第五十八話 ハヤト
次の日の夜。
真由ちゃんと佳奈が帰って以来、誰もやってこない。
そりゃそうだよな……。
雨宮さんや田中はオレが不在の仕事の穴を埋めるので必死だと思うし。
佳奈も昨日は大学の授業を休んでまでオレに張り付いていた。
迷惑ばかりも掛けてはいられない。
オレは、単なる打撲と慢性疲労で倒れただけなのだから。
つまり、やることがない。
休養だけは取れているせいか、体の節々の痛みもだいぶ退いてきた。
主治医の話だと、明日には退院できるということだ。
実家がお金持ちの雨宮さんのツテを使ったのか、部屋は個室だ。
まあ、ちょっと設備が年季が入っていて、病室の照明も古びた蛍光灯だけで、電気を付けてもなんか薄暗いが、文句を言えるような立場ではない。
もう、八時くらいか?
消灯は九時って言ってたよな。
九時に電気を消してもやることなんてないんだが。
こんなに早い時間に寝たこと無いし。
オレがそんなことを考えながら、小さいテレビをぼーっと眺めていると、病室のドアの向こうから何やら声がした。
「困ります! 面会時間はとっくに過ぎているんですよ!」
誰かを押し留めるような女性の声。オレの担当の看護師さんだったかな?
「いいじゃないか。頼むよ」
優しく、落ち着きのある若い男の声、なんか、どっかで聞いたことあるような。
「そんな、私が看護師長に叱られます!」
引き戸が滑るような音がして、ふとドアの方を見ると
一人のイケメンと、困ったような顔の看護師が姿を現した。
龍野ハヤト!
白いニット編みのセーターに、履き古したデニムというラフなスタイルだが、それでもモデル雑誌から抜け出てきたような輝きを放っている。
「ちょっと話したらすぐ帰るからさ、ねっ」
ハヤトはそう言って、若い看護師の方をじっと見つめた。
思いのほか、二人の距離が近い。
今を時めく若手実力派俳優のきらびやかな笑顔、ファンでなくても圧倒されるだろう。
「えっ……と……」
ハヤトの射抜くような視線に思わずトキメイてしまったのだろうか、若い看護師が言葉を失った。
「じゃ、そういうことで。頼むよ」
ハヤトは看護師から視線を外すと、オレの方へと歩いてきた。
看護師はしばらくぼぉーとしたあと、仕方無さそうに引き戸を締めて出ていった。
「何しに来たんだよ?」
ベッドから体だけ起こしながら、オレはそう悪態をついた。
「ふふ、別に」
そんなオレの嫌味を、ハヤトはサラリとかわして、ベッドの脇からパイプ椅子を出してきて腰掛けた。
「笑いに来たのか? minaを守るとか言っておきながら、この様子だ」
「何だ、思ってたより元気そうじゃないか」
「悪かったな」
「佳奈ちゃんから佐伯が倒れたと聞いた時は、大丈夫かと思ったが、元気そうで安心だ」
ハヤトはそう言って本当に安心した表情を浮かべた。
まったく、直情バカでお人好しなヤツだ。
ん? でも今、佳奈って言ったような……
「また、佳奈か? 言っとくけど佳奈との交際はそう簡単に認めないぞ」
「だから、別に付き合ってるとかじゃねえって」
少し照れた表情を浮かべる、ハヤト。
「本当か? 怪しいヤツだ? 今度じっくり尋問してやる」
「まったくどこが病人だ? 元気そのものじゃねえか?」
「うるせーな。もっと包帯ぐるぐる巻きで、落ち込んでいた方がよかったか?」
「バカ。そりゃあ元気の良いほうがいいに決まってる」
「お前に、バカって言われたくねえよ」
そんなテンポのよいやり取りが繰り返される。
オレも少しは元気になってきた証拠なのだろうか。
「バカだよ。佐伯は……」
ハヤトはぽつりとそう言って、じっとオレを見つめた。
思わず何も言い返せない、オレ。
そんなオレを真面目に見つめながら、ハヤトは続けた。
「minaと佐伯のことは聞いた。社長に取引を持ちかけられたんだろう?」
「ああ……」
「俺も一度いいようにやられたが、あの社長のことだ、勝算のある話かもしれない……でも、俺なら……」
「俺なら?」
「minaをさらってでも、逃げるかな……」
「直情バカなお前のやりそうなことだ」
「ああ! でもわかんねえんだ! minaをさらって逃げた所で俺も仕事があるし、minaが歌えるようになるかはわかんねえ……」
ハヤトは自分でそう言いながら頭を抱え始めた。
「お前、自分で盛り上がって、自分で落ち込むなよ」
「でもな……佐伯」
「ん? なんだ?」
「俺は今まで、物事の正解は一つしかないと思ってきた。ミュージシャンを諦めて、モデルになって、それから俳優を始めたことも……一生懸命目標に向かって進んでいけば、なんとかなるって」
ハヤトはそこで、一旦言葉を区切った。
「でも、佐伯に会って、ちょっと冷静なお前を見て少し分かったんだ。物事の正解は一つだけじゃない。色んなやり方があるって」
「そんな偉そうなこと、教えた覚えはねえよ」
「だから佐伯、本当にこれでいいのか? minaのラジオ番組は三月末で打ち切りが濃厚だ。そしたら、minaはシンガポールだ」
「そうか……そう、なるよな」
急に現実を突きつけられた気がして、オレは黙ってしまった。
「もう一度じっくり考えてみろ。今からでも遅くはないはずだ。お前とminaにとって、何が一番幸せなのかを……」
その時、病室の入り口の引き戸が空いた。
先程の若い看護師と、後ろに怖そうな年配の看護師が控えていた。
「何をやっているんですか? 佐伯さん! 面会時間はとっくに終わってますよ」
看護師長だろうか? 年配の看護師が怖そうな顔で告げた。
「す、すいません。友人がつい押しかけてきたもので」
オレはとりあえず頭を下げた。
どうせ明日にはいなくなる身だ。
ここは穏便にすませておこう。
「すいませんでした! 友人が入院しているのを聞いて、居てもたっても居られなくて! すぐに帰ります」
ハヤトはオレを上回る低姿勢で、看護師に頭を下げた。
「そ、そう……分かればいいのよ」
看護師長はそう言って、怒気を和らげた。
「ふっ、じゃあな、佐伯」
オレの肩に気安く手を置いて、ハヤトは来た時と同じように、風のように去っていった。
オレの肩には、ハヤトにぽんと叩かれた手の感触がまだ残っている。
オレと……minaの……幸せ……
一体オレに、何ができるんだろう?
看護師たちが去った後も、ハヤトの言葉はオレの中でいつまでも浮かんでは消えていた。
そして、愛しい人の姿を、オレはそっと心の中で思い浮かべるのだった。




