第十一話『無力は夜に吠える』
「おい…どうしたんだよ?」
ドアノブを押した先にあった光景は、斜め前に倒れ、膝に手をつき激しい息切れを起こしている鈴華だった。
無意識が心配を言葉にした。
この時に初めて玄関に向かう際の不気味さを視覚で理解した。
その瞬間、誠は何かを反射的に悟り、全身に電撃が走った。
困惑していた表情より一転し、真面目さが張り詰めた目付きへ変わる。
今、誠が出来るのは現状の整理だ。
鈴華がなぜここにいるのか、なぜこんなにも荒々しく呼吸をしているのか。慎重に観察する。
顔を下に向けているにも関わらず、大量の汗が滲んでいるのが簡単に分かる。
頭髪は走ってきた強風によって掻き乱されたのだろう。整えるどころか跳ねている毛が何本かあった。
何よりも、靴を履いていなかった。
この時、誠は唐突に今日の記憶を自分が行える最大の速度で参照していた。
今日起きた事は、『新たな敵襲』。
いや、それを思い出すだけでは足りない。
光が発現せず、死にかけた。
しかし、手探りなもののきっかけを自らで掴み、勝ちを得た。
その後、鈴華を家に送り届ける事にしたのだ。
そこで脳は参照の命令から演算処理へと切り替わる。
では、何故鈴を自宅まで送るということを発案したのだろうか…?
(…待て、考えるな)
マイナスな考えばかりが脳裏を過ぎる。
そう深く思案すればするほど複雑に縺れていく。
その糸は切れず、燃えず、伸びていき、決して解けることは無い。
平常心というものは徐々に欠けていった。
本人の意思なぞ関係なく、負にのめり込む脳の回転は止まらない。
(やめろ…!きっと違う……。俺の考え過ぎだ!!)
「ま、こと…。お願い……助けて…………」
しかし現実は、
「お母さんが!!お母さんが!!!!!!」
少年の淡い望みさえ、平然と踏み潰した。
夜の帳が降りた暗い街を蒼い影が奔る。
焦燥で急く影は、女子を一人抱えながら最高速度で地を鳴らす。
先程まで息を大きく乱していた彼女よりも遥かに荒らげながら。
「鈴!!!!!桃華さんが攫われたってのは本当なのか!!!!!?」
喋れずとも、鈴華は誠の腕の中で頷いた。
桜井 桃華。鈴華の母親である。
おっとりとした顔立ちに黒髪長髪、いつも笑顔で優しさが擬人化したような人だと誠は記憶している。
しかし、父の方は鈴華が産まれてから間もなく他界している。
鈴華曰く、とても正義感が強く職業は警察だったらしい。
ただ亡くなったと鈴華に聞いただけの誠は、それ以上の詳しい情報は知らない。
つまり現在鈴華は母親と二人暮らしだ。
その大事なたった一人しかいない家族がこんな酷い目に遭遇してしまっている。
無情さが二人を締め付けた。
そうやって感情が込み上げる度に、風を切る音は激しさを増していく。
護ると誓ったんだ。
周りにいる人達の不安を拭い、過酷さを跳ね除け、安心を約束しなければならない。
それが早瀬誠という男の義務だから。
「ちょいと我慢しろよ…!もう少しで鈴ん家だッ!!!!!」
その時だった。
「そんな急いでどこ行くんだ?」
「ッッ!!!!!!!???!」
耳から伝達した情報を処理する前に反射的に停止の体勢に入った。
最高速度の勢いを殺すため、裸足のまま地と接触しながら、粉塵と共にコンクリートを削っていく。
完全に止まった誠は、抱えてる鈴華を優しく降ろした。
暗く静かな空間で、蒼く燃える瞳は背後を睨みつける。
「おいおい怖いなぁ。疑問投げかけた答えがその顔ってか??俺は一般通行人だってのに」
歳は誠と同じくらいだろうか。
少し鋭い目付きとナチュラルな束感マッシュの髪型、全体的にさわやかな服装の男が立っていた。
そのことに対しガラ混じりの返答をする。
「鈴の家付近でウロついてて、鈴を抱えてる俺にピンポイントで意味深な発言する奴が怪しくないとでも?」
真剣に憤っている誠は見えないとでも言うのか、この場に似つかない無邪気さが上書きされた。
「ハッハッハ!そりゃそうか!!」
時期に音すら響かない虚無が出来上がる。
無言で眼力を送る誠を見るや、その青年は肩をすくめた。
「いやぁね?俺だってこんな事したくないのよぉ?心痛むしさ。でもね、仕事だからしょうがないじゃな〜い」
「言ってる事と態度が伴ってねえぞ」
誠は力強く足を地に突き出す。
二人は見つめ合う。
蒼さを映す宝石は、強く握りしめられる度に外界の影響の範囲を広げていく。
それに比べ目の前の男は、首を回したり屈伸したりと準備運動の動作を淡々と行っていた。
それらをゆっくりと終わらせた後、
「それじゃ、娘さんの方も攫っちゃっていいっすか?」
瞬間、光が一辺に飛び散り、チェーンが不規則に乱れる。
「させる訳ねぇだろ」
善意と悪意は成すべきことを全うしようと、使命を元に衝突した。
湯気が立っている。準備していたシメが出来上がったからだ。
しかし、それを提案した本人がこの場に見当たらない。
いつも彼女の隣に座る彼が空白なのだ。
「お兄ちゃんリゾット出来たよ〜!!?」
少し前からこうして大声で呼んでいるのだが、足音どころか気配すら感じない。
「誠はどこにいったんだ?」
「随分遅いわね…。どうしたのかしら」
時間は虚しく過ぎていくだけで心配だけが募っていく。
(もしかして、また危ない事に巻き込まれてるんじゃ…)
だが、ふとここで香織は思い出した。
着信音が鳴り続けるスマホを持ちながら、席を外したのを。
「あっ!そういえば、お兄ちゃん電話出てたから反応できないんじゃないかな?」
「そうかそうか。それは仕方ないな」
「あら、そうなの。二人共冷めないうちに食べちゃいましょ」
「僕が誠の分けとくから、二人は存分に食べな」
無駄に膨らんだ不安が少しずつ萎んでいくのを実感した。
では改めて、とスプーンに手をつけ鍋へと伸ばした時、何気ない疑問が香織の脳裏に過ぎった。
廊下を話しているお兄ちゃんの声は聞こえた。
けれど、
…お兄ちゃんが二階へ上がる音を聞いていない。
鍋へと伸ばされた食器がピタリと止まった。
自然とドアの方へ視線が移る。
香織はゆっくりと席を立つと、まるでドアの先にとてつもなく恐ろしいものが待ち受けているかのような足取りで一歩一歩を踏みしめた。
そして、慎重にドアノブを回し、その先を覗く。
当然何が待っているという訳ではなく、いつも通りの自宅の廊下だ。
何がそこまで不安感を駆り立てたのか、香織自身も分からず困惑していた。
勝手に強ばったせいで必要以上に疲れ、深い溜息が肺から漏れた。
しかし、安堵して数秒。
冷風が肌寒さを運びながら、香織の頬を通過した。
その冷風に煽られるように再び不安がぶり返す。
心休まらないまま、冷風が吹く方へと振り向いた。
見えたのは玄関。
けれども、ドアが開きっぱなしだった。
開放された奥すら確認出来ない暗い闇の向こう側からそれは来ていた。
汗が伝う。
やがて、許容量を超えた不安は危惧という言葉に変貌を遂げる。
香織は呑み込まれてしまいそうな闇を凝視しながら、その震える唇を動かした。
「お兄ちゃん………………?」
振り絞るも、暗黒に虚しく響いた。
「なるほどぉ。こんなもんかぁ」
「はぁ…はぁ…はぁ……」
打ち合って十分弱。疲労を形にするものと、爽やかな表情を崩さないその優劣が早くも出来上がっていた。
答えは単純明快。
誠が何発相手に叩き込もうとしても、寸前で止まるのからである。
「しっかしぃこの破壊力は正直驚いた。当たれば一溜りもねぇだろうけど、それをさせなきゃいい。妥当な考え方だろ?」
(確かに一撃で十分だ。けど、易々とさせる気はねぇってことか…)
相手は気安く「一溜りもない破壊力」と言ったが、それの防御を完璧にこなしている事。
そして、守る手段を一切悟らせない配慮。
これはあくまで誠の直感でしかないが、相手は場数をある程度踏み続けた手練だと確証に限りなく近い確信が持てた。
比べて誠は昨日今日の実践経験がたった二回しかない正真正銘の素人。
ここからどう起死回生出来るのだろうか。己の持った力をどう扱えばこの危機を回避出来るのだろうか。
乱れた呼吸を整えつつ注意深く観察しているときだった。
「……………ッ!!!!?」
誠の足元から得体の知れないものが襲ってきた。
咄嗟の出来事に思わず距離をとってしまったが、幸いな事に速度自体はそこまで速くはない。
それを目視で確認しようとするも、それが許されるほど呑気な状況下では無い。
そうして、注意力を前に立つ男に更に向けて、
誠の腹部を起点として衝撃が走った。
「ごッッッッッッ、………………ばぁァァァァァァァあああ!!?」
込み上げる胃液が体内を循環していた酸素を巻き込みながら、勢いよく口から出た。
それでもなお力の波は収まらない。
むしろ威力は重さと鋭さを兼ね備え、時間が経過するほどそれは増していった。
そして蓄積の限界点まで達してから訪れる、
暴発。
ピンッ。と指の弾く音。
そこから誠の意識は暗転した。
彼女は立ち竦む。
誠からこういうものだと話には聞いていた。
しかし、実際それらを目の前にした時、あまりの現実感の無さにただ唖然とするしかなかった。
情報量の渋滞が混乱を生み、同時に置かれている立場を、恐怖が丸ごと呑み込んだ。
しかし、吐き出す誠の声により現実に引き戻される。
彼の腹部には何かが押し込まれているのが見えた。
しかし、今は夜であり視界が悪いということもあって、それの正体というのはまるで分からなかった。
目を凝らし冷静に物事を認識していたが、遅れて怯えがだんだんと這い上がってくる。
今日の朝も誠が腹を拳で貫かれた時、天使の力がなければ誠を永遠に失っていた。
そもそも、香織が襲われた時もニュースで放送される被害者の一人に数えられてもなんら不思議では無かったのだ。
そして、彼女の眼前には一方的な程に蹂躙される英雄がいる。
その英雄を全力で支えると昔に誓った。
その心は本物だ。偽りではない。
では、
果たして私は誰かを、いや大切だと思う人を支える事は出来ているのだろうか。
……………………………………………………。
…………。
……ただ憧れただけじゃないか。
…………眩しすぎて、ただ見とれていただけじゃないか。
私がどうにかすべき問題を善良な赤の他人に押し付けた。
みっともなくすがりついただけで、大事な人を命の危険に引きずりこんだ犯人じゃないか。
目から何かが溢れる。
「ま、誠…………」
震えた声も後方に吹き飛ばされる誠の衝撃波が全てかき消された。
飛ばされた彼はピクリとも動かない。
振り絞った勇気も尽き、膝から崩れ落ちた。
「ごめんね…、ごめんね…………」
そこから動けない鈴華を見向きもしないで、男は呟く。
「まぁ泣くなって。彼は素人なりに君を守ろうとよく頑張ってたぞ」
誠との距離を一歩ずつ着々と進めながら、拍手を送る。
だが、決して眼の底は明るいものではなかった。
「でも、『魔術』が扱えたってことは、それは少なからず不安の種だ。それに……」
と何かを言いかけたが、ため息で独り言が絶たれた。
それをかき消すように、周囲の空気が更に引き締まる。
「結局君は何者だったのか分からないが、君はここで消えてもらおうかな」
「…………お前が、悪いわけじゃ、ない…だろ……鈴」
「ッ!?!!?!!!!?」
何をやっているんだ、早瀬誠。
敵との戦闘中に居眠りとは随分お気楽じゃないか。
守ると誓った人を悲しませて、実際は泣かせてばかりだ。
今は非力で仕方ない幼いあの頃ではないのだ。
「す、凄いねぇ…君。これ受けて意識ある人は初めて見た………」
骨が軋んでもいい。腕から血が噴き出してもいい。筋肉が断裂してもいい。
しかし、
「で、今の君に何ができるんだい?」
体が思うように動かない。
せいぜい立とうと地に手を着くことが精一杯だった。
「誠ぉぉおおおおおおおお!!!!もういいから…無理しなくて、いいから………」
「……はぁはぁ、…そんな、こと…………出来るか」
鈴華があんなに必死に叫んでいるのも、号泣しているのも初めて見た。
不安にさせまいとできる限りの声をかけたのが、ただの強がりになってしまった。
英雄にあるまじき状態。
こんなことをしたいからヒーローを目指したのでは無い。
幼馴染みのあんな泣いた顔を見る為に志したのでは無い。
「感動的だけどぉ…ただそれだけだ」
結果的に早瀬誠という男の血と汗を飲み込みながら振り絞る努力は、相手の愉悦を彩りを与える一つにしかなっていない。
それが、何よりも悔しかった。
「ォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!」
そんな感情に負けず、雄叫びと共に両腕に全力を込める。
しかし、それだけで好転するほど現状は甘くない。
「ただ邪魔だから掃除しとこうってだけだったけど、気が変わったよ」
その男は誠を見下しながら、気を緩めず呼吸を整える。
口調は変えず、しかし態度からは冷気さえ感じた。
「ちゃんと君は殺そう」
今立たねば、桃華さんが危険な目に晒されている。
自分が連れ出さねばいけないのだ。
そして今度は、鈴が…………………………。
そうして、両手が完全に機能を停止した。
ガクッと視点が下へ揺れる。
誠の目の前には敵と思われる靴。
倒さねばならない敵の足元を、這い蹲って目の奥に収めてしまうこの視点を全く違う何かに塗り潰したくて仕方がなかった。
意思はどこにも響かず、聞こえぬ悲鳴は己を乾かす。
強く噛み締めすぎて、歯茎から血が出ているのを誠は気付かなかった。
「それじゃぁね」
男はゆっくりと誠に手をかざした。
それは到底命を奪える行為には見えなかったが、きっと誠の理解の範疇から飛び出た『何か』で殺せるのだろう。
そう、何もかも理解なんて出来なかった。
殺人鬼の武器の形状変化、ましてや、自分が扱うモノが何なのかすら不明なまま振るっていた。
そして見知らぬ誰かから、「死ね」と言われて何も出来ずにいる。
ここで終わっていいのか…?
誰かの言いなりでいいのか?
否。
まだ潰えていい訳がない。
ここで幕引きになってしまったなら、俺がやるべき義務が果たせなくなる。
「お前らみたいな…、命を何とも思ってないヤツらに………」
救わなければいけない、全うしなければいけない責任が俺にはある。
命とは何よりも尊いもの。そうであるはずだ。
それを弄び、快楽のためだけに貶し、道具のように扱う。
そんなヤツらに……………
「そんなヤツらに負けたくないッ………!!!」
その瞬間、上から全く違う影が降りてきた。
呆然としていたが、降りてきた男は誠にこう言った。
「寝るのはいいが、せめてお家のお布団で寝ろガキ」