第十話 『眠れない夜』
時刻は十八時。見事なまでのオレンジ色が徐々に薄暗さを帯び始める頃。
時期に消える日光を浴びるとあるビルの中、介護用のベッドで怒声を散らす男がいた。
「ちくしょォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォオオオオオオ!!!!!あンのクソガキがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
バァン!!とオーバーテーブルが貫通しそうなほど、男は手のひらを叩きつけた。
その傍には黒スーツの男、『漂う影』が荒々しい音に合わせて目を瞑る。
「そうカリカリするなよ。まさか初めてであれほどとは、誰も思わないだろうさ」
「そんなこたぁ知らねェよ!!!!あいつは腹と顔に合計二発俺にぶち込んだんだぞ!?…………っ」
先程まで怒鳴っていた男の表情が歪む。
男は鳩尾あたりに手をやると介護服ごと力強く握りしめた。
「大丈夫かい?体が思うように動かないうちはあまり無理しない方がいい」
「ッ………………、クソッ!!」
漂う影に正論を突きつけられ、行き場のないこの気持ちを奥底にしまうと男は大人しくなった。
そして吐き捨てるように呟く。
「チッ。この海人様に恥をかかせやがって…、絶対に許さねぇ…」
それが耳に入ったのか漂う影は、男の顔から視線を外さず目を丸くし、キョトンと驚いたように見つめる。
すると、堪えるのが限界になったのか、黒スーツの男の口から勢いよく酸素が漏れた。
「ふふふっっ…はっはっはっはっっ」
どこか品を魅せており、かつ静かに笑う。
介護服を着る男は笑われていることに対し少しずつ不満を募らせていく。
男の視線にようやく気づいた漂う影は、まだ面白さが抜け切れてないふざけた調子で疑問に答える。
「だってさぁ!面白くって面白くって!」
「…何言ってやがる」
「君センスあるねぇ!今から自首してお笑い芸人でも目指してみたらどうだい?」
「いいから答えろ」
選択を間違えれば確実にこの男は激怒する。それが分かるくらい顔の血管が太く浮かび上がっていた。
「えぇ…?だってさぁ、」
相手の考えを読み取れなかったのか、それともあえてその判断をしたのか。
数秒前まで激しく笑っていた男は急に酷く冷めた表情になり、見下しながら軽蔑をこめて毒を吐き捨てた。
「さっきの君、何言ってるのか全く理解出来ないんだもん」
ついに男の煮えたぎった怒気は、静かに着火した。
「おいクソ野郎、表出ろ」
それと同時に傷を負ってるにも関わらず、男はいつの間にか黒スーツの胸ぐらを捻りながら乱暴に引き上げていた。
ここまで激昂している男に向かって漂う影は、この一連の行動に一切の感情を示さない。
そして冷淡に、黙々と彼は会話を繋げた。
「どうして怒るんだい?おかしなこと言ったかな?僕以外でも同じ反応をすると思うんだ」
「よし分かった。表じゃなくここで殺りてぇんだな?」
男はそう呟いてから、掴んでいた胸ぐらを勢いよく自分の方へと引いた。
しかし、漂う影はそれに対抗しようとしない。
否。抵抗しようとしない。
引かれるまま体重を預ける黒スーツの男。
当然、介護服を着る男は殺意しかなかった。
横振りの素早いフックを繰り出す。
何も行わない漂う影の顬辺りには、すでに握り拳が接近していた。
そして、
プルルルルルッ!プルルルルルッ!!
「ごめんね。一人で盛り上がってる所申し訳ないんだけど電話かかってきたから出てもいいかな?」
険悪な雰囲気は意外にも着信音によって切断された。
憤る彼は唇を噛み締めながらも、力任せに黒スーツの男を突き放す。
数歩後ろにふらつきながらも己のバランスを取り戻した漂う影に、顎で「電話に出ろ」と指図した。
深い溜息をつきながらも、そっとスマホを耳にあてる。
「はい、もしもし」
『あ、もしもしスーツの人ぉ?経過報告したいんだけども今大丈夫そ?』
「ちょうど来る頃だと思ってたよ。大丈夫、続けて?」
先日漂う影が席を外した後、口を開いた若い男の声がスマホを通じ伝わってくる。
ついさっきまで人を睨みつけていた男の態度とは思えない程、彼は明るくニコニコとしている。
そこに不気味さが滲み出ていた。
それが当たり前のように、当然のように笑顔で会話は続く。
『おけ、なら今言っちゃうね』
「よろしく頼むよ」
『了解ぃ、なら手短に。所定の位置に着いた。いつでも行けるけど、どうする?』
「仕事が早いね、助かるよ」
漂う影は乱れた襟元を整え、ネクタイを再び締め直す。
そして頭をかき、ぞんざいに返事をした。
「なら始めてくれ」
『了解』
通話が切れると、静寂が息を吹き返す。
スーツを正してから、目の前の男を再度視認すると忘れていたような感覚で語りかけた。
「話の腰を折っちゃってごめんね。けど僕は君と喧嘩するためにここに来た訳ではなくて、回復は順調かどうか見に来ただけなんだ」
「そうかよ、なら心配すんな。お前を殴りたくて仕方ないくらいにはイラついてるからとっとと失せろ」
「うん、そうさせてもらうよ」
介護服の男は気がそれて行き場を失った怒りを吐き捨てるようにして消化した。
コツコツと革靴特有の音が鳴る。
漂う影が取っ手に手をかけた時だった。
何かを思い出したように振り返る。
「あ、そういえば伝え忘れてたよ。社長さんが君に話したいことがあるらしいから後々来るかもだ」
「分かったから俺の視界から消えろ」
軽く受け流しながら「じゃあね〜」と陽気に手を振りながらドアが開閉された。
空っぽな空間が出来上がる。
静かに着火された導火線は消火などされず、とうとう本体へと到達する。
そして、時間差で爆発した。
一人残された男はどうしようもないこの熱く煮えたぎる怒りを、部屋一面にぶちまけてやろうと近くにある物を片っ端から壁や床に叩きつける。
昨日通りすがりのクソガキに舐められ二発殴られここに運び込まれた挙句、今日は自尊心を引っ掻き回された。
脳内でそれが永久的にループする度血液が上に登り、動かす手足を早める。
虚無とやるせなさだけがただ居座っていた。
午後七時。早瀬家にしては少し早い夕食。
それに加え、とても珍しい賑やかな食卓だった。
「だから、結局鍋のシメは炊きたてほかほかの白米なんだって何度言えば…!」
「いや、お兄ちゃんは何も分かってない!消化にもいいうどん!一択だね!!」
「鍋なんて滅多に食べれないもの。なら、シメも豪華にしゃぶしゃぶじゃないかしら?」
誠、香織、和泉で意見が分かれる。
三人共主張を譲らず、ほぼ汁だけの鍋を他所にガミガミと長所のドッジボールは激化している。
(どうでもいいけど、冷めちゃうぞ…?)
ここに、胸の奥底から飛び出しかけてる正論を抑えているこの家の大黒柱が一人。
しかし、口を出してはいけない。それをこの男は嫌という程経験している。
少し前に、似たような『白米には何が合うのか論争』が勃発した事がある。
結局誠の『卵は工夫一つで様々な料理に化ける』の一言で謎の納得をし、皆それぞれ目玉焼きや卵かけご飯、スクランブルエッグなどを食していた。
そう、こういう風景は早瀬家では珍しいことではない。
だからこそ、修一は余計に発言しづらいのである。
(三等分くらいに分けてそれぞれ別々にすればいいじゃないか…)
思い出す度に「これを言えたらなぁ…」と毎回繰り返している。
しかし父の心の声虚しく、「ならリゾット風!雑炊風とか!!」と米からはズレない誠の声が聞こえたせいで、余計に溜息を強く出させた。
すると、それを見た香織は言い合いをぶった切り、唐突にこう放った。
「ならお父さんに決めてもらおうよ!これなら公平でしょ!」
それに便乗してか、残りの二人も、
「うん、確かに。それはいいかも」
「修一さんの立場なら公平な判断が出来るわね…」
何故か矛先(もとい責任)が修一に向けられる。
話の内容を全く聞いていない修一は、呆けた顔で現状を飲み込むことが出来なかった。
回答はまだかと鋭い視線が修一に集まる。
遅れて理解した修一。しかし、二者択一ならぬ三者択一をした所で皆を幸せにすることは出来ない。
ならば、新しい選択が必要だと。
この場での最善を選びとった。
「…シメの話なら、パンとかどうかな…?」
しかし、
「「「却下!!!!!!!!」です!!」」
盛大な空振りに終わった。
『だから社長サンにも連絡しておこうかな、って』
「ふふっ、そうか。漂う影に一言伝えて指示を仰げ、と言ったのに」
『あいつやっぱどっか信用出来ないんだよなぁ…。しつこくて悪いけど、社長サンも気をつけろよ?』
「わざわざありがとうね、〇〇君」
薄暗い場所で受話器を片手に、自分の座高よりも明らかに大きい革張りの社長椅子に腰掛けながら、『社長』は通話を行っていた。
その傍では、手を前に重ね一言も発さないポニーテールの秘書らしき女性が一人。
「仕事頑張ってね」
『おうよ!それじゃ』
そして、受話器は終わりを知らせる。
通話の切断音が薄くなり、やがて電話機は本来の形を取り戻した。
社長は深く息を吐くと今度は秘書に語りかけた。
「ははっ、やっとだね」
「えぇ。ですが、もう少し先の話になるかと」
「ここまで準備してやっと行動に移せるんだ。ただ待ちきれないだけなんだ許しておくれよ」
そして、社長の目の前で組まれていた手は解かれ、両手は思い切り横へ突き出される。
「長かった…。私達の望みはようやく形になりつつある…」
目元に涙を貯めながら、無邪気に喜ぶ。
それは長年降水せず、干からびた大地に降り注ぐ大雨の恩恵を全身で受け止めるかのようだった。
「済まないが、あれを持ってきてくれ」
「畏まりました」
秘書の女性は一礼すると、席を外したかと思えば赤ワインを抱えながら再び戻って来た。
そして、ワインコップが二つ。
「これは八十三年物だ。今日はめでたい日だから、少しばかり贅沢をしよう」
そして注がれる。八十年もの間熟成された時間が芳香という形で外気に触れる。
社長はそれらを、手の平の上で転がし、目で愉しみ、鼻腔で堪能する。
そばに居る女性はコップを己よりも大切そうに丁重に支えた。
「それでは、我らが輝かしい悲願の一歩目を祝し、」
闇に蠢く者達は明確な悪意を携えながら、パンドラの箱に手をかける。
待ち受けるものを顧みずに、蓋を開く。
過去の先導者に惑わされる事無く。
「開始だ」
膨らみ続ける迷妄は留まることを知らない。
論争の果て、米が沢山あるというそもそもな話で米に決まった。
脇では白く燃え尽きた修一が脱力している。
それとは対照的に、自分の意見が通った誠はガラの入った声で喜びながら叫んでいた。
その時、スマホの着信音が誠の動きを止める。
家族以外からの着信なんて鈴か間違い電話か…?と覗き込むと大きく『河本 航平』と表示されていた。
「ごめん、ちょっと電話かかってきたから席外すね」
そう言うと廊下の方へと歩いていき、ドアを閉めてからスマホを耳にあてる。
「はい、もしもし」
すると、
『おーう早瀬ー!!!!!元気かあああああああああああああ!!!!?』
あまりにも耳に入ってきた大音量が生理的嫌悪感を産む。反射的にスマホを遠ざけてしまった。
今度は警戒しながら再び近づける。
「元気だわ!この数時間で元気じゃなくなったら何があったんだよ!!」
『はっはっはっ、やっぱ早瀬のツッコミは面白いな!』
(うん、今度絶対にツッコまないようにしよ…)
全く違うテンションの食い違いが発生に困惑しつつも、固く誓った誠である。
すると、河本は活発で陽気なトーンを少し下げ、落ち着いた口調で再開した。
『ごめんな、急に。電話かけて迷惑だったか?』
「うん…あ、え!?ぜ、全然大丈夫だってば本気にしないでくれよ!?!」
不意をついた河本の真面目な雰囲気にコミュ障が表へ出てくる。
そんな誠の焦りなんて耳に入っていない河本は話を続けた。
『いやぁ、今日の朝の話といいなんか物騒だろ?ああやってふざけた感じで、他の奴らにも同じように電話かけてるんだけど、内心やっぱ心配でさ…』
「……。そっか」
どこか河本の声に芯がなかった。
皆の前では元気に振舞ってるが、やはり大規模な事件を前にすると恐怖が脳裏を行き来する。
今朝学校での元気も、怯えを悟らせないようにするものだったのかもしれない。
いや、きっと誰しも怖いのだ。これは他人事ではなく、自分に降り掛かってくるかもしれないから。
けれど、その怖さを必死に押し殺し、他者に笑顔を与えている。
この行為に誰かは『自分の不安を払拭したいから他人に頼っている』と言うのかもしれない。
けれども、『行動を起こせる』。この事は間違いなく、優しさから来るもの。
この勇気を、誠はよく知っている。
「他の奴らには心配だから電話したってこと、話したのか?」
『いや、これに関しては誠にしか話してねえ』
「え、なになに俺は心配じゃないの?」
『そ、そそういうことじゃねぇよ!意地悪い事言うなってええ!!』
「ははっ、ごめんってば」
『…お前ってばそんな事言うキャラだったか?』と河本が発してから数秒。
唐突に笑いたくなって、二人共笑った。
お互いに何故か久しぶりに笑った、というような爽快さがあった。
嫌な事を忘れるには十分だったかもしれない。
一通り落ち着く頃には、すっきりとした心持ちになっていた。
『まだ出会って数日なのに、なんでだろうな…。俺にも分かんねぇ』
河本は心の奥底に閉まっている物を静かに取り出した。
確かに誠も疑問に思っていたが、本人が一番困惑しているに違いないと、確信した。
しかし、困惑している声音とは思えない程の清々しさが確かにある。
悩む苦しさよりも、考え込める喜びの方が強いんだと。
細かい理由なんて、要らないのかもしれない。
「どうした河本?女々しい感じがお前のキャラだっけか?」
『だからぁ!今そんな感じの雰囲気だったろうが!!』
「今日もしかしてキャラ崩壊デー…?」
『んなもんあるかカレンダーちゃんと見てみろ』
意識せずとも誠は自然に優しく微笑んでいた。
いい友達を持ったと、改めて心の底から思えたから。
だからこそ、これらを守らねばいけないと。
『なんか、ごめんな。急にこんな電話しちまって』
「大丈夫だっての。支え合うのが友達だろ?」
『お前…。コミュ障で「あ、う…」とか言ってたヤツがよく言うぜ』
「はあああああああああああああ!!!!?今のしんみりしてた空気では最高の言葉だろ!その返しは想定してなかったわ!」
『へへっ、仕返しだコノヤローw』
場が和む。重くぶら下がっていた不安というものが完全に拭えずとも軽くなった。
スマホ越しから伝わる友達の喜怒哀楽が無性に誠の口角を上げた。
すると、河本の母親らしき声で『ご飯出来たから早く食べな!』と言う大声が遠方から漏れた。
『悪ぃ早瀬!母ちゃんから呼ばれたからそろそろ切るな!!』
「おう、大丈夫だぞ!色々と心配してくれてありがとな!」
『俺が勝手にやってることだ。気にしないでくれ』
しかし、最後の言葉がおかしかった。
『改めて言うけど、連続殺人鬼の件気をつけろよ』
そうして通話は終わった。
違和感がこべりついた。会話の内容的にあれが至極当然の発言だろう。
それがなぜここまで不可思議だと決定づけさせるのかがまるで不明だった。
その時、
ピンポーン
と、大音量のインターホンが早瀬家に響き渡った。
誰かが来たと知らせるだけの道具のはずが、誠だけに投げかけているようで妙に寒気がした。
怖気付く心とは正反対に下半身は使命感でいっぱいだった。
一歩、一歩と玄関に近づいて行く。
靴を履くことも忘れ、裸足のままドアノブに手をかけた。
まだ残る冬の寒さ漂う春風が吹き抜けた。
そこには、
髪は乱れ、息を切らし、手を両膝につき、肩で息をする鈴華がいた。