第一話 平和から覗く者
鳥が歌い、桜の蕾が顔を出し笑顔になる頃。
とある家では一般的な『朝の支度』という題名の四重奏が演奏されていた。
母親と思われる人物は朝食を作っている。人物像は落ち着いた顔立ち、それでいてしっかりしている、という印象だ。雰囲気だけでも色気があるのだが、くびれる所と膨らむ所がはっきりしすぎているせいで余計に『大人』という言葉が強調される。
そんな彼女は急ぎながらも料理中、鼻歌を口ずさみ楽しそうだった。使っている素材からするにベーコンエッグという如何にも古典的な、それでいて最速最強のファーストフードを支度している。
手慣れているのか驚きの速さで焼き、皿に載せている。そのせいか忙しなく動く度に、後ろで縛ってあるポニーテールが揺れていた。
父親と思われる人物はスーツを着ながらゴミの分別をし、捨てに行く準備をしている。中年にも関わらず、何歳か若く見える顔の整い様と体格である。体格についてはガチガチではなく適度についた筋肉が更に若さを際立たせている。
こちらも長年の習慣のような手さばきで処理していく。
だが母親が楽しそうにしているのに対し、男は退屈そうだった。
妹と思われる人物は学生服を着終わり、母親の手伝いをしている。ツインテールが特徴な彼女は、『しっかり者でお節介焼きな妹』という言葉をそのまま現実に引っ張ってきた様な外見をしている。
やはりその子の皿や箸の並べ方、白米のよそり方から几帳面な性格が滲み出ていた。
そしてもう一人だが、
二階の別室でいびきという歌唱力を存分に発揮し、その場にあってはならない不協和音を奏でている。
つまり、爆睡中である。
母親の早瀬 和泉や父親の修一は何度も起こしに行ったのだが、何も応答がなかったので最早諦めている。
「起こしてもびくともしない…。先が思いやられるなぁ。」
「えぇ、ほんとに修一さんの言う通りですよ。」
食事中に聞こえてくる幸せそうないびきに和泉と修一は同じタイミングで呆れ全開のため息をついた。
「…。」
一方、妹の香織はいびきが聞こえるたびに眉がピクリと動く。彼女の辞書には『遅刻』の二文字は存在しない。几帳面という言葉を具現化したと言っても過言ではない性格なのだ。故に現在ご立腹中である。
だが、苛立ちを覚えている理由はそれだけではない。自分が真面目に朝食の手伝いをしてるのにも関わらず、兄は寝ているだけで起きたら目の前にご飯が用意されているのだ。これに腹を立てない人間がいたとしたらそれはもう聖人の領域で心が広い。
(私だって朝から辛いけど頑張ってるのよ?なのになんでバカニキは起きてこないのよ!あーもう!!!)
なんとも理不尽すぎる世界を恨みながら、とてつもない(というか最早いつも通りの)顔でエッグの部分に食らいついていた。
朝食を食べ終わるとそれぞれ成すべきことをしに、急いで家から飛び出していく。
やはり香織の顔色は怒りに塗り潰されていたが、あんなやつに怒ってても仕方ないな、と気分転換すると笑顔で通学路についた。
そして両親は?と言うと、耐えることないため息を無限に生産しながら会社に向かっていた。
ただいま絶賛睡眠という幸福を満喫中の男、誠は家族が呆れていることもいざ知らず、平常運転をかましている。
四重奏、もとい三重奏が終了した早瀬家の自宅は、時の流れが止まったかのような静けさに支配された。
ただ、時間という概念を与える機械の秒針が進む音だけ流れる。
そして、
ピピピッ!ピピピッ!!ピピピッ!!!
と静寂で満たされた空間を切り裂くように、誰しも一度は聞いたことのある音が響き渡る。
目覚まし時計が自分の任務を全うしようと、誠を起こすべく暴れだしたのだ。しかし
「うるせぇえええええ!!」
誠が起こしてくれ、と頼んだにも関わらず理不尽な暴力が目覚まし時計を襲う。
「んー!!!!はぁ…」
不機嫌になりながらも渋々起きる。
「少しうるさかったけど、いい朝だなぁ…」
シャーッ!という音と共に太陽が挨拶をする。清々しいおはようが聞こえてきそうな程だ。
誠は百点満点の笑みを浮かべながらブレザーに手を伸ばし着替え始める。
そこでふと、「なんでこんな所に転がってるんだ?」という顔で目覚まし時計を拾い上げる。
すると、先程まで幸せそうな顔がみるみるうちに焦燥に塗り潰された。
「仕返しだ」と言わんばかりに目覚まし時計の針が左向きの直角三角形を綺麗に形作っていたのだ。
ここは神奈川県在天市、まぬけな一人の男の遅刻が確定しただけで今日も平和である。
「遅刻だ遅刻だ遅刻だ遅刻だああああ!!!」
完全に寝坊を決め込んだ男、早瀬 誠は今更ながら急いで身支度を整えている。
学生服を着終わってからバックを背負い込み、自室のドアノブに手をかける。
だが、誠が次にとった行動は、一刻も早く学校に向かわなければならない男がするものではなかった。
「あ、おっとっと。危ない忘れるとこだった。」
Uターンをし、机上に置いてあったペンダントを掴むとそれをズボンの右ポケットに優しく入れた。
これはなんなのか、と言うと小さい頃誠の誕生日プレゼントに和泉と修一が奮発してオーダーメイドで作ってもらったものである。
あの時の二人の笑顔と貰った時の喜びがずっと忘れられなかった。こんなに幸せでいいのか、とすら思うほどに。
だからこそだろう。外出する時は肌身離さず持っているようにしたのだ。
いつまでも最高の瞬間を忘れないように。いつでも充実した満足感を思い出せるように。
だが今のこの男にはそのような時間は許されていない。
慌てて我に返り、急いで卓につき冷めきった朝食をかきこむ。そして家の鍵をかけ、学生の職場に向けてありったけの脚力を使い、走り出した。
疾走途中、雨でも降っていないのに虹がかかるようなあれが口からグッモーニングしそうになる。だがそれを耐え、息を切らしながらなんとか高校の入り口に到着する。そして急いで下駄箱の前に立ち、上履きに履き替える。
『廊下は走るな!』という張り紙を綺麗にガン無視し、廊下を全力で走る誠。
一年である誠は階段を使う必要はなく、廊下を走るだけで自分の教室に着く。
(やっと着いた!!!)
急ブレーキをかけるが止まらない。だがその力を利用しスライド式のドアを勢いよく開ける。
そこには一限目LHR中、担任の秦本が教卓の前に立っていた。
こんな堂々とドアが開く音がしたのだ。気が付かないはずがない。
クラス全員の視線がドア付近一点に集中する。
誠はやってしまった、と今にも泣き出しそうな顔になる。
すると秦本が口を開き、
「君、入学式終わってから初めての授業で遅刻するなんて、中々度胸あるじゃないか。先生嫌いじゃないぞ。」
誠は希望が見えた!と言わんばかりに目に光が戻る。
秦本は笑顔のまま、眉をピクピク震わせて、
「けどね?その度胸をもうちょい違うとこで使って欲しかったな。」
そして誠に近づき、耳元で
「あとで職員室、来てね♪」
綺麗な笑顔を保ったまま、死の呪文を唱えられた。
誠にとって殺害予告と同レベルの事を言われたのだ。衝撃が体を走り回る。
生気を失った誠は口から魂的なあれを出しながら膝から崩れ落ちる。
瞬間、教室は笑い声に包まれた。
誠はこの出来事をきっかけに絶対に遅刻はしない、そう心の底から誓った。
今日も平和である。
「昼飯だぁ…」
誠が学校に着いてから初めて発した言葉だった。
授業中ずっと口から彼の本体的なものが顔を出し、それどころではなかった。
入学早々出だしから失敗したのだ。ある程度の人はそれで落ち込まないはずが無い。
だが落ち込んでる暇もなく、早くも教室内でグループが確立されていく。だが、誠はグループに入ろうとはしなかった。
いや、正しく言うと入れないのである。
コミュ障なのだから。
(や、やばいぞ…皆もう固定メンツみたいなの作ってる…!ど、どうしよ…。)
ここで彼は焦っているのを悟られないように、あえて余裕の雰囲気を醸し出した。
一見すると彼は頬杖をつき、窓の外を見て黄昏ているイケメンな男子高校生だ。
だが、内心めちゃくちゃ焦っている。
誠のルックスは決して低くない。むしろ高い。
少しボサボサの薄めの茶髪。だが決してだらしなく見えない、それでいて父と母譲りの綺麗な顔立ち、そして175cmという少し高身長な肉体。
だからなのか、黄昏れる(もとい焦っている)誠にある一定数の女子達が目を奪われていた。
女子にとって朝のみっともない姿なぞこの何気ない一コマで全て帳消し、くらいにはインパクトが強かった。
だが当の本人は気づかない。それどころか余計にびっしりと冷や汗を顔から滲ませている。
勝手に便所飯まで妄想を膨らませ、まぢゃみ状態になりかけたその時、
「まことおおおおおおおお!!!!!はいるか?」
バン!!とスライドドアが壊れるのでは、と心配になるくらい思いっきりドアが開けられる。
その音と共にクラス一同の体は驚いた猫のように体が跳ねた。
そして誠の前までズカズカ歩いてきて持参の昼飯を見せると、
「まーこと!弁当、一緒に食べよ?」
と、とてつもなく明るい笑顔で誘われた。
彼女は桜井 鈴華、幼稚園からの幼馴染で何かと誠に着いてくる元気な女の子だ。
陸上部のハードル走をしているせいか走る時邪魔にならない程度のショートヘア。運動をしているのもあり、筋繊がとれつつも女性の魅力を存分に発揮している豊満な肉付き。
おかげで今度はクラスの男子の目を奪う。
元気な彼女は不思議に人を惹きつける力と元気づける力を持っている。
多分彼女そのものが明るい、というのも理由の一つだろう。
「び、びっくりしたな鈴。一緒に食べるから静かに入ってきてくれ。」
「えへへ、ごめんね〜。」
ぽかんとした誠は状況をやっと理解出来たらしく、ようやく口を動かした。
てへぺろ顔で謝る鈴華の顔を見て相変わらずだな、とどこか安心した。
自然と顔が微笑む。
「んじゃ、屋上で食べるか?」
「賛成であります!隊長!」
「隊長じゃないっつの。」
席を立ちながら、下らなくも楽しいやりとりを行い、目的地を目指す。
本人は隠しているつもりなのだが、誠の足取りは今から遠足に行く小学生のそれだった。
(やった!鈴がいた!便所飯を回避できたんだ…!)
瞳に涙を溜めながら、右拳でガッツポーズをしながら歩く。
それとは逆に誠の行為の真意が理解出来ない鈴華は頭に「?」と浮かび上がらせ、きょとんとしていた。
そうして楽しそうな冗談やノリが次第に教室から遠のいていく。
如何にもリア充オーラ全開のやりとりを目の前で見せつけられ、取り残されたクラスメイト全員は「チッ!!」と舌打ちをした。
屋上についた誠と鈴華は弁当を広げ始めた。
座りながら少しあたりを見渡すと、男同士または女同士で昼を済ませていたり、カップルと思われる男女が伝説のアレ『あーん』をしているのが見えた。「俺には縁の無いものだな」と誠は心の中で思い、無視した。
鈴華は弁当だが、誠のは学食で買った焼きそばパンとタッパにつまっているチャーハンだ。
「誠は悪い食生活してるな。そんなんじゃ力も出ないし、健康にも悪いんだぞ。」
「うぅ…。し、仕方ないだろ学食にサラダが無いのが悪い。」
「確かあったぞ?ただ学食に行くのが遅かっただけだな。」
「えぇ!?もっと早めに行くことにするか。」
はぁ、とひとつため息をすると買ってきた焼きそばパンに齧り付いた。
鈴華は包を開き終え、蓋を開ける。すると、色鮮やかな品目の数々が姿を現した。
誠の焼きそばパンとチャーハンというなんとも素朴な手持ちに比べて、鈴華のそれは輝いて見えた。
気になるのは当然だった。
「じーっ…。」
「な、なんだよ。愛情こめて作った自作弁当なんだぞ。」
「えぇ!?自作なの!!?」
▽『うらやましい』と『じさく』のダブルパンチをくらったまことはせいしんてきに30のダメージ!
因みに誠の弁当はちゃんと用意してあった。ただ急いでいたため視野が小さくなり、見落としていただけである。
たった今、誠の夕食が確定した。
「お前、料理出来たのか。」
「何その言い方!ちょっと傷ついたんだけど!」
乙女心のoの字もわからない男は思ったことを素直に口にする。
その後少し顔を赤らめつつ、小声で
「わ、私だってぇ、女の子なんだからぁ…。」
「何か言ったか?」と言う言葉に対し、「な、なんでもない!」と鈴華は慌てて返した。
ほんとに聞き取れなかった誠は何度か聞き直したが、なんでもないの一点張りだったので疑問は残るが渋々触れないことにした。
それから沈黙が続きながらの昼食だがそれが嫌だったのか、鈴華が強引気味に会話の話題を振る。
「あ、あのさ!今日の朝やってたニュース見た?」
「え、なんかやってたのか?」
あまりテレビを見ない誠にとって、それを知っている訳がない(というか今日寝坊して見ている暇がない)。当然、その話題には食らいついた。
「なんか、ここの付近で怪奇連続殺人事件が起きてるらしいよ。」
「うわ、まじか…。在天市ってそんな物騒だったっけ?」
「しかも、一番怖いのが殺害された人達って必ず人の原形を留めてないんだって…。」
「なんだよそれ…。」
楽しかった雰囲気が一転し、微妙に重苦しい雰囲気になる。
話題がないため、とりあえずこれ!と出したはいいがまさかこんなことを言うとは自分でも思っていなかったのか、鈴華は少しあわふたしていた。
それとは逆に誠は拳をグッと強く握りしめた。震えているのがすぐに分かるくらいに。
そして誠は完全に怒った声で、
「なんで、なんで…。人同士なのに、こんなこと…。」
この男は、とても純粋な理由で怒りを募らせていた。
どんな理由であれ、『殺人』という行為はしてはいけない。誠はそう思っている。
例え、生きるために仕方がなかったとしても、それが故意ではなかったとしても。
これらが許されるのならば、『してはいけないこと』が『特定の理由さえあれば』容易に出来ることになる。
それが示す意味は、『してはいけないことの肯定』である。
何もそれらを犯した者達を責める訳ではない。ただ、罪が消える過程が許せないだけなのだ。
そのような考え方をしているからこそ、誠は燃え焦げるような憤怒を隠しきれなかったのだ。
それに気付いた鈴華は申し訳なさそうな顔をして、俯く。
そして大きく深呼吸すると、
「ご、ごめんね?ただ物騒だから気をつけて、って言いたかっただけだから。」
相手を気遣った優しい声音で言う。
対して誠は、
「いや、鈴は何も悪くないだろ。いちいちそういうニュースに腹を立てるなんて、変わり者な俺ぐらいだ。こっちこそ気を使わせてごめん。」
そう言いながら頭を下げた。
誠らしいな、と思った鈴華は自然と笑顔になる。
そして歯も見えるほどの笑みを見せると、自分の弁当のあるものを箸で切り、
「でも私の気が収まらないから、はいこれ!」
「ん、どうしたn」
言葉が遮られる。
誠は自分の目で見ようと頭をあげた瞬間、口に何かが含まれるのが分かった。
「あむ…ふむふむ。お、これハンバーグか。」
「正解、美味しいでしょ!」
「うん、すっげぇ美味しい!」
鈴華の行動をきっかけに今までの重苦しさが風に乗って流されていく。
しかし、今度は誠が何も喋らなくなり下を向いてしまった。
何か気に触れるようなこと、またはハンバーグになにか入ってた?と困惑気味になる。
雰囲気を変えようとした事だったのだが、これでは元も子もない。
鈴華は真剣な顔で、
「だ、大丈夫か?気分が悪くなったなら保健室行く?」
と眩しいくらいの優しさを発揮した。
誠は震えた声で、
「い、いや、その」
とだけしか言わなかった。
これは絶対体調悪い、と確信した鈴華は猛烈に心配になり、
「無理はいけないぞ!ほら、早く保健室行こう。まだ昼休み時間あるし余裕持って行けr」
「ち、違うってば!」
焦る気持ちが隠しきれず立ってしまった鈴華は、そのまま向かう準備完璧だった。
だが、それも誠の少し大きい声に動きを止められてしまう。
そして、小さく誠が震えてる声で呟いているのに気づいた。
「…つ…す」
「?」と首を横に傾ける。この距離では聞こえないので誠との距離を縮める。
顔と顔がくっつくくらいまで接近した。
すると誠は視線を逸らしながら、ほんとにギリギリ聞き取れるくらいの声で
「か、関節、キス…」
想像していた返答とは遥かにかけ離れたものだったため、理解するのに数秒かかった。
そして、自分のした行動を思い出した鈴華は
「ひゃっ!!?」
目を見開き、みるみるうちに髪の毛まで赤くなる勢いで『羞恥』という言葉が鈴華の顔一面を覆う。
頭から湯気を出し、沸騰するくらい熱くなる。それと同時に心臓が目を覚ましたようにリズムよく、かつとても元気に波を打つ。
誠はこんな声を今まで彼女から聞いたことがなかった。
ただでさえ思い出して恥ずかしかったのが、先の声と鈴華の赤面が頭の中で響いて更に酷くなる。反響してそれが鮮明に蘇る度、顔が余計に真っ赤になった。
恥ずかしさというゲージを振り切り、紅葉にはまだ早い季節だが、それに引けを取らない紅色で顔を染める。
お互い、下を向いたまま黙り込んでしまった。
女はゆっくり座ると自分の弁当を物凄い勢いで食し始めた。
男もまた、今は必要ない速さでチャーハンをかきこむ。
それからの二人は昼食の間、一言も言の葉を交わさなかった。
誠は現在掃除中。
これは学校全体がする掃除ではなく放課後の掃除だ。
言うなれば、遅刻のペナルティである。
「ったく、掃除した直後に教室を掃除させるかよ…。」
文句を言いつつも自分がしたことの清算をしている。
誠は担任の秦本とのやりとりを思い出していた。
〇 〇 〇 〇 〇
「それじゃ、早瀬くんには遅刻のバツとして教室の細かいとこを掃除してもらおうかな。」
初日の授業に堂々と遅刻をかました男は担任に言われた通り、職員室に来ていた。
もっとキツいことを命令されると想像していたので少し返事に遅れる。
「は、はい!」
うん、いい返事だね。と笑顔で言われた。
秦本 一希(名前は職員室に来た直後教えて貰った)は二十代後半だろうと誠は思った。眼鏡が似合っているが少しだらしない髪の毛と服装、だが決して不良というイメージを持たせることはなかった。彼の顔がおっとりしている、つまりは優しい顔だからだ。
そんなことを思いつつ、掃除するため職員室の出口に向け踏み出そうとすると、秦本は笑顔のまま
「あ、そういえば掃除頑張ってくれたら遅刻なかったことにするからさ。」
多分、これは他の先生に聞かれてはいけないことなのだろう。また耳元で優しく囁かれた。
誠は心の内側から喜ぶというものを数年ぶりくらいに感じた。
新学期ということもあって、先生なりに気を利かせてくれたということを理解する。
(いい先生に恵まれたな…)
と思うと秦本の笑顔に釣られるように誠も顔で喜びを表した。
そして自分のミッションを開始するため、職員室を後にした。
〇 〇 〇 〇 〇
職員室でのやりとりを思い出し、やっぱりいい先生だなぁと自然と笑む。
担任の笑顔パワーというやつなのか苦ではなかった。掃除ももう少しで終わり、という所まで来た時だった。
グラウンドに人影が見えた。
それはサッカー部でも、陸上部でも、野球部でもない。
これらの部活は確かに外で行い、グラウンドを使用する。だが、そういう部ではない、それが一目見てわかるくらいには異質だった。
そして何よりも一番不気味なのが、グラウンドの真ん中に堂々と突っ立っているのにも関わらず、周囲の人間は一切違和感を感じ取っていない。
もっと分かり易くいうならば、まるで、その人影が見えないみたいだった。
目の前の光景が信じられず、誠の身体は不気味さを余すことなく感じ取った。全身が鳥肌で覆われる。
誠はまだ知らない。
定義する内容によって、色々と変わってくるだろう。
だが、ひとつのパターンとして、自分の身を自分で滅ぼす際、一番怖いのは恐怖でも絶望でもない。
『好奇心』である。
どんなものがあるのか、あれはなんなのか、こうした子供のような探究心にも似た何気ないものだ。
本人はただ、そんな深い意味はなく眼前のモノの正体を知りたいだけ、というシンプルな理由だろう。
だからこそ、その正体が鬼や悪魔の類だった時が恐ろしいのだ。
自分のちょっとした欲求を満たす為だけに、決断し、行動した結果の先に待ち受けるものが恐怖なのだ。代表的な例として心霊体験などまさにこれに該当するだろう。
ワクワクから一気に谷底に落とされ、『楽しさ』から『後悔』の一色に支配される。その時の絶望は計り知れない。
誠もその一つだった。
怖さや不気味さというものより『好奇心』が心中で勝ってしまった。
ガラス越しでその人影がなんなのか、凝視する。
だが、近いとも遠いとも言えない距離にいるため具体的な容姿やら確認出来ない。もっとよく見たいと目を凝らして数秒した時だった。
ゴゥウウ!!!!!と唐突な爆風が吹き荒れた。
さっきまで風ひとつなかった。なのにこんな強風がなんの前兆もなく襲いかかってきた。
風によりガラスが叩きつけられ、外れると思うくらい激しく揺れる。
この時、初めて誠は見てはいけないモノなのだと理解した。
体を包むものが『不気味さ』から『恐怖』に変貌を遂げる。体が全身で危険信号を発した。
気付いたら誠はしゃがみこみ、相手にバレない様な態勢を取っていた。
(な、なんだよあれ…なんで皆あの人影に気付かないんだよ!どうしてあんな突風起きてるのに平然としてられるんだよ!)
やっと自分がさっきまでとっていた行動の愚かさを知った。物事の整理が出来ず、考えが渦になって流れる。混乱する誠の背中を押す様に、暴風の勢いが増していく。
思考がぐちゃぐちゃにかき回され、完全にパニックになる寸前で、
「早瀬く〜ん、そろそろ終わったかな?」
おっとりした声とともにガラガラと秦本がドアを開けた。
予定していた終了時間よりも時間が過ぎていたため、どうしたのかと見に来たのだ。
時計の針はもう五時を過ぎている。
そこには体操座りでガタガタ震えている誠がいた。
それを目に止めてはクスクス笑い、
「何やってるの早瀬くん。掃除してるんじゃなかったの?」
「でも!かぜが、風が強くてですね!」
「風が強くてそんな怖がるかい?ていうか風なら収まってるみたいだけど。」
え?と少し間抜けな声を出しながらガラスを見る。すると、秦本の言う通りピタッと収まっていた。
だが、誠は人影を見た。あれが元凶だと思い、それを秦本に説明する。
「それと信じてもらえないかも知れませんが、人影を見たんです。」
「人ならいろんな部活が使用してるからね。」
「そうじゃなくて、なんていうか…明らかに部の人達じゃないって言うか。」
「うーん…?」
この反応だと秦本先生も見てないのか、と思いこの話は終わりにする。
「すみません、多分見間違いです。何でもないです。」
「ごめんね、力になれなくて。見てればスケッチしたりするのに。」
「あ、いや、そこまでしなくて大丈夫です…。」
さっきまでのはなんだったのか、と思うくらい一気に日常に引き戻された感覚を覚える。
こんな怖い出来事なんてテレビでしか見なかったが、まさか自分が体験するとは思わなかった。安心という温かいものが心から広がっていく。
そこで秦本が心配しながら誠に声をかける。
「早瀬くんも疲れたでしょ。遅刻して辛かったのにこんな事までさせてほんとにごめんね。でも、これが学校のルールみたいなものなんだ。」
「い、いえ。結果的には俺が全部悪いので。」
「今日はもう大丈夫だよ。帰ってゆっくり休んでね。」
「はい。」
普通なら何言ってるんだと引かれたりすると思っていたが、それをせずむしろ生徒の身の心配までしている。
本当に先生に恵まれた、と誠は思った。
確かに疲れと切羽詰まっていたせいで幻覚でも見たのか?と軽く思いつつ、身支度を整え秦本に一礼をし教室から出ていく。
「気をつけて帰るんだよ!」と秦本が大きめな声で言うのが聞こえた。
それに答えるように「はい!」と返事をした。
しかし、学校から出てグラウンドから校門に向かう時、サッカー部や陸上部が唐突なあの暴風の話をしている声が耳に入ってきた。
耳をすましてよく聞いてみると、姿は見えなかったものの風だけは分かったのだという。
もう体験することもないだろう。そう思い込むと逃げるように家路に着いた。
「ただいま〜」
あれから早瀬家の長男は二十分くらい足を進めると自宅に到着した。
本来ならば残っていた誠より香織の方が早く着くのだが、香織はバレーボール部に所属しているため帰りが誠より遅い。
そのため、家族は誰もいない。
しかし、玄関で靴を脱ぐと『帰ってきた』という安心感が出迎えてくれた。
今日も一日が終わった、と感じた瞬間気付かないうちに溜め込んでたらしい疲れが一気に襲いかかる。だが、誠は不思議とこの感覚が嫌いではない。
ブレザーを脱いだりベルトを外したりしつつ、二階の自室に向かう。
自室に入るとポケットに入れてあるペンダントを机の上にそっと置く。コツッ、とペンダントの音と同タイミングで急いで部屋着に着替える。そしてベットにダイブした。
そして天井を見つめながら、今日の出来事を振り返る。
「今日は色んなことがあったな…。とことん運がなかったし。」
そう、今日は本当に、色々なことが起こった。
遅刻をしたり、鈴と一緒に昼を食べて関せt
「ああああなんでもないなんでもない!」
屋上での出来事を思い出し、再び顔が真っ赤になる。それをかき消すように大声を出した。
そして何事もなかった事のようにまた今日の出来事を振り返る。そこで顔の雲行きが悪くなる。
「放課後の…人影と暴風…。」
あの出来事は見てはいけないものだった。幽霊にも似た存在。
人影は結局ストレスによる幻覚だと思うしかなかった。自分しか見えていないからその考えに至った。
だが、やはり頭から離れなかった。ぼーっとしてるとすぐこのことが頭をよぎる。
気付いたら結局あれはなんなのか、ということだけ考えていた。
もちろん情報量が少なすぎるため何かわかる訳でも、ましてや答えが出る訳でもない。
だが、考えずにはいられなかった。
自分なりに色々考えていた。すると、眠気が突然目を覚ました。ただでさえ疲れていたのが、あの時の緊張から解放された安堵感、今日の積み重なった出来事、これらが全てのしかかってきたからだ。
だんだん上手く考えることが出来なくなり、目の前がぼやけてくる。その時初めて心の帯を緩めた。瞬間、とてつもない疲れと気だるさが体から滲み出る。
誠は抗うことなく意識を傾ける。
そのままゆっくりと毛布が誠を包み込んだ。
ここはどこだろう。
淡い青色がどこまでも続いている。
一色しかない単純な世界だったが、どこか綺麗だと感じた。
見とれること数秒、じっとしてても始まらないのでとりあえず歩いてみることに決めた。
歩んでいるのに足音は一切しない。ほんとに進んでいるのかと疑問に思うくらいだった。それに加え、体の感覚が妙にしっかりあるのが少し気持ち悪かった。
どれくらい経ったのか、時間の感覚も分からないが遠くに女性が見えた。
誰かも分からないその人は必死に何かを叫んでいた。
ただ叫んでいることしか分からず、はっきり聞くために近寄ろうと走る。だが距離が縮まらない。それどころか遠のいて行く。
遠のいて行く速度は収まらず、彼女が点になり見えなくなりかけた時、
「助けて。」
離れすぎているのに耳元から声がした。誰かいるのかと急いで後ろを振り向く。
だが、誰もいなかった。
不可解な現象に身の毛がよだつ。一から十まで理解ができないのだ、至極当然である。
さっきの『好奇心』の恐怖にも似たモノが全身に話しかけてきた。
だが、ここでじっとしている訳にもいかない。叫んでいた彼女を追いかける以外何も手がかりがない。会って貴方は誰なのか、ここはどこなのか、それを聞こうと思った。
そう思いながら振り返った。すると、さっきまでの彼女がいない。まるで元からそこに何もいなかったと断言するように。
「何が…どうなってるんだよ…。」
自然とこの言葉が漏れた。こんな事ことが起こり、平然を保ってられる人などごくひと握りだ。
完全に頭の処理が追いついていなかったが、この世界はちっぽけな男一人のためだけに待ってはくれない。
考える暇を与えない、と言わんばかりに次の出来事が起こる。
空に穴が空いた。
穴というよりかは目の前に黒い丸が出来た、という表現の方が適切だろう。
あまりにも現実離れした現象に思わず目を見開いた。自身の色々な感情を混ざり合い複雑になっていき、次第に敬称を付け難いものとなった。その表れとして手足が震える。
そして立て続けに穴を起点として空間にヒビが入った。この空間に誰かが攻撃でもしているみたいだった。
徐々にヒビが広がっていく。それと同時に足元が大きく揺れる。穴のせいでヒビが広がっていくのか、揺れのせいなのか、とてもじゃないが物事を冷静に考えられるような落ち着きはもう失われていた。
恐怖のあまり訳も分からず両手で頭を抑えようとした。その時、ふと違和感を感じ手を見る。
ヒビが自分の体も壊そうと侵食を始めていた。
「うわあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
大声を発しつつ、ベットから勢い良く上半身を起こす。少しの間ぼーっとしてると寝ている脳が目を覚ましてきた。
「ゆ、夢か…。」
時計を見ると十八時少し過ぎたくらいだった。大体三十分くらいしか寝れていない。
息が荒いことに気付く。そして嫌な汗が体にまとわりついていた。ようはうなされていたのである。
汗をかいて妙にベタベタしていて気持ち悪かったので、風呂に入るべく掃除をしてからお湯を張る。
十八時三十分頃には誠は入浴していた。
あの夢は何故かはっきりと覚えている。この種類の夢は見たこともなかった。
だが放課後の出来事とは違い、あまり深く考えなかった。放課後の事を考えこんであんな夢を見たから、という理由もあったが何よりもう疲労が溜まりすぎてそんな余裕はなかった。
湯船に浸かりながらただひたすら風呂場の天井を見つめた。
十数年間この天井を見てきたはずなのにどこか知らない場所みたいに感じた。