蝶の羽ばたき
【蝶の羽ばたき】
ギリアン=ケイスは二件の殺人と放火、さらにルーシー、グスタフ、デイビットの三名を殺害しようとした殺人未遂の罪にとわれた。
成立した二件の殺人罪は、クレメンスとマリアナの件である。ルーシーの証言によって、マリアナ殺害の実験目的でクレメンスが計画的に殺害されたことがわかり、ギリアンはこれを認めた。マリアナの殺害についても、ギリアンは否定や弁明などをいっさいしなかった。
ギリアンは他にも、フラジール卿所有の島のことで、公文書偽造や違法取引の罪にとわれたが、そちらは証明が難しく成立しなかった。多くの罪の証拠は、屋敷ごと燃えてしまった。
一連の裁判が落ちつくと、ルーシーはグスタフとデイビットを伴って島を訪れた。マリアナとの約束を果たすためで、三人は警察の大きな船で乗りつけ、多くの人員をさいてマリアナの運搬が行われた。大きな瓶は蜜が詰まっていることでたいへんな重量となり、作業にあたったものは知恵をしぼらねばならなかった。
大瓶は横倒しにされて地上に運ばれてきたが、マリアナの体は崩れもせず、腐敗のない美しい状態に保たれていた。
ルーシーたちは石碑に向かい、フラジール卿の墓を掘り起こすと、棺のなかにマリアナを横たえた。彼女は蜜を滴らせながら、夫の骸の隣で微笑んでいるように見えた。蓋をしっかりととめて土をかけ治しながら、ルーシーとグスタフはかつての暮らしを思って涙を流した。
日の光が差しこむ庭をともに散歩した仲睦まじい夫婦。人徳者の主人に頭の上がらない日々、天真爛漫なマリアナに振り回されながら、おもしろおかしく笑って過ごした記憶。
さまざまな思い出を一緒に土の下に埋め、ルーシーたちは島をあとにした。
「ほんの少し、蝶の羽ばたきのようにわずかなことでも私にできていたなら、運命はきっと変わっていたんじゃないかと思うの」
「これから変えていけばいいさ。それが生きている者のつとめだよ」
ルーシーは潮風にふかれる甲板で、静かにデイビットの胸におさまった。
それから半年もせずに戦争は終結し、敵対しあっていた国どうしは和合した。
ギリアンの事件は戦争終結の式典や祭事にのまれ、人々の記憶に留まることはなかった。孤島で起きた事件は、孤島の住民たちの心のなかでひっそりと幕をおろした。
ギリアンはすっかり人が変わったようにおとなしくなり、刑期を終えたあとの保護観察官にはデイビットが名乗りをあげた。彼が死刑にならなかった背景には、かの戦敗国との国交復興という大事業があった。かつての戦敗国の捕虜を裁判にかけ、死刑にすることは、関係修復を不可能にする大きなヒビになりかねなかったのだ。
当事者であるルーシーやグスタフは当然納得できなかったが、デイビットがよく目を光らせておくと誓ったので、渋々承諾した。
「それに、彼はさまざまな自由を失っている。刑務所で何があったかは知らないが、口も利けないし、車いすがないと移動できない体だ。何か話しかけてみてもにっこり笑うだけ。保護観察というより介護が仕事になりそうだよ」
デイビットからの電話を受けて、ルーシーは顔をしかめた。
「報いというものかしら。まるで、ギリアンに苦しめられていた頃の奥さまのようだわ」
「そう、彼は報いを受けた。苦しんできた君はこれから幸せの報酬を得るだろう。過去の悪夢はここに置いて、新しいところへ、行きたい道へ進むといい」
電話を切ると、ルーシーはトランクを持ちなおし、ホームで列車を待った。
デイビットは変わらず本国で探偵業を続ける。グスタフは有名なホテルにシェフとしてスカウトされ、ロサイア国にある本店に引き抜かれていった。
そしてルーシーは、屋敷で起こった事件を原稿用紙にまとめながら、宛てのないヨーロッパの旅に出る。戦争は終わった。これからは、自分の生きる国を、自分の生きる道を、人々は自由に選ぶ時代になっていくだろう。ルーシーはその先駆けだ。汽笛を鳴らしてホームにすべりこんできた列車に乗り、ルーシーは孤島の面影を、マリアナの最期の姿をまぶたに浮かべながら、ゆっくりと故国を遠ざかっていった。
おわり




