第五十四話 取引
「お前、minaと別れろ、それが条件だ」
社長は事務連絡でも告げるように、オレにそう言い放った。
C社の社長室。重厚なオークウッド調の執務机を挟んで、オレと社長は向かい合って座っている。
オレは最初、社長の言葉の意味が頭に入ってこなかった。
しかし、その意味が咀嚼されると、沸々と怒りが湧いてきた。
「そ、そんなこと……出来る訳無いでしょう!」
「新しい環境、一から出直す機会。今のminaに必要なのは、まさにそれだ」
社長は事も無げに言い放った。
「例えminaがシンガポールに行っても、オレがminaを支えます! 電話や、今はテレビ通話もあるし、飛行機に乗って会いに行くことも出来る」
「その支えが余計だって言ってんだよ!」
「何を根拠にそんなことを!」
「お前、まさか気付いてないとは言わせないぞ……」
「何がですか……?」
「minaはお前に依存しきっている……このままでは遠からず、お前とminaの仲は破綻する……」
くっ……確信を突かれたような一言。
思わずオレは、何も言い返せなかった。
「minaがこのままお前にベッタリになって自分に嫌気が差すか、お前がそれに耐えきれなくなってminaを捨てるか……そのどちらかだ」
「そんなこと有り得ません! オレは、minaを支え続ける!」
「恋愛ゴッコも大概にしろ! 俺はそんな例を何組も見てきた! 賢いお前ならminaにとってどの選択肢がベストか、わかるはずだ」
社長も声を荒げてきた。
minaにとって……
minaには、華やかな舞台で、スポットライトを浴びて、楽しそうに歌って欲しい。
もう一度歌声を取り戻して欲しい。
そのためなら、オレは、何だってやると心に誓ったはずだ。
オレは……minaを捨てるのか……
それが本当に、minaのためになるのか?
「minaがシンガポールに行ったら、本当に……minaはもう一度歌えるようになるんですか?」
声を振り絞りながら、社長にそう告げる。
「必ずとは言わないが、こっちだって社運を掛けている。それ相応の勝算のある話だ」
一代で芸能事務所を立ち上げ、芸能界でも一目置かれる存在として、事業を広げてきた人物。社長は自信有りげにそう話した。
オレの頭の中を、色んな思考が駆け巡る。
外房で浴衣姿で、一緒に花火を眺めたmina。雨宮さんの結婚式、着飾った姿で結婚に憧れていたmina。マネージャー仕事の際に、オレがデートの約束をすっぽかしてふくれっ面したmina。ライブで楽しそうに歌うmina。そして……歌を失ったmina。
その歌姫に……オレは……何が出来るのだろう。
「決めろ! 佐伯、minaにとって何が一番いいのかを」
「別れたら、minaはもう一度歌うことが出来るんだな!?」
オレは立ち上がり、机を挟んで社長に詰め寄った。
「何度も言わせるな! こっちだってベストを尽くす。それでも失敗した時は、俺を刺すなり好きにしろ!」
社長も立ち上がってオレを睨みつけた。
minaの……ため……
オレは、悪魔に魂を売り渡す決意をした。
「わかった……minaとは……別れる……」
オレは、かすれた声で、そう告げた。
「それが懸命な判断だ。あとはこっちでちゃんとやる」
社長はそう言ってオレの肩をぽんと叩いた。
オレはその社長の手を乱暴に振り払って、社長に背を向けた。
そのままフラフラと、社長室を出ようとした。
「別れ話は早い方がいい。minaと話を付けたら、すぐに連絡してこい」
「言われなくてもそうする!」
オレは振り向かずに、そう言い放った。
オレはよろよろした足取りでエレベーターに乗り、C社のビルを後にした。
覚束ない指先で、携帯電話を操作して、minaに電話を掛ける。
「あっ、カズくん……お仕事お疲れ様」
「mina……ごめん」
「どうしたの?」
「今日は、仕事が立て込んでいてminaの所に寄れそうにないや。ごめんね」
「わかった。カズくん。お仕事頑張ってね」
何も知らないminaは、少し残念そうにそう言ってくれた。
時刻は夜の九時を回っている。
曇り空なのか、星は元より、月明かりさえも見えない。
ビルの窓から漏れてくる明かりが、かすかに路上を照らしている。
オレは寒さでかじかんだ手に、ふうっと息を吹きかけて、温めながら歩いた。
別れ話……か。
社長にはああ言ったものの、実質minaを捨てるのと一緒か。
オレは、minaにきちんと別れを切り出すことが出来るのだろうか……
話なら、minaのマンションの室内はやめた方がいいよな。
minaに抱きつかれて、そのままminaに迫られたりしたら、オレも理性を抑えられるだろうか。
別れ話なんて無かったことになってしまうかも。
やっぱり、外、か。
奇しくも、数日後にはバレンタインデー。
月明かりの下で、minaに想いを打ち明けられて、寒い中、minaの温もりを感じてから……一年。
オレは、minaに別れ話をすることになるのか。
あれから一年。色々なことがあった。
自分で言うのも何だが、minaとの絆は、生半可なことでは切れないと思う。
辛辣な言葉を投げないと、minaは納得しないだろう。
単に、新しい環境でやり直した方がいい。
オレたちは、依存し過ぎているから。
二人の新しい未来のために。
そんな綺麗事では、minaは納得しないだろう。
オレが、とことん悪者になるしかないか。
オレは、少し考えた後、携帯電話でminaにメッセージを送信した。
「今度のバレンタインデー。話したいことがあるんだ。いつも散歩している、川沿いの公園に来て」
すぐにオレの携帯電話が鳴り
「うん、わかった(*˘︶˘*).。.:*♡ ありがとう。楽しみにしているね」
minaの気持ちは弾んでいるのだろうか。そんな返信。
プロポーズされると思っているのか?
そんなminaを、オレは、地獄へ突き落とすような真似をしなければならないのか。
大丈夫……それも一時のこと。
minaは、必ず立ち直ってくれる。
せめて、オレたちの仲間を頼ろう。
仲間が側にいれば、minaもきっと……。
オレは、雨宮さん、真由ちゃん、佳奈、そしてminaの妹の真理に
「なるべく早く、minaの様子を見に行って欲しい」
そんな内容のメッセージを送信した。
別れ話をすることには……触れなかった。
外の空気が……凍えるほどに頬に冷たい。




