Hello, Happy Children 1
さいきん、この国のどこかで、給食が食べられずに残してしまった子がいました。どうしてもピーマンが苦くて食べられないのです。学校の先生がこれをきちんと食べるように言いますが、ダメなものはダメと聞く耳を持ちません。
そこで、先生は言い方を変えました。具体的には、次のように言ったのです。
「いいかい、この世にはお腹いっぱいご飯が食べられない子どもがたくさんいて、きみは幸せなほうなんだよ。それを『食べたくない』なんて理由で残しちゃうのは、不幸な子たちに対して失礼だと思わないかい?」
そして、その子はとても優しかったのでした。親の教育が良かったのでしょう。どんな中身でも、頼まれたら笑顔で返すことができますし、困っている友だちにいつでも手を差し伸べるような子です。だから先生はその優しさに訴えて、苦手を乗り越えるきっかけにするべきだと考えていました。
勘違いしてはいけないのは、先生は先生なりの優しさがあったのです。食わず嫌いをしたままでいることを、この先生はなによりもいけないことだと考えていたから、そう言ったに過ぎませんでした。
とはいえ、その言葉を用いられた子どもは、しぶしぶピーマンを食べざるを得ませんでした。食べなかったら他のひとに失礼だとほんとうに思ってしまったからです。けれどもピーマンはやっぱり美味しくありませんでした。噛めばかむほど苦味が湧いて、がまんできません。とうとうその子は牛乳で飲み干しましたが、先生はこれをよく思いませんでした。
「ちゃんと味わってごらんなさい。いまは嫌いなだけかもしれないが、ピーマンはピーマンなりに美味しいんだ。それをきみが気づいていないだけなんだ」
もちろんこれは先生なりの優しさでした。しかしその子の感じたことは違いました。自分はいけないことをしたのだ、という実感を得たのです。
(世界にはぼくより不幸なひとがたくさんいて、ぼくがイヤだと思うことはじつは他のひとのそれよりは大したことがなくて……きっとぼくはいまある幸せをきちんと味わうことができない悪い子なんだ)
その日から、その子は好き嫌いをしなくなりました。がまんするようになったのです。先生は喜びました。そして先生はその子をよく褒めるようになりました。これは当然のことでした。その子はたんに、「嫌いだ」ということを何ひとつ言わなくなっただけなのですから。けれども先生はこれを「成長」と呼んで、褒めたたえ、あまつさえクラスの中でも手本にするようにと前に立たせることまでしました。
しかしこれをよく思わないひとたちがいました。クラスメイトたちです。彼らも彼らなりに努力したり、競ったりすることがあります。例えば勉強や、早寝早起きといったことです。そうしたことを決して褒めなかったわけではないのですが、その先生は、ことに「苦手を乗り越える」ということに重きをおいて褒めたたえていました。けれども子どもにとって、イヤなものはイヤでした。苦しいことを進んでやりなさいと言ってくる先生たち大人を心のどこかで憎んでいましたし、それどころか、その大人たちの理想像に祭り上げられたその子のことを、疎ましく思うようになったのです。
「あいつ褒められていい気になってるんだぜ」
「おれたちのしたくないことをやって、得意になってやがるんだ」
「おかげでわたしたちにも同じことをしなさいと平気で親が言ってくる」
「しかもなんてことない顔してヘラヘラ笑ってるの、きっしょい」
しかし、もちろんその子は好きでこのようなことをやっていたわけではありません。そこに加えてクラスメイトたちの反発まで受けたものですから、その子はひとりぼっちになってしまったのです。けれどもその子は笑顔で振る舞いました。その子にとって、自分の不幸はこの世のすべての不幸に比べれば軽いのだという確信があったからです。
それは先生から教わったものでしたが、日々のニュースを見てもわかることでした。発展途上国の貧困や、大都市圏のホームレス、殺人事件に誘拐事件……ちょっとインターネットで検索すれば、この世の不幸は両手で余るほど見いだすことができました。だから、先生のいった言葉はウソではなかったのです。こうしたありとあらゆる不幸の情報の前では、その子のイヤだと思うこと、個人的な不幸は、かすんで消えてしまうほどの小さなことにしか見えなかったのでした。
(ぼくの不幸は大したことはない。ならばぼくはせめて笑顔で振る舞うべきなのだ。でないと彼らの不幸に対して『失礼』になる)
こうしてその子は、ますます笑顔を外せなくなりました。むしろそうでもしないと自分が保てなくなるというぐらいに、その子は笑顔にこだわるようになりました。
おまけにその子は、自ら不幸に分け入るようになりました。いじめられっ子がいたときに、その身でかばうようになり、トイレ掃除や雑巾がけのような面倒ごとを進んでやるようになったのです。ピーマンにはピーマンなりの味わいがあるように、面倒ごとには面倒ごとなりの味わいがあると、その子は信じるようになったのです。そしてその味わいを得られないとき、自分がまだ至れないのだと考えるようになったのでした。
この道がつらくなかったわけがありません。その子は時おり自宅の部屋にこもって、自分でもわけがわからないほど泣いて過ごしたこともありましたし、両親に相談してみたこともありました。けれども話してみると、両親は両親なりに似たような苦しみを背負って、それでも生きていることがわかってしまったので、相談したところで意味がないということにも気づいてしまいました。
(誰も似たような不幸や苦しみを抱えているのだ……それを愚痴ったところで仕様がないじゃないか。だって大人たちですら、自分が抱え込んでいるものの解決法を知らないんだから)
そうしているうちに、その子はだんだんつらいことと楽しいことの区別がつかなくなってしまいました。いつも笑顔でいるせいでしょうか。苦手だった逆上がりも克服し、嫌いだったピーマンも難なく食べられるようになり、そしてイヤな人間関係も笑って過ごせるようになってしまったその子は、しかしその一方で、得意だったはずのサッカーが目立たなくなり、ハンバーグが出ようが出まいがにこにこしていて、誰が一番の友達なのかわからないようになっていました。
むしろ、あえてそうした区別をつけないようにしていた、と言った方が正しいかもしれません。ものごとに優劣を付けるのと同じように、好きなことができれば嫌いなことだってできるのです。それを無理に直そうとするならば、好きも嫌いもなくなって、平板な感覚だけが残ってしまうでしょう。つまり、何も「嫌い」にならないということは、その子にとって、何も「好き」にならないということに、次第になっていたわけです。日常生活において、その子はいつもにこにこと笑顔で振る舞い、誰からの頼みもこころよく応じ、先生の出す宿題やテストも難なく答え、親の期待にも応えていきました。けれどもこんな人間がクラスメイトから見てどう見えたか、想像するのは難しくないでしょう。
「ウチの親とか、ああいうのが理想らしいけどさ。あたしはムリ。頭の出来からしてちがうの、バカ言わないでって感じカエルの子はカエルってことわざ、知ってんのか?」
「あ? あいつ? たぶん人助けが趣味なんだろ? 黙っててもあいつが全部やってくれるから、俺たちラクできてサイコーって感じ」
「しょうじき、何を話しても綺麗に答えが返ってくるから、あの子はわたしたちとはなにかちがうんじゃないか、て怖くなる……」
おおむねこんな評価でした。こうなったのはちょうど中学校に上がったころだったので、余計に浮いていたと思われます。けれどもその子はにこにことしていました。まるで最初からそうプログラムされたロボットであったかのように。
ところが、ある日のことでした。
「ねえ、あなた。なんでいつもそんな気持ち悪いことしてんの」
帰りがけ、廊下でその子を呼び止める、髪の短い女の子がいました。にらむように見つめるそのひとみは、どこかで見たような気がしましたが、その子は思い出せません。仕方がないからにこにこと笑って、「どうしたの?」と言いました。
「ふざけないで。その笑顔が気持ち悪いって言ってんの! あんなヤツらの言いなりになって、へらへらしてるの、こっちが見ててイライラすんのよ!」
「ごめんなさい。つぎからは、きみの目につかないように気をつけるよ」
「そういうことを言ってんじゃない!」
女の子はますます怒りましたが、その子にはなんで彼女が怒っているのかがわかりません。ただただ首をかしげて、「じゃあ、どうすればいいのかな?」と尋ねてしまいました。しかし女の子は、そこでグッとのどに息を詰まらせて、逃げるように去ってしまいました。その子はさらに首をかしげて、彼女の背中を見送っていました。
(ヘンなの)
思ったのはこれだけでした。
じつは笑顔が気持ち悪いと言われたのは、これが初めてではありません。主に陰口の又聞き程度でしたが、少なからずその子のあり方に疑問を持ち、避けているクラスメイトがいるのは知っていたのです。けれども、表向きには(というのは要するに日直や掃除当番などでしたが)そつなく会話ができていたので、さほど問題ではない、とその子は考えていました。第一、もうその手の攻撃では揺るがないようになっていたのです。
(しかめっ面やケンカしながら物事を進めるのも、それはそれでおっくうだから、どうしようもないなぁ)
しかしその子は、自分の中で起きていたある変化に気づいていませんでした。それまで心無い言葉を投げつけられても、傷ついたこと自体は受け容れていました。その上で、まるで嫌いなピーマンを噛みしめるようにできごとを思い返し、きっと自分も悪いことをしたにちがいない、と深く反省していたのです。決して自分が正しいと思いはしませんでしたし、そこで怒るのはなにかまちがっているような気がしたからです。
けれども──
(あの子に文句を付けられるのは、なんかイヤだな)
嫌なこと、嫌いなこと、苦手なこと。そのすべてを封印したはずの心に、この考えが浮かんでしまったことに、まだその子は気づいていなかったのです。