけ。一つ百円は高いなあ、と取れる気でいる彼女に苦笑しつつ、百円玉六枚を差し出そうとした、その時。
「あっ」
響いたのは誰の声か。視線を集めたのは幼い男の子だった。
ぽーん、と音が聞こえそうなほど軽い動きで、スーパーボールは男の子の手のひらの間を抜けて跳ねた。重力の適応外のようにスーパーボールは跳ね上がり、落ち、三つがぶつかって方向を変える。しゃがんで拾おうとした子どもの靴に跳ねた赤いボールは右に、大きな青いボールは頭上を通り越して背後に、透明にラメが含まれたボールはまっすぐ前に。どれをも追おうとした子どもは動きを止め、情報を処理しようとする。その間に三つのスーパーボールは草むらに入り、道を転がり、姿を消した。
立ち上がり、周囲を見渡した男の子に近づいた母親が笑った。
「ああいうときはね、一つに決めるのよ」
男の子と手をつなぎ、母親はもう一度こちらの屋台へ向かう。
「もし全部手から離れたときに、これだけは失くしたくないっていう一番を。それだけ決めて追いかけるのよ。」
小さくうなずいた男の子はもう一度お金を払ってポイをもらう。しゃがんで真剣な目をしたその子を眺め、視線を移す。立ち尽くした彼女の肩を叩いた。どうする、ボールすくうの。問うと彼女はこちらを向いた。大きな目を縁取る長い睫毛が震える。私とは正反対の派手な顔立ちはどこにいても人目を惹く。明るい性格の彼女にどうして彼氏ができないんだろうね、と噂が立っているのも知っている。
すくわない、と彼女は呟いた。
「わたし、一つに決められないから。全部ほしくなっちゃうから。」
ほぼ同棲している彼女が、盆も彼岸も晦日も正月も私の家から出ない理由が、彼女の口から語られたことはない。なんとなく、の五文字の底に沈められた苦しみや悲しみが浮かび上がってくる日が来るのかすらわからない。内定が出たと笑った彼女は、その喜びを私以外の誰に伝えたのだろうか。かくいう私も、彼女の存在を伝えたその日から家を出て、こうして暮らしてるのだけれど。
ああ、いっそのこと、私が叫んでやろうかと思う。嫌だと駄々をこねて、地面に転がって年甲斐もなく泣いたら、彼女はすくわれるのだろうか。だが、笑った彼女の顔にある感情は、気づかれることを望んでいない。
だから私はなにも知らないふりをして笑い返す。
「そうだね、私もだよ」
私たちは今、鏡写しみたいな顔をしているだろうな、と思った。ぽーん、と跳んだボールをすべて追いかけて、見失って、どこから手を付ければいいのか迷っている。全てを守る力もないくせに一つを選ぶ勇気もないから、きっとこのままなにも気づかないふりをして笑いあうのだろう。