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愛しのマリアナ  作者: 天秤屋
7/11

生贄のための供物

【生贄のための供物】


 黒い雨が降りそそぐ。

 本国の情勢を知る術はもはや無い。ただ、昼も夜もなく、明るい炎が水平線を浮かび上がらせていた。

 ぶ厚い雲が空を包み、島には暗い影が落ちた。ひと筋の糸のように美しかった雨も、矢じりにその姿を変え、車軸を流すような勢いで降り続ける。

「花がだめになってしまう……」

 結露した窓ガラスを拭きながら、ルーシーはぽつりとこぼした。

 この島で唯一の救い、彼女の心を安らかにするもの。庭一面に咲き誇る、とりどりの花、花、花。あの花びらの一枚いちまいを、香りの一つひとつを愛でるだけで、どんなにか気持ちが楽になるであろうか。

 その花も、真っ黒な雨に穿たれ、汚され、地べたに倒れこんでいた。

 マリアナの容態はますます悪化した。

 最初は、貧血だの、体がむくむだの、これまでにも経験のある症状だった。それが日増しに、けいれんや頭痛を伴うようになって、マリアナはすっかり塞ぎこんでしまった。

 それからというもの、厨房から出て行く料理といえば白がゆ一品。洗濯に出されるのはシーツとパジャマ。

 ルーシーが差し入れようとした香水も、においに吐き気がするというから、処分するしかなかった。

 今では庭にも出ず、一日中ベッドの上でぼうっとしているだけで、まるで人形のように精気のない顔をしている。

 実は、マリアナと似たような症状に陥っている人物が、もう一人いた。

 それはクロヤではない。ああ、クロヤであったなら、どんなにか良かっただろう。ルーシーはそんなことまで考えるようになっていた。

「お加減はどう、クレメンス?」

 クレメンスは眉ひとつ動かさなかった。

 下女の大部屋の片隅、日当たりの良い場所に、クレメンスのベッドが移された。竹ざおの天蓋にカーテンまでつけられて、まるでどこかの貴婦人の寝所だが、なにもクレメンスを気づかってのことではなかった。悲しいことに、彼女のまるでロウ人形のような顔を見たくないと、他の女中たちがつくったしきいに過ぎないのだ。

 元が活発な女性であったからか、クレメンスの変貌ぶりは、マリアナよりもひどいように感じられた。

「昨日、お庭に出て摘んできたの。大丈夫よ、怒られたりしないわ……」

 カスミ草とレンゲ、ケイトウ。春の気候を保つ庭では、様々な花が咲き乱れる。ルーシーは花瓶を窓枠に立てて、クレメンスのうつろな目に話しかけた。

「ねえ、クレメンス、あなたに何があったっていうの……?」

 かつり、という音がした。

 クレメンスの鞄から何か落ちたようだった。ルーシーは椅子からおりて身をかがめ、ベッドの下に手を伸ばす。筒状の何かが転がっているのが見えた。

「ほらっ 取れたわ……これ、口紅?」

 ルーシーの手に握られていたのは、美しい装飾の刻まれた銀色の筒だった。クレメンスの目の前で開けてみせると、わずかに、彼女の目が見開かれる。

 筒の中身は口紅ではなかった。白くて油脂を固めたようなもの、リップクリームのように見える。指先にすくってみると、油より粘り気がつよかった。鼻先に近づけてみても、何のにおいもない。

「何かしら……白くて、においはあまりしない……まるで」

 言いかけて、ルーシーは反射的に口をつぐんだ。

 背中に感じるこの冷たさ、この気配。久しく味わわなかった、おぞましい気配。忘れもしない気配だ。

「塗っておあげなさい、ルーシー」

 ただ名前を呼ぶその声が、きりきりと魂を絞めつける。ルーシーは振り返ることもできず、銀色の筒を持ったまま、華奢な肩を震わせていた。

「ルーシー、このままでは彼女の口が渇いてしまって、かわいそうですよ。それとも、私が代わりに?」

「いいえ」

 ルーシーはすばやく答えた。

「いいえ、私が塗ってあげますわ……クロヤさん」

 何かとてつもなく嫌な予感がするのに、ルーシーは従うことしかできなかった。恐るおそる、クレメンスの唇に筒の中身をあて、上下に塗りつける。

「クレメンス……」

 すると、クレメンスは口元を歪ませるように、目を細めるようにして、うっすらと笑顔を見せた。

「嬉しいのでしょうね」

 叩きつけるような雨の音と、クロヤの声とが混じりあい、ルーシーの小さな耳に突き刺さってくる。

「そのリップクリームは本国の息子さんから贈られてきたもので、受け取って以来、彼女は毎日かかさずに使っていたのですよ」

「毎日。でも、はじめて見ましたわ」

 ルーシーは自分の胸のあたりを強く握った。鼓動がやけにうるさい。

「ええ、奥さまのお誕生会の、翌日に届きましたよ。私が直接、彼女に渡しましたからね、間違いはありません」

 かたり、という音がした。硬直したルーシーの手から放れたリップクリームは、古い木板の床に落ち、根元から欠けて転がっていく。

 クロヤは銀色の筒を拾いあげると、クレメンスの荷物の中から適当な端切れを出して、それに筒とリップクリームとを包み、部屋を出て行った。

 ルーシーは泣き崩れ、物言わないクレメンスにすがりついた。

「ごめんなさい、おお、ごめんなさいクレメンス」

 クレメンスが不調を訴えだしたのは、ちょうどその頃からだ。なぜ気づいてあげられなかったのだろう。

 リップクリームが彼女の手に渡ったとすれば、ルーシーがほんの少しのあいだ、ちりとりを取って来るといってそばを離れた。あの一時だ。それ以外は、常に一緒にいたのだから。

 まるで、血の繋がった母子のように、信頼しあっていたのに。

 クレメンスはリップクリームのことなど、いっさい口に出さなかった。ルーシーがクロヤを訝しんでいることを知っていたから、クロヤから受け取ったことを話せずにいたのだろうか。

 自分だってクロヤのことは怪しいと言っていたのに、息子の名前を出されて、つい油断してしまったのだろうか。

 息子であるはずがないのに。

「かわいそうなクレメンス」

 本国は戦争状態、それもかなりの劣勢であるはずだ。となれば、以前のように民間から兵が徴集されていることは明らかだ。

 彼女の息子は成人している。

 兵として徴集された人間は、親族との交流をいっさい絶たねばならない。そうした決まりのなかで、軍の目を盗み、母親にリップクリームなどという高価なものを郵送するだろうか? そんなことが可能であるものか?

 ただ、母親であったから。

「卑怯者、なんてひどい……こんな仕打ち……」

 母親が、息子の名がついたものを拒めるであろうか。彼女のまぶたにいる息子は、まだ手を引かれていくほどに幼い。その子が、立派な大人になって、自分に高価なものを贈ってくれた……その夢を、拒めたであろうか。

 クレメンスの体は、まだあたたかい。


 端切れは持ち去られた。

 クレメンスはもはや口をきくこともないであろう。

「そして、成果も得られた。上々ではないか」

 クロヤは上機嫌にステップを踏み、ワルツを一曲踊った。

 もう間もなく、自分の労力が、積み重ねてきた努力が報われる。すばらしい結果が花開こうとしている。

「この上なく美しく、完璧な花だ。その開花を邪魔するものであれば、庭中の花も、屋敷中の雑草どもも、根こそぎだ! 根絶やしだ!」

 七月の豪雨にまぎれて、島にはある荷が届けられた。それは水夫が三人がかりで屋敷の裏手に運び、滑車をつかって地下室におろされた。荷に巻きつけられた布をすべてはぎとると、それは全貌をあらわにする。

「へええ、こんなでかいガラス瓶を、何に使うんです?」

「おい、詮索するな。失礼しました、旦那」

 ガラス瓶の前に佇み、満足そうに頷くクロヤを残して、水夫たちはそそくさと船に戻った。若手の二人を急かした年長の水夫は、船を漕ぎ出したところでようやく息を吐く。

「ここの連中と、とくにあの男とは深く関わりあうな。命の保証がない」

 フラジール卿の島には、彼の死後につけられた異名が存在する。

「『生ける思い出の島』……連中の古風な暮らしぶりを見たか? 奴らは進化しない。ずっと同じ時代を、同じ時間を過ごしているんだ。この島の連中に未来はねえのさ」

 過去の栄光に浸り、いついつまでも美しい夢のなか、囲いに守られて暮らしている。そのうちに、彼らは「時とともに生きる」ことをやめてしまった。

「ただ」

 年長の水夫は、もう一度だけ島を振り返り、眉間にしわを寄せて言った。

「あの執事だけは違う。奴は自分で時を動かしている……だがそれは、進んでいるんじゃない。

 あの男の何が危険だって、あいつは、絶対的な滅びへと突き進んでいるんだ。巻き込まれでもしたら、それこそ命の保証はねえ」

 孤島。

 外界とのつながりのない切り離された世界であったからこそ、あの男に眠っていた種が芽吹いてしまったのだ。その種は、外の世界では根を張ることがなかったであろう、忌まわしい花の種だ。それが夢の島の風土に、夢見る住民の気質に守られ、育てられ、ついに芽吹いてしまった。

 末恐ろしい花が咲き誇るまでは、時間の問題であろう。



 翌朝、花瓶の水を取り替えに行ったルーシーは、冷たくなったクレメンスを見つけた。彼女の手には花瓶の花が握られ、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。

 言葉も出なかった。

 その頬はロウ人形のように白く、透き通り、今となっては独特の美しささえ漂わせている。あたかも、生きていた人間ではなく、はじめから人形であったかのように。

「……さようなら、クレメンス」

 ルーシーはこのとき、世界中でひとりぼっちになった。

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