指輪の導き
よく晴れたある日の昼下がり、何の気なしに露店街を散策していると、フードを目が隠れる程深く被った高齢の女性が、椅子に腰かけて店番をしているのが目についた。寄ってみると、装飾品を売っている。女もいない俺には用の無い店だ、と離れようとした時、ふと目にとまる品があった。それは指輪だった。光沢の無い金色のリングに、小指の先ほどの宝石がはまっている、一見なんてことない指輪だ。
しかし俺が気になったのはその宝石の色だった。ルビーに似た濃い赤だが、それにしては色がくすんでいる。磨けば余計に曇りそうだ、そんなが考えが沸いた。店主は、俺が女への贈り物を探しにきたとでも思っているのだろう、にやにやしている。
「おまえさん、目の付け所が良いねぇ。この店に足を運ぶなんて」
「この指輪が気になるのですが」
愛想笑いを浮かべながら、件の指輪を指し示すと、途端に老婆の顔色が変わった……ように思えた。
「このピンク色の宝石なんかどうだい?」
「俺は自分で身に付けようとして、この赤い指輪が気になったのですが、何か買ってはいけない理由でもあるのでしょうか?」
もしやこの指輪だけ本物の宝石を使っているのかも知れない。食い下がらないぞ、と圧をかけるようにして尋ねると、渋々といった表情で小声になって語り始めた。
「他人にあげるものじゃないなら自己責任で売っても良いけど、ここだけの話、こいつをわしは盗品じゃないかと疑ってるのさ。売りに来た男が震えながらこの指輪を渡してきたからね。おまけに『言い値で良いから早く買ってくれ』なんて言ってたからね。1ドラクマで買ったから、おまえさんにも同じ値で売るよ。でも何が起きてもわしゃ責任は持たないからね」
かくして、驚くほどの安値で手に入れた訳だが、散々念を押されたせいでこの場で即指に嵌めるのは憚られた。すぐに立ち去ったのだが胸騒ぎがして一度振り返ってみると、先程の店の老婆がいなくなっていた。椅子に外套だけ残して。
他の店を見て回るつもりだったが、どうも指輪が気になって仕方がない。食材も当分の貯えはあるし、まだ買わなくてもいいと自分を納得させ、住みかに戻る。溜まった洗濯物の臭いが鼻についたが後回しだ。元々家族で住んでいたこの家だが、母親は別の男に付いていき、親父は年中行方不明なお陰で、独り占めしている。俺の親父も祖父も、会ったことは無いが数代前から、皆旅人を自称しながら世界中を歩いていたそうだ。行先も告げず恰好だけはいっぱしの冒険家を気取って家を出ていき、数か月後に不思議なガラクタや土産話を手に帰ってきた。俺は散々祖父や親父の武勇伝を聞かされて育ってきた。そんな性格だから、母親も愛想をつかしたんだろうな。
ポケットの奥に押し込んだ指輪を取り出し、まずは左の掌に乗せる。買う前に確認していなかったがリングの裏にも傷も刻印もなく、宝石も削り方が荒いが表面に汚れはない。宝石を守るかのように、蜘蛛の足のような台座がついている。問題の宝石の曇りを取ってみようと、試しに目立たなさそうな箇所をハンカチで擦ってみる。縫い目の荒いハンカチなので傷が付くのが怖く、あまりに慎重に布の端でやったせいで、ハンカチを取り落として、素手で擦ってしまった。
するとどうしたことだろうか、俺は座っていた筈なのに身体が宙を浮き、何処かへ飛んでいくような錯覚を起こした。そのままふわふわと浮遊感が続き、景色が自分の前方めがけて飛び去っていく。まるで時の流れを遡っているかのように感じた。
不可思議な時間旅行の中で最初に立ち寄った此処は、どうやらギリシャでは無かった。
柑橘の匂い漂う風に、夕日が射すのが分かるほど透き通る海、眼下の統一された橙の屋根の合間から覗く路地には一組の男女。多分イタリアかなんかだろう。親父のスケッチに似たような景色が描かれていたから。愛を囁き、絡み合う二人はやがてキスをし始める。
なぜこんなものを上空から見せられているのか不快に思っていたところ、女が矯声とも悲鳴ともとれる声を発し、立っているのも辛くなったのか男の腕に寄りかかっていった。何が起きたのか一応近づいて確認したいが浮いているだけなので移動の仕方が分からない。ひとまず下降するイメージを思い起こすと、なんとかその通りに身体が動いたが速さの加減は調節できなかった。女の背中にぶつかりそうな程接近してようやく止まった。フードで顔は見えないが男が女の首筋に顔を埋めていた。ぴちゃぴちゃと舐めるような水音が静かな街に響く。ただの情事じゃないかと目を背けた時、再び女が大きな声をあげた。今度のは確かに苦しんでいる悲鳴で、反射で向き直る。
女の肩が晒され、白い肌に二筋の血が流れていた。男は俺に気付いたのか顔を上げると、フードが外れて全容が露になった。そこにあったのは、到底生きているとは思えない、土色をしていて干からびてシワだらけの顔だった。高くスラッとした鼻筋に似合わない、太い眉毛が生い茂っている。細いが鋭く尖った犬歯や、そこだけ生気が残っているような真っ赤な口の端から血を滴らせ、焦点が定まっていないようなので見えてるのかは知らないが、確実に俺へ向けて笑っている。全身が凍るほどの寒気を感じて固く目を瞑った。その一瞬で、目を開いた時にはまた時間が飛んでいくような空間に戻っていた。
やっと帰れるのか、そう思ったが次に着いたのは二、三十人はいる建物の中だった。誰も座ってはいないが長椅子が多くあるところを見ると多分教会の聖堂だ、そういえば久しくミサにも行ってなかった。皆お偉いさんなんだか、揃いに揃ってやけに大きい帽子を被り、白く長い服を着込んでいる。話し合っているようで、ひっきりなしに誰かしらが喋っている。やがて方針が定まったようで、全員が主に向かって十字を切って祈りを捧げだした。ひときわ大きな帽子を被った、多分一番偉い大司祭が声をあげて許しを乞いているのが聞き取れた。
「主よ、異教の神に救いを乞うことをお許しください。私共の祈りのみでは、あの悪魔を到底払いきれません」
悪魔、か。キリスト教の司祭がこれほど集っても抑えきれないまでに此処は混乱しているのか。外の惨状が気になる。出られるのか知らないがやってみよう、と上昇を念じたのも束の間、また目まぐるしく背景の変わる場所に引き戻されていた。
今度はどこかの洞窟のようで、俺が居るのは先の無い、行き止まりの場所だ。さっきの大司祭に似た声が聞こえるが、異教とか言ってたわりに聖書を諳んじているらしい。声は数人の足音と共に近付いてくる。やがて姿が見えた。三人で担ぐ担架には一人横たわっていて、先頭に松明を持ったあのひときわ帽子の高い大司祭と、探検家みたいな格好の男性がいた。俺のすぐ目の前、ちょうど棺みたいな形になっている岩の中に担架に乗せた人を入れると、探検家みたいな男性が前に出てきた。司祭の暗唱を止めると、肩から下げたバッグから何かを大事そうに取り出した。
目を凝らすと、松明の炎を反射するそれは、俺が買ったあの指輪に他ならなかった。それを一度掲げると、右手で腰のナイフを取り出して先程横たえた男性の手首に沿わせ、真っ直ぐに引いた。刃に付いた血を指輪に垂らすと、宝石が一層赤く光った。不思議と彼の左手に血は垂れていない。この指輪を棺の男性の左手の薬指に嵌めると、男の両の手を胸の前で交差させた。
「これでゼウス様が抑えてくださるはずです。この深紅のトパーズは太古の昔の神々同士の戦の後、サントリーニ島へのお詫びとしてゼウス様から賜ったものと伝わっていますから。さぁ、蓋を閉じて立ち去りましょう」
この宝石――そういえば今は手に持っていないが――は探究だったのか。さて閉じられる前に一度顔を確認しておきたい、そう思い棺の真上に移動して覗きこむ。そこにあった顔は、シワこそ減っているものの、まさしく女の血を啜っていた男に違いなかった。
最後まで凝視していると、蓋が閉まる直前に、瞼は開いていない筈なのに目があったような気がして、背中の毛が総立ちになった。
どこかへ降り立つ度に、だんだんと視界が不鮮明になってきて、浮く感覚にも重力を感じるようになってきた。幾つの場面を観ただろうか、もうよく分からない。ただ現実に戻る直前の場面は記憶にくっきりと残っている。残らない訳が無い。
俺が、海など行ったことの無い俺が、船に乗って何処かへ向かおうとしている場面だったのだ。
部屋に戻りまず最初に知覚したのは、手元の指輪の硬さだった。軽く持っていただけのはずだが、いつの間にか握りしめていたのだ。もう一度宝石の部分を怖々触れてみるが何も起きなかった。空の明るさ等を見るに、俺が家に帰ってきたときとそれほど時間が変わっていないようだ。さっきまでのは一体なんだったのか?
ところで俺は、この疑問以外にも心に引っ掛かっている物があると気付いている。さっきまでのが全て本当だとして、俺の他に誰があのおぞましい悪魔の存在を知っているのだろうか。
港で船を捕まえるのがこんなに難しいとは知らなかった。風が生臭いし、ベトベトするし、有り金全部ちらつかせているのに取り合ってすらくれない。遠いからなのか、サントリーニ島の名前を出しただけで無視され続けた。祖父が語った曾祖父の冒険談によると、さながら海の上のオアシスだと聞いた覚えがあったのだけれど。一時間近くさ迷ったあとだろうか、ようやっと捕まえた船は、荒くれ者ばかり乗っている貨物船らしかった。「物置でいいなら」と入らせてもらうと、既に先客がいた。筋肉隆々で服が袖までパンパンになっている男だ。
怯んで掠れ声になったが「お邪魔します」と一応挨拶をしてみた。
「おめえもここに乗るのか。名はなんて言うんだ?」
「オレスト、です」
「オレストってのか、俺はディエゴ様だ。よろしくな」
厳つい印象の顔に似合わずにこにこと手を差し出してきた。握り潰されるかもと覚悟しながら応じるが、杞憂だった。
「おめえも夜の家族になりにいくのか? 随分頼りなさそうだがな」
冗談のつもりだったのだろうか、大声でガハハと笑い出す男性。夜の家族とはなんだろう? 知らない単語が出てきたが、知ったかぶりをした方がいいのか。
「ええと、夜の家族ってなんです? 名前を知らずに探していたのだけれど」
「サントリーニ島に行きたいのに知らないとぬかすなんて、やっぱりおめえは可笑しなやつだなぁ」
びびって鎌を掛けるように聞いたが、また笑われてしまった。見かけによらず優しい人なのかもなと推測する。
やがて錨を引き上げる音が聞こえ、船が一層揺れだした。出航したのだろう。目の前の男性は船旅に慣れているのか、一切動じない。
「いいぜ、今日のディエゴ様は調子がいいんだ、教えてやろう。昔、サントリーニ島に囲まれた真ん中にある島が噴火をしたんだそうだ。その影響で街がめちゃめちゃになったらしいのさ。ところがその時どこからともなく現れて、島民を導いて今のように発展させてくださったのが他ならない、夜の家族のボスなのさ。仲間を募集していると嗅ぎ付けてな、俺様はそんなすごい集団に所属出来るというから飛び付いた訳だ」
らしくない、少年のように純粋に目を輝かせながら教えてくれた。ただ、気になることがひとつ。近年、この国に噴火した山なんてあっただろうか? 俺は世間話には全く興味が無いのだが、さすがに災害となれば別だ。俺が生まれる前にも噴火なんてあったとは聞いたことが無い。
「俺様、変なこと言ったか?」
「いや、ボスってどんな人なのかと考えてただけだ。例えば何歳くらいなのか、とか」
「おめえはそんなに他人の姿が気になるのか、女みてえだな。俺は白髪のよぼよぼ爺さんだとしても驚かないぜ」
女とは酷く馬鹿にされたが、あながち間違ってはいないのかもな。確かに俺は見かけで他人を判断するし、その自覚もある。ただ直す気はない、言葉より、自分の目で見たものは信じる質だからな。他人の印象も、会話など直接するまでは直感を信じてきた。
「そうだな、権力者が高齢なんてよくあることだ」
そんな会話を時折交わしていたが、次第にどちらも疲れからか喋らなくなった。
~回想~
天井から崩落した岩が転がり足場の悪いこの行き止まりの道は、どうやら前と同じ洞窟らしかった。ただし、足場が悪かろうがなんだろうが俺は浮いているので障害では無い。他に違うのは、同席しているのが小汚ない格好の男性二人という点だ。
「宝なんて何もないじゃないか。予感なんて当たるもんじゃないだろうに」
「まだ分からないじゃないか。ほら、そこに綺麗に四角い大きい石が転がってる」
確かに数歩先では、蓋に用いられていた石が斜めになっていた。そしてその下には、大きく窪んだ石。「中に何か入っているかもしれないじゃないか。ほらな」と相方の背中を叩き、二人は反対側に回る。覗きこんだ瞬間、二人は声もあげずに固まった。
俺も飛んで見に行くと、中にはミイラが入っていたのだ。特別な処理を施されているわけではないが、顔の皮膚も手の皮膚も水分が飛んでカラカラに干からびただけで、髪の毛や胸の前で交差した腕は寸分違わず、変わっていない。
「トニ。か、金目のものはあるじゃないか」
「お、おう。ここまで来て、手ぶらで帰る……訳にはいかねえもんな。そうよ、見つけたお前がはずせよ」
「し、死体に、触れと言うんです?」
「明日のパンも無くなるぞ」
「わかったよ、トニ」
声のみならず、体までも震えている二人が盗ろうとしているのは、やはり指輪のことなんだろうか。そしたらこの化け物を抑える力が無くなってしまう。俺は力の限り「止めろ」と叫んだ。
だが、二人の行動に変化は無い。まるで聞こえていないかのようだ。ここでの俺は、俺以外にとっては存在しないものなのか?
一人が極力死体を触らないようにしながら、左手の薬指から指輪を抜き取ろうとしている。指が震えているからかだいぶ手間取っている。取るな、取るなと祈るもむなしく、ついに指輪が指から完全に離れた。離れるや否やミイラの瞼が開き、死体の上半身がゆっくりと起き上がった。
「ひぃぃ」
「う、動いた……」
トニと呼ばれた男の腕を、干からびた手が掴んだ。腰が抜けたのか、はたまた相手の力が強いからなのか、抵抗するそぶりすら見えない。指輪を持った方はトニを見捨て逃げ出しているが、さすがに気がかりだったのか、付かず離れずといったところで止まっている。
もはや完全に立ち上がっていた男は、トニを掴んだまま片方の足ずつ棺から抜けると、覚束無いながらもしっかりと地面を踏みしめながら、無抵抗のトニを壁際に追い込んだ。俺の「触るな」という叫び声も効果なく、首元が見えるところまで服を破いた後、肌に牙を突き立てた。
あまりの残酷さからか、我が身を案じたのか、もう一人の男を止めていた金縛りはとけたようで、闇の中へと走り去っていった。「待て」と喉を潤した死体がしゃがれ声で吠えても、逃げる足音が止むことは無かった。
このあと、先のように石の棺でミイラが眠りに就くような場面は一切見ていない。だからこそ、俺はあのミイラと対峙すべく、唯一のヒントであるサントリーニ島へと向かうことにしたのだ。もしかするとディエゴの言っていたボスが……まさかな。
指輪の事などをあれこれ考えながら時間を潰していると到着していたようで、船を降ろされた。先祖代々の放浪癖な家系のおかげでこれっぽっちも船酔いはせず島に潜入できたは良いが、想定外の光景に目を疑わずにはいられなかった。こんな辺鄙な場所にある島なのに港に立派な闇市街ができていて、どこから来たのか人でにぎわっている。海岸線にびっしりと並んだ建物はすべて黒い塗料で塗られていて、なんとも悪趣味だ。到底海のオアシスには見えない。
怪しく思われないよう辺りをうろつきながら観察するに、普通の店じゃ手に入らないような高品質の煙草や香辛料、知らない国の金貨、果てには奴隷なんかまで法外な値段で売っている。こんな所の”ボス”に会おうとしているのか、改めて戻れない道をたどっているのだと痛感するね。しかもあのミイラかどうかの確信もなく、だ。まったく、俺はどうかしてるよ。
闇市のはずれの方に、警備をしているのであろうか、目を光らせている浮浪者のような身なりの細身の男性がいた。何か糸口でも見つかるかもしれないと話しかけてみた。
「あなた、もしかして夜の家族の一員でしょうか?」
「えぇ? そりゃ見張りを任されてるんだ、他に誰がいるんだってんだ」
「その、俺も仲間に入りたいのですが、入れて貰えるでしょうかね」
「ボスは来る人拒まずが信念だ、あんたも入れてくださるだろうさ」
こんなに簡単に行き方が分かるとは思わなかったが、それだけ人員を欲しているということなんだろう。案内してやるとばかりにこちらを見てくるが、まだ心の準備ができていない。もう少しこの男からボスの情報を聞き出せないだろうか。
「ところで、夜の家族に入るのには、何か必要なものはあるんです? お金とか」
「金ならもはや困りはしないさ。見ての通り此処は貿易が盛んだから。これもボスの知恵のおかげでさ」
「じゃあ対価は払わなくていいと」
「ボスが新しく家族に加わる仲間にすることは、ただ一つ。儀式を行うんですぜ」
「儀式?」
「そう、ボスと血の契りを交わすんで。なに、そんなに怖いもんじゃあ無いですぜ。ええ、そんでボスが首のここを少しばかり噛んで血を舐める。あんたも男ならこんな痛み、なんてことなかろうに、そんな顔しなさんな」
指差して、まだ抉られたような傷の残る首筋を見せてくれた。血、というフレーズを耳にして眉間にしわを寄せたのを、俺が怖がっていると解釈したらしい。話を聞くに、俺の直感は正しかったらしいな。指輪の見せた光景にも、首を噛んでいる物があったじゃないか。
「なるほど、契りを交わしたら、俺も晴れて一員になれるということ……」
俺が喋っている途中で、なんの前触れも無く、男性が胸をかきむしり苦しみだした。額には脂汗が浮かび、顔には恐怖の表情がはっきりとみえる。周囲を見渡しても誰もいない、銃を撃たれたとも思えない。何が起きたのかさっぱり理解できなかった。
「ボ……ボス、お許し……を。部外者に話し……ました……が、うっ……」
咳き込む口からは血が吐きだされる。背中をさすりながら「大丈夫か」と問うが、聞き取れないほどの小声でぶつぶつと呟くばかりで俺の言葉への返答はない。次第に体温も下がっているように感じる。男性は立っていられなくなりその場に崩れ落ちたかと思うと、もう息をしていなかった。地獄を見たかのような言葉では言い表せないほどのおぞましい表情で、長い時間見ていると俺も死に引き込まれそうだ。
これはボスから俺への挑戦なのか、それともただ裏切者を罰しただけなのか……。
他の見張りに頼み込むとすんなり案内してもらえることになったが、儀式は必ず日の落ちた夜中に行われるそうで待ちぼうけを食らっていた。どんどん島の奥に連れていかれ、大きな屋敷の中に案内され、今は部屋の一角で座らされている。周りにいる組織の人から聞き出そうとするとまたあの惨劇を見ることになるかもしれないと思うと、こちらから話しかけることはできなかった。
名前や年齢、家族構成など聞かれたが、全て真実を答えた。独り身だと最愛の誰かに害が及ぶ心配がなくて助かるね。唯一出まかせを言ったのは動機、ボスの偉業に心を打たれたと言っておいた。ぐうたら生活してきた身体だ、どう見ても「戦力になりに来た」とは思われないだろうから、咄嗟ながら及第点な理由ではなかろうか。
――――――――――――――――
派手な装飾が凝らされ、アンティークの調度品が至る所に置いてある。天井からは豪勢なシャンデリアに火が灯されており、この部屋がある場所が地下であることを忘れてしまうほどに明るい。その明かりに照らされるのは、一人の男性と、それを囲む二人の美女。
互いに首や腰に手を回して、耳元で甘い言葉を囁き合っている。右腕の女性を引き寄せ、頬にキスを落としたかと思うと、左の女性と舌を交わらせる。淫らな水音が部屋を満たす。やがて熱が上がって来たのか、キスも激しくなってきて、とうとうその唇が下へ下へとキスをしながら降りてきた。しかしうなじ辺りで止まっており、しびれを切らしたもう一人の女性が私にもと言いたげに、うっとりと覗き込んできた。すると男性はうって変わって目を吊り上げギロリとそちらを睨みつけると、女性のうなじにそのまま勢いよく牙を立てた。痛みに歯を食いしばる女性と、恐怖から逃げ出そうと試みるもう一人の女性。だが男性ががっしりと腰を捕らえているため、叶わない。
そんな緊迫した中、突如ノックの音が響いた。男性はしぶしぶといった表情で牙を抜くと、ため息をつきながら立ち上がりドアノブをひねった。
「お取込み中申し訳ございません。我らの仲間に加わりたいと申し出る者が二人、参りまして」
「まったくだ、トニ。お前は百何年経ってもタイミングが悪い。仕度するからさっさと連れてこい。今度は少しは使えそうな奴だろうな」
「少なくともひとりは」
「ならばそっちから連れてこい。使えなくても数は確保したい訳だがな」
「かしこまりました」
荒々しくドアが閉められると、縮こまっている女性達に感情の無い声がかけられる。
「聞いていただろうが、時間が無くなった。かと言って後回しにする気は無いから安心していろ」
地下に立て続けに響いた絶叫に、トニと呼ばれた男性は肩を落としながら一人目を待たせている部屋へと急いだ。今夜もおこぼれを貰えそうにないな、と。
――――――――――――――――
窓の外はすっかり暗くなった。ついにお呼びがかかった。見飽きた部屋を抜け、階段を降りると一気に肌寒くなった気がした。ある扉の前で、案内してくれた人が「ここからは一人で入れ」と言い戻っていってしまったので、気を落ち着かせ、ポケットに入れた指輪の存在を確認してからノックをする。「入れ」と野太い声が返って来た。扉を開けて入ると、蝋燭数本の薄暗い中に革張りの椅子に深々と腰かけた男性がいた。
「お前が我が|夜の家族《ファミリア デラ ノッテ》に加わらんとする者か。名乗れ」
「オレストと申します。この度は……」
「それ以上はよい、お前の本質なぞ儀式で分かる。早速執り行うぞ」
男性はやおら立ち上がり、俺の顔の目の前までやって来た。やはりだ、高い鼻筋に太い眉、暗い中でもはっきりとわかるほど赤い唇。幾分か若返っており、干からびてこそいないがあの悪魔に違いない。
「私の顔がそんなに気になるのかね」
「いえ、似た人がいたもので」
誤魔化しはしたが、眉間が険しい。不機嫌にしてしまったようだ。命令されるがままに上半身の服を脱ぎ、半裸になる。
「オレスト、これからお前の血を吟味する。その結果次第では二度と口が利けんようになるが、言い残したことがあれば聞いてやろう」
「無い」
まだだ、指輪を出すのはまだ早すぎる。ここは敵の本拠地だ、チャンスを急いだらどうなるかなんて考えるまでもない。けれど最期の地にする気なんざこれっぽっちも無いね。
「肝が据わっているな。では始めるぞっ」
にやりと笑ったのち、ガッと開いた口には矢じりのように尖った歯が二本、俺のうなじめがけて一直線に飛んで来る。よし、今だ。ポケットから素早く指輪を取り出して、目の前へと突き出す。
「これは……おのれ、はめたな。だがこれで勝てると思うなよっ」
後ずさりながら左の腕で目を隠し、俺の掲げる指輪を必死で見まいとしている。その状態で何ができると言うのかともう一歩踏み出した。その直後、右手をサッと振り下ろしたと思えば、扉が勢いよく破れて人が大量に押し寄せて来た。あっという間にボスを囲むと、俺の方へ手を伸ばして近寄ってくる。どいつもこいつも、目が血走り表情の無い顔をしている。
「私の野望をそんな物の為に終わらせられないのでな」
一本の土色の手がぐんと伸びて、俺の左腕をつかんだ。すぐに何本も加われば、大群の中に引き摺り込もうとしてくる。抵抗もできず、死を覚悟して両手を握りしめた。その時だった。右手の拳の隙間から眩い黄色の光が漏れ出した。俺を掴んでいた手は痺れたように震え、手の持ち主たちはその場に倒れていった。それを踏みつけながら後続が俺へと手を伸ばすが、みな俺の皮膚に触れたそばから倒れていく。不思議と怖さなど無くなった。死んだ顔の人々を押しのけ、ボスめがけて歩む。
「指輪など、人の手を借りねばただの飾りだ。はたき落としてやる」
押し寄せる波全てを倒れさせると、右手めがけて悪魔の足蹴りが飛んできた。離すまいと握った右手を見ると、いつの間にか雷を握りしめていた。雷の先に足が当たり、火花が散る。うまく往なせれば、今度はこちらの番だ。使い方は分からない、けれども腕が勝手に投擲の準備を始めていた。ならばと心臓めがけて力のかぎり投げる。雷鳴を轟かせて飛ぶそれは、心臓付近を確実に射貫いていた。
悪魔が叫んで動けないでいる間に左の手を取り、指輪に戻った物を薬指に差し込む。すると力が嘘のように無くなり、受け身も取れずドンと派手な音を伴い床に倒れこんだ。だが目は最後まで俺の方を刺すように睨みつけ、事切れるまで言葉を紡ぎ続けた。
「次の復活は必ずお前から吸ってやる。一滴も残さず搾り取ってくれよう」
言い終わると、棺に入っていた時の手を組む姿勢で固まり、石のように動かなくなった。終わったのだ、俺は指輪の期待に添えたのだ。この国を悪魔の恐怖から救ったのだ。後はこれをどう場所すら分からないあの洞窟まで運ぶかだ、と思案していると、倒れていた手下達がもぞもぞと動いているではないか。しまった、まだ敵はいるんだったと警戒する。しかし指輪は悪魔の指にあるわけで、俺にはもはや武器など何もない。
「吸血鬼はどこだ……倒れている!?」
腰のナイフを引き抜きながら起き上がった個体は、俺と、床で横になって伸びている悪魔とを交互に見つめる。状況を把握しようとしているらしい。さっきまでの俺を襲ってきた時とは違い殺意は感じられず、各々がバラバラの行動をとっている。悪魔を眠らせたおかげで術のようなものが解けたようだ。
一人が悪魔の身体をあちこち触って何かを確かめるような動作をしている。「死んだように硬直している」そう呟くのが聞き取れた。やはり活動を止めているようだな。最初に声を発したリーダー格が俺に話しかけてきた。
「貴方がこの吸血鬼を眠らせたのですか?」
尊敬の含まれた眼差しで言われる。そういうのは柄じゃないんだがな。
「俺は指輪を持ってきただけですので、詳しい事は何も分からないです」
「ゼウス様の指輪を……貴方は神の使いでしたか。本来でしたら教会から頼まれていた私達でかたをつけるべきでしたのに、吸血鬼ハンターながら吸血鬼の駒にされていたのです。これまで貴方様にしたであろう非道をお詫び申し上げます」
ここで漸く、事の顛末を聞くことが出来た。あの悪魔は吸血鬼と呼ばれる死者で、実際に生きていたのはもう何世紀も昔だとか。そんなモノが動き回るだけでも気味が悪いのに、吸血鬼は人間の生き血を餌にして生き永らえるそうだ。この島、サントリーニ島は昔から吸血鬼ハンターの多い島として有名なそうで、俺が対峙した吸血鬼も何百年前かにこの島に封印されていたそうだ。
「普通なら封印などせずに、このナイフなどで仕留められるのですが。あの吸血鬼の力は強大で、ゼウス様のお力を借りて封印するのが精一杯であったと伝えられてきました。貴方が指輪を運んでくださらなかったら、人間はきっとあの吸血鬼に滅ぼされていたことでしょう」
ハンター達の「あとは私達にお任せください」と力強い言葉を信じ、本島から連れ去られてきた人達と、ちょうど出航準備の整っていた大きな船でこの島を去ることにした。居たところで、俺にできることはもう無いだろうさ。乗ってすぐ、甲板にオレストが佇んでいるのを見つけたので近寄ってみる。
「おうオレストじゃねえか。おめえも無事だったようで何よりだ」
痛い程背中を叩かれた。あの時は俺に容赦なく掴みかかって来たくせに。だが、元気そうで何よりだ。
帰りは安全な航海になるだろうと思っていたが、島が地平線上に辛うじて見える程まで遠ざかった時、船が揺れ始めた。外に出て船や航路に異変が無いか皆でパニックになりながら調べると、サントリーニ島の方角から煙が上がっているのが目視で確認できた。
「噴火だ、天罰が下ったんだ」
誰かがぽつりと呟いた。俺は、ただ罪なきハンター達の無事を祈るばかりであった。