宛先にたどり着かない手紙
【宛先にたどり着かない手紙】
クレメンスの葬儀はささやかで、さみしいものだった。
下女と厨房の下働きが何人か集まり、それぞれ花を片手に野辺送りをした。それから自分たちで彼女の遺体を1エイカーの浜辺へ運び、いちばん古いボートに乗せて、海へと送り出した。
ボートには穴が開いている。そのうち、重石を抱かせたクレメンスごと、ボートは海中に沈んでいった。
この辺りの海底では流砂が発生し、深いふかい海溝までものを押し流していく。クレメンスの体も海溝の奥深くへ運ばれていけば、もう二度と見ることはないだろう。
涙を流したのがルーシーだけではなかったことが、ほんの少しの救いであろうか。
兵士として戦地へ赴いたのか、そもそも存命であるのか、何もかもがわからない実の息子に彼女の死を伝える術はない。
クロヤはマリアナにつききりで、ついに彼女の寝室を自分の書斎にしてしまった。オークの机を運び込み、鞄に入った書類と羽根ペン、インクなど、必要なものだけを持って引越しをした。
マリアナは嫌がる風もなく、かといって笑顔を見せるでもなく、相変わらず人形のようにぼうっとしているだけであった。
この頃にはルーシーも勘づいて、やがてはマリアナがクレメンスと同じように死を迎えるであろうことも予測していた。
マリアナが死にかけていることは、誰もが承知している。重要なのはそこではない。なぜ、いかにして彼女が弱っていったか、ということだ。
ルーシーには目星がついていた。クロヤが執拗に確認していたのは、マリアナがきちんと食事をとっているかということだった。おそらく、その食事の中に、クレメンスに使われたのと同じものが入れられていたのだ。
かといって、いまさらマリアナの食事を改善したところで、彼女に回復の見込みはないだろう。それほどまでにマリアナはかすかな存在になっていた。
いいや、だからといって。
見過ごすわけにもいかない。クレメンスのかたきをとるためにも、ルーシーは自らが動き出す決心をした。
正午、マリアナの部屋から上級女中の悲鳴があがった。
もう屋敷にはこれだけしか残っていない、ルーシーとシェフとが階段を駆け上がり、マリアナの寝室の扉をたたく。すると、室内から女中が転がるように飛び出してきた。
開け放たれた扉からそっとようすを窺うと、マリアナの傍らにはやはりクロヤの姿があった。
「どうしたのです、みっともない。奥さまに失礼でしょう」
女中はすっかり気が動転しているのか、ああ、ええ、としか言わない。らちがあかないと思ったのか、クロヤがルーシーに向かって手招きをする。下女の身分で、ルーシーは始めて主人の寝室に足を踏み入れた。
美しいベルベットのカーテンはすっかり灰後れ、ひだの内側にだけ高貴な紫色が残っている。レースは日焼けしてただれたようになり、窓枠には埃がつもっていた。
マリアナが横たわるベッドは、天蓋が引き裂かれ、シーツもごわつき、枕はぺしゃんこになっている。
大理石をチェス版のようにならべた床だけは、鏡のように磨かれていた。
クロヤに招かれるまま、ルーシーはマリアナに近づいていく。
「奥さま」
そこではじめて声を上げた。
マリアナの顔、うつろになった大きな目の下、痩せて目立った頬骨をおおうように、大きな赤い斑が浮かび上がっていた。両方の頬を赤々と染める斑は、まるで一対の蝶の羽のように見える。
どうやら、腕にも足にも、マリアナの体じゅうにこの紅斑が浮かび上がっているらしかった。
「これは……?」
「奥さまの長の患いです。うつりはしませんよ」
クロヤは涼しげな表情のまま答えた。
以来、マリアナの病症の気味悪さから、数少なかった上級女中たちが次々と島を出ていった。
奇しくも、いつかクレメンスが言っていたように、マリアナの身の回りの世話はルーシーに任されることとなった。
明け方、ルーシーは目を覚ますと同時に、暗い絶望の海へ自分がどっぷりと浸かっていることに気づいた。重苦しい波の上へ出ようと、ぐいっとのびをして立ち上がる。
空は鬱々と曇り、今にも泣き出しそうだった。
たった一人には広すぎる女中部屋を見渡して、ルーシーはため息をつく。
(ああ、ただ生きているだけのことがこんなにも苦労だなんて!)
壁際の隙間から中央へ、灰色のススが床を這ってきている。まだこの部屋が賑やかであった頃には、雑巾がけもしていたのだが。
いまさら、この屋敷で手入れしてやらねばならない場所など思いつかない。
染みや日焼けのあとがまだらに残るエプロンを腰に巻き、くたびれた三角巾をかぶって、ルーシーは穴の空いたスリッパを片足ずつ引っかけた。白く汚れた鏡など見向きもせずに、厨房へと向かう。
「おはよう、グスタフ」
「おはよう、ルーシー」
ただひとり、屋敷に残っているシェフのグスタフとは、これまで口をきいたこともなかった。寡黙で職人かたぎで、下働きのルーシーとは格も違う。彼はずっと上流階級の貴族たちに自慢の腕をふるっていたのだ。
そのグスタフが、昔なじみのおやじさんのように、下町で育ったルーシーに椅子をすすめる。
「ありがとう」
「紅茶は、いつものでいいかい」
ルーシーがうなずくと、コンロや流し台の上に置いてあった皿が運ばれてきた。乗っているのはマーガリンを塗った食パン、とろみのついたスクランブルエッグ、サニーレタスと半分のプチトマト、ハムがふた切れ。
今日も昨日もその前もずっと、朝食はこのメニューだった。
「牛乳を切らしてしまったから、オートミールのリゾットはしばらくおあずけだな」
オートミールを牛乳で煮てはちみつで味つけするリゾットは、ルーシーの得意料理だった。はちみつが切れたときは角砂糖を溶かして代用したが、牛乳が切れてはいけない。
ルーシーは夕食時になると厨房に入り、グスタフの代わりにリゾットを作って食卓に運んでいた。
「そう、それじゃ、お夕食のことを考えておかなくちゃね」
ルーシーは朝食を平らげると、重い体と心とをひきずり、一歩いっぽ階段をのぼった。段をのぼるごとに命がすり減るような感覚は、日増しにひどくなっていく。
一息ついて、再び階段をのぼり、ルーシーは開け放たれた扉の前に立った。
「奥さま、おはようございます。失礼いたします」
深く頭を垂れたルーシーに入室の許可をくだすのは、もちろんマリアナではない。
「おはよう」
クロヤは手紙の束に目を通しながら、顔も上げずにルーシーを手招きした。
ルーシーはクロヤにも軽く会釈をして、異質な空間へと一歩を踏み出す。廊下と寝室との境にあるのは扉一枚、敷居一本。見た目にはそれだけだ。
踏み出した足のつま先から、ルーシーの体を駆け上がってくるおぞましい感覚といったら、死神に魂を撫でられているかのようだった。
冷たい無機質な別世界への敷居をまたげば、自らの体温すら忘れてしまう。
ルーシーは機械的にマリアナの体を拭き、着替えさせ、唇を湿すていどの水を与える。
毎日、毎日、これのくり返し。はじめのうちこそ、いっそのこと早く楽にしてさしあげたいと胸を痛ませたものの、ルーシーはいつしか心を殺す術を身につけた。
まともにやりあっていたのでは耐え切れない。強いられた異常な日常のなかで生き延びるには、自らも狂う必要がある。
(私が相手にしているのは後ろの魔物。少しでも人間の心を覗かせれば、食い殺されてしまう……ごまかして、装って、耐えるしかないのよ)
マリアナの世話を終え、ルーシーは足早に部屋を出た。階段を駆け下り、厨房の裏手へまわって、物干し台の片隅で崩れ落ちる。震えて立ち上がれない膝を抱えながら、徐々に心を解凍する。
「まるで人形の世話。生かすための世話をさせてるんじゃない。汚れないように、壊れないように、保管をさせているのよ」
おぞましい。
ルーシーはそれでも、これが一種の愛の形であることは認めていた。ただただ異常で狂気をはらみつづけ、周りすら巻き込んで滅ぼしていく、クロヤの感情が愛だと。
午後二時、クロヤは相変わらず寝室にこもりきりで、山と詰まれた手紙類の分別をしていた。
それを確認してから、ルーシーはこっそりとフラジール氏の書斎へ向かった。オークの扉は少し開いており、扉の軋みをたてないよう、その隙間から体を滑り込ませた。
ルーシーが拝借した品々は、机の上にあった白い羊皮紙を二枚、換えの羽ペン、引き出しからひとつ抜いた黒いインク壷。
品々を抱え、厨房に寄ってろうそくを一本分けてもらうと、ルーシーは女中部屋に戻った。
島へ立ち寄る商人には必要なものを言いつけておいたし、洗濯物も午前のうちに取りこんでしまった。奥様は昼食を召し上がらないから、グスタフと私が午後三時ごろに厨房で食事をとる。それまでなら充分な時間だわ。用事をすべて済ませたことと、クロヤが書斎にこもっていることを確認して、ルーシーはインク壺の堅い蓋をあけた。
『前略 デイビット=ハート様
この手紙はきっとあなたのところへ届くことでしょう。
私は、あなたの助けを必要とする、ある屋敷の下女です。名前はルーシー。どうぞ、私のお願いを聞いてください……』
祈る気持ちでしたためた手紙を抱き、女中部屋の裏戸をそっと開けて、ルーシーは中庭に立った。風がグラスに波を立てて通りすぎていくなかを、腰をかがめ、サンザシの生垣に身を隠しながら船着き場へと急いだ。
そこへ、クロヤの手紙のチェックが終わるまで客間で待たされ、クロヤの用意した手紙を受け取ってようやく解放された、若い郵便配達員がやってきた。風にかき消されながら、のんきに口笛などすさんで。
ルーシーは門柱の影から抜けでて、郵便配達員の後を追った。船着き場は道が下って、屋敷からは死角になる。クロヤの監視を警戒して、門のところではとてもやり取りなどできないと思ったのだ。小道の坂をくだり、シミのついた船着き場の板を渡って、ルーシーは配達員を呼び止めた。
「あの、このお手紙もお願い」
「え、ああ、どうも」
赤毛の青年は、ルーシーのぼさぼさになったブロンドのおさげと、そばかすの愛らしい顔とを眺めて、呆けたように手紙をかばんへ放りこんだ。
「いつもありがとう」
配達員と御用聞きの商人とを乗せた船は、ゆっくりと島を離れていく。
青年はルーシーに手を振り返しながら、ちょっと頬をゆるめていた。これまでにも女中が追加の手紙を持ってくることはあったが、自分と同じくらいの年の女性もいたことは知らなかった。清楚で、誠実そうな娘だった。
「ありゃ、下女だろう。このお屋敷も人が少なくなったと見えて、食料品や衣類の注文も減ったよ……人手がないんだろうな」
商人がぽつりと口添えすると、青年は赤くなり、いつまでも振っていた手をさっと引っ込めてうつむいた。
船を見送って、ルーシーは注意深く引き返した。風の音でごまかしながら裏戸を開けて、食堂へ。髪にからまった小枝や靴についた落ち葉など、外へ出ていた証になるものもすべて払い落としておいた。
ルーシーが顔を見せると、グスタフは湯気をあげている鍋から木さじをあげ、食器の準備をはじめた。
「誰かに手紙でも書いたのかい」
グスタフの言葉にどきっとして、ルーシーはなぜ? と尋ねた。
「顔にインクがついてるよ」
あぶなかった。食堂へ来るとちゅう、クロヤと出くわさなくて本当によかった。インクや羽ペンの一式を、ドレッサーの床下へ慌ただしく隠した時にでもついたのだろうか。女中のひとりからもらった手鏡を見ながら、ルーシーはインクをこすり落とす。食事を終えるころには、こすった頬の赤みも消えてくれた。
さあ、また一芝居。私が女優であるとしたら、これは悲惨な舞台ね。
しかし、午後の清掃に取りかかるルーシーの心持ちは晴れやかだった。彼女は最大にして、最高の秘密を抱えている。あの手紙が本国へ渡り、郵便館で選別されているだろう頃には、鼻歌をうたいたいくらいに高揚した。
(ああ、神様、私のお願いをどうか叶えてくださいまし!)
同時に、胸をしめつける不安に押しつぶされそうでもあった。こんなに心臓が高鳴っていたら、あのクロヤに何事か嗅ぎつけられてしまいそうだ。
そのクロヤであるが、姿を見ない。もはやルーシーを信頼しきっているのか、大それたことなどできやしないと見くびっているのか、あまり干渉してこなくなったように思う。以前のように、振り返ればそこに影あり、という具合にはいかないようだった。先ほどもマリアナの部屋へ掃除に出向いたところ、クロヤは不在だった。
「ここのとこ、執事さんは何か上の空だよ」
一通りの清掃を終えたルーシーは、夕食の相談をしに食堂へ寄り、グスタフからそんなことを聞いた。
「やっぱり、そう思う?」
「ああ、前は恋煩いでもしてるみたいに、何かに熱中していたけどねえ」
何だか知らないが、飽きでもしたのかねえ。そう言うグスタフの隣で、ルーシーは真剣に考えこんでいた。
(もし、もし奥様から興味を失くしたのなら。これほど酷いことをしておいて今更だけれど、もう奥様に興味がないのなら。こんなに喜ばしいニュースは無いわ)
マリアナが虫の息でベッドの上に横たわっている頃、クロヤは女中部屋にいた。腕組みし、仁王立ちして顔をしかめ、何事か思案していたが、やがて首を横に振った。
「……思い過ごしか」
低く重いため息を吐き、クロヤは下がった眼鏡を直す。
家探しした形跡をなくし、元通りにルーシーの蒲団や持ち物をととのえて、クロヤは女中部屋の出口で立ちどまった。もう一度、肩ごしに部屋のなかを眺めまわし、軽いため息をついて扉を閉める。
ルーシーには幸いなことに、彼はドレッサーの下の床板がはずせるようになっていて、ものを仕舞う場所が確保されているなど、思いもよならかったのだ。
郵便館では、擦り切れたアームカバーをつけ、丸眼鏡を鼻先にひっかけた男たちが、せっせと手紙を振り分けていた。
「アーネスト通り3丁目」「クレイン通り400番地」「防衛省」
宛名と住所を、手紙をちらつかせる一瞬で読み取って、それぞれの場所へ流していく。郵便かごは順調に手紙をたくわえていくが、中にひとつ、ほんの一通か二通しか手紙の溜まらないかごがあった。白く、汚れの少ないかごの中身には共通点がある。総じて、宛名だけあるか、まったくの白紙であるか。宛先も差出人もわからないような手紙だ。
かごには「デイビット=ハート行」と書かれている。はじめから宛先も差出人もわからない手紙と、書かれた住所地には宛名の人物がいないとか、住所地そのものが間違っているだとかで、「宛先にたどりつかず、差出人にも返せなくなった手紙」の行先だ。
ハニーベイ行のかごを持った配達員が、ついでのように「不明な手紙」を二通ほど持って、郵便館を出発した。
主立った港町、ポートエルザにあるハニーベイ通りには、風変わりな住人が暮らしている。彼の名は「ディベット=マルメラ=ハート」、通称「探偵デイビット=ハート」と呼ばれている。探偵といっても、主な仕事は郵便配達の手伝いだ。その証拠に、彼のポストは常に「不明な手紙」で溢れかえっている。
「今日は二通。うん、運がいいね」
ガウン姿でコーヒーを片手に、彼は庭先の巨大なポストから二通の手紙を取り出した。二通とも宛名だけ書かれたもので、片方は子どもの字。もう片方は……
「ヒュウ! いいね、実に僕好みの清楚で可憐な字だ」
手紙を鼻先にあてると、洗剤と独特な香料のにおいがした。
「女性で間違いなさそうだ。それも、いいお屋敷の下働きをしているかな。教育は受けたとみえて、本当にいい字を書く」
デイビットは手紙にキスすると、鼻歌まじりに書斎へ引き返した。そこで子どもの書いた手紙を調べ、正しい宛先を推理して住所を書き加えてやると、意気揚々ともう片方の手紙に取りかかった。
「なんたって素敵だね、こいつは僕宛てときてる!」
開封すると、手紙は彼自身へ宛てられたものだった。すっかり上機嫌になったデイビットの浮かれた目は、手紙を読むにつれて落ちつき、鋭いものへと変わっていった。
手紙の主は悲痛な叫びをあげているのだ。助けをもとめ、デイビットの噂を聞きつけたのだろう、すがる思いでこの手紙を書いた。
「途中でインクが飛んだり、紙が引き連れたりしている。急いで書いたんだな。見つかることを恐れたんだ。しかも相当古い紙に、ずっと開けてなかったような粘ったインクの感じ……この紙もインクもペンも、彼女の持ち物じゃない」
二、三行読んだだけでそれらを察し、デイビットは手紙の内容に集中した。外界から遮断されていること、通信手段を持たされていないことは明白。はじめは監禁されているのかと思ったが、そうではないようだ。
手紙の主は屋敷で下女をしており、いまはたった一人で女主人に仕えている。他に使用人はシェフが一人と、執事が一人。
「お屋敷の主はフラジール氏、執事の名前は……クロヤ・グレンフィール・藍沢ねぇ」
デイビットはガウンを椅子にかけ、ベストを羽織ると、懐中時計を胸ポケットに入れた。ハンガーからコートをとり、小じゃれた山高帽をかぶると、ふたつの名前を手帳にメモして外出の支度をすませた。
「おっと、忘れちゃいけない」
それからバルコニーに出て灰皿に手紙を入れると、名残惜しそうに油をかけ、マッチの火を落とした。手紙が完全な灰になるのを確かめてから、ふうっと一息に庭のほうへ灰を飛ばす。
「さあ、ルーシーちゃん、待っていたまえ。必ず僕が君とご主人を救ってみせるよ」
灰皿を戻し、窓や戸に鍵をかけると、デイビットは颯爽と門を出て行った。
その夜、海上はひどい嵐に見舞われ、たくましい商人や海軍ですら、船を出すのをためらうほどの大しけとなった。
荒波に削り取られる岸壁に思いをはせ、ルーシーは、いっそのことこの屋敷ごと島が転覆して、海の底に沈んでしまえばいいと呪った。
「うんざりするような天気だ」
庭の木々がのけぞって風に吹かれるのを眺めながら、グスタフは残り物のハムをきりわけ、朝食の下ごしらえをつづけた。
調理場の隅では、ことこと音をたてはじめた手鍋から、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムのハーブを煮込んだ香水の独特な香りがたちはじめる。ルーシーは頬杖の痕が赤くなった顔をあげ、牛のようにのったりと椅子から立ち上がり、鍋の様子を確かめに行った。
「サンザシの生垣が嵐のせいではげてしまったら、供養してやらなくちゃね。恩があるもの……」
つぶやいた言葉はグスタフの耳にも届いたが、何のことやら、彼にはさっぱり意味がわからなかった。
「さて、私たちは一日よく働いたよ。紅茶をいれよう、ルーシー。ダージリンとアッサムにアールグレイ、どれがいいかね」
雷鳴のとどろきはじめた頃、クロヤは明かりもともさずに、じっと書斎の机をにらんでいた。稲光が照らした一瞬、開け放たれたすべての引き出しと、クロヤの険しい表情とが暗闇に浮かび上がる。
インクの瓶がひとつ無くなっていることは、備品の管理をまかされていた執事であれば、また、几帳面なクロヤであれば、一目瞭然だった。替えの羽ペンも、羊皮紙も、ほんのわずかに不足していた。まるで、几帳面で臆病なネズミが、台所の大きなチーズからほんのひとかけの戦利品を持ち帰ったように。
ネズミの正体はわかっている。
「いくら小賢しく立ち回ったところで、お前に誰が手をさしのべる?」
クロヤは鼻で笑った。
ルーシー、赤毛がかった金の髪に、白い肌、そばかす、目の色はありふれたブルー。諜報員だった父を病で亡くしてから、天涯孤独の身。文字の読み書きができ、言葉遣いからも、それなりの教養があることはわかる。下町の出身で、決して品があるわけではないが、清楚で従順、申し分ない働き者の田舎娘だ。
素性のはっきりしない、ラスト・ネームすら持たない18歳の小娘の書いた手紙が、いったいどこへ行きつく? 誰が、そこに書かれたことを真に受ける?
「ああ、こんなにも滑稽なことはない! しばらくは愉快な話題に事欠かずにすむ」
クロヤは背中を猫のように丸めて、下品に大笑いした。ひとしきり笑うと、クロヤは顔を上げ、窓の外を眺めた。背筋をのばし、稲光に眼鏡をきらめかせながら、口元に微笑を浮かべる。
「すでに事は終わった。今さら何を騒ぐのです、ルーシー?」
黒く重たい雲を裂いて、白い稲妻が海へ突き刺さる。
ルーシーはごうごうと中庭を揺らす風や、壁からはがれそうにきしむ窓枠の音を聞きながら、粗末なふとんにくるまって目を閉じていた。彼女の小枝のような、それでいて節くれだち、タコやアザの目立つ指はしっかりと組み合わされ、胸の前にあった。ルーシーの唇は、風の音にかき消される祈りをとなえつづける。
「お願いです神さま、奥さまをお救いください。私たちに御手を、どうか、光のほうへお導きください」
ガタリガタリと裏戸が派手な音をたてはじめると、ルーシーはぎゅっと目を閉じて叫んだ。
「お願い、これ以上、恐ろしいことが起きませんように!」