第五十九話 転機
三月も中旬に差し掛かった。
朝晩はまだ少し冷えるが、日中は日差しが出て、ぽかぽかと温かい光が降り注ぐ。
オレとminaが別れ話をしてから一ヶ月弱が経過した。
もちろん、あれ以来、minaとの連絡を取っていない。
少しだけ、こっそり、minaが唯一持っているレギュラー番組のラジオを聞いた。
minaの声は表面上は、普段と変わらないように感じられた。
minaはなんとか元気でやっているようだ。
最初は毎日minaの夢を見た。
でも、それがだんだん数日に一回になってきて……
最近ではあまり見なくなった気がする。
人はこんな風に、大切な人との思い出を忘れていくのだろうか。
オレもかつてそんな思いを味わったことがある。
「これが、最後の恋」
そう思いながらも、人の心の痛覚というものはどんどんマヒをして、やがて、また別の恋をするのだろうか?
仲間たちには励まされたが、結局minaをシンガポールに送り出す以外に幸せの形なんて考えられなかった。
もうオレとminaが会うことはないだろう。
支店長に呼ばれたのは、オレがそんな諦めにも似た感情を抱いていた頃だった。
「佐伯、ちょっといいか?」
朝、オレが出勤すると、草橋支店長がオレに向かって呼びかけた。
「は、はい」
何だろう……朝一番に支店長に呼ばれるなんて珍しいな。
草橋支店長と二人、支店の応接室に入る。
いつだったか、minaと二人で甘い逢瀬と口づけを交わした応接室。
応接室の革張りのソファーや、重厚感のある時計を眺めていると、オレはふと愛しい人のことを想った。まったく何を考えているんだ、忘れようとしても、ちっとも忘れることなんでできやしない。
そして、支店長と低い木張りのテーブルを挟んで、ソファーに腰掛けて、向かい合う。
草橋支店長は、いつもにも増して、真剣な表情を浮かべていた。
「佐伯、実はな……」
「どうか、しましたか?」
「お前に、ニューヨーク支社へ転勤の話がある」
「えっ!?」
銀行の人事は減点方式だ。基本的に一度評価にバツが付いたら這い上がれない。例えその後どんなに功績を上げたとしてもだ。オレは過去に病歴もあるし、一生このまま場末の銀行員で終わると思っていたが。
「どうだ? 受けるか? この話……」
「ええと……」
「まあ、知っての通り、ニューヨーク支社はエリートコースだ。三年は行ってもらうとは思うが、その後は本部の法人担当か融資部門にでも行って、出世への道が拓けるだろう」
金融の街、ニューヨーク。世界中のマーケットの中心。そこでキャリアを積んで、そこでの経験を日本経済のために活かす。かつてそんな夢を抱いていたことあった。
オレが黙っていると、支店長はさらに
「minaとは……別れたんだよな?」
念を押すように、聞いてきた。
「はい……すいませんでした」
「お前が謝ることじゃない。日本中から叩かれるようなマスコミからのバッシング。minaも辛かっただろう。でも、minaがシンガポールに行ってそれで再起する道があるなら、それもありかと俺は思っている。寂しくはなるがな……」
そう言って、支店長は苦笑いした。
「は、はぁ、そうですか……」
「一応、父親代わりとは思ってはいたが。結局minaには何もしてやれなかった。俺のとこは息子が二人だから、『娘さんを僕にください』なんて、一度言って欲しかったが……」
「ごめんなさい……」
オレはよっぽど落ち込んだ表情をしていたのだろうか、支店長は慌ててこう続けた。
「いや、お前を責める訳じゃない。どうしようも無いことだって世の中にはある。それでどうする? ニューヨーク行きだが、一週間以内には返事をくれよ」
「はい、わかりました。少しだけ、考えさせてください。ちなみにもし断った場合は?」
「うちの人事部からの好意を袖にするんだ。良くて場末のドサ回りで一生を終えるか、ヘタしたら子会社へ出向だ」
「そうですよね……」
minaの行くシンガポールとそしてニューヨーク。地球の反対側だ。
そこで、心機一転やり直すという選択肢も、オレにはあるのかもしれない。
「このままドサ回りを続けるよりは、お前にとってもいい話だと思うが……」
「はい、ありがとうございます」
支店長に礼を言って、オレは応接室を去った。
オレが自分の席に戻ると、すでに雨宮さんは出勤していて、自分の席に座って脚を組んでブラブラさせていた。相変わらず膝上十五センチのミニスカートに黒いタイツがよく似合う。つい、男の習性でそこに目が行ってしまう。
雨宮さんはあのあとオレが退院してから出勤すると、すぐに謝ってくれた。
根はいい人なのだ。ちょっと直情的な所はあるけど。
彼女はオレの視線に気付いたのか、声を掛けてきた。
「よう、佐伯。朝から支店長と面談か。何かあったのか?」
「あ、あのう……実は……」
「ん!? もしや今のこの時期? 海外赴任か?」
勘の鋭い彼女は、オレが口ごもっただけで何かを察したようだ。
本当はこういうのって漏らしちゃいけないんだけど。まあ、雨宮さんには世話になってるから。
「実は、先程、ニューヨークへ転勤の話を聞きました」
「にゅ、ニューヨーク……ずいぶん遠いな……」
「は、はい」
「それでどうするんだ? 受けるのか?」
「一週間くらいは、返事を待ってもらえるようです」
「そうか……」
彼女は腕組みをしながら、整った顔を真剣なものにさせて何やら考え込んでしまった。
「佐伯さーん! 聞きましたか!? ビッグニュースですよ!」
そこへようやく出勤した田中がオレたちの居る方へと駆け込んできた。
「何だ、田中、どうした?」
ジッと、田中の方を睨む、雨宮さん。
「minaちゃんのラジオが来週の週末に、スペシャルバージョンで目黒川で生収録をするみたいなんですよ! そこでminaちゃんから重大発表があるって!」
「ちょ、田中! お前!」
田中を咎めるような表情の雨宮さん。
ああ、そう言えば、minaと別れたこと、田中にはちゃんと言わなかったな。
退院して仕事から復帰してからバタバタしてたから。
いいんだよ、田中、minaと別れたのはオレが悪いんだ。お前が気にすることじゃない。
オレが田中にそう声を掛けようとしたその時。
頭の中に、幾つかの思考が駆け巡った。
かつて愛を誓い合った歌姫……mina。
華やかなステージで、ギター片手に楽しそうに歌う、mina。
そして何故か、オレの頭の中に、minaの曲、『ノンフィクション』が流れた。
「人生の主役は、いつだって自分自身」
「だから、自分の可能性、全て信じて、もう一回やってみようよ!」
minaの力強いボーカルと、エレキギターのリズミカルなサウンド。
その音楽は、オレに、一つのアイディアをもたらした。
今までモヤモヤと考えていたこと。
それが、スッキリと晴れた気がした。
オレの……可能性?
全てを……信じる?
今までオレは、自分の生活、銀行員という枠組みの中で何とかやろうともがいてきた。でも、それを一から……全て、捨て去って、佐伯和弘という一人の人間として、愛する人と向き合うなら……
「田中! お前、バカか! 佐伯が困ってるだろうが!」
オレが沈黙しているのを気にしたのか、雨宮さんが田中に関節技をかけようとした。
「いや、違う! 田中、いい情報をありがとう!」
「えっ!? あっ、痛タタタタタターーー!!」
遅かったか、すでに関節技の餌食になっている田中。彼を横目で見ながら、オレは真由ちゃんを呼びに走った。
そして三人に、思いついた計画を話した。
「そんな……佐伯、本当にそれでいいのか?」
「佐伯さん、でも、もしこれが上手くいけば、minaちゃんは幸せになれるかも……」
「すいません、何が何やらさっぱりわからないのですが」
三者三様の反応。
でも、オレの熱意に促されたのか、三人とも、協力を誓ってくれた。
「ダーリンにも、ちゃんと説明しておいた方がいいな」
満足そうな表情の、雨宮さん。
「minaちゃんのお母さんや、妹の真理ちゃんも、ぜひ呼びましょう! よかった! 佐伯さんがやっとやる気になってくれた」
真由ちゃんも嬉しそうな表情を浮かべていた。
上手く行くだろうか?
でも、信じるしかない。
minaと、オレとの間にある、絆を!
そして、運命を!
オレと、minaの、二人の物語が動き出す。




