パセリ、セージ、ローズマリー、タイム
【パセリ、セージ、ローズマリー、タイム】
晴ればれとした春の空の下でも、本国はかすんでおぼろげな影となっていた。戦争の血煙がすべてを覆いつくし、歴史と伝統を重んじる欧州きっての理知的な国を、野蛮な炎が蹂躙しつづける。
「焼きだされて死にたくはないわ。こんなところへ爆撃でもあったら、逃げ場がないじゃない……」
ルーシーが厨房の端で香水を煮ているところへ、食器を下膳してきた上級女中が立ち寄り、ぽつりとこぼした。
この島は1エイカー弱の入り江を除き、海と接しているのはえぐれたような断崖絶壁。入り江は本国側に開かれているため、そこを押さえられると逃げ場はない。
女中は壷鍋の中を覗き込み、ため息をひとつ。
「私たちはまるで、この鍋の中の香草よ。刈り取られ、戦争の火にくべられて煮え立つ海のなか、すっかり何もかも搾り取られていくんだわ……これ、いい香りね」
「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム……今年の香草もいい出来です」
ルーシーは彼女の目の下に暗い影を見た。えもいわれぬ恐怖、焦燥感、そういったものに削ぎとられていく美貌に落ちた影。
「お疲れのようですね」
「ええ、あなたもね。奥さまにはもったいないほどの香りだこと」
彼女は薫り立つ湯煙をひとあおぎすると、ツンとすました佇まいを取り戻し、何事もなかったかのように厨房を出て行った。
上級女中が下働きのルーシーと親しげに言葉を交わすことなど、これまではなかった。
環境が変わったのだ。それは積み上げてきた年月か、終わりの見えない戦争か、それとも別の何かがもたらした変化なのだろうか。
湯には浅緑の色が移る。萎びて茶色くなった香草を掬い上げ、ルーシーは壷鍋をかかえて流し台へ向かった。木綿をかぶせた木桶の中に湯を通し、こされた草のかすを木綿ごと流し台の下へ放る。木桶から銀のろうとに湯を流しこみ、小さな硝子瓶で五つ、香水を仕上げた。
瓶の口に金具をはめ込みながら、ふと、ルーシーは思い出す。蝶を蜜づめにした硝子瓶に、コルクの栓をはめた時のことを。
背中にぞくりと悪寒がはしり、あやうく香水瓶のひとつを台無しにするところだった。ルーシーは頭を振ると、気を取り直して香水作りを続けた。
調理場の保存庫で一晩寝かせておいた香水瓶と、作りたての香水瓶とを入れ替える。冷ましおえたほうの瓶をひとつ取り、自分の手首に一振りして香りを確かめる。ルーシーは満足そうに頷いて、五つの小瓶をアンティークの木箱のなかへ、ていねいに並べた。
いかに優秀で、甘美で、美しい香水であっても、マリアナの愛は得られない。彼女が愛するのはこの香水ただひとつ。この香り、ただひとつ。
「……パセリは、あなたの薬になりましょう」
ルーシーは、この特製の香水にまつわる詩を口ずさむ。
「セージは耐え忍ぶあなたの支えとなりましょう。ローズマリーは愛と貞節、そしてあなたとの忘れがたき思い出を語るでしょう……」
「私はあなたのタイム、溢れる勇気と誠実をあなたに捧げ、あなたの盾に模られるタイムとなりましょう」
もし、ルーシーが木箱をテーブルの上に置いていなかったなら、手間隙かけた香水が土間の上に撒き散らされていたことだろう。
詩の続きを朗々とうたいあげる、低くなめらかで上品な声。しかし、ルーシーにとってはもはや最も恐ろしく、汚らわしく、耳障りな声でしかない。
「いつ聞いてもすばらしい詩だ。いずれは、庭のどこかに石碑を建てなければ……ルーシー? 奥さまが心待ちにしておられる」
「はい、すぐにお持ちいたします」
声は震えていなかった。しかし、ルーシーの足は、背中は、指先は、編みこんだ髪の毛先、その一本に至るまでがわなないていた。
自分の名を呼ぶその声は、ひどくおぞましいものだった。気のせいではない。あからさまな悪意、それも敵意を、クロヤは隠すでもなくほとばしらせている。
証拠に、初めて名前を呼ばれた。まるで、心臓に死神の鎌がかけられたかのような気分だった。
ルーシーが仕上げた香水は、お決まりの木箱におさめられ、上級女中にたくされた。
女中は箱の中からひとつ、無造作に瓶をえらび、自分の手首に香水を吹きつけた。儀礼的なものだが、ここで出来の良し悪しが判断される。
「やっぱりあなたの作る香水がいちばん良い出来ね。ありがとう、奥さまも喜ばれるでしょう」
「もったいないことです」
ルーシーはつとめて上品に、深々と腰をおった。
最初にこの香水を贈ったのは、マリアナのすばらしい夫、フラジール卿であった。彼は流行歌の詩になぞらえ、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムを島で育てさせた。そればかりでなく、四つの香草をつかって香水をつくることを提案し、当時の女中が配合表をしあげて、ひとつの伝統が生まれた。
毎年、マリアナ夫人の誕生日には、四つの香草をつかった香水を贈ること。
瓶ひとつで約一月半。木箱の中の五つが終わる頃には、作り置いた五つを補充する。実質、マリアナは一年をとおしてこの香水をつけている。
一日中、一年中、一生。マリアナからは、フラジール卿の贈った香水がかおりつづける。
木箱を掲げて階段をのぼる女中のかたわらに、クロヤの影はない。彼は今頃、自分に与えられた書斎に引きこもっていることだろう。
クロヤはこの特製香水のにおいが苦手であるようだった。
「清々するわ。許されることなら、私もこの香りを身につけていたいわね」
女中のあいだでは、別名「クロヤ除け」の香水と呼ばれている。
華やかなバースデーケーキ、キャンドルに灯されたオレンジの火。シャンデリアも磨き上げられ、屋敷じゅうがマリアナの誕生日を祝っている。
その中に、クロヤの姿はない。
クロヤは自室にこもり、窓を開け放って夜風にあたっていた。
「……相変わらずひどいにおいだ。吐き気がする」
誰が、あの香りを良しというであろうか。
愛しいいとしい貴女にまとわりつく、天にものぼらず地にも落ちない亡霊のにおい。いつまでもいつまでも、貴女を独り占めにしようとする浅ましさ。
「お気づきください、奥さま、それは呪詛……自由であるあなたを縛りつける茨の鎖……その美しい羽が傷つけられるまえに、早く……」
あのいまわしい香水の放つにおいを、洗い流してさしあげなくては。
豪勢な誕生パーティとはいえ、招く客人もなければ、後片付けも数人で済むていどの規模になった。
ルーシーとクレメンスは二人がかりで巨大なクロスを運び、ナプキンを洗濯桶に放りこみ、燃え残りのキャンドルを片づけていた。
戦争の影響が多少なりとあるのか、不気味な執事に恐れをなしたか。屋敷からは使用人の姿が減りつつあった。暖炉の薪を調達するという、普段なら下男がやるような仕事も、ルーシーとクレメンスが担わなければならなかった。
「やれやれ、仕事がありすぎるっていうのも考えものだね」
クレメンスはエプロンで汗をぬぐいながらこぼした。
「いつか、あたしたちで料理をつくって、奥さまのお着替えを手伝って、お風呂のしたくだってするようになるよ、きっと」
「まあ、それまでずっとここにいるつもりなの?」
クレメンスとルーシーとは、顔をみあわせて苦笑した。
ふたりとも、とうに帰る場所も行く場所も失っている。自分自身が滅びるときまで、この屋敷と運命をともにするしかないのだ。
「奥さま、どうかなさったのかしら」
「そうね」
そこへ、マリアナが昨晩着ていた生成りのドレスをかかえた上級女中がふたり、お喋りをしながら通りすがった。
「以前にもまして食が細くなったわ。腕なんて、サルスベリの枝みたいで」
「お庭にも出ないで、一日中ベッドのうえで物思いにふけってるのよ。あれじゃあまだ、なんでもないお喋りをしていた頃のほうがよかったわ」
マリアナの容態が思わしくないのは、屋敷に居る者なら誰もが承知していた。
女中たちと生成りのドレスとが遠ざかっていくと、クレメンスがほうとため息をついた。ルーシーは片づけの手を止めた。
「やっぱり、旦那さまが亡くなったのがこたえたんだよ。誕生日の香水だって、あのドレスだって、旦那さまのことを思い出すばっかりでさ……」
クレメンスはこの屋敷に来る前、「以前の戦争」で夫を亡くしている。民間兵士として徴集されていった彼女の夫は、戦地に向かう途中、爆撃機によって命を絶たれた。残された彼女は一人息子を育てるため、この屋敷の下働きとなり、毎月本国へ仕送りをしている。
ふたりには共通点がある。ルーシーの父が死んだのも、「以前の戦争」に関わったからだった。
そしていま、マリアナとも共通点が生まれようとしている。
「大事なひとを亡くすっていうのは、そういうことなのさ」
戦争はすべてを奪い、壊し、蹂躙しつくしていく。クレメンスの顔には濃い影が落ちていた。
しかし。
「……ほんとうに」
この続きは言葉を飲みこみ、ルーシーはちりとりを取ってくるといって、しばしクレメンスと別れた。
「ほんとうに、そんなことかしら」
こう言えば、クレメンスの気持ちを踏みにじることになるだろう。だが、戦争よりもずっと問題であり、ずっと異常である存在がここにはいる。
ルーシーは誰よりも賢く、誰よりも臆病であった。
(いつか、いつかクロヤさんは、奥さまを殺してしまうに違いない!)
漠然とした不安というには、あまりにもはっきりとした悪寒が走る。
「ああ、どうか恐いことが起こりませんように!」