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愛しのマリアナ  作者: 天秤屋
5/11

【嵐】


 その日は風がとくに強く吹き、島のどこからでも花吹雪を見ることができた。一斉に舞い飛ぶ花びらは、それぞれが一匹の蝶に見えた。色とりどりの、花弁の蝶が乱舞する。

 春の嵐が玻璃を揺らし、騒々しい音を奏でる中、それは起こった。

 いつものように脱衣所へ行き、クレメンスはシーツでいっぱいになった洗濯籠を抱えて一息つく。

 ふと窓の外を見やれば、木々が風にうねり踊っていた。

 こんな日では奥さまもますます気が滅入ることだろう、と彼女は首を振る。

 ただでさえ篭りがちだったマリアナ夫人は、この頃、中庭の散歩すら億劫がるようになった。それがこの嵐では、ベッドからも出ないに違いない。音がうるさいとか、部屋が寒いとか言って、昔からマリアナはそうだった。嵐の日が大嫌いだったのだ。

 案の定、部屋ではマリアナが愚痴をこぼしていた。

「ああ、なんていう風なのかしら! せっかくの花がすべて散ってしまう」

 マリアナは羽毛の蒲団に包まり、食事を運んできた女中をつかまえて、延々とおしゃべりに耽った。話の内容はじつにくだらない、どうでもよいことばかりで、会話として成り立たなかった。

「今年は、新作のドレスは見られそうもないわね」

 深いため息をつき、マリアナは木のさじを取る。

 女中は頷きうなずき、少しずつスープを口に運ぶマリアナをじっと見守っていた。

 やがて、女中は主人の寝室を出た。器をさげる途中、ずっと廊下で待っていたクロヤに一礼する。

 クロヤは空になったスープ皿を覗きこみ、満足そうに頷いた。

「気味が悪いわ」

 その女中が、たまたま居合わせたルーシーにそうこぼした。

「奥さまがお食事を平らげてくだすったら良いのだけど、時たま残されたりすると、それはもうしつこいのよ。ちゃんと勧めたのか、とか、味はどうだ、とか……奥さまの好みなんてその日で変わるんですもの」

 ただ心配のあまり、主人の健康を案ずるあまり、度が過ぎた行動に出てしまうのだ。女中はそういった意味あいで、「気味が悪い」と言ったに過ぎない。

 だが、ルーシーは違った。

 彼女の頭はその数歩先のことを案じていた。

「まるでお医者様よね、何を食べて、何を食べなかったかをしつこく尋ねるなんて。それか、初めて飼った動物をかわいがる子どもみたいだわ」

 嫌気がさして、女中は愚痴った。

 その言葉が、ルーシーの不安を的確に言い表していた。


「この風じゃあ、今日は物干しをしまっておいたほうがいいねえ」

 まだ水にもつけていない洗濯物を持ち歩きながら、クレメンスはため息をついた。このだだっ広いお屋敷で洗濯物を溜め込むと、あとがこわい。

 厨房から続く洗い場の戸口に凭れて、クレメンスはしばし、ぼんやりと嵐の様子をながめていた。

 と、その視野へ飛び込んだ異様な光景。

「おや……噂の執事どのじゃないか。こんな日に何をやってるんだろうね……」

 容赦ない風の吹きすさぶ中を、クロヤがただひとり、きっちりとした燕尾服をはためかせながら歩いていく。

 クレメンスは眉根を寄せて、シーツをぐいと抱き寄せ、訝しい彼の動向を見守った。

 彼の姿は庭からも遠く、低い生垣の向こう、雑木林の中にあった。細い木々の間を、クロヤの横顔が点滅するように滑っていく。やがて、彼の姿は林の中へのみこまれてしまった。

 あんなに奥深くに分け入って、何をしようというのだろう。

 クレメンスはルーシーの味方をするつもりで、悪事を暴く正義のつもりで、自分の強すぎる好奇心に敗北した。

「さあ、尻尾を出したらつかんでやらないと……」

 シーツを洗濯籠に戻し、彼女は杉の開き戸を押し開けた。物干し台から庭へ降りて、垣根の途切れたところから林のほうに踏み出す。

 いそいそとクロヤの後を追って出ていくクレメンスを咎める者はない。引き止める者もなかった。

 小山を切り開いた雑木林では、ひょろひょろとした若木の群れの奥に、クヌギやコナラ、ケヤキといった立派な樹木が乱立している。ちょうどヤマザクラの巨木を過ぎたあたりからだ。以前の島の持ち主、またはそれ以前の代で植えられた木々は、空を覆いつくすほど枝葉を伸ばしている。

 クレメンスはエゴノキに寄りかかって休憩し、シラカシの根につまづきながら、途方もなく続くように思われる林の中を歩き通した。

 一応は人の入る場所だから、林道らしきものが続いている。クロヤの姿は見失っていたが、おそらく彼もこの道の先にいるはずだった。

 途中、クレメンスは鳥の羽ばたく音を追って、なんとなく左へ首を動かした。とたんに、彼女ははっと息を呑む。ハリギリの棘の先に、雑木林には似つかわしくないベルベットの端切れが残っていた。

 クレメンスは道を外れ、慎重にハリギリの棘からベルベットの断片をとった。確かに、これはクロヤの燕尾服の一部であった。

 その端切れを手にしてからというもの、クレメンスには、いやに林の中が騒々しく、不気味な雰囲気をまとったかのように感じられた。鳥たちのさえずりは魔物の咆哮に聞こえ、風はますます強くなったように思えた。

 葉がこすれる音でさえ、彼女にこう告げているかのようだ。

「さあ、今すぐ帰るのだ!」

 しかし、クレメンスはその場からじっと動かない。

「引き返さなければ、お前の身の保障はどこにもない!」

 枝と枝とがぶつかり合う音がそう脅しても、クレメンスは動かなかった。

 きっとクロヤの目的をつきとめ、悪事を暴き、企てを台無しにしてやらなければ。彼女の頭には、それ以外のことなどひとつも浮かんでいなかった。

 退屈な日常は、時として人を愚かにもする。願ってもない非日常が訪れようとするとき、その吉凶に関わらず、人は自身が騒動の渦中へ誘われることを望んでいる。また、自らそこへ飛び込むことも厭わないものだ。


 林道をだいぶ外れ、日の光も届かないような深部まで手探りで分け入ったところで、クレメンスはようやくクロヤを見つけた。

 彼はすべらかな巨木の表皮を撫でていた。その嬉しそうな顔といったら、身震いするほど不気味なものであった。

 クロヤはおもむろにナイフを取り出すと、表皮を削りはじめた。

 クレメンスは息を殺し、藪の影の中でクロヤを見張った。

 白灰色の表皮が削りとられると、巨木からは真っ白な樹液が滲み出た。クロヤはその樹液をナイフでこそげ取ると、ハンカチに包み、意気揚々と林道のほうへ歩いていった。

 彼の足音が遠のいてから、クレメンスは藪から這い出し、傷つけられた巨木へ近づいた。樹液は粘性が高いらしく、滲み出した格好のまま固まっていた。恐るおそる触れてみると、指先に半透明の粉のようなものがついた。

 まさか、毒ではあるまい。

 クレメンスは適当な落ち葉で指先を拭うと、急ぎ、林道へと引き返した。

 このことを、ルーシーに伝えてやらなければ。


 何ができるのか? 何をするべきだったのか?

「無粋だな。招かれざる者が愚かしい好奇心で、この場所を汚す前に……」

 老桜の苔むした幹に凭れ、クロヤは白い手袋をきつく嵌めなおした。細い銀縁の眼鏡の奥で、緑の瞳が獣のように光る。

 静かで陰湿な怒りが、彼の影から森中に伝わっていく。

「呪いあれ! 呪いあれ!」

 木々のざわめきは一斉にクレメンスを咎めた。

「やれやれ、それにしてもうるさい風だね。西の開き戸にはしんがりをかっておかなくっちゃ……またバタンバタンとやかましく踊り狂うに違いないよ」

 しかし、彼女の耳には投げかけられる呪詛の声が届かない。

 何も知らず、何も感じず、ひたすらに正直な良心とおせっかいな性分とに従って、クレメンスはそそくさと屋敷へ引き返していく。

 ちょっと人目を気にするような素振りをしてから、物干し台に上がって、くたびれたエプロンをはたく。葉やら小枝やらを落とすと、クレメンスは再び杉の開き戸を押し開けた。彼女のふくよかなシルエットが屋内の暗がりのなかへ消えたあと、しんがりをかう物音だけが残った。

 クレメンスがいま少し賢ければ、途端に木々のざわめきの意味を理解し、いたずらにクロヤの跡をつけたりなどしなかったであろう。自分にできることなど何ひとつないと、きっと理解したであろう。

 そればかりが悔やまれる。

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