第七話 『動作する歯車の加速』
陽の光ではなく、月光が青白く暗い街並みを照らしている。
すっかりと静まり返った夜道。目に映る家々は光が漏れる所もあれば、シャッターや雨戸を閉め無響を獲得している所もある。日が登っている騒がしさとは正反対の世界がここにはある。
その慌ただしさと代わって街灯が立ち並んでいる。それはポツポツと寂しく置いてあるだけのようで少し心もとない。しかし、こういう雰囲気は不思議と嫌いではない。
この街の灯火は家路を示してくれているようだ。
そのどこにでもありそうなよくある光景を歩く二人の人物がいた。
「お兄ちゃん、歩ける…?」
「まぁ、なんとか…おわっ」
「あっ!?危なっかしいよバカニキ!」
「すまん…。てか、なんやかんやめっちゃ心配してくれるんだな。ありがと」
「う、うるさいわバカ!急に倒れると困るからこうしてるだけ!」
「そっか、そっか」
誠と香織は微笑ましいやりとりを繰り広げていた。
けれどもこうしている前はただただ怯えていただけだった。男の気迫に臆し、恐縮していることしか権利がなかった。
〇 〇 〇 〇 〇
あの男が去った後、誠は必死に押し殺していた疲れが剥き出しになり意図したものとは反した行動をとってしまった。
自制が一時的に消失した。ドンッ!と背中から勢いよく倒れたが、何故か痛みという痛みは感じなかった。
満天の星空が瞳を埋め尽くす。
夜空って、星々って、こんなにも、綺麗だったのか…。いつぶりだろう、こんなまじまじと空を見上げたのは。小さい時以来か。
あの頃は目の前のことでいっぱいいっぱいだったな。ひたすらに進もうと必死で前以外見てなかった。いや、立ち止まる事が出来るほど余裕がなかったのか…。
様々な事を見て、感じて、その度に思い出す。大切な失われていたモノを。
そして、視界が掠れる。
意識が、遠ノく…香織の声が…聞こえ…る……。この、ま…ま………お……………ち………。
蒼一色が支配する世界。素朴とは微塵も思わない、むしろ美しいとすら感じるとても心が安らぐ空間。
ここは恐れた場所。ここは希望を託された場所。
名前すら分からないこの場所を誠は知っている。
辺りを見回す。やはり、何も無い。
いや、本当にそうだろうか。『無』が呼吸を繰り返しているだけだろうか。
呆然と立ち尽くしていても仕方ないと。だから、踏み出そうとした。
その時、
『おはようございます。』
誰だか分からない声。しかし、確かに聞いた事のある声。
誠は振り向く。後ろには、一度だけ見た事のある女性がいた。
あの時は状況の理解すら困難だったのであらゆる余裕がなかった。だが、こうして改めて対面してみるととても神々しい。
淡白が主なワンピースのような、ドレスのような衣装。艶かしい、しかし不健康とは思わせない白い肌。更に見事と言わざるを得ない銀髪はそれらと美しい調和を見せている。
一言で表すなら、美しいだった。
最早、感動すら覚える姿に見とれていた誠の視線にようやく気付いたのか女性は少し身を隠す感じで恥じらった。
『な、なぜそんな見つめるんですか。何か変なものでもついていますか?』
「いや、綺麗だなと思って…」
思ったことをそのまま口走ってしまった誠は発言してから恥ずかしいと気付き、必死に訂正していた。
しかし満更でもないのか、ほんの少し頬を赤らめたが「おほん!」と咳払いをすると場の空気を整えた。
そして、本題に入る。
『貴方は見事勝利を収めました。私も自分の事のように嬉しいです』
「うん、ありがとう。でも俺は貴方が力をくれたから勝てたんだ。それだけじゃない、貴方が俺を救ってくれた。失ってたものも取り戻せたと思う。返しきれない恩だ」
『いえいえ、私も貴方に救われました』
「確かに救うとは言ったけど…」
心当たりがない。いつ俺が救った…?この方は何の話をしているのだろう。
『どうなさいました?確かに貴方はちゃんと私を救ってくれました。貴方が力を授かってくれたことにより、私はここに顕現出来ている訳です。だから私はとても感謝していますよ』
顕現…?まずここはどこなんだ。分からないことが多すぎる。
「え、ええと。意味が理解できないんだが…」
『そうですねぇ…簡単に説明しますと、私は非力なものでどなたかとパスを繋げなければここで存在を維持するのさえ難しいのです。ですが、早瀬様がそれを握ってくれました。おかげで私は救われたのです』
「うん…?んんん………???」
言い表すことが難しいのか眉をひそめている彼女に対し、頭だけでなく体そのものを傾けて疑問を全身で表現する誠。
その彼女は少し考え込んでいたが、『ええい!』と踏ん切りを決めたのか真剣な眼差しを誠に向けて来た。
そして、考えられないような一言を放つ。
『私は「天ノ使イ」、貴方達が聞き覚えのある言葉を使うのなら、』
『 天使です』
「………………………………………え?」
人生で一番腑抜けた声が漏れる。
誠の理解出来る範疇からあっけなく飛び抜けた。今日という情報は余りにも高濃度過ぎたが、それら全てを軽く逸脱した。
目の前に映るこの方が…天使…。
何が神々しいだ。愚かさにぐちゃぐちゃに塗れた人間とは違い、汚れひとつない神々の下僕の天使様ではないか。
今の誠は記憶という引き出しにこの情報を正しい位置へ収納することが出来ない、そんな思考能力だった。しかし断片だけでも、と脳は必死に追いつこうととめどなく回転を続けた。
そのうちの一摘みの理解に成功する。つまるところ、
「俺はその天使様に助けられて、そして助けた、…ってことになるのか…?」
すると、彼女は太陽の日差しの如く美しい笑顔を覗かせた。
『はい、そういうことになりますね!』
誠は真顔のままゆっくりと数歩後ろに下がる。そして同じくゆっくりと膝を地につけた。
「すみませんでしたあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
『ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!なんでぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ』
とても忠実な絶対的な土下座を見事なまでに披露した。
誠は地(と呼べるか分からないが)に額を擦りつけながら会話を進める。
「あのですね!こんな下々の者共を助けてくれるなんて誠に嬉しい所存でございます!!!!!」
『わ、私も助けて欲しくてみっともなく貴方に頼ざるを得なかった惨めな者でございます!!そんなこと仰らずに!!!』
日本古来から伝わる謝罪の最終形態を決める生粋の日本人と、反応に対応出来ずに困惑に動揺を重ねる天使がいた。
『落ち着きましたか…?確かに話が急すぎましたね…』
「は、はい取り乱してしまい申し訳ございません…」
『それは良かったです。ところで、何故言葉がこんな丁寧に…?』
「なんて言いますか、その、やはり人間よりも偉さが違うと言いますか…なので言葉を選んで会話をすべきと私なりに考えまして」
『初対面の時の口調で差し支えないのでお気になさらずに…。というか、急に言葉遣いを変えられては私が戸惑いますので…』
「じゃ、じゃあいつも通りに…」
修正を試みたおかげでようやくこのぐたぐだ雰囲気に終わりが見えてきた。
やっと普通に戻った誠は何か聞こうとして口を開いた瞬間、遅すぎるがある事をしていないのに気付く。それは、
「そういえば俺達、自己紹介してないよな?」
『あの時は一刻を争う事態でしたので。この無礼者をどうかお許しください』
「あ、いやいや!責めてるわけじゃない!ただ、名前を知っておきたいなって」
出会い方が出会い方だったため、やはり今になってしまうのは無理ないことだった。
あの時、昔の二の舞を繰り返していた俺を正しい道へと先導してくれた。こんな世界の右と左の区別さえつかない無知に対して。まさに迷える人間に救済を差し伸べる天の使い。
心と身体を助けてもらった。存在の否定ではなく、使命の肯定。それとこれまでの無意味に傷ついた身体の治癒。
感謝してもしきれない施しを思い出しては胸に詰め、誠も笑顔になった。
「俺は早瀬 誠。貴方の名前は?」
『私は…リヒト。えぇ、リヒトと申します。未熟者ですが宜しくお願いしますね、早瀬様』
「こちらこそ宜しくね、リヒトさん。それと…様づけは止めてくれ。なんていうか、むず痒い」
『?私的にこちらの方が落ち着くのですが』
「うっ。な、ならリヒトさんが呼びやすい方で」
『かしこまりました、早瀬様』
『様』など生きていた中で一度も向けられたことが無いため、とてつもなく慣れなかった。しかも、自分にはとても不釣り合いな言葉と勝手に思い込んでしまったからでもある。
オドオドしていたが、その一言を認めると何故か体が軽くなったような気がした。自然と頬が柔らかくなる。
その時、壊れかけの電球が点灯と消灯を繰り返す様に、少しの間明暗した。終わる時に予兆などない。
それを見たリヒトは静かな焦りを感じていた。
『もう時間ですか、思いのほか早いですね』
「え…?」
リヒトは表情を変えずに、けれどその眉だけが反する行動をとっていた。
『早瀬様とこうして会い、対話する時間が限られているようです。やはり、長くは持ちませんか』
「そ、そうだったのか…」
『詳しい事を話そうと考えていたのですが』
青と黒が色を入れ替える間隔は徐々に短くなってゆく。仕方ない、と目の前に浮かぶ彼女は呟くと空を歩くように誠との距離を縮める。
そして、二人は文字通り手が届く位置へ。
『早瀬様、ペンダントを出してください』
「こ、これでいいかな…?」
それは薄い青を帯びている。まるで命が吹き込まれているみたいに。
目の前で浮かぶ彼女は誠が右手で持っているペンダントに対し、右手を差し出しその掌をペンダントの上で止めた。
すると、リヒトを中心として柔らかな風が生まれる。彼女の服と品やかさと麗しさを掛け合わせた長い髪が優しく踊る。
そして、ペンダントの光は更に増してゆく。それと同時に瞳を瞑り、こう唱えた。
『主の力よ、ここに。あらゆる不浄は安らかな眠りへ。あらゆる救世主には光を与え給え。闇を照らし、絶望を裂き、悪を断ち切らん。万物に救済の手を』
こう言い終えた途端、蒼光の拡散と共にペンダントが暴れだした。掴んでいなければそのまま落ちてしまうくらいに。
誠は右手で力強く握りしめる。それをそっと胸に当てた。
「…ありがと、リヒトさん」
『いいえ、私は当然の行いをしたまでです。その方がきっと、この世の為であり、早瀬様の為でもあるのです』
「そっか…そうだよな」
この世界の九割が黒で染まってしまっている。見るからに時間が無いのは一目瞭然だった。
だから、これが次に会うまでの最後の言葉になるのだと自覚しながら、その重みをしっかり受け止めながら、誠は笑顔で言い放った。
「行ってくる」
「ちゃん…………………いちゃん…」
声が聞こえる…誰だろう…。
「に、いちゃん…お兄ちゃん!!」
「ん…どうした…?」
重い瞼を開くと誠の眼前にはとても心配そうな表情で顔を覗き込む香織がいた。誠はゆっくりと、自分がさっき体験した状況を確認する。
疲れで意識が飛んで、そこからリヒトにあって、何かをくれたんだ。それで…そうだ、俺は倒れてたのか…。
起きて数秒ぼーっと考え事をしたまま動きを止めている誠に香織はそっと声をかけた。
「ね、ねぇ、お兄ちゃんってば…」
「ん?あ、あぁどうした香織」
「大丈夫…?急に倒れたから凄い焦ったんだけど…」
「心配かけたな。大丈夫だよ、少し疲れで気を失っただけだから」
造った割には綺麗な笑顔で誤魔化した。それを見た香織は落ち着きを取り戻す。
ふと、そこで気が付いた。
さっきまで誠の四肢に取り付けられていた疲労という名の重りが打ち壊されていたのである。なんの不自由もなくいつものように動かせる。いや、もしかしたら普段よりも軽い…?
それと消されたのは疲労だけではない。左肩に斬りつけられた傷。これが軽いカサブタ程度にまで塞がっていた。
(待て…何が起きた…?)
これら全てリヒトのおかげなのかと、そう思わざるを得なかった。他に思い当たる事など見当たらない。
人を遥かに超越した存在。そんな方からすればこんな傷の治癒なぞ朝飯前なのか。
「よい、しょっと」
「本当に大丈夫…?一人で立てる?産まれたての小鹿みたいにならない…??」
「心配してんのか馬鹿にしてんのかどっちなんだお前は」
誠は軽く呆れながらもしっかりと立つ。それから服を軽くはたいた。
その後じっと香織を見つめた。頭の上から爪先までの過程をゆっくりと。
「な、何?私顔にゴミとかついてる??」
何故か香織は忙しく自慢のツインテールを整えていた。
すると、誠は笑顔で答える。
「無事でよかった」
ただ、嬉しかったのだ。守れたこと、香織が元気なままのこと、当たり前という幸せがここにあること。それらの事を再確認出来たことにまた心が温かくなる気がした。
対して香織の返事は無い。あれだけ手を動かしていたのに俯いたまま固まってしまった。
香織がどんな事を思い、そうしてるのかは分からない。妹の目に俺はどう映ってるのだろう。
かける言葉が見つからない。けど、言いたい言葉はたくさんあった。
頼ってくれて。俺の心配をしてくれて。こうして生きててくれて、
「ありがとう」
誠はそのまま帰路につく。方向は香織の背の道にある。
歩を進め続け、二人はすれ違う形になる。そして重なった瞬間、彼女は口を開いた。とても小さく、しかし確実に聞こえる声で、
「私こそ、ありがとう…」
その言葉を耳が拾い上げるのと同じに誠の背中が押される。香織が肩を軽く当てたためだった。
なんだよ!と誠は振り返る。そこには、
「バカニキのくせにカッコつけるんじゃないっての!」
可憐な花が咲いていた。
季節にふさわしい、まさしく春を香らせる笑顔。
小さい頃のような幼さもあった。少年にも負けない子供のような無邪気さもあった。しかし、大人のような優美さがどれよりも主張が強かった。
視界で力強く咲く花を捉えて、誠の口元は自然と形を変えた。
「なんだと!?たまにはカッコイイとこ見せないと兄としての威厳がだな!!?」
「もうすでにないから安心してね♡」
「笑顔で言うなし!?さっきの可愛らしい香織ちゃんはどこいったのかなぁ??」
「え、う、うるさいわ!バカニキに言われると気持ち悪いですぅ!」
「なになに照れてるの?照れてるのぉ!?!全く年頃の乙女だもんねぇ仕方ないもんねぇ!え、ちょ、待って香織さん拳握りしめないで?プルプル震えるほど強くしないで??弄ったのは謝るからああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
他愛ない兄妹の会話が夜の街に響いていた。
〇 〇 〇 〇 〇
午後十時。無事ではないが誠と香織は五体満足に自宅に帰って来れた。流石に両親共帰宅していた。
学生とはいえ大人になる時期。夜更かしするのは仕方ないと早瀬家の両親は目を瞑っただろう。しかし、香織は制服のままであり、誠に関しては体中擦り傷だらけで服はボロボロだった。
滅多に怒る親の姿なんてのは見なかったが、今まで蓄えていたのが爆発したかのように修一と和泉は激怒した。
なぜそんな傷だらけなのか、どこに行っていたのか、帰ってきた二人の子供を見た時の焦燥感。全て想いをぶつけられた。
その後に優しく抱きしめられた。泣きながら「よかった、よかった…」と連呼しながら。
二人の心に親愛がゆっくりと満たしていた。
その後は?と聞かれると誠は本日2回目の入浴を済ませ、ご飯も食べずに自室へと行ってしまった。
一方、香織はついさっきまで自分の事で精一杯で出来なかったが、千秋に連絡を取った。すると、無事に帰れたとのこと。千秋もパニックになっていたため警察の連絡を行えず、指示を仰ぐため両親が帰ってくるまで何も出来ず今に至るという。通話の最中急に千秋の親に変わると物凄い声で心配された。無事を伝えると親子共に安心し、それは終わった。
そんな香織は現在、兄が入った後の浴槽に全身浸かっている。
それなりに長い自慢の髪が湯の上で大人しく浮かんでいた。
ぶくぶくぶく…と必要のないはずの体操座りで口まで体を沈め、ぼーっとしていた。
(お兄ちゃん…私のために…)
焦点を決めない少女はこのようなことを思い出していた。
〇 〇 〇 〇 〇
まだ幼稚園だった時の話だろう。
お兄ちゃんは私の視界を埋め尽くすぐらいの英雄だった。
昔泣き虫だった私はよくからかわれて泣いていたのを助けてくれた。無くし物をし見つからないと涙を溜めて立ち尽くしていた所へお兄ちゃんが来て、泥々になりながら見つけてくれた。
そんな兄の背中がより大きくより輝いて見えた。
自慢のお兄ちゃん、優しくてかっこいい私のお兄ちゃん。
こうなれたら、泣いている人達を笑顔に出来るのだろうか。お兄ちゃんがしてくれたように。救われる側から救う側へと変われるのだろうか。
凄いと…褒めてくれるだろうか………。
「私も…ヒーローになりたい!」
しかしいつだろうか。お兄ちゃんはある日を境に別人のように変わった。
あれほど何かを成し遂げようと目をキラキラさせ、毎日活気に満ち溢れていたあのお兄ちゃんはどこにもいない。
代わりに自分の目に映った光景は、無気力で瞳から光が失われた兄だった。いや、多分瞳に光はあるのだ。しかし、前まで大切にしていた何かが欠けたような…光の色が淡くなっているようなそんな感覚だった。
強く歯噛みした。全身が強ばった。そのせいで震えた。
理由は本人でないから分からない。ただ、これだけは言える。
『私が憧れたお兄ちゃんはもうどこにもいない』
次第に私は兄に対して冷たく反応するようになった。兄を見る度、失望と悲哀の感情が濁流のように押し寄せて来たから。
それと心のどこかが苦しくって、痛くて仕方なかった。
それから少しして私は蔑む意味を込めて『バ
カニキ』と呼ぶようになった。けれど、それでもニコニコしているのが余計に胸を締め付けた。
こういう時どうすればいいか分からなかった。
『あの時のお兄ちゃんに戻って』
これが、この一言が、口から出ることを頑なに拒んだ。
理由はそのセリフよりも先に怒りがこみ上げてしまっていたから。この事を香織自身が一番理解していなかった。
香織は心のどこかで、このままあの頃のお兄ちゃんはもう見れないんだと、そう悟った。
〇 〇 〇 〇 〇
しかし、それはただの妄想だった。
誰かの為に全力になれる最高の英雄を今日、私は目に焼き付けた。
昔なぞ比にならない程の勇敢さと決意を誇示しながら茨道より無事帰ってきたのだ。
ギリギリの所で助けてくれたあの時、泣いていた理由は決して恐怖と歓喜だけではなかったと思う。
その感情の名前を、私は知らない。
瞬間、ふと我に返った。
(なっ…!?なに思い出に浸ってるのよ!!!?)
お湯のせいか、浴槽に長時間入っているかは分からないが顔を真っ赤にし、ぶくぶくぶく!と空気を吐く勢いを強めていた。
そして思い切り水から顔を出した。必要ない息切れが香織を襲う。
浴室の天井を見つめる。整い始めた呼吸が独り言を呟かせた。
「遅いよ…バカニキ」
自身の足を抱きしめる力を強くする。両足はより体の内側へ近づいた。溢れ、流れ、飛び出していきそうな気持ちを腕で抱きしめ、必死に抑える。
しかし、苦ではない。むしろ善の激情だ。何故それの開放をよしとせず、我慢しているのだろう。
原因は簡潔だ。複雑すぎて、沢山ありすぎて、その感情を生成している本人が追いつけていないから。
辛くはない。こんな気持ちになったのはあの時以来だから。
ただ抱きしめすぎてその隙間からは感情ではなく、微笑みという表情が綺麗に零れ、そこで静かに開いていた。
誠兄妹が帰宅しているのと同じくして、ある男は早瀬誠と同じ夜にいて違う闇にいた。
つい先程、壁にぶつかり蒼く光る少年に敗北した彼をある場所にまで運び終わっていた。表情一つ変えず、担いでいる人間を乱雑に床に投げつける。
その場所は大体五階建てくらいのビル。今もなお何かの仕事に使用されている。
現在いる階層は四階。どうやってこの男が入ったのか、その手段は不明である。しかし、目的を聞かれるとそれは明確だった。
「ただいま帰りました」
「うむ、ご苦労」
黒スーツの男以外に口を開く者が一人。ろくに明かりをつけず椅子に座っていた。その周りには更に複数名の影が円を囲むように見えた。だが、やはり暗く各々の顔まではよく見えない。
すると、先程黒スーツに受け答えた声が帰ってきた。
「嫌な仕事を押し付けて悪かった。そこに寝転がってる男を監視しろ、なんてたまったものじゃないだろう」
「いえ、そのような事は。有意義な時間だったかと聞かれると返答は変化してきますが」
「貴様…!社長になんという口の聞き方を!!」
「そう声を荒らげるな。面倒事を押し付けたのは事実だ、私は何も言えんよ」
「はっ、申し訳ありません」
円から離れた場所にいる若い女性の怒声が響いたが、社長と呼ばれた男が沈める。
少しして社長は声を低くし本題というやつに入った。
「さて、時に『漂う影』よ。例の件は?」
「はい、進捗状況は支障なく順調に事を運べています」
「そうか。君の仕事ぶりなら私の心配なぞ迷惑にしかならないだろうが念の為に、な」
海人をここまで運んだ黒スーツの男。名前は知らず、二つ名で漂う影と呼称されていた。
「御気遣い痛み入ります。」
「君の働きぶりとその成果は私自身とても評価しているからね。いつもありがとう」
「私はあくまでも貴方様から請け負った仕事を全うしているだけの機械。お言葉は大変嬉しいのですが派遣のような私などではなく、自社の社員に目を配る方がモチベーションの増幅を見込めるかと」
「全く君というやつは…謙虚にも程があるなはっはっは」
多少しわが目立つ社長は肩を揺らしている。それに続き二、三名も声を重ねた。
しかし黒スーツの男もとい漂う影は周りに合わせることもなく、冷たく返答する。
「発言をお許しください。私はこれから例の件や微調整を加えたいので、お暇してもよろしいでしょうか?」
「もちろんだとも。だが、しっかりと休憩も取りたまえよ」
「はい、その言葉有難く受け取らせて頂きます」
漂う影は一礼をすると百八十度回転し出口に歩もうとしたが、体がピタッと止まった。振り返りながら手を床の方へ向ける。
「そういえば、床で倒れているこちらのものはどうしましょう?」
社長は楽しさから歯がこちらを覗くほど不気味さのこもった笑みに色を変えた。
「そこに置いたままでいいさ。後は我々に任せてくれ」
「了解しました」
漂う影もここに来て初めての奇怪な笑みを見せた。
それを捉えると思い出したようにこの会社の長は口を開く。
「それともう一つ。そいつが回復してから再び君と同じ仕事をさせる予定だ。頭に入れておいてくれ」
黒のスーツを着る男の眉がほんの少し動く。笑う口も意識しなければ分からないほど小さく歪んだ。
それらを隠すようにまた深々と頭を下げた。
「…はい。それでは失礼します」
大勢という人間がいる中でギィィ…と閉鎖音だけが主張を行う空間が出来上がっていた。
そして沈黙。
社長はゆっくりと息を吐くと先程怒鳴った女性に命を出す。
「そこに倒れている者をあそこに運んでくれ」
「承知致しました」
その女性すらも男を軽々担ぎ、あそこと言われるどこかに消えてしまった。
すると、座っている一人の若い男が話を紡ぐ。
「しっかしぃ、本当によかったのか社長サンよぉ?あいつ信用出来るのかぁ…?」
「信用出来る出来ないという話ではないさ。確かにそれも大事だが、本質は使えるか使えないか、ではないのか?」
「それなら別に大丈夫だけどさぁ?疑う事も必要なんじゃないかなぁ…」
「心配かな?だが、安心してくれ。成功に終わらせる為の行動だ。致し方ないことなのさ」
今度は会話の続きを座るスーツ姿の女性が持ち上げる。
「その心配は芽生えて当然です。しかし、社長の仰る通り実力と実績は本物。当面は経過観察という事で大丈夫だと私は考えます」
「うげぇ、君が社長サン側についちゃうのかぁ…。なら何も言わないよ…」
「ははっ、二人共私の気持ちが分かってくれて嬉しいよ」
それから少しして本日の会議は解散となった。
黒スーツの男は闇に佇む。光はただ夜道の街灯のみ。その光に照らされ大きく大きく影が出来る。
漂う影はタバコを取り出すとライターで火をつけ、革靴特有の足音を辺りに響かせながら一服を始めた。
ふぅーっと白い煙を星が泳ぐ空に満遍なく吹きかける。星々は真っ白い空気に覆われるがすぐに姿を現し、白煙は撒かれ、消えてゆく。
そしてボソッと主流煙のおまけのように放った。
「なんであそこいつも暗いんだろ」
足取りは軽く、しかし男は確実に進む。
物事は少しずつ膨らんでいる。それは部外者も、ましてや当事者ですらも分からない時もあるほどに。
そして、何も変哲もない朝が来る。
その朝は酷く冷たかった。