蜜葬
【蜜葬】
中庭にたたずみ、池の中を泳ぐコイや、枝にとまったイソヒヨドリのつがいを眺めながら、マリアナは何事か思案しているようだった。
そこへ駆けつけたルーシーだったが、いざマリアナを目の前にすると、近寄ることすら憚られた。一介の下働きの女中で、エプロンも三角巾もシミだらけの、薄汚れた格好の自分が、果たしてそばに寄ってよいものだろうか。まして、声などかけてよいものだろうか。
逡巡しているあいだに、マリアナは上級の女中たちに連れられ、屋敷のなかへ戻っていってしまった。
途方にくれたルーシーは、俯き、視線をどこへともなく走らせるうちに、アザミの陰に蝶の死骸を見つけた。
かつては美しかったであろう空色の羽は、穴だらけになり、それでもきっちりと閉じられていた。命が宿っていないだけで、斑紋はみすぼらしい模様に見える。小さな目はどこに向けられて、何を見ながら眠りについたのか。
ルーシーは、小指の先ほどの蝶を丁寧に掬いあげると、きょろきょろと辺りを見回した。煤けた赤い靴を履いた足が、花壇のほうへと向かう。そこでフデリンドウの花を一房とり、丁寧に蝶を花の中へ滑り込ませると、ルーシーは立ち上がろうとした。
「何をしているのですか」
目の前に影が伸びる。花たちの色がかげり、背中に感じていた陽光のぬくもりがさえぎられた。
ルーシーは、すぐに答えることができなかった。
「死んだ蝶を、どうするのです?」
決して咎めるような口調ではなかった。心地よいテノールは、世間話でもするかのような軽い調子で、ルーシーの背中に注がれる。
「……『蜜葬』に、するんです」
まるで自分の意思とは関係なく、言葉が口をついて出た。
「『蜜葬』?」
声の主は、興味深そうに聞き返してきた。
影がゆらりと動き、今度はルーシーの右隣に落ちた。
かがみこんだクロヤが、ルーシーと同じ目の高さで、彼女の手のなかにある花の一房をじっと見つめている。
ルーシーは、なぜ自分が『蜜葬』という言葉を口走ったのか、わからなかった。それでも、震えていることを気取られないよう、精一杯、気丈に答えた。
「いえ、この蝶はこのまま、花といっしょに土へ埋めます。『蜜葬』というのは、私の田舎でおこなわれる儀式のことで……」
膝に力をいれて、ルーシーは立ち上がった。そのまま、向きを変えて歩き去ろうとしたのだが、なぜか、足が動かなかった。
「『蜜葬』というのは、どういうものか……気になりますね。もしよければ、見せていただけませんか」
クロヤの顔には、純粋な好奇心しか見て取れない。
ルーシーは一呼吸おいて、静かに頷いた。
ライラックの咲き誇る庭の片隅で、奇妙な取り合わせの二人組みが、子どものように虫取りにいそしんでいた。
ルーシーは、実に蝶をとるのがうまかった。彼女はモンシロチョウを捕まえると、すかさず小瓶に入れ、栓をした。コルク栓には、チョウが飛び出さない程度の穴が空けられている。
「春になると、満月の日を選んで、太陽のあるうちに蝶を捕まえます。生きたまま小瓶に入れて、ここに蜜を流し込むんです」
「ほう?」
クロヤは、ルーシーの手に包まれた小瓶に顔を近づけた。ガラスの瓶のなかで、蝶が落ちつきなく羽ばたいている。もろく薄い羽は鱗粉を撒き散らし、いまにも引き裂けてしまいそうだった。
ルーシーは厨房に行き、はちみつを少しわけてもらうと、再び中庭のクロヤのもとへ戻ってきた。
彼の、深い緑をたたえた瞳が見守るなか、小瓶の穴から蜜が注がれていく。べっとりとした蜜に、蝶ははじめ、すがりつくようにして細長い口を伸ばしていた。だが、止まることのない蜜の滝に怯えるように、再びせわしなく羽ばたきはじめた。
抵抗むなしく、蝶は蜜に絡めとられ、コルクに貼りつくようにして浮き上がった。ルーシーはコルクの穴を塞いで瓶を逆さまにする。動かなくなった蝶の体が、ゆっくりと蜜のなかを移動し、底へと浮き上がっていった。
ルーシーは瓶の上下を戻して、穴の空いていないコルクを付け替えると、瓶を慎重に横向きにした。
「昔は、三日も蜜につけこんでおいたとも言います。あとは今晩、蜜と一緒に蝶を、さっきのフデリンドウのように袋になった花へ入れて、土に埋めます。月の光をあてながら埋めることで、儀式は完成です」
「これには、どういった意味が?」
蜜漬けになって窒息した蝶の死骸を、気味悪がる風でもなく、クロヤはしげしげと瓶のなかを眺めながら尋ねた。
「……蝶が、すべての罪をゆるされ、再び清らかな魂の精霊へ浄化される……そのための、とても神聖な儀式だと」
ほう! とクロヤが感嘆したので、ルーシーは飛び上がり、あやうく小瓶を取り落としそうになった。
「なかなかに神秘的で、詩的で、幻想的な儀式ですね。ただ、物語のうえならよろしい……現実に行われれば、ただの殺生でしょう」
なんともまともなことを言われた、とルーシーは思って、急に自分のしたことが恥ずかしくなった。
「……この儀式は、別に何かをもたらす、というものではないんです。ただ、蝶が浄化され、精霊として昇華されるためのもので……」
「誰が、なんのために始めたのかはわからない、と?」
ルーシーは力なく頷いた。
「なるほど。最初にこの儀式を始めた人間は……」
クロヤは得心して頷きながら、ルーシーに背を向けた。
「よほど、その蝶のことを愛していたのでしょうね」