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愛しのマリアナ  作者: 天秤屋
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春の訪れ、愛の目覚め

【春の訪れ、愛の目覚め】


 奥方さま、奥方さま!

 ああ、この私の愛は千にも万にものぼります、貴方に仕え捧げる日々が詩篇そのもの! 私の心を何よりも深く語ることでしょう!

 ああ、愛しのセ(*)レストゥリナ・アルジオルス!!

 この小さな島の偉大なる領主、われらが美しき貴婦人、麗しの未亡人!

 旦那さまほど立派にお亡くなりになった方はないでしょう、誇りにお思いなさい! 彼は、王に与えられた領地を守り、この地に殉じました! 御覧なさい、彼を讃えたすばらしい詩の数々を。伝記の厚みを。永劫残されるであろう碑文を! どれをとってもすばらしい!

 奥方さま、ミセス・フラジール!

 御覧なさい、外は春です。島中が春です。花々は咲き乱れ、木々の若い芽が朝日を受けて透きとおっている。

 そら、虫も鳥も、わずかにいる小さな獣たちもみな、春の訪れに歓喜している。これは歌です、歓喜の歌です。島中から聞こえております。

 どうか奥方さま、その綿花のように膨らんだ掛け蒲団からおいでください、あなたのすばらしいお庭まで。

 何がお望みでしょう? ハルジオン、ノゲシ、リンドウ、ヒアシンス、スイセン、スズラン、カスミソウ、ナノハナ、シバザクラ、ハナモモ……何でもござれ。お望みの花を摘んできて、見事に活けて御覧にいれます。

 だから、どうか、起きて、起きて! すばらしい朝でございます!


 クロヤ・G・藍沢の心は、すでに屋敷の中にはなかった。彼の心は天高く舞い上がり、朝日の輝きをいっぱいに受けて、島の上を縦横無尽に飛び回っているところだった。

 今日ほど晴れやかな気分の日はないだろう。

 クロヤは、フラジール夫人の眠る寝室の前に立つと、真鍮のノッカーを軽やかに扉へ打ちつけた。

「奥方さま、お目覚めでしょうか」

 しかし、返答はない。

 構わず、クロヤは続けた。

「もう日は昇りました。奥方さまには、一日も早く、ご心痛が和らぎますことを願って……さあ、朝食だけでも」

 それでも、やはり返答はない。

 クロヤは寝室の鍵を取り出し、見事な装飾のほどこされた鍵穴へ挿しいれた。

「失礼します」

 豪奢な扉は、見た目ほどの重量を持たない。クロヤを迎え入れるように、扉は床を滑る。

「奥方さま」

 ミセス・マリアナ・フラジールは、綿毛のような蒲団を着込み、雲海のようなベッドにたったひとりで寝そべっていた。

「お目覚めでしたか」

 クロヤはそのまま、四メートル近くあるカーテンの前に立った。

「今朝は、よく晴れましたよ」

 美しく螺旋を描いた綱を引くと、金色の総がついたカーテンがするすると左右へ滑っていった。波打つ様はオーロラを思わせる。徐々に広がっていく緑と緑の狭間から、白く淡く光る朝日が差し込んだ。

 マリアナは目を細めた。

「ああ、眩しい、ああ、忌々しい。なんと悲しいことでしょうか」

「奥方さま」

 なだめようと振り返ったクロヤをさえぎって、マリアナは嘆いた。

「こんなにすばらしい朝が来るだなんて!」

 マリアナは憤慨し、もう一度蒲団をかぶった。

「クロヤ、すぐにカーテンをしめてちょうだい。朝など見たくありません」

「ですが、奥方さま。朝はやってまいりました」

 黒い革靴が軽快に大理石を鳴らし、ベッドの傍らに長い影が伸びた。

 クロヤはかまくら(、、、、)のように膨らんだ蒲団に向かって、優しく、低く、声をかけた。

「奥方さま、皆も悲しんでおります。そして、案じております」

 言葉は慎重に選ばなければならない。

「もはや、我々の使命はただひとつ。奥方さま、あなたをお守りし、あなたを愛し、あなたに仕えることのみです。皆、あなたのお体を案じております。お心の傷を思って、悲しんでおります」

 かまくら(、、、、)が、ふるりと震えた。

「私めに、どうか、旦那さまとの約束を守らせてください。あなたの身も心も健やかに、安らかにすることが、我々と旦那さまとの望みなのです」

 蒲団の一方が持ち上がり、マリアナが顔を出した。目や鼻の頭は未だに赤く、親にしかられた子どものような表情で、クロヤを見上げた。

 クロヤは、傷つきやすい宝石か、割れやすい卵を扱うように、そっと蒲団を捲り上げた。

 マリアナは、少なからず驚いているようだった。

 もちろん、普段ならば、主人の蒲団に手を触れ、しかも捲り上げるなどといった大胆な、咎められるような行為はしないだろう。だが、今のクロヤの心はここにあって、ここにはないのだ。島中を駆け巡っている彼の心が自由な、そして幸福なうちは、どのような大胆な行いも許される。彼自身によって。

 クロヤは女中を何人か呼び、マリアナの着替えを手伝うよう言いつけた。女中たちは慣れた手つきでクローゼットやドレッサーをあさり、着替えに必要なものを持って、マリアナとともにしきりの向こうへ消えた。

 それを見届けてから、クロヤは浮かれきった足取りで厨房へと向かった。

「奥方さまがお目覚めだ。シリアル、トースト、あたためたミルク、それとも紅茶か? 今日の日にふさわしいものをお持ちしろ。食後のゼリーを忘れずに」

 給仕たちはしばし、唖然とした。

 これが、彼のクロヤであろうか? 温厚誠実、完璧主義、冷静沈着、絵に描いたような執事だと噂された? めがねの麗人、鉄面皮、鋼鉄の心臓と、使用人たちのあいだで恐れられていた、あの?

 まさか、誰もすぐには信じられず、包丁の動きがきれいにとまった。

 クロヤはそれを見咎めもせずに、再び、踊るような足取りで去っていった。彼はじつに不謹慎であった。喜んでいることを隠しもしないのだから。

 なんと嬉しい日か、島中を狭しと飛び回っていた彼の心が、ようやく、屋敷で従事する執事のもとへと帰ってきた。

 早鐘を打つ心が彼の体に飛び込むと、クロヤは身震いをした。この幸福を、この歓喜を妨げるものなど、なにもないように思えた。

 ああ、ついに、待ち望んだこの時が訪れようとは!

 彼は一生をかけて成し得ないであろうと思っていたことを、ついに、実行に移す機会を与えられたのだった。

 これが天の配剤でなくて何であろうか? 神に感謝しよう!

 これが悪魔の誘惑でなくて何であろうか? 魑魅魍魎どもにキスをしよう!

 運命とは、実に数奇なものである。

 ここに、全てを手に入れんとしている男がいる。全てを手に入れんとしたが、道半ばで絶命した男がつくりあげた楽園の中心に!

 だが、決して、彼は楽園を奪いにやってきた侵略者ではない。あくまで、楽園に仕え、それを管理する従僕に過ぎないことを彼は自負している。それどころか、楽園に従事することに喜びさえ見出している。

 では、彼の欲しているものとは何か?

 世の人々がいう「すべて」とは、金、地位、名誉、安泰、愛などなど……あげればあげるだけ、きりなく最上のもの、すべてのことであろうか。

 だとすれば、彼の望むものは、その中のたった一つ……そして、それこそが、彼にとっての「すべて」であった。

 木の枝の上に、二羽の小鳥がとまっていた。色鮮やかな小鳥が、地味な見た目の小鳥に向かって、羽を広げたり、さえずったりしている。やがて、地味な小鳥がそばへ寄ってくると、鮮やかな小鳥はさっと飛び立ってしまった。

 すぐに戻ってきた鮮やかな小鳥のくちばしには、銀色にひかる魚が咥えられていた。地味な小鳥が魚を受け取り、飲み干してしまうと、二羽は踊るように絡み合い、林の奥へと飛び去った。

 花壇の上では、蝶が何羽も飛び交い、それぞれが二羽一組の対になってどこかへと飛んでいく。

 花々はどうか? ミツバチたちが忙しなく花粉を運んでいる!

「ああ、私が望むものと同じ、大も小もない真実の愛が、こんなにもあふれている! 愛するものの季節、春がやってきた!」

 クロヤは自分の肩を抱き、弾む息を落ちつかせた。

「けれど、焦ってはいけない。みっともないまねをして、彼女を失望させてはならない……紳士的に、きわめて誠実に、また辛抱強くあらねば……」

 厳格で実直で、力強かった主人のように。そして、彼に負けないように。

 クロヤは一呼吸おくと、食堂の入り口に立ち、マリアナの到着を待った。

 部屋を出るまでに散々ごねたのであろう、彼女は十分も遅れて姿を現した。その顔といったら、貴婦人の面影など微塵もなく、ふてくされた少女のように、不満をいっぱいに浮かべたひどいものだった。

 女中が進み出て、彼女のために椅子をひいた。

 二人暮らしの慎ましい食卓は、あつらえこそ豪奢なものの、長さはほんの四、五メートルほど。椅子は、同じ格好をしたものが二脚、長方形の短い辺に一対になっておさまっているだけだ。

 マリアナが腰掛けたすぐ後に、普段は暖炉の脇で控えているはずのクロヤが、堂々と反対側の椅子へ腰掛けた。

「まあ、今日のあなたはおかしいわ!」

 マリアナに限らず、その場に居合わせた者は驚愕の声を上げた。

 執事が、主の目の前に腰掛けるなんて! それも、家長の椅子へ!

「今日のあなた、変よ」

 思いきり顔をしかめて、マリアナは首を横に振った。今朝方からの、クロヤの変貌した態度のことを思っているようだった。

 しかし、クロヤは何も答えなかった。女も男も、それこそ初対面の堅実な人物までもを虜にしてしまうような、艶っぽく、優しい笑みを浮かべて、彼はじっとマリアナのことを見つめるばかりだ。

 奇妙な食卓の光景は、マリアナが食事を終えて自室へと引き上げたあとも、使用人たちの心になんとも言えない余韻を残した。


 また昼ごろになって、クロヤは寝室の扉を軽やかにたたいた。

「奥方さま」

「嫌よ、もうあなたの顔も見たくないわ。行ってちょうだい」

 扉の向こうからは、細りきったマリアナの声が答えた。続いて、わっという嗚咽の最初のさけび。

 クロヤは遠慮なく、扉に置いた手をそのまま押し出して、寝室へ入った。鍵は開け放たれたままで、カーテンも開かれたままだった。

「昼食の準備が整っております。軽いものだけでもおとりください。パティシエが腕によりをかけて、木苺のソースを添えたレアチーズのケーキを……」

 滔々と流れる言葉をさえぎって、マリアナは枕を投げつけ、悲痛な声で訴えた。

「ばかね! こんなときに、何も喉をとおるはずがないわ!」

 クロヤは故障した機械のように立ち尽くし、投げつけられた枕を拾いあげながら、きょとんとした顔をマリアナへ向けた。

 泣きはらして真っ赤になったマリアナの目元を見つめながら、ああ、そういえば、と彼は思い至る。

「いいえ、だからこそです。こんな時だからこそ、しっかりと栄養はとっていただかねば!」

 彼の心には、ただただ、マリアナへの慈しみと愛とだけがひしめいていた。

 今はといえば、朝食の席で、彼女がなかなか料理に手をつけなかった、そのことだけが気にかかっていた。

 しかし、執事として、また傷心の未亡人に対する態度として、前夫をないがしろにすべきではないことも、彼は重々承知していた。

「奥方さまのご心痛は、そのまま、我々の心の痛み。あなたの苦しみや悲しみは、我々にとっても耐え難い苦痛。あなたが、今日の朝日をどれほど恨めしく、哀しいお心で迎えられたのか、我々はよく存じておりますとも」

 クロヤは枕の埃をはらい、マリアナの伏せるベッドへ歩み寄った。

「ですが、忠誠をこの心臓にかけて誓った主人を失くしたいま、あなただけが、我々の救いであり、尽くすべき君主なのです」

 枕を抱いたまま、クロヤは眉間にしわを寄せ、渋面をつくってみせた。それは逆光の暗がりにあっても、主人の逝去に胸を痛め、遺された伴侶と同等に嘆き悲しむ忠実な臣下の面持ちであると、はっきりとわかるものだった。

「……食事もままならず、あなたの健康なお体がやせ細ってしまわれては……ああ、それを思うだけで、我々使用人一同の胸は張り裂けんばかりです。どうか、奥方さまにはお変わりなく、健やかに在っていただきたい……それこそが、我々の願いであり、唯一の希望なのです」

 切実にまくしたてて、クロヤは大仰に目を瞑った。嘆きの表情としては、まさに理想の点数だろう。芝居小屋の役者すら凌駕するほどのつくりに、マリアナは心をうたれたようだった。

「ああ、クロヤ! あなたから、やっと血の通った言葉を聞いた気がします」

 マリアナは胸の前でかたく手を組むと、天に祈りを発した。

「そうです、悲しみは尽きないけれど、そればかりでは、あの人もきっと休まらないでしょう。私がしっかりしなければ」

 つぎに開かれた彼女の目は、使命感に燃えていた。生き々きとしたマリアナの顔つきを見つめて、クロヤは満足そうに頷いた。

 ああ、この純粋で無垢な魂の、生きる希望に満ちた表情の、その奥に隠された深い悲しみの……なんと美しいことだろう!

 クロヤは感嘆し、枕を抱きしめたまま一礼した。

「さあ、使用人たちにその素晴らしいお顔だけでもお見せください。きっと彼らの心力になるでしょう」

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