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愛しのマリアナ  作者: 天秤屋
10/11

短剣はいざ、魔物の喉元へ

【短剣はいざ、魔物の喉元へ】


 マリアナは横にならずに起き上がっていることの方が多かったが、一向に意識が戻ることはなかった。ガラス玉のようだった目もよどみ、コップからの水を飲むことすら難しくなっていた。肌はますます白く、すべらかに、人形の様相を強めていく。

 ルーシーはほんの数日前に会話したこと、マリアナを抱きしめたことを思いながら、心を殺していつも通りの世話をした。背中にクロヤの、鉛のように重い視線を受けながら、ルーシーは顔色ひとつ変えずに部屋を出ていく。そして女中部屋まで足早に戻ると、頭から蒲団をかぶって泣いた。

 ルーシーは、マリアナのことに心を痛めながら、自らの限界を感じていた。

(これ以上ここにいたら魂が壊れてしまう!)

 それでも、マリアナやグスタフを残して自分だけ島を出ようとは思わなかったし、島を出たところで、ルーシーに行く宛てなどないことはわかりきっていた。


 そして、マリアナと最後に話した朝から三日後、ついにルーシーは食事を運んだり、彼女を世話したりする役目からもおろされてしまった。逆らえば何をされるかわからなかったが、ルーシーは人間の心を取り戻し、勇気をふりしぼって寝室のドアをノックした。

「あのう、奥さまはいかがでしょうか」

「心配はいらない。下がっていなさい」

 部屋の中からはクロヤの冷淡な声がする。しかし、ルーシーは引き下がらなかった。

「せめて御召し物をかえませんと」

 マリアナの姿を確認しようとドアを推したが、閂がかかったようにびくともしない。ルーシーが諦めて手を離すと、突然ドアは内側に開き、わずかなすき間からクロヤの顔がのぞいた。逆光だったが、なぜかクロヤの眼鏡は強く光って、表情はうまく読めなかった。

「ルーシー、君は自分の部屋に戻って新しいエプロンに着替えなさい。そして一階の広間の掃除をしたまえ。庭木の世話でもかまわない。終わったら、厨房でシェフと一緒に昼食をとりなさい」

 クロヤは淡々と告げると、ルーシーが言葉をなくして頷くのを待ち、静かにドアを閉めた。

 ルーシーはその場に崩れそうになりながら、言われたとおりに女中部屋に戻った。それから裏戸を開けて庭木の世話をしに出た。鎌と水差しを持って前庭の手入れに向かい、二階の様子をこっそりうかがおうとしたが、色あせたカーテンがぴたりと閉まっていて何も見えなかった。

「ああ、奥さま……」

 その時、ルーシーの耳にはっきりと、船着き場から上がってくる革靴の足音が聞こえた。わき上がる期待に体が浮きそうになりながら振り返ったが、ルーシーの前にいたのは郵便配達員だった。

「こんにちは」

「いつもお世話さま……どうぞ上がって、ロビーでお待ちください。こんな仕度でご案内もできずにごめんなさいね」

 ルーシーはうなだれて植え込みの陰に引っこんだが、その後ろを通りながら、郵便配達員はこう言った。

「やあ、助けにきたよルーシー」

 ルーシーは目を見開いた。しかし、ぐっとこらえて振り返らなかった。クロヤが見ているかも知れないのに、うかつな行動はできないと、強く自分を制した。本当は、勝利の歌を金切り声で歌いたいほどに嬉しかった。配達員も何事もなかったかのように歩きつづけ、自然に玄関から中へ入っていった。

 ルーシーは庭木の手入れを始め、一時間後には一階の清掃のために屋内に戻った。箒やモップを抱えてロビーに差しかかると、配達員は持ってきた新聞を読みながら待ちぼうけをくっていた。

「あの、まだ執事は参りませんか」

 おずおずと尋ねると、配達員は肩をすくめてみせた。

「ここにかけて待つように言われましたが、それきり」

「それじゃ、あの、掃除をして参りますので、それが終わったらお食事をお持ちしましょうか」

「本当ですか? 厚かましいようですが、お願いします」

 配達員はにこにこと微笑み、ルーシーにウィンクしてみせた。

 心晴れやかにモップがけをする一方で、ルーシーは重く脈打つ自分の胸をおさえた。

 待望の救いの御手は現れた。だが、彼はたった一人のようだ。武器らしいものが配達鞄の中に入っていれば良いが、果たして、あの魔物のような執事を彼一人でどうにかできるものだろうか。

(いいえ、いざとなれば私だって協力する。この狂気を終わらせることができるなら)

 決意をかためて、ルーシーは掃除用具を抱えて廊下を急いだ。途中、地下室への扉が少し開いていることに気づき、身の毛がよだった。洗い場に箒もバケツもモップも放り出すようにして、ルーシーは二階に急いだ。例のごとく、靴を脱ぎ、四つん這いになってそろそろと階段を上がる。

 寝室の扉は開け放たれ、中はもぬけの殻だった。

 ルーシーは絶望し、震える足でなんとか階段を下りると、厨房に駆け込んだ。グスタフはただ事ではない様子に気がつき、調理の手をとめてルーシーにどうしたのかと尋ねた。ルーシーはただ首を振り、涙をこらえて姿勢を正すと、早口に告げた。

「今すぐこの島を出て行く準備をして」

 グスタフは何も聞かず、ただ険しい顔をして頷いた。

 ルーシーはロビーで待つ配達員の元に戻り、彼を急かして地下室への扉に向かった。

「ここよ、いい、気をつけて……」

 配達員が頷くと、ルーシーも覚悟を決めて手をのばした。扉を開けようとしたルーシーは、熱を持ったものに手首をつかまれ、悲鳴を上げた。

「郵便配達員もお客さまも、こんなところへお通しする必要はない」

 クロヤはルーシーを扉のなかへ引き込もうとしたが、もがく彼女の手首から香草がかおると、顔をひきつらせて手を放した。呻きながら顔の前で手を払い、クロヤは闇のなかに姿を消した。

「その不快なにおい! 彼女を貶め、亡霊の花嫁として束縛し続ける業の深い、忌まわしい習慣……」

 地下への階段を下りながら、クロヤがぶつぶつと呟くのが聞こえた。腰を抜かしたルーシーは、配達員を装ったデイビットに助け起こされた。

「大丈夫かルーシー。君はここで待っているといい」

「いいえ、私も行くわ。行かなければならないの」

 確かめなければならない。マリアナとクロヤがどうなったのか。すべてを見届けなければならない。ルーシーは唇を噛むと、扉の内側にある燭台に火をつけ、慎重にデイビットの前を進んだ。

「地下は天然の洞窟に繋がっているわ。私のあとをしっかりついてきて、足元に気をつけて……」

「庭先で君に会った時、すぐにルーシーだとわかったのは、あの手紙と同じ不思議にいい香りがしたからさ。この香りが続く限り、きっと俺は迷わないよ」

 暗闇に支配された通路から抜けると、その先の開けた場所には何本もの燭台が置かれ、幻想的な光を放っていた。大量の蝋燭の炎が風もなく揺れうごき、地下は秋口でも熱いほどだった。

 デイビットはネクタイを緩め、手内輪で煽ぎながら周囲を警戒する。

「あの男の素性がわかったよ」

「私も、つい最近、知人から聞いたわ……本当の名前以外は」

 ルーシーは立ちどまり、洞窟の壁にもたれて一息ついた。デイビットもそれにならう。

「ギリアン=ケイス。先の戦争の前までは、かの敗戦国と親しかったストリア国ジョージア財閥の御令嬢、ジュリエッタ=ネリーヴェというすばらしい婚約者もいた。神学校を首席で卒業し、社会に出た。引く手あまた、将来有望、まさに順風満帆の人生を歩んでいた男だよ」

「それを、あなた一人で調べたの?」

「こう見えて探偵なもので。さあ、ここからは僕が先に行こう」

 デイビットは体を起こすと、しっかりとルーシーの手を握った。ルーシーは戸惑ったが、すがりつくように手を握り返した。蝋燭のあかりに照らされるデイビットは、自分といくらも変わらない歳に見えた。

 一本道を進むあいだ、ルーシーのなかでは不安ばかりが大きくなり、最悪の事態しか考えられなくなった。それでも前へと進めたのは、デイビットの力強い手のおかげだろう。

 デイビットは足を止めた。彼の目の前にある空間は床にも壁にも燭台がひしめき、真昼のように明るかった。大きく開けた場所の中央には祭壇のようなものがこしらえられ、その上に、巨大なガラス瓶がたたずんでいる。

「奥さま」

 ルーシーはひっと息を吸いこみ、その場に崩れそうになった。

 ガラス瓶のなかは琥珀色の液体に満たされ、その中に、まるで眠っているように穏やかな表情のマリアナがおさめられていた。彼女は空色の美しいレースをまとい、その端を翅のように広げて、色とりどりの花とともに浮かんでいる。

「この女性もこの花も、白い膜のようなものに包まれている。この儀式に心当たりは?」

 デイビットに問われ、ルーシーはわななきながら口を開いた。

「まるで蜜葬よ……とても気分が悪い」

 ルーシーは蝶を埋葬する変わった風習のことについてデイビットに語ると、そこからは口を利けなくなった。デイビットは痙攣したように激しく震えるルーシーをひき寄せ、自分の心音を聞かせるように、彼女の耳を胸におしあてて抱きしめた。

「君はたった一人で戦っていたんだね。もう大丈夫だよ」

 デイビットはルーシーをともなって、机の上にある諸々を調べた。

「この白灰色の液体はおそらくロウの木の樹液だ。屍蝋化に似た現象を起こしているのはこのためか」

 デイビットは手帳にペンを走らせ、ルーシーの様子を気にかけながら、あらかたの捜査を終えて祭壇の前に戻った。

「特注の瓶だ。本国に戻ってから、これを作った職人を捜しだそう」

 だいたいの寸法をはかってメモを取ったデイビットは、忍び寄るおぞましい気配に背中を粟立たせた。ルーシーを祭壇の脇に座らせ、勢いよく振り返ったデイビットの眉間に、冷たい筒が宛がわれた。

「神聖な場所をけがすな。彼女は二度と蹂躙されない天の頂にのぼった。もう誰も彼女に触れてはならない」

 デイビットは両手を上げ、どうしたものかと考えあぐねていた。玄関で初めて見た時から、クロヤはどうにも読めない男だと判っていた。感情の昂ぶりもなく、ただ淡々と支離滅裂なことを喋っている、この男は未知の領域にいる。下手に動けば自分はおろか、ルーシーを傷つける結果になりかねない。

 ただ、兵士であったわりに銃器の扱いには長けていないのか、安全装置はかかったままで、銃口も密着させている。少なくとも今は撃たれはしない。デイビットはそう踏んで切り出した。

「あんたのことをいろいろと調べさせてもらったよ。先の戦争の前、あんたがまだ神学校に通っていた頃のことだ。父親は鉄道の補修を担う佐官だったが、作業中の事故で失業した。怪我のせいで新しい働き口は見つからず、酒びたりになって、妻や娘を殴る日々だったらしいな」

 なぜここでクロヤ――ギリアンの父親の話をデイビットが持ちだしたのか、ルーシーには理解できなかった。ただ、それまで狂気的にマリアナのことだけを考え、異常な儀式の達成のために全身全霊をついやしてきたギリアンの目が、わずかに揺れ動きはじめていた。

「見かねたあんたはある日、事故に見せかけて父親を殺した。誰もあんたを疑いはしなかったし、察しがついても黙っていた。それが最初の殺人。ただ、今となってはあんたを裁くことはできないし、情状酌量の余地もありそうな話だと言える」

「古い話だ。よく調べたものだ」

 ギリアンはまだ落ちついていた。彼にとって、父親を手にかけたことは、もはやカサブタもとれた古傷にすぎないようだった。

「ジュリエッタにいろいろと聞いたよ」

「彼女に会ったのか」

 ギリアンの視線がデイビットから外れ、一瞬だけマリアナを見つめた。デイビットは静かに続けた。

「父親を殺してまで守った家族が戦争で死んだとき、どれほどの痛みと苦しみを味わったことか……そこで狂った運命が、今ここに新たな罪を生み出している」

 これを聞いたギリアンは、明らかに怒って目をつり上げ、叫んだ。

「何も、何も知らないくせに! 『あれ』を口にするな!」

 その一瞬で、デイビットはギリアンの手から銃をもぎとり、ルーシーの前に立った。ギリアンが取り乱したのはその一時だけで、すぐにまた冷めた表情に戻ると、彼は黙って両手を挙げた。

 ルーシーはようやく言葉を話す余裕を取り戻し、恨めしくギリアンをにらんで問いつめた。

「どうして奥さまをこんな目に」

 すると、ギリアンは囁くように答えた。

「愛しているから。私はただ、純真無垢で美しく清いものを、清いままにしたかっただけだ」

 ギリアンは向けられた銃口にも構わず、祭壇に近寄り、膝をおって祈りを捧げた。

「穢れのないものを穢れのないままに保つことは難しい。だから、誰にも触れられないところへ彼女をお連れした。これで蹂躙されることもない」

「あなたのしたことは冒涜よ! これを蹂躙と言わずに何と言うの」

 ルーシーは叫び、クロヤに掴みかかろうとした。慌てて彼女を止めたデイビットの手から、クロヤがいとも簡単に銃を抜き取る。クロヤは銃口を握ったまま、グリップをデイビットのこめかみ目がけて振るった。鈍い音がして、デイビットは二、三歩ふらつき、うめき声をあげる。

「デイビット!」

「はは、弾など入っていない。これはこうやって使うんだ」

 クロヤは再び銃を振りかぶったが、ルーシーがロウの樹液の入った器を投げつけ、デイビットを庇った。ルーシーは後ろ髪を引かれる思いで瓶詰めにされたマリアナを振り返り、デイビットの手をとって、洞窟を屋敷へと駆け戻る。

「本国に戻ったら無粋な警察や軍隊を大勢寄こすんだろう、女を惨殺することしか考えていないような悪辣な暴漢どもを! 彼女の清らかな魂を穢すことは許さない、お前たちを生かしておくような危険は冒さないぞ!」

 後ろから狂ったような笑い声が響いてくる。何度も足がもつれながら、ルーシーは負傷したデイビットを連れて、必死に階段をあがった。

「こっちだ!」

 階段の上ではグスタフが待っていた。彼は大きな手でルーシーもデイビットも引っぱり出すと、地下室の扉を閉め、そばにあったコートハンガーで閂をかけた。厨房に避難するまでに、地下室の扉が内側から蹴られている音と振動が響いたが、まだしばらくはバリケードが持ちそうだった。

「これからどうする」

「この島を出るわ。船頭はまだいる?」

「ああ、彼が、あんまり遅い配達員に愛想をつかしたり、タバコを切らしたりしていなければね」

 血を流すデイビットを介抱し、ルーシーとグスタフは彼を支えながら裏口に向かった。

 背後で、バリッ バリッ という不吉な音がして、コートハンガーが転げる金属音が鳴り響いた。戦慄するルーシーとグスタフの間で、デイビットが不快そうに鼻を鳴らした。

「焦げ臭いぞ、鍋の火は消したのか?」

 ルーシーとグスタフは顔を見あわせた。まさか、とは思うが、ギリアンが屋敷に火を放ったとしても、何ら不思議はない状況だった。

 ルーシーは急いで裏口のノブを回したが、開かない。この扉に内鍵はなく、屋敷じゅうの鍵はクロヤが管理している。

「うかつだった。きっと彼は俺がきたことで屋敷中の施錠を思いついたんだ。最後にはすべて焼き払ってしまうつもりでね」

「そこを代われ」

 うめくデイビットをルーシーに任せ、グスタフは思いきり扉を蹴飛ばし、体当たりした。扉は危なっかしく軋んだが、まだ開く様子はない。

「そこか?」

 ダイニングルームからギリアンの声がした。バリケードの家具を破壊する物音から、彼が火災の時に使う手斧を持っていることが予想できた。この裏戸から他へ移動するには、厨房とダイニングルームを抜けるしかない。つまりは袋のネズミであり、このままでは追いつかれ、全員が殺されてしまうだろう。

「ちょっと待ってろ」

 グスタフは厨房に引き返していき、コンロというコンロに火をつけると、調理用の油をこれでもかとぶちまけた。厨房はあっという間に火の海になり、換気用の窓のガラスが派手な音を立てて砕けた。

「いったいどうしたっていうの」

 戻ってきたグスタフは、氷用の頑丈なアイスピックと小さなハンマーを持っていた。

「こうすれば奴もうかつには近寄れない。あとは焼け死ぬか、脱出するかだ」

 グスタフはアイスピックを立ててハンマーをうちおろし、内側のドアノブを外した。さらに外側のノブを外し、ルーシーが手を通して鍵をこじ開けた。

「開いた!」

 グスタフはデイビットを担ぎ、ルーシーの手を引いてぐんぐん裏庭を、彼の畑を駆け抜けた。

「グスタフ見て、お屋敷が、奥さまが」

 マリアナのことを思って足取りが思うように進まないルーシーを、グスタフは無理やりにでも引っぱっていき、桟橋に到着した。ボートはあったが、船頭の姿はなかった。

「用でも足しに行ったか。仕方ない、早く乗れ」

 ところが、櫂をとろうとするグスタフの手を、意識がもうろうとしているデイビットが止めた。

「待つんだ」

「どうしたのデイビット、お屋敷は、お屋敷は燃えているし、いつギリアンが追ってくるか」

 ルーシーが喘ぎながら尋ねると、デイビットは痛む頭をおさえ、乗せられたボートを降りてしまった。

「ルーシー、短剣はいざ、魔物の喉元に突きたてられ……しかし魔物の牙もまた、男の首へ迫りつつある。油断したつもりはなかったが、格好のつかないところを見せてしまったね」

「待って、どこに行くの」

 風が吹いてきた。ルーシーは波にあおられるボートの縁を掴み、身を乗り出す。デイビットは屋敷を指さした。

「犯人に死なれてしまっても困るんだ。どうにか、彼の生存だけでも確かめないと」

 言うなり、グスタフが無理にも止めようとする前に、デイビットは屋敷目がけて駆けだしてしまった。ルーシーは恐ろしくて震える膝を律し、デイビットのあとに続いて走りだした。

「待てルーシー、行くな!」

「お願いよグスタフ、もし船頭さんが戻ってきたら、待つように言って」

 走りながらルーシーは考えた。戦うことはできない。それどころか、デイビットに助けられ、彼に怪我をさせてしまった。グスタフの機転と力がなければ、屋敷から逃げることすらできなかった。

「そして友だちや奥さまを見殺しにした。おお、無力なルーシー、お前にもし何かができるのなら、デイビットを死なせてはだめよ」

 祈りながら屋敷にかけつけると、デイビットは正面玄関から中へ入るところだった。ルーシーは駆け寄って彼の袖をひっぱり、庭の井戸に連れていった。水をかぶり、エプロンや三角巾を口もとに巻いて、二人は慎重に火の海のなかに足を踏み入れた。

 屋敷はいよいよ激しく燃え、あちらこちらで柱や梁の倒壊する音が響いた。ギリアンの姿はなく、二人は息をのんで地下室に向かった。煙は上へとのぼっていき、地下室への階段はまだ清浄な空気に満ちていた。いつ手斧を持ったギリアンに襲われるかもわからないなか、ルーシーたちはバケツやモップで頼りない武装をして地下を進んだ。

 果たして、マリアナの祭壇の前にギリアンはいた。手斧は放り出され、弾丸の入っていない銃は机の上に置かれている。慎重に近寄ると、ギリアンは祭壇にもたれるようにして意識を失っており、そばには小瓶が転がっていた。

 デイビットは小瓶を拾い上げ、ラベルを見て顔をしかめた。

「ホウ酸だ。まだ息はあるようだが、時間の問題かもしれない」

「気絶している演技じゃないかしら」

 ルーシーが訝しむのももっともだと、デイビットは頷いた。二人は安全策としてギリアンをエプロンの紐やベルトで縛りつけ、口に猿ぐつわを噛ませて運び出した。

 ルーシーは、蝋燭の火に包まれたマリアナを名残惜しく振り返った。まだ、抱きしめた時の頼りない感覚を覚えている。

 いつの日だったか、ギリアンと蜜葬をした時のことを思い出し、ルーシーは痛む胸をおさえた。

(これはギリアンだけの罪ではない。彼を止められなかった私の罪でもある)

 蜜に満たされた瓶の中で眠っているマリアナの姿を目に焼きつけ、ルーシーはデイビットとともに、ギリアンを担いで地下室をあとにした。

 屋敷に火の手は回りきっていたが、玄関までの逃げ道は塞がっていなかった。からくもルーシーたちが逃げ出すと、それまで持ちこたえていた玄関の梁が落ち、屋敷はごうごうと音を立てて燃え崩れていった。

「奥さまや旦那さま、それにクレメンスも。きっと私たちを守ってくれたのね」

 船着き場に戻ると、顔なじみの船頭の姿があった。彼は血をにじませているデイビットや、拘束されたギリアンを見て動転したが、定員ぎりぎりの人数をのせて本国へと漕ぎ出してくれた。

「さあ、これからが大変だ。まずはゆっくり体を休めないとね」

 デイビットは遠く本国の島影を見つめて呟いた。ルーシーは小さくなっていく孤島を振り返り、唇を噛んだ。

(そうだ、まだ何も終わっていないんだ)

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