生贄のための供物
【生贄のための供物】
黒い雨が降りそそぐ。
本国の情勢を知る術はもはや無い。ただ、昼も夜もなく、明るい炎が水平線を浮かび上がらせていた。
ぶ厚い雲が空を包み、島には暗い影が落ちた。ひと筋の糸のように美しかった雨も、矢じりにその姿を変え、車軸を流すような勢いで降り続ける。
「花がだめになってしまう……」
結露した窓ガラスを拭きながら、ルーシーはぽつりとこぼした。
この島で唯一の救い、彼女の心を安らかにするもの。庭一面に咲き誇る、とりどりの花、花、花。あの花びらの一枚いちまいを、香りの一つひとつを愛でるだけで、どんなにか気持ちが楽になるであろうか。
その花も、真っ黒な雨に穿たれ、汚され、地べたに倒れこんでいた。
マリアナの容態はますます悪化した。
最初は、貧血だの、体がむくむだの、これまでにも経験のある症状だった。それが日増しに、けいれんや頭痛を伴うようになって、マリアナはすっかり塞ぎこんでしまった。
それからというもの、厨房から出て行く料理といえば白がゆ一品。洗濯に出されるのはシーツとパジャマ。
ルーシーが差し入れようとした香水も、においに吐き気がするというから、処分するしかなかった。
今では庭にも出ず、一日中ベッドの上でぼうっとしているだけで、まるで人形のように精気のない顔をしている。
実は、マリアナと似たような症状に陥っている人物が、もう一人いた。
それはクロヤではない。ああ、クロヤであったなら、どんなにか良かっただろう。ルーシーはそんなことまで考えるようになっていた。
「お加減はどう、クレメンス?」
クレメンスは眉ひとつ動かさなかった。
下女の大部屋の片隅、日当たりの良い場所に、クレメンスのベッドが移された。竹ざおの天蓋にカーテンまでつけられて、まるでどこかの貴婦人の寝所だが、なにもクレメンスを気づかってのことではなかった。悲しいことに、彼女のまるでロウ人形のような顔を見たくないと、他の女中たちがつくったしきいに過ぎないのだ。
元が活発な女性であったからか、クレメンスの変貌ぶりは、マリアナよりもひどいように感じられた。
「昨日、お庭に出て摘んできたの。大丈夫よ、怒られたりしないわ……」
カスミ草とレンゲ、ケイトウ。春の気候を保つ庭では、様々な花が咲き乱れる。ルーシーは花瓶を窓枠に立てて、クレメンスのうつろな目に話しかけた。
「ねえ、クレメンス、あなたに何があったっていうの……?」
かつり、という音がした。
クレメンスの鞄から何か落ちたようだった。ルーシーは椅子からおりて身をかがめ、ベッドの下に手を伸ばす。筒状の何かが転がっているのが見えた。
「ほらっ 取れたわ……これ、口紅?」
ルーシーの手に握られていたのは、美しい装飾の刻まれた銀色の筒だった。クレメンスの目の前で開けてみせると、わずかに、彼女の目が見開かれる。
筒の中身は口紅ではなかった。白くて油脂を固めたようなもの、リップクリームのように見える。指先にすくってみると、油より粘り気がつよかった。鼻先に近づけてみても、何のにおいもない。
「何かしら……白くて、においはあまりしない……まるで」
言いかけて、ルーシーは反射的に口をつぐんだ。
背中に感じるこの冷たさ、この気配。久しく味わわなかった、おぞましい気配。忘れもしない気配だ。
「塗っておあげなさい、ルーシー」
ただ名前を呼ぶその声が、きりきりと魂を絞めつける。ルーシーは振り返ることもできず、銀色の筒を持ったまま、華奢な肩を震わせていた。
「ルーシー、このままでは彼女の口が渇いてしまって、かわいそうですよ。それとも、私が代わりに?」
「いいえ」
ルーシーはすばやく答えた。
「いいえ、私が塗ってあげますわ……クロヤさん」
何かとてつもなく嫌な予感がするのに、ルーシーは従うことしかできなかった。恐るおそる、クレメンスの唇に筒の中身をあて、上下に塗りつける。
「クレメンス……」
すると、クレメンスは口元を歪ませるように、目を細めるようにして、うっすらと笑顔を見せた。
「嬉しいのでしょうね」
叩きつけるような雨の音と、クロヤの声とが混じりあい、ルーシーの小さな耳に突き刺さってくる。
「そのリップクリームは本国の息子さんから贈られてきたもので、受け取って以来、彼女は毎日かかさずに使っていたのですよ」
「毎日。でも、はじめて見ましたわ」
ルーシーは自分の胸のあたりを強く握った。鼓動がやけにうるさい。
「ええ、奥さまのお誕生会の、翌日に届きましたよ。私が直接、彼女に渡しましたからね、間違いはありません」
かたり、という音がした。硬直したルーシーの手から放れたリップクリームは、古い木板の床に落ち、根元から欠けて転がっていく。
クロヤは銀色の筒を拾いあげると、クレメンスの荷物の中から適当な端切れを出して、それに筒とリップクリームとを包み、部屋を出て行った。
ルーシーは泣き崩れ、物言わないクレメンスにすがりついた。
「ごめんなさい、おお、ごめんなさいクレメンス」
クレメンスが不調を訴えだしたのは、ちょうどその頃からだ。なぜ気づいてあげられなかったのだろう。
リップクリームが彼女の手に渡ったとすれば、ルーシーがほんの少しのあいだ、ちりとりを取って来るといってそばを離れた。あの一時だ。それ以外は、常に一緒にいたのだから。
まるで、血の繋がった母子のように、信頼しあっていたのに。
クレメンスはリップクリームのことなど、いっさい口に出さなかった。ルーシーがクロヤを訝しんでいることを知っていたから、クロヤから受け取ったことを話せずにいたのだろうか。
自分だってクロヤのことは怪しいと言っていたのに、息子の名前を出されて、つい油断してしまったのだろうか。
息子であるはずがないのに。
「かわいそうなクレメンス」
本国は戦争状態、それもかなりの劣勢であるはずだ。となれば、以前のように民間から兵が徴集されていることは明らかだ。
彼女の息子は成人している。
兵として徴集された人間は、親族との交流をいっさい絶たねばならない。そうした決まりのなかで、軍の目を盗み、母親にリップクリームなどという高価なものを郵送するだろうか? そんなことが可能であるものか?
ただ、母親であったから。
「卑怯者、なんてひどい……こんな仕打ち……」
母親が、息子の名がついたものを拒めるであろうか。彼女のまぶたにいる息子は、まだ手を引かれていくほどに幼い。その子が、立派な大人になって、自分に高価なものを贈ってくれた……その夢を、拒めたであろうか。
クレメンスの体は、まだあたたかい。
端切れは持ち去られた。
クレメンスはもはや口をきくこともないであろう。
「そして、成果も得られた。上々ではないか」
クロヤは上機嫌にステップを踏み、ワルツを一曲踊った。
もう間もなく、自分の労力が、積み重ねてきた努力が報われる。すばらしい結果が花開こうとしている。
「この上なく美しく、完璧な花だ。その開花を邪魔するものであれば、庭中の花も、屋敷中の雑草どもも、根こそぎだ! 根絶やしだ!」
七月の豪雨にまぎれて、島にはある荷が届けられた。それは水夫が三人がかりで屋敷の裏手に運び、滑車をつかって地下室におろされた。荷に巻きつけられた布をすべてはぎとると、それは全貌をあらわにする。
「へええ、こんなでかいガラス瓶を、何に使うんです?」
「おい、詮索するな。失礼しました、旦那」
ガラス瓶の前に佇み、満足そうに頷くクロヤを残して、水夫たちはそそくさと船に戻った。若手の二人を急かした年長の水夫は、船を漕ぎ出したところでようやく息を吐く。
「ここの連中と、とくにあの男とは深く関わりあうな。命の保証がない」
フラジール卿の島には、彼の死後につけられた異名が存在する。
「『生ける思い出の島』……連中の古風な暮らしぶりを見たか? 奴らは進化しない。ずっと同じ時代を、同じ時間を過ごしているんだ。この島の連中に未来はねえのさ」
過去の栄光に浸り、いついつまでも美しい夢のなか、囲いに守られて暮らしている。そのうちに、彼らは「時とともに生きる」ことをやめてしまった。
「ただ」
年長の水夫は、もう一度だけ島を振り返り、眉間にしわを寄せて言った。
「あの執事だけは違う。奴は自分で時を動かしている……だがそれは、進んでいるんじゃない。
あの男の何が危険だって、あいつは、絶対的な滅びへと突き進んでいるんだ。巻き込まれでもしたら、それこそ命の保証はねえ」
孤島。
外界とのつながりのない切り離された世界であったからこそ、あの男に眠っていた種が芽吹いてしまったのだ。その種は、外の世界では根を張ることがなかったであろう、忌まわしい花の種だ。それが夢の島の風土に、夢見る住民の気質に守られ、育てられ、ついに芽吹いてしまった。
末恐ろしい花が咲き誇るまでは、時間の問題であろう。
翌朝、花瓶の水を取り替えに行ったルーシーは、冷たくなったクレメンスを見つけた。彼女の手には花瓶の花が握られ、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
言葉も出なかった。
その頬はロウ人形のように白く、透き通り、今となっては独特の美しささえ漂わせている。あたかも、生きていた人間ではなく、はじめから人形であったかのように。
「……さようなら、クレメンス」
ルーシーはこのとき、世界中でひとりぼっちになった。