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愛しのマリアナ  作者: 天秤屋
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画策、祭壇の準備

【画策、祭壇の準備】


 国から改めて殉死の表彰状と名誉勲章とが送付され、形式ばかりの葬儀を終えると、クロヤは与えられた書斎に閉じこもった。

 引きっぱなしの椅子にどかりと腰を下ろし、整った黒髪を掻きあげて乱す様は、とても由緒正しい大家に仕える者の姿とは思えない。普段の、完璧なまでに昇華された執事としての気品はそこなわれている。やくざ者のように長い足を組み、彼は眼鏡の奥で緑の目を細めた。

 投げ出された足の隣、マホガニーの机の上には、手紙が山積みにしてあった。そのうちの一枚をつまみ上げ、クロヤは口の端を吊り上げる。

 マリアナとのやりとりを、彼は脳裏で反芻した。

「全部、燃してちょうだい。不愉快だわ」

「はい、奥方さま。仰せのとおりに」

 しかし、この不快な紙束は火刑をまぬがれ、こうして机の上に散らばっている。手紙の中身はどれも似通ったものだ。

 クロヤはすべての手紙に目を通してから、羊皮紙に一通々への返答をしたためた。

「このハイエナどもめ。ハゲタカども……屍臭に群がり、骨まで砕いて食い尽くす……」

 呟きながら、クロヤは流麗な文字を羊皮紙に記していく。美しく丁寧な言葉を選び、しかし、きっぱりと意思を表明する。彼はすべての手紙に対し、丁重な断りの返事をしたためて、封蝋にフラジール家の印を捺した。

 そして、封を開けたすべての手紙を、丁寧に麻紐でくくり、机の引き出しにしまった。

 差出人は、聞いたこともないような遠縁を名乗る者、浅からぬ縁をこじつけた者、その他諸々の、金に目がくらんだ下衆たち。後見人を名乗り出たり、おこぼれに預かろうとする者たち。

 偉大なるフラジール氏の死にたかるハエども。

 中には、本当に遺産を相続する権利のある人物の手紙や、生前に貸した金を返してほしいという正当な督促状などもあった。

 だが、そもそも真偽が問題なのではない。

 フラジール氏が築き上げた財産のすべて、島の小石に至るまで、それを奪い取ろうとする者があるのならば、全力で排除する。

 この楽園を侵すことは、何人たりとも許さない。

 実際に、マリアナはその権利を主張することができる。クロヤは持てるすべての知識と人脈とを用いて、どれだけ非道な手を使おうとも、フラジール氏の遺した「すべて」をマリアナに与えようとしていた。

 この島が、いずれマリアナにとってもなくてはならないものになると、彼は確信していた。予見していた。

 彼は知っていた。

「この島は、永劫マリアナただ一人のものになる……」

 一枚の書類にサインをしながら、クロヤは笑みを浮かべた。穏やかな、聖人のごとく柔和な笑みだった。


 未だに戦争は続いている。

 おかげで、断りの手紙を受け取った者たちが、抗議するため直接島へ乗り込んでくる、という事態も避けられていた。

 この小さな島は、戦火の非情な蹂躙を被ることはなかったが、ちょうど深い海溝をはさんだ反対側、本国の海では、毎日血が流れていると聞く。

 断りの手紙を携えた船が出港してから、二日後のことだった。戦争が激化し、本国とはついに連絡のとりようがなくなった。名実ともに孤島となったこの地で、フラジール家は極めて日常的な朝を迎えた。

 マリアナを起こし、いつものように食卓についたクロヤは、彼女の様子をつぶさに観察しているようだった。傍目から見れば、主人を気遣うあまり、度が過ぎた行動をしてしまう忠臣、といったところか。

 だが、ルーシーだけは慄き、猜疑のまなざしをクロヤに向けていた。


 ちょうど二日前。

 クロヤは一抱えはある手紙の束を連絡船に積み込み、数枚の大きな封筒を船員に手渡した。

 その様子を、ルーシーは茨の向こうから見張っていた。

 クロヤの手にある古めかしい茶封筒が、たしかに、船員の手に渡ったのを確認して、ルーシーは胸を抑えた。

(考えすぎよ……でも……)

 あの封筒は、クロヤが亡きフラジール氏の書斎から持ち出したものであった。

 やけにがっしりとしたその封筒を、ルーシーは見たことがあった。忘れもしない。出兵の数日前、フラジール氏が軍の幹部から受け取り、厳重に保管するよう言われていたものだ。

 ルーシーの父は、工作員だった。

 敵国に潜入しながら、故国へ有利な情報を流すスパイ。家庭では一切、そのような顔を見せたことのない父だったが、彼が諜報活動中に病死し、たった一人の肉親だったルーシーが遺品整理をしたときのことだった。

 やけにがっしりとした、茶色の封筒が、父の机の裏に貼りつけられていた。中をのぞいてみると、数年前に起こった戦争で実際に使われた作戦、その書類であった。

 マチがついた、分厚くて綴じ紐が三箇所もある、大きな茶封筒。それは軍部が機密文書を保管、送付するときに使う封筒であると、ルーシーは知っていた。

 クロヤが戻らないうちに、ルーシーは屋敷へとって返し、階段を駆け上った。息が切れたときとは違った、じっとりと汗ばむ感覚をともなって心臓が早鐘を打つ。

 フラジール氏の書斎の前に立ち、そっとオーク材のがっしりとした扉を押した。ぎしり、という軋みを立てて、扉は開かれた。

 書斎の中は整然としていたが、誰かがものを探し回ったような痕跡が残っていた。とくに、机には埃をはらった跡や、調度品をずらしたような跡が見受けられた。

 机の向こうへ回り込むと、椅子の下のカーペットが毛羽立っていた。つい最近、誰かが椅子を動かしたのだろう。

 三つしかない引き出しを、ルーシーは上から順番に開けていった。

 すると、三段目の引き出しだけ、書類が埃をかぶっていなかった。一段目も二段目も、しまってある書類やペンにはうっすらと埃がかかっていたのに。

 間違いはなさそうだ。

 おそらく、この引き出しの一番上に、あの封筒がしまってあったのだ。

 ルーシーは身震いした。

(そんな大事なものを持ち出して、いったい、クロヤさんは誰に渡すつもりなんだろう……)


 そして、二日後の今日。

 戦争が激化して、日中も夜間も爆撃の音が絶えなくなった。水平線の向こうにぼんやりと浮かぶ本国の影も、煙幕にかすんで、よけいにはっきりしない。時おり吹き上がる炎や水しぶきが、使用人たちの不安感をあおった。

 島から脱出する手立てのないフラジール家の人々は、ひたすら、どうかこの島が魔の手から逃れられますように、と祈るばかりだった。

 戦争は、見守るばかりの使用人たちの心をも蝕み、彼らを無口にした。

 そんな中、ルーシーは手水場で待ち合わせたクレメンスと、早口に「定例会議」を執り行った。

「それは、間違いないのかい?」

 封筒のことを話し、ルーシーは頷いた。

「こんなこと考えたくないけど……もしあの封筒が、本当に作戦書類だったとして、渡った先が敵国だったら……」

 情勢の急転にもうなずける。

 ただ、なぜクロヤが本国を裏切るようなまねをしたのかは、説明がつかなかった。国をまるごと相手取るほどの動機が、果たして彼にあるだろうか?

「経歴はよくわからないし、もしかして、敵国のスパイかもね」

 しかし、このクレメンスの発言に、ルーシーは首を振った。

「あの人は、工作員じゃないと思う。もしそうなら、私にはなんとなくわかるはずですもの……」

 これでも、工作員を父に持ったことがあるのだ。その職に就く者がまとっている独特の雰囲気、それがルーシーには感じ取れるはずだった。

 しばらくの沈黙の後、クレメンスがぽんと手をたたいた。

「ああ、そういえば。給仕長が話してたんだけどね……」

「それは……少し、やり過ぎというか……」

 話を聞いて、ルーシーは思わず首を傾げた。

 クロヤは、財産分与に関する手紙すべてに対し、断りの返答を送ったらしい。借金の督促状にまで同じ文面で返したそうだ。

 それは、むやみに財産分与を行わないにこしたことはないし、借金を踏み倒そうと考える者も少なくないだろう。

 だが、そこまでする必要があるのだろうか?

「相手が、島をほしいなんて言ってきたら問題だけど……」

 フラジール家は、没落寸前ではない。むしろ領土内でしか採れない貴重な花や魚、鳥の羽などの交易品に恵まれ、うなるほどの金貨が倉庫に積み上げられているほどだ。気前よく配っていればさすがに底をつくだろうが、借金を返すくらいの余裕はあるはずだった。

 借金、といえば、決して聞こえの良いものではない。名門貴族、ましてや殉職により英雄の称号を与えられたいまのフラジール家にとって、名誉とは金銭よりも重く尊いもののはずだ。

 そのことを、あの執事が心得ていないはずがない。

「まあ、ねえ。たとえば、この戦争でお国が負けでもすれば、それこそ相続のあれこれは白紙に戻るけど……」

 クレメンスの言葉に、ルーシーは震え上がった。

 まさか。

「……断りの手紙を書いたんじゃないんだわ」

「え? 何だって?」

 ぼそりと呟いたルーシーを、クレメンスが振り返った。

 ルーシーは小刻みに体を震わせながら、怯えきった目をクレメンスに向けた。

「必要なかったのよ……どうせ、国自体が崩壊してしまって、なくなって、相続の話は白紙に戻る……形だけ断りの手紙を書いたけれど、それがもう必要のないものだって、わかってたんだわ……むしろ」

 その手紙たちは、あの書類を敵国へ渡すためのカモフラージュだったのではないだろうか。

「それこそ、工作員の出番だわ」

 手紙は配達され、書類の数々も配達された。そのうちの一件は、あの茶封筒だ。それを受け取った何者かは、自分の祖国へと情報を持ち帰る……

 戦争の形勢逆転、激化。

 すべての辻褄が合った時点で、ルーシーの記憶によみがえる映像があった。

 出兵前、フラジール氏が例の茶封筒を受け取ったあの時。

 執事たるクロヤもまた、その場に同席していた。給仕の代わりに、主と客人とへ淹れたての紅茶を運んだのだ。

 その時、耳にしたことを覚えていたのだろう。

「……いつから?」

 ルーシーは両肩を抱き寄せ、足元に向かってわななく声を落とした。

「いつから、こんなことを考えていたんだろう……」

 ルーシーの疑念は、確信へと変わっていく。

 クロヤの、日に日にエスカレートしていく変貌ぶり。

 フラジール氏が亡くなったことで、彼が得ることができるもの。

 答えにたどりついたルーシーは、事態ののみこめないクレメンスを残し、中庭へと走り出した。

「奥方さま……マリアナさま……!」

 取り残されたクレメンスは、後ろ頭を掻きながら、ルーシーの揺れる三つ編を見送った。

「まあ、とにかくクロヤが悪だくみをしてるんだってことだよねえ……」

 そのとき、彼女の胸のうちに湧き上がる感情があった。

 彼女はそれを正義感だと信じ、息を大きく吐いて、自らに渇をいれた。

「よし、あたしも悪事をあばく手伝いをしようじゃないか!」

 それが、あまりにも短慮な決意であるとは、夢にも思わずに。

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