第五十三話 新婚生活?
オレの実家から帰ってきても、minaの芸能活動が好転することはなかった。
どんどん仕事を降ろされ、ついにレギュラー番組は週一回のラジオだけになった。
そのラジオも三月末の番組改正で降板が濃厚らしい。
minaの弾き語りコーナーがなくなった代わりに、「minaの先生に聞いてみよう」という各界の専門家を呼んで色々と質問する、というコーナーが始まったが、レーティング(ラジオの視聴率)はいまいちのようだ。
皮肉な事に、minaの仕事が減ってからというもの、彼女と会う機会はますます増えた。
マスコミも、もはやminaに興味を失ったのか張り付いている様子もない。
世間から見れば完全に落ち目の歌手。すでに終わった歌姫。このまま芸能界を引退するのではないかという噂も流れていた。
「ただいま、mina」
いつも通り仕事を終えて、minaのマンションへと辿り着く。いや、「帰る」という表現が正しいのかもしれない。半同棲状態だからな。
「お帰り、カズくん」
白いレースをあしらった可愛らしいエプロンを身に着けたminaが、玄関先で出迎えてくれた。
もちろん、「ご飯にする? 先にお風呂にする? それとも……」なんてやり取りはないが。
「今日は白身魚をムニエルにしてみたよ」
携帯電話のメッセージで帰宅時間を送っておいたせいか、ダイニングテーブルには、他にも大根と水菜のサラダや、minaが一生懸命作ってくれたであろう、コンソメスープ等が並んでいた。
「うわぁ、すごい。美味しそう。もうクタクタでお腹がペコペコだよ」
「うふふっ。カズくん、今日もお仕事お疲れ様」
「ありがと。さあ、早速食べようか。いただきます」
minaと二人手を合わせて、食卓を囲む。
おっ、料理の腕。だいぶ上達したんじゃないか?
最初は野菜が切り揃ってなかったり、煮物が芯まで煮えてなかったりしたもんな。まあ、作ってもらって余り文句を言うのもなんだが。
話題は、その日オレが銀行であったこととか、二人の過去の思い出話や、田中や真由ちゃん、雨宮さんなど共通の友人の話題が多い。minaの母親や妹の真理もたまに様子を見に来ているようだ。
オレたちの笑い声が、ダイニングとそこからつながっている広いリビングに響き渡る。その笑い声は、どこか虚しさを持って響いている気がした。
minaは時々、壁の一点の見つめて、じっと考え込んでいるような素振りを見せることがある。食欲も少しずつ戻ってきたし、笑顔も見せるようになったが、やはり芸能界から干されていること、歌が歌えなくなっていることを気にしているのだろう。そしてその話題には極力触れないことが、オレたちの暗黙のルールとなっていた。
今は、minaは充電期間……。
いつか、歌を取り戻せる日がくる。
でも、本当にそうなのだろうか?
入れ替わりが激しい業界で毎日のように新人がデビューしては、人知れず消えていく。
もうminaは、二度と人前で歌うことはできないんじゃないだろうか?
オレの胸にも、そんな思いがよぎる。
いや……そんなことを考えるのはよそう。
せっかくminaが、オレのために料理を作ってくれたんだ。
この瞬間を楽しもう。
オレは、そう、自分に言い聞かせるのだった。
食事が終わると、交代で風呂に入って……
minaの方から、オレを求めることも多かった。
寝室のベッドで、minaは溜まった想いを吐き出すかのように、積極的に動いた。
「私には、カズくんしかいないの……」
切ない声で、そう訴えられたこともある。
もし、オレが明日交通事故にでもあって死んだら、minaは……ちゃんとやっていけるのだろうか? そんな思いが、ふと頭をよぎる。
今日も、お互いを求めながら、逢瀬を重ねた。
行為が終わり、二人で息を整えながら寝っ転がり、片腕でminaを抱く。
minaのしっとりとした温もりが、オレの肌に絡みついていた。
「カズくん……私、ね……」
オレに体を預けながら、minaが言った。
「どうした? mina?」
「このまま……芸能界を引退して……カズくんのお嫁さんとか……ダメかな?」
「うん、それも……いいんじゃないかな」
どこか曖昧に、うなずく、オレ。
毎朝minaがいってらっしゃいのキスをしてくれて、お昼はminaの愛妻弁当で、夜はminaの食事を、そしてmina自身を堪能する。そんな甘い生活。
でも、本当にそれでいいのだろうか……ぼんやりとした不安を抱えながら、オレはいつの間にか眠りに落ちていた。
C社の社長に呼ばれたのは、そんな生活を送っていた、二月のある夜のことだった。
銀行の帰りに、C社のビルのフロアに立ち寄る。
C社の社長室。
重厚感のあるオークウッドの机。
そこを挟んで、革張りの執務椅子に社長が腰掛けている。
ふんぞり返っている、という表現がぴったりの相変わらず自信満々な表情。
minaの騒動の時の疲れた顔はどこへ行ったのか。
まったく、少しはオレも見習いたいもんだ。
社長は今日はグレーの仕立ての良さそうなスーツに、真っ赤なネクタイをしていた。胸元にはネクタイと同じ色の、咲き誇る花のようなポケットチーフ。
靴はスエード調か……相変わらずバッチリ着こなしている。
一見親しみやすそうに見えるが隙はない。
「よう、銀行員。minaとよろしくやってるらしいな?」
「別に、普通に会っているだけですよ」
「俺もminaとお前が会おうがどうしようが、目をつぶってやってるんだ。有難く思えよ」
「ああ、そうですか。それはどうも……」
オレは、白々しく、頭を下げた。
この人といると、調子が狂うから、惑わされてはいけない。
「なんだ。ノリの悪い奴だ」
社長はつまらなそうにそう言葉を放った。
「それで、ご用件は? まさかオレをからかうために呼んだ訳じゃないでしょう?」
「ビジネスライクなヤツだ。まあ、いい。実は、minaの歌を取り戻す方法がある」
「ほ、本当ですか!?」
思わず、食い付いてしまった。
社長はオレの反応を見越していたのか、ニヤリとした笑みを浮かべた。
「そうだ、確実とは言えないが、かなり勝算のある話だ」
「で、どんな方法なんですか?」
「minaは、シンガポールに行かせようと思っている」
「し、シンガポール?」
「昔のツテで、いい医者も見つかったし、ボイストレーニングをする所もある。minaにとっても針のムシロのような今の日本にいるよりは、よっぽどいいだろう」
シンガポール、医療先進国だと聞いたことがある。
煩わしい日本のしがらみから離れて、治療に専念する。
そこでなら、minaも復活の芽があるのだろうか……
「ほとぼりが冷めてから日本に戻すもよし、アジアデビューさせてもいい。うちの事務所も、そろそろアジア市場に目を向けてもいいと思っているからな」
確かに、国境や言葉の壁を越えて自分の歌と想いを届けるのは、minaの夢の一つだったはずだ。
シンガポール、学生の時に一度行ったことがあるが、近代的で綺麗な街並み。雑多な人種。minaを真っ向から非難するヤツもいないだろう。日本からは確か飛行機で七時間くらい。三連休を利用すれば、会いに行くこともできる。
今までだってそんなに会えなかったんだ。数年くらいなら、寂しいのも我慢できる、か……
オレがそう思い始めた時だった。
社長はふいに、こう告げた。
「ただし、ひとつ、条件がある」
「条件……何でしょう?」
「お前、minaと別れろ。それが条件だ」
社長が放った言葉の意味がしばし理解できず、オレの視線は頼りなく社長室の壁の辺りを彷徨っていた。




