愛のともしびは劫火となりて
【愛のともしびは劫火となりて】
昨晩、体にまとわりついた言いようのない罪悪感が、眠っているあいだに骨まで浸みこみ、ルーシーは身を焼かれる夢を見て跳び起きた。朝はまだ遠い闇のなかで、ルーシーは大きなブルーの目を見開き、玉のような汗をシーツでぬぐう。
「こんなにも罪深いことが起こっているのに、私にできることは見て見ぬふりをし続けることだけ。過ちを正すことも、誰かを救うこともできない」
ルーシーは静かに後悔を口に出し、うめきながら蒲団をかぶった。
(いつまで、この悪夢は続くのだろう)
グスタフの温かい食事と、運命の女神にゆだねた手紙が引き起こす奇跡の可能性だけが、苦痛に打ち砕かれそうなルーシーを支えていた。
翌朝、ルーシーはひどく湿気った蒲団を足でのけ、雨に濡れた土のにおいに包まれて起き上がった。くもり、黄ばんだ窓ガラスの向こうに目を凝らすと、庭は白い水煙に包まれ、音もなく霧雨が降り注いでいた。
頭痛に苛まれながら支度を済ませ、ルーシーは腫れぼったいまぶたを擦りながら厨房の扉をくぐった。
大なべの前に立つグスタフはコック帽もかぶらず、普段着に前掛けだけつけて、野菜の端切れからだし汁をとっていた。グスタフはルーシーに気がつくと愛想よく微笑み、よお、と言った。
「おはよう。今日はとってもいい天気ね」
「俺たちは庭木や芝生じゃないんだ、最悪の天気さ」
二人はお互いの顔を見あって笑い、あっさりした野菜スープとパンを食べた。
「これはあなたの畑のお野菜ね。とってもおいしい」
ルーシーが満足そうに微笑むと、グスタフは苦笑して首を振った。
「今週はこれでしのぐしか無さそうだ。あの執事め、近頃はまた何かべつのことに夢中になっているようだぞ。食材を注文し忘れたらしい」
別のことに夢中に、と聞いた瞬間、ルーシーはとても嫌な予感がした。ぞわぞわと体を這い上がってくる不安を追いやろうと、ついでに気になっていたことをグスタフに話してみた。
「まあ……そういえば、あの人は一体何を食べているのかしら」
「さあな。少なくとも、俺が作ったものは奴の口には入っていない。案外、その辺の野草を煮込んだり、畑から野菜をとって自炊しているかもな」
「あのクロヤさんがお料理をしているところなんて」
ルーシーは笑ったが、グスタフは冗談を言ったわけではなかった。
「ルーシー、奴は【以前の戦争】で戦敗国の兵士だった。捕虜になったところを旦那さまに引き取られたんだ。奇襲部隊の副隊長で、普通に裁判にかけられていれば電気椅子送りになっていた男だぞ」
「何だってそんな男を」
「それについて、俺が話してやれることは、先代の執事さんから聞いた話だけだが……いいかいルーシー、まず、奴はクロヤ・G・アイザワなんかじゃないんだ」
デイビットはチェックの帽子に合わせのコートをぴっちり羽織り、薄曇りの通りを足早に進んでいた。バス停で15分遅れの「パーシーチャペル通り行き」に乗りこむと、手帳を開き、昨日の出来事を整理した。
――ルーシーからの手紙が届いてすぐ、デイビットは役所に行き、馴染の職員を呼び出した。
「戸籍の確認を頼みたい。フラジール卿所有の島の登録はここだろう、今そこに仕えているクロヤ・G・アイザワという男の生家はわかりそうかな」
待合で安い紅茶を飲みながら待っていると、職員は肩をすくめて戻ってきた。
「残念、生家の場所はわからなかった。でも墓の場所ならわかったよ」
バスががたりと揺れ、デイビットは気がついたように降車ベルを押した。パーシーチャペル通りに降り、道すがら花を買ってから、通りの名前になっている教会を訪ねた。
「その方の墓石はこちらです」
牧師に連れられてクロヤの墓の前に立ち、デイビットは大輪の白ゆりをそなえた。
「クロヤさんはとても良い行いをなさった方でした」
牧師にクロヤの人柄について尋ねると、教会の執務室に通され、紅茶とジャムつきのクッキーを振る舞われた。
「彼はもともとザウダーハイツという都市で神学校の教師をしていた方でした。彼は自国の戦争教育主義に疑問を持ち、開戦より10年も前に、神学校の生徒を連れて亡命して来られました。残念ながらご家族は逃亡に失敗し、逮捕されてしまったのですが……亡命直後、生徒たちは不問でしたが、クロヤさんは裁判にかけられました。そこで彼を救い、身元保証人となったのが若きフラジール卿でした。フラジール卿は大変な人徳者でしたから」
「ザウダーハイツと言えば、ちょうど我が国との境にある大都市ですね。なるほど、どうにもお名前に異国情緒を感じると思いました。戦争主義に疑問を持つとは尊い御考えだ」
「ええ、まったく。クロヤさんはこちらの教会を訪ねられ、我々は生徒たちの新しい生活のことについて、よく話しあったものです」
こつん、と窓ガラスが鳴った。遅れて、さあさあと雨の音が聞こえはじめる。
「それで、クロヤさんはフラジール卿のお屋敷で執事を勤め……亡くなられたのはいつ頃でしたか」
「先の戦争の開戦から五年経った冬のことでした。75歳でした。晩年、後進も育てられたので悔いはないと仰っていましたよ」
「後進とは、フラジール卿のお屋敷で新たに執事を勤める者のことでしょうか」
デイビットは手帳をぱっと開き、メモの準備をした。生前、「クロヤ本人」と交流のあった牧師なら、詳しいことを知っているに違いない。
(これは大きなアタリを引いたな……ここでの証言の検証を済ませたら、さっそく孤島に渡る準備をしよう)
顔には出さないものの、デイビットは体温が上がるほどの興奮を覚えていた。やがて、牧師がゆっくりと頷き、紅茶のカップを机に置くと、興奮と緊張は最高潮に達し、自然と万年筆を持つ手が震えた。
「開戦から一年目、敵国の兵が数名、捕虜として我が国に連れ帰られ、裁判を待っていました。その中に、かつてクロヤさんが教えていた生徒がいたのです」
「以前の戦争」の開戦から半年もすると、ぶつかり合う国同士の境に位置した都市は荒廃の一途をたどった。そこにルールもモラルもなく、攻略された側は容赦ない蹂躙の憂き目をみた。
秋の葉は変わらず落ちるというのに、両国の荒み様はまったく違っていた。
後の戦勝国側の都市は落とされず、運河にも守られていたため被害は少なかった。しかし、後の戦敗国側の都市ザウダーハイツは目も当てられない惨劇の舞台となり果てた。
将校たちが通りすぎたあと、名ばかりの上官が臨時にザウダーハイツを治めたが、部下たちの管理はいっさいなされなかった。血気盛んな若者たちは捕虜をいたずらに殺し、または慰みものにし、さまざまな恥辱を与えて愉しんだ。
戦争の風にさらされた兵士たちの心は、勝った方も敗けた方も、常軌を逸していた。兵士のすることは、常に日常からかけ離れた狂気のなせる業だった。
――もし正気であったなら、他人など殺せるはずもないのだから。
戦敗国側のキャンプで、一人の雑兵がザウダーハイツの惨状を聞きつけ、夜営を抜け出て一目散に走りだした。彼は見る影もない故郷を目の当たりにした。
郊外にある生家を訪れた彼は、一生分の後悔を味わった。一階の片隅から漂う腐敗臭に顔を覆いながら奥へと進むと、かつて食卓であったその場所に、変わり果てた彼の家族の体がうち捨てられていた。ザウダーハイツいちの美女と言われ、婚約が決まっていた姉も、中等学校に通い始めた妹も、そして優しくたくましかった母も、そろって衣服をはぎ取られ、人形のように転がっていた。全員が足を開いたまま、あられもない格好で硬直しており、くり返される暴行の末に絶命したことを物語っていた。夏の間に虫どもに食い荒された家族の体には、それでもなお、殴られたり縛られたりしてできたうっ血の痕が見てとれた。
雑兵は自らの腕を深く噛んで声を殺し、どれだけ苦しんで死んでいったであろうかと家族のために泣き、己の不甲斐なさを責めて泣いた。顔も体も痛くなるほどに泣いてうなって、転げまわっても、あの温かい時間が二度とは帰らないことはわかっていた。雑兵は床に崩れて体を掻き毟り、やがて、爛々と復讐の炎に燃え盛る目を上げて、一目散に夜営地へと駆け戻った。彼の背後では、生家がごうごうと音を立てて燃え上がっていた。
雑兵は誰も志願したがらないと有名だった特殊部隊に名乗りをあげ、最も危険な役回りを進んで引き受けた。敵地に潜りこんで敵の寝首を掻く、自らの命を捨てるような使命を帯びた部隊だが、確実にこの手で敵を屠ることができると、彼は体の芯から歓びにうち震えた。
だが、彼は仲間とともに捕えられ、敵国に拉致された。一人も敵を殺せなかったことを悔やんで自殺も試みた彼を救ったのは、かつての師であった。もし、クロヤの存在が無ければ、若き兵士はためらいなく命を絶っていたであろう。
クロヤは捕虜の連行を耳にすると主に働きかけ、面会に漕ぎつけたばかりか、かつての教え子を檻から救い出してしまった。
クロヤは根気よく、戦争とは何であったのかを説いた。それはクロヤの優しい嘘を交えた、若き兵士にとっての神の言葉であった。
「我らのかつての故国が過ちを犯した。そして、この国の人々は非道な仕打ちに立ち向かった。だが、全員を戦争の狂気が蝕んだ。たとえ正義の従軍であっても、同国の勇士であっても、戦で過ちを犯した者は必ず罰せられる。証言をしなさい。さすれば、裁判は公平に罪人をつきとめ、罰を下すだろう」
そして言葉通り、ザウダーハイツの治権者であった上官は捕えられ、戦犯者という不名誉な前科をつきつけられた。兵士らも尋問にかけられると、仲間が仲間を売り、ほんの一握りを残して処罰された。
その処罰の内容は若き兵士にゆだねられ、フラジール卿も預かり知らぬところで、身の毛もよだつ執行がなされたという。
復讐を果たした――と、クロヤに説得された――若者は、兵士であったことをきれいに忘れることを条件に屋敷に召し抱えられ、クロヤの後進として教育を受けた。もともと頭の切れる男だったため、仕事はすぐに覚え、屋敷の使用人たちにも早くに馴染んだ。若者の素性は隠されていたが、晩年、クロヤは彼のことを密かに案じ、信頼できる人間にだけ真実を語った。
「わかるか、ルーシー。あの男はクロヤ・G・アイザワの後継者だ。本当の名前は俺も知らないが、奴の人生はとっくに狂ってるのさ。歯車はちぐはぐなまま、狂ったものは二度と元には戻らない。だからあの男は危険なんだ」
ルーシーは爪を噛みながら頷き、眉間に深いしわを刻んだまま、じりじりと廊下を進む。
(最初は幸福だったなら、その後の不幸はいっそう悲惨なものよ。そして、塗り替えられないほどの悪夢を忘れさせてくれるものがここにはあった。彼は恋をしたんだわ……)
温室で大切に育てられたマリアナを見知った時、クロヤの心はどれほど晴れやかに、軽やかに浮き上がったことだろう。悲惨な戦争の思い出から抜け出す唯一の方法がこの屋敷にはあったのだ。
(仕事にうちこむことでも、新しい名前を与えらえることでも消えなかった暗い炎……それは恋に執着することで明るい色を灯しはじめた。でも……彼の運命は掛け違えられたまま、けっきょくはまた狂ってしまう)
階段に足をかけた時、地下からごとりごとりと重い物音が響き、ルーシーは思わず体をかたくした。胸の前でぎゅっと手を握り、足音を立てないようみすぼらしい靴を脱いで歩き、地下室へ続く扉に耳をつける。
クロヤは上機嫌に詩の一遍を諳んじていた。
「愛しさよ、愛はなんと熱きものか! 我が心を燃え盛る劫火にて昂ぶらせたまえ。やがて愛は我が心を焼き尽くし、命をも燃やし尽くし……」
クロヤは急に言葉を切った。地下の階段を革靴で上がってくる音がする。ルーシーは腰を抜かし、這うように階段まで戻ると、靴を持ったまま音もなく二階へ逃げた。
「気のせいか」
置物の影に身を潜めたところで、クロヤがぽつりと言うのが聞こえた。
ルーシーは早鐘をうつ心臓をおさえて、寝室の扉をひかえめにノックした。返事を待たずに中に入ると、マリアナは枕にもたれ、体を起こしていた。
「奥さま、お体が疲れませんか」
慌てて駆けよると、マリアナは蝋のような顔をルーシーに向けて口を開いた。
「眠れないの」
「奥さま」
ルーシーは驚いてマリアナの手をとった。指先は冷たくなり、関節を曲げることができなくなっていた。
「お待ちくださいね。温かいスープを持って参ります」
マリアナはまたぼうっとして、話を聞いているのかも定かではなかったが、ルーシーは急いで厨房に戻った。食事を運ぶあいだも、ルーシーの胸は痛み続けた。マリアナは座ったまま待っており、銀盆をベッドに乗せてスープをすくうと、にっこりと微笑んだ。
「いいにおい」
マリアナは珍しく食事を平らげ、ルーシーと簡単な会話をした。昨日まで生きた屍のようだったのに、マリアナに少しでも生気が戻ったことが、ルーシーには何よりの救いだった。
「体が思うようにならなくて、頭もぼうっとするのよ。起きていられる時間がとても短いの……最近は目もかすむし、すぐに疲れてしまうの」
よく絞ったタオルで体を拭かれながら、マリアナはかすかな声で訴えた。
「こわいわ。ねえ、どうせ死んでしまうなら、どうしてこんなに苦しい思いをしなければいけないの? どうして、あの人は迎えにきてくださらないの」
ルーシーはマリアナを着替えさせ、たまらなくなって抱きしめた。
「弱気なことを仰らないで。どうぞ良くなってください、奥さま。奥さまのためにお庭はずっときれいにしてあります。花の種も蒔きました。来年の春にはまた、奥さまの目を楽しませますように」
すすり泣きながらマリアナの背をさすると、彼女はルーシーの肩に顎を乗せた。腕を自分では動かせない彼女にとって、それはルーシーを抱きしめ返すことと同じ意味を持っていた。
「ルーシー、お前は温かい。お前がいてくれてよかった……私が死んだら、あの人と同じお墓に眠らせてね。墓碑銘なんか要らないわ。誰にも内緒で、きっと同じところに眠らせてちょうだい……」
そう言うと、マリアナは目を開けたまま、意識の眠りに落ちてしまった。ルーシーはそっと彼女を横たえ、フランネルの蒲団をかけてやると、食器を持って部屋を下がった。一礼して扉を出るとき、部屋に差しこむ日の光に照らされたマリアナが、いつにも増して儚く見えた。
泣きながら空の食器をさげる道中、ルーシーの行く手をクロヤが塞いだ。
「お召し上がりになったのか」
喜ぶべきことのはずだが、クロヤはひどく不機嫌に言った。ルーシーはおずおずと頷いた。
「では、今日の昼食からは三日間、水だけをお持ちするように」
ルーシーはまた黙って頷いた。マリアナの意識が戻ったことは、とてもクロヤに報告する気になれなかった。
スープを喜んで食べたことは、グスタフにだけそっと伝えた。するとグスタフは涙ぐみ、大きな背中を丸めて厨房の隅に引っこんでいった。
ルーシーはいったん女中部屋にさがり、湿った蒲団に膝をついて天に祈った。
「お願いです、まだきっと間に合います。どうか救いと平和の使者をお遣わしください。私たちを正しき方へお導きください。どうか……」