第六話 信じるもののために
駆ける音。銃撃音。苦しそうな声。笑い声。
それが遠くで聞こえた気がした。
今尚、涙を流しながらひたすらに走る彼女。
名前を早瀬 香織。
ずっと、ずっと。お兄ちゃんの逃げろと叫ぶ声が木霊していた。
逃げている。私は猛烈な罪悪感と現実から逃げている。あんな瀕死同然のお兄ちゃんから目を逸らし、自己の為だけに下半身を動かし、本来自分が持つべき罪をお兄ちゃんに擦り付けている。
間接的とはいえ人を殺した。その癖、自分は死にたくないと逃亡の一手。
こんなの犯罪者だ。まだ偽善者になれた方がものすごい幸せだろう。
罪悪感で死にそうだった。
『罪』という者がまるで人であるかのように。そしてその手を伸ばし自分の心臓を握っているのではないかと、そう錯覚する位には苦しくて仕方なかった。
だが、これで戻ったところで何が出来る訳でもない。むしろ役立たずになるのが関の山だ。
だから、仕方ない。自分が今出来る最善の行動。
逃げること。
だからこそ辛かった。他に何も出来ないことが。
あぁ、なんて卑怯者なんだろう。
抱えていた重圧に、食い込むほど締め付ける心の縄に、耐えきれず歩を止めざるを得なかった。
そして感情が爆発した。
膝から崩れ落ち、子供のように泣いた。
どれくらい経ったのか。目から枯れるほど流した。
ゆっくりと顔を上げる。
そして弱々しく立つと、今の自分から逃げるように走った。
ガガッガガガガガッッッッッガガガガガガガガガガガガッッッッッッ!!!!!!
「ヒャッッッッハァァァァアア!!!!」
銃を乱れ打ちする男は子供のように無邪気な笑顔を見せる。
その真正面には息を荒らげ、疲労と痛みで本来の顔の形を崩す男がいる。
端的に言えば、誠は追い詰められていた。
(ぐっ…左肩の傷が痛む…!)
アドレナリンが分泌している今でさえこれだ。もし、戦いが終わったら激痛で済むかどうか。
その前にこの戦いに勝ち、生き残っているかどうかの方が先になるが。
すると、男が一休みといった感じで乱射を中止した。
「楽しいなぁ、嬲るのは…」
「てめぇ…そうやって今まで人を…!」
「あぁとても楽しいなぁ!!これぐらいの快楽を毎日味わえれば人生退屈しないだろうなぁ…」
「この野郎…!!」
すると、男はため息しながら肩を落とした。
「寛大な海人様がわざわざ撃つのやめて楽しい話し合いをしようって思ったのに…」
「……」
「あ、言ってなかったか?いっけなーい!私ったら自己紹介忘れちゃったぁ♡」
この時、誠は初めてこの男の名前を知った。
海人と名乗った男性は、話し方、内容、嬲ることを楽しいという暴虐性、全てにおいて狂っている。
このことを確認したことにより、一層香織を助けなきゃという執念が強まった。しかし、それと同じくらい恐怖も肥大する。
だが、逃げるという選択肢は無い。そんなものは誠の信念には芽生えない。
芽生えたとしても摘み取る。切る。花が咲くという行為を全力で阻止する。
まだ、勝負は終わっていないからだ。守ろうとしているものを放り出して逃げられるものか。
勝てる確率が少しでもあるなら、俺はみっともなくそれにすがりつこう。
勝算を、捻り出せ。
(せめてあと一発、もう一発あいつにぶち込めれば決定打になるはず…あの鳩尾の一撃も決して効いてないって訳じゃない…)
現にあのカイトという男がガトリングを使用し続けているということは、近距離戦を警戒したということ。更に、超人的な観察で分かったことがある。
あの男、足を動かしていないのだ。
剣で自分を斬りつけた時は数歩前に出したがそれ以外、つまり乱射している時は足を動かしていない。それと必死に隠していたのかもしれないが時折眉が動いているのが目視出来た。
これがあるからこそ、確信に近い予測が出来た。
俺の拳は確実に効いていると。
この乱射の中止は体を休める為のものだろう。あんな反動が強いのをノンストップで撃ち続ければ自身を滅ぼすのは目に見えている。
そして、さっきの一撃。これが段々と重量を増す時限式の重りの様にあの男を蝕んでいるはずだ。
それとあの男が気づいているかは知らないが、休む時間が回数を重ねる毎に間隔が狭くなっている。
ここに付け入る隙がある。
しかし、誠の左肩の傷は大きくないとは言え、無視出来ない痛みが襲っている。
加えて出血量。時々、目眩と視界のぼやけが誠の意識を支配しようと手を伸ばしてくる。
あの男にとっても。誠にとっても。長期戦は望まない事なのだ。
近いうちに勝負は決まる。
この場合、奥手に回った瞬間が負けになる。
誠は戦いの場において意識を失いかける情けない自己の精神を奮い立たせるように声を響かせた。
「いくぞぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉおおおっっっっ!!!!!」
「来させる訳ねぇだろォがよぉ!!!!!」
再びの乱発。鉄という雨は通り雨のように。
今は脚力に全てを。再び蒼光が下半身へ流れゆく。
そう、歩を止めてはいけない。進むんだ。助けたいから。助けなきゃいけないから。
今度は左へ。弧をなぞりながら一気に距離を詰めていく。しかし、誠の速度は疲れと痛覚でさっきより動きが鈍っているように見えた。
だが、銃弾が上手く誠の方へと来ない。最初の体力が有り余っている時のように軽々と銃口を変更出来るわけがなかった。それを動かそうとして初めて海人は気付く。
「チッ…!!」
そして誠と海人の距離が数メートルという長さになる。
誠は右拳に力を込める。光は地を踏みしめるモノから『誓い』を握りしめるモノへ。
低い姿勢から鳩尾へ二撃目を。ボディブローを繰り出し、海人に決定打を与えようとする。
それに対応しようと海人はガトリングを再び剣にしようとしたが、
本当に僅かだがそれをするには時間が足りなかった。
誠の拳は空を切る。人体の部位に当たることは無かった。体をよじり、避けられてしまったのだ。
その時無理に体を捻ったせいだろう。先程受けた蒼光の槍が、じわじわと累積させてしまった苦しさが、海人の中で全て痛みに変貌した。
「ぐっつっっ……!!!!あぁ!!!」
しかし、海人も負ける訳にはいかない。死にたくないという誠とは真逆の『信念』で心の爆発による被害を最小限に抑える。
そして、銃から剣への変形を終わらせた。
誠は本来当たるものだと思い拳を振るったため、バランスが崩れる。だが、的確な二撃目をまだ命中させていない。転びそうになった態勢を立て直す。
ペンダントには力が抜けるどころか光が積み重なっていく。
そして、剣と拳の衝突。
本来ならば拳が無様に真っ二つとなり、終わりだろう。だが、この一時だけは威力が拮抗していた。
いや、拳の方が勝っている。素手で殴ってるのにも関わらず、剣が押し負けているという普通では考えられないような光景がそこにはあった。
「うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおぉぉおおおおおおぉっっっっ!!!!!」
ビキッ!という嫌な音が耳を突き刺した。このまま押し込めばこの鉄は大破する。それを直感的に感じ取った。
剣のヒビが完全な破壊になるよう誠は促す。武器の破壊の余波は止まらない。それはまるで水面に一滴の雫を落とした時、波が広く広くへと伝わるように。
これにより相手の戦意を削ぎ、根本的に戦う術を奪う。つまりは武器を殺す。
そうしてる最中、急に拳に乗る重みが消えた。誠は自分の考えが上手くいったのかと鉄パイプに目を送る。
それは本懐していなかった。死んでなどいなかった。
壊れながらも、生きていた。
海人は殺戮をする道具が無くなることを恐れたのか。咄嗟に身を退いていた。
誠の思い通りにいったのではない。思いが通る道から誠は落下したのだ。
今度こそ完全に態勢を崩した。
狂人は再び生気を取り戻す。殺すことが生理現象のように。ただのストレス発散の一つのように。
今度は剣が誠を射殺そうと迫ってくる。
(今出来ることはっ…!)
静止に等しいスロモーションの世界の中、誠は必死に思考する。
しかし、『無』。何も無い。この現状を打破する方法が一つも出てこない。脳の働きが停止した訳ではない。血液が流れるのを諦めた訳でもない。
生きているのに、殺される瞬間だからなのだろうか。何故だろう。何故今こんな事を考えるのだろう。
この瞬間だけ死人よりも死んでいると思った。
あんなにも諦観しているのが嫌だと駄々をこねたのに。こんなにも英雄になりたいと憧れと希望を抱いたのに。
自分は弱くなりたくなかった。腐っているのが正常だと、それを強要してくる奴らと肩を並べるのだけは御免だと。
だから、足掻いた。みっともなく。小さい頃の俺なりの全力で。溺れかけもしただろう。だからこそ、沈まぬようにもがいた。
あの頃は本当に真っ直ぐだった。進む道が行き止まりでもどうすればよいか必死に試行錯誤した。諦めるという言葉は知らない。だがとても苦しくて辛かった。ただ自分が信じるもののために、ボロボロになりながらも抗う愚か者がいた。
手は酸化し、錆びついたおかげで力を込めようものなら握りしめている大切な何かが落ちた。片足はもう言うことを聞かない。それとは別の足は骨が剥き出しになり、進む度体の悲鳴と骨が軋む音、血が無限に溢れ出る。ヒュウヒュウと呼吸がままならず、手に力はなく、足を引きずりながら歩くその姿は、楽観している廃人からすれば誠は滑稽だと嘲笑える絶好の餌だった。
いつからだろう。諦めろという言葉を塗りたくられたのは。いや、これでは表現に間違いがある。終日永遠に塗られていた。ただ、自分の限界が来ただけ。
痛いほどに、喚きたくなるほど、己の無力さを味わってしまった。
選択肢は『諦める』以外何があるだろう。そうして抵抗出来ぬまま鎖に結ばれた。
今はあの頃と違う。無力ではない。だが、それでも…。
足りないのか…?
『貴方が「生」を諦めなければ、必ず貴方に光があるでしょう』
(……!?)
この言葉が聞こえたような気がした。
もちろん諦めるはずがない。こんなにも渇いているのだから。
今は力がある。哀れにも過去のような醜態は晒さない。あの頃は『誓い』も『覚悟』も圧倒的に薄かった。
だから勇気も足りなかった。あの時嘘をついてしまった。
『英雄や勇者になるつもりは毛頭ない。』、と。
そんなはずがない。なりたい。卑屈になりすぎていた。これまでの人生のせいで謙虚さが身についてしまった。
ヒーローとは、卑屈や後ろ向きであってはならない。誰の前でも笑顔で希望と勇気を与えなければならない。その神々しさと偉大さに救われたのだから。
臆病で下らない自己の精神を捻り潰そう。
邪魔だ。
行く手を阻む壁はこの男だけじゃない。自分の中にもあったのだ。
取り払え。
少しずつでいい。その壁を乗り越えるのではなく破壊するのだから時間をかけていい。それが出来るほど今は強くない。だから、
一瞬でいい、この瞬間だけは。今までのどんな自分よりも強く。研げ。磨け。輝け。
「…なりてぇよ、俺も」
崩れた足が身体を支える。完全に制御を失った下半身が息を吹き返す。限界だったと思う。今倒れても何もおかしくないようなコンディション。
では、なぜ倒れなかったのか。
それは誠の純粋な蒼さから来たもの。ここで理屈などを並べて語るのはあまりにも無粋というやつだろう。
『信念』がそうさせたのだ。これ以外の理由はいらない。
護るものがある愚者は強い。
目に光を宿す。
そして思い切り腰を回した。相手に標準を定めるように。ただの一撃に回転力を加える。
全ては最強をぶちかますために。
「なりてぇ…」
海人は一斉に出てくる数多の感情の激流により、心と表情がぐちゃぐちゃになっていた。訳が分からない、本質を感じ取れない。
そんな不安定になりながらも情けなく剣先を誠に向けて振りかざす。
「お前がなりてぇものになる前に殺してやるよォおおおおおおおおおぉぉぉぉおおおおおっっっっっ!!!!!!」
崩壊寸前の武器は海人の心そのもののようだった。
誠は『信念』をより確実なものにする。昨日までの上辺だけの脆い思想を掲げはしない。今掴んだものは、助けられながらも諭された、何者にも負けない『誓い』。
誠は信じるものを掴んだ。今度こそ落とさないように。自分の全てを拳に込める。美しい蒼光が闇を包む。何よりも大きい何重にも光る輪はその意思を肯定する。
惨めでいい。他者に侮蔑されても。何回でも転んでその分擦りむいて。
それでも譲れないものを一つ。
さぁ進め、愚者よ。
「皆を助ける英雄にィィいいいいいいぃぃぃぃぃぃいいいいいいィィィいいいいいいいいイィィィィいいいいぃぃぃぃぃいいいいいいいいイイイイイいいいィィッッッッッッッッっっっっっっ!!!!!!!」
「クソがああああああぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあァァァァァァぁああああああああぁぁぁぁぁぁあああああああああぁぁあ!!!!!!」
汚く踊るほど、
「なるんだよぉぉぉぉおおォォォォオオオおおおおおおォォオォおおおおおおおおおおおおおおおぉぉおおおおおおォォォおおおおおおおおおおおっッッッッっっっ!!!!!!」
愚者は美しい。
誠の『誓い』は一撃で武器を粉砕した。散々人の生を奪ってきた赤黒いものの破片が四方に飛び散る。
だが、それで誠の拳は止まらない。
これはもうあの男に当てなくてはいけないものなのだろう。きっと必要なことだったのだと思う。
誠の最強でこの根本的に狂っている価値観を打ち砕く。弄んだ命に対して、それと香織の命を奪おうとした事の罪の自覚をしてもらうために。
蒼が光輝く拳は武器を砕き、絶対的な第二射が海人の顔面に、
炸裂した。
「うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおォォオォォォォオオオおおおおおおぉぉぉぉおおオオオオオオオッッッッ!!!!!!!!」
ひたすらに、ただ、渾身の一撃を、最強をぶちかます。
瞬間、真空波が巻き起こる。それに続き、眩い光が暗闇が囲む夜の中で弾け飛んだ。
「ごはああああああああああぁぁぁぁぁぁあァァァァああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
海人は風を切り、目で追えない有り得ない速さで吹き飛ばされる。衝撃と困惑と理解不能。これらが同時に襲い、海人の思考能力を奪う。
考えたくも無い速度を維持したまま、思い切り壁に突撃した。
煙が辺りに充満する。
血や吐瀉物が落ちる音は耳に入らない。何かにぶつかり肺の酸素が押し出され悲鳴をあげる声も聞こえない。
代わりに誠の視界に入ったのは、
完全に意識を失い、壁に数十センチめり込んでいる海人の姿だった。
この時誠は初めて勝った。人生で初めて自分の『信念』が人を救ったのだ。
勝利したという喜びよりも先に、今までの努力は無駄ではなかったのだという感動が心を支配した。
罵声を浴びせられ、何度も挫けた。そのぶん強くなれると自分に言い聞かせてはボロボロと泣いた。周りに間違っていると、『優しさ』は嘘だと否定された。
そんな奴に対して『勇敢は強さ』だと認めてくれる人がいた。そして、夢を再び追いかけてもいいのだと鎖を壊してくれた。
何よりも情けない姿を一番間近で見てきた香織に頼られた。それが誠にとってどれほど救われたか。
こんなにも、周りに支えられていたなんて気が付かなかった。
段々と実感出来てきた勝利を、噛み締める。
肩で息をし、手足は震え、意識が飛ばないように踏ん張るのがやっとだった。
本人に聞こえないだろう。今この場にいないのだから。けど、言わずにはいられなかった。
ただ、伝えたかった。
「香織、お兄ちゃん…惨めだけど…頑張ったぞ…」
誠の目から一滴の感情が零れ落ちた。
「ううん、少しだけど見てたもん。惨めなんかじゃなかった。カッコよかったよ、お兄ちゃん」
後ろから抱きしめられた。いや、立つ気力すら無くなった誠の体を香織が支えてくれたのだ。
誠はまさか香織がいるとは思わず、一瞬びっくりした。しかし、すぐにそれを受け入れる。
「なんだよ…いるなら返事、してくれよな…」
「本当に、今さっき、来たんだから…返事…出来ないでしょ…バカニキ…」
香織に後ろから抱きつかれているので香織がどういう顔をしているのかは分からない。ただ、声が震えているのだけは理解出来た。
しかし、ここでふと誠に疑問が芽生える。
「…そういえば、香織…逃げなかったのか…?」
「…」
返事が返ってこない。どうしたのかと聞こうとした時だった。
「だって嫌だったんだもん!お兄ちゃんがこんなに…こんなに…ボロボロになりながら、戦ってくれたのに…私だけ、逃げるの…?卑怯者だよ…嫌だよ…そんなの…」
「…香織」
「行っても意味無いのは分かってる!来ても何も出来ないのは分かってる!!でも!!!それでも……お兄ちゃんに全て背負わせたくなかったから…」
「…」
「罪悪感で、どうにかなりそうだったんだから…『逃げろ』じゃないわよ…逃げたくないよぉ…」
誠は香織と向き合った。顔は想像通りぐしゃぐしゃだった。
優しく抱きしめる。
「…ごめんな」
「生ぎででよがっだあぁぁ……」
「うん、ありがと」
「うわああああああぁぁぁぁぁああああああぁぁぁあああああああぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁああんんんんんんん!!!!!!!」
頭を撫でた。ひたすらに。
香織は今日何度目か分からない号泣を見せる。
数十秒経ってからやっと香織は落ち着いた。
「大丈夫か、香織?鼻水と涙でぐちゃぐちゃだぞ」
「うん…大丈夫…」
「ならよかったよ」
誠の体は緊張が解け、脱力しきってしまったのと痛み、疲れのおかげでもうほぼ言うことを聞かない。
だが、あとは帰宅だけ、とはいかない。その前にやるべきことがある。
あそこで意識を失っている海人をどうするか、である。
念の為救急車を呼ぶべきなのか、警察に連絡すべきなのか、当然だがこんな経験は初めてなので混乱しまくっていた。
「香織、スマホあるか?」
「あ、あるけど…どうしたの?」
「あいつをどうするかな、と。救急車呼ぶべきなのか警察か、どっちなんだろ…」
「そういえば確かに…」
戸惑うのも仕方ないことだろう。
そのあと、ぶつぶつと二人で話し合った結果、とりあえず警察に連絡を入れようという答えが出た。
そして香織がスマホの電源をつけようとした時だった。
「おっと、それはストップだ」
全く聞いたことのない第三者の声音がこの場に現れた。
『!?』
その声は闇から。
二人は身構える。しかし、誠はもう限界なぞ超えて崩れないように力を入れて立つのがやっと。しかし、香織の前に出て守る態勢に入る。
それを見た黒スーツ姿の男は困った感じだった。
「嫌だなぁ、そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。僕は君達に危害を加えるつもりは全くない」
「お前、海人の仲間なのか?そうじゃないとしても、電話をやめてくれと言ったあたり、信用出来ない」
「そうだねぇ…その質問は少し複雑な回答になっちゃうかな?」
「どういうことだよ…」
「一言で言うと…そうだなぁ…仕事仲間って意味ではイエスだけど、友達的な意味だとノーになるのかな?」
疑問を投げかければそれ以上の疑問が湧き出てくる。
だが、最大の疑問。それは、
「お前は一体何者なんだ…?」
男はすぐこう発した。
「それは答えられないな。なにか大事な情報を差し出してくれる訳でもないのに無意味に言えることじゃない」
「ぐっ…」
「話せることは話すさ。けど、もちろん企業秘密の一つや二つはある。僕にとって有益な情報を持っているのなら、話は別だけどね。僕はただ、この人を回収しに来たっていうのと『今、君の眼に映る僕は悪者だ』とだけ。現状はこれしか言えない」
そう語ってから、身を低くし「あはは…」と笑うと黒スーツに身を包む男は小声で言う。
「ポリ公さ、呼ばれると面倒臭いから」
あいつは殺人犯。何を目的にしてるのかは知らないが海人を回収すると言うんだ。普通ではないことは確かだろう。
止めなきゃいけないと、誠の本能がそう感じた。
「その面倒事を起こしたらどうなる?」
誠は本来ならば考えてから話す。しかし咄嗟に言葉が出てしまい、煽るような形になってしまった。
その瞬間、今まで軽く喋っていた男はとてつもない低音で、
「やめろと言ってるのが聞こえないかな?」
殺気。ただひたすらに恐ろしい殺気。
百獣の王に今から仕留められる小動物のようなそんな気分に襲われる。このたった数秒のやりとりで力の差を見せつけられる。この恐ろしい弾圧に絶対的な服従をせざるを得なかった。
例えこの男と戦って勝敗はどうか、などと考えることすらアホらしい。まず、戦おうと思うことすら許されないほどに黒を纏う男はこの場に君臨している。
誠と香織はその恐怖にただビクビクと震えることしか出来なかった。
二人の怯える姿を見た男は頭に手を当て、やってしまったと首を左右に振っていた。
その時散々二人を押し潰そうとしていた重圧と殺気が途端に霧散した。
「あぁ、やっちゃったなぁ…穏便に済ませたいんだけど、不器用だから上手くできないのが辛いとこよね」
すると今度は男は体全部を使い、必死に言い訳をし始める。
「ごめんね!怖がらせる気は全くなかったんだ!でも、本当に面倒臭いんだよ…上がグチグチうるさいし…」
「上…?」
「あぁなんでもないよ!やっぱ焦るとダメだなぁ、僕」
百八十度性格の入れ替わりに二人は驚愕を隠せなかった。こんなにも、一瞬で空気が変わるものなんだと。
ただ、立ち尽くすしかなかった。
しかし二人の視線に構うことなく、男は明るい声のまま思っていることをそのまま述べる。
「僕が電話で連絡したと判断したら君達の息の根を止めなきゃいけなくなる。でも何回も言うけど、僕は穏便に済ませたい。僕はこの人を回収するだけ。だから、君達を傷つけない。お互いにこの方がベストのはずだ。これで済ませよう、ね?」
頷くことしか、出来なかった。
どこまでも続く圧倒的な余韻が二人の心に居座っていた。
こんなもの、ほぼ脅迫と同じだ。
怯えている原因は全てたった一言のせい。それだけで武力が分かってしまうほどだ。つまり、
どうもがいても誠は勝利に手が届かないということ。それと代替して思考を埋め尽くすのは、誠の命を摘む悪魔が為す笑み。
こう考えていることこそが一番の愚行ということを誠は知らない。
誠が必死に考えている間スーツの男は仕事を遂行しようと意識を失っている海人を肩に担ぐ。
「よい、しょっと。僕はそろそろお邪魔するよ」
「ま、待て!」
「うん、まだ僕に何か話があるのかい?」
「うっ…」
またあの殺気がきたら。そう頭に思い浮かぶだけで体の全機能を停止させるくらいに強力すぎた。
だが、何か言いたいのは誠ではなくその眼前に蹂躙している男だった。
「あ、そうだ。君の戦いとても惨めだったよ?必死に身を削ってるところが特にね」
「あれを見てたのか…!?いつから…」
「最初からだよ。妹さんを逃がすために自己犠牲を選んだあたりとても男らしかったね?」
「なっ…!?!」
「え…??」
最初から…?あの付近に人の気配など微塵も感じなかった。しかも海人と誠が戦闘と言える戦闘をする前から見てる…。だが、一切干渉してこなかった。
頭の処理速度が追いつかない現在、トドメとも言える発言をされる。
「ねぇ、早瀬誠君?それと早瀬香織さん?」
文字通り、頭が真っ白になった。思考を放棄したのか、停止したのか。それすらも考えるのを許さぬ言葉の暴力。
理解するのに情報量の多大さと濃密さに今にも頭の制御装置が故障しそうだった。
「なんで…俺達の、名前…どこで」
「それも企業秘密だ」
「な、何が企業秘密だ!それで全て済む訳ないだろ!」
「誠君、でいいかな?君は自営業向かないからやめた方がいいな」
「お前…っ!」
そうやってからかっているスーツの男は、チラッと腕時計を見ると時間が迫っているのかあわふたしていた。
それじゃ、最後に一言。と呟くとこう言い放つ。
「誠君。君の勇敢さは本物だ。歴然たる力量の格差があろうとも挑む勇敢さ。生憎とそんな輝いたものそうそう持ってるものじゃない。だから僕にとって目を逸らしたくなるほど眩しいものだ。」
ただね?と区切る。すると、ニヤリと笑った。
「その勇敢という文字を履き違えちゃいけない。眩しいが故に見えないこともあるものだから」
「じょ、助言…?」
「うん、心優しいお兄さんからの言葉だよ」
海人を担ぎながら右手を九十度に折り、前に出す。それから丁寧にお辞儀をした。
そして最高の笑顔でもてなす。
「それでは御機嫌よう。愚かにも地獄に足を踏み入れた愚者様」
同時に突風が巻き起こる。勢いがとても強く誠と香織はまともに見ることすら出来ない。
しかしその風が収まった時には異端なる元凶はもう、
いなかった。
恐怖から静寂へと支配権が受け渡され、いつも見慣れた景色が目に映る。
さっきまでの銃声や狂人の叫声が嘘のように。
二人はしばらくの間、硬直を余儀なくされた。
嵐にも似たモノが通り過ぎた後、ひたすらにただ、奇異が辺りを漂っていた。
風が流れる。それは二人を置き去りにし、置き去りにする。
時刻は夜の九時。底無しの闇は深さに塗れ、尚増してゆく。
取り巻く空気は現実のように。