第五十二話 四つの愛
「そうか。鎌倉のご出身なのか? それは是非行ってみたいなあ。ねえ母さん?」
歴史好きのオレの父親がさっそくminaの話に食いついていた。
まあ、オレが歴史好きなのも、父親の影響が大きいからな。
小学生が読むような、『マンガ 日本の歴史』みたいなやつも全巻揃えてくれたし。
オレとminaと両親が、楽しそうに話しながら、鮭とイクラの親子丼や刺し身をつまんでいると、外の方から、ガラガラと引き戸を開ける音がした。
田舎だから、昼間はいちいち鍵なんて掛けてない。
しかも客商売だし親戚も多いから、色んな人が訪れる。
「カズ兄、mina姉、いるー?」
聞き慣れたハスキーな声、佳奈か。
佳奈は勝手知ったる我が家のように、足音をさせて、居間の方へとやってきた。
「あっ! やっぱり来てたんだ! mina姉、お久しぶり!」
佳奈はそう言って、ショートカットを揺らして笑顔を見せた。
昼時だというのに、遠慮した様子が全くない。まあ、田舎の親戚ってこんな感じだけどな。
「あーー。美味しそう、いいなあ。ねえ、叔母さん。私の分も、ご飯ある?」
「もちろん、佳奈も食べていくといいよ」
母親は、全く気にする素振りも見せず、台所へと向かった。
「ありがとう」
佳奈はそう言って、オレたちと同じようにコタツに足を入れた。
そして運ばれた海鮮丼を美味しそうに頬張っていた。
「ねえ、どうだった。うちの地元? 冬は寒いし、何もないでしょ?」
早速、minaに話し掛ける、佳奈。
「ううん。こんなに美味しいものがあって、暖かく迎えてくださって。ホントに嬉しいよ」
「よかったー。mina姉が緊張してるんじゃないかって様子を見に来たんだ」
そうか、佳奈はああ見えて結構気配り上手だからな。
minaの事を心配してくれていたのか。
「叔母さん、mina姉は凄いんだよ! この前も二千人以上入るような大きいホールでコンサートをやって……」
そこまで言って佳奈は、しまったという顔をした。
「佳奈ちゃん、大丈夫。気にしてないから」
minaが少し寂しそうに笑った。
「それでね。佳奈のことも本当の妹みたいに可愛がってくれるし。お料理だってね、今一生懸命練習してるんだよ。佐伯家の味にも、すぐに慣れるよ」
佳奈なりに、minaを精一杯売り込もうとしているらしい。
なんか、健気というか、可愛らしいヤツだな。
佳奈にも、将来幸せになって欲しい。龍野ハヤト? まだ一次審査を通過しただけだ。交際を認めるとは言ってない。
食事が終わっても、佳奈はまだ楽しそうに話している。
時折そこにうちの母親とminaが加わり、女性同士のお喋りでオレと父親は蚊帳の外のようになってきた。
そんな空気を察したのか、父親はオレにこう告げた。
「和弘、ちょっといいか?」
父親は、オレに、自分の書斎に来るように言った。
父親の後について、書斎に入り、簡素な椅子に腰掛けた。
父親も自分の机を挟んで、向かい合って腰掛けた。
部屋には本棚が並び、仕事用の法令や建築関係の本や、父親の趣味の歴史の本や小説がずらりと並んでいる。
小さい頃、妹とここでよく隠れんぼをして怒られたっけ。
そんなことも今となっては楽しい思い出だ。
「minaちゃん。いい子だな。素直そうで、生き馬の目を抜くような芸能界でやってきたとは思えない。いい嫁になるんじゃないか」
「うん、ああ見えて芯は強いんだ。出来ればもう一度、芸能界で輝いて欲しい」
「そうだな。俺も年甲斐もなくCDを買ったよ。透き通った歌声で、心を打つ、いい曲だった」
「そうだろ。もう一回、歌っている姿を見たいのだけど……」
オレは少し、言葉に詰まった。
父親との間にしばし、沈黙が流れる。
居間の方からは、minaか佳奈か? 若い女性の笑い声が漏れてきた。
「根が真面目なお前のことだ。色々と悩んでいるんだろう」
父親はそう切り出してきた。
すぱっと心の中を射抜かれたようで、言葉が出てこない。
「この人を一生支えられるか? 自分がこの人を幸せに出来るか……そんな具合か?」
オレは、小さくうなずいた。
「でもな、和弘。考え過ぎても、上手くいかないもんだ。『この人とずっと一緒に居たい』その想いがあれば、あとは勢いだ」
「勢い……!? 父さんも、勢いで結婚?」
「ああ、母さんは昔は器量良しだったから、ライバルが多くてな。そのライバルを押しのけて、お付き合いしてもらって、あとは勢いで『結婚しよう』と言って。それでも、もう三十年以上、今では孫にも恵まれて、なんとかやってる」
「そっか……」
「まあ、もっとも、仕事も家庭も上手くやれているのは、母さんあってのことだけどな。俺一人では、とても出来ない」
父親はそう言って、人懐っこい笑みを見せた。
「ありがとう……。父さん」
「心配するな。あとはお前なりに気持ちを整理して、ちゃんと想いをぶつけてこい。俺の子だ。そうヤワには育ててないつもりだ」
小さい頃の父親は厳しかった記憶がある。悪いことをすると、すぐに怒られた。でも成長すると共に、だんだん友人のようになってきて。対等な存在として接してくれるようになった。
結局オレは、東和銀行に就職して、父親の会社で働くことはなかった。それでも折に触れてオレのことを気に掛けてくれている。
オレが成長した後のこと。
イギリスの啓蒙思想家、ジョン・ロックも父親に同じような育て方をされたという内容の本を読んだ。
偉大なる哲学者には及ばないかもしれないが、祖父から受け継いだ会社を守り、従業員に慕われ、オレと妹、二人の子供を育て上げた、最も尊敬する人物。
その父親が、一人の先輩として、オレの事を心配して、励ましてくれた。
その言葉は、オレの胸を熱くさせた。
そして、少し、肩の力が抜けた気がした。
数時間の滞在の後、オレとminaは佐伯家を後にした。
オレの両親は
「せっかくだから泊まっていっては?」
と勧めたが、正月で親戚や父親の仕事関係の人の出入りが多いこともあり、予定通り帰ることにした。
この後は、少しオレの地元を散策して、新潟駅に戻ってビジネスホテルに一泊する予定だ。
元々は、城下町だったオレの地元。
海辺を少し離れた旧市街には、その名残か、家々の軒が隙間なく連なっている。昔ながらの町家の風景。
塩引きの鮭が家の軒下で揺れている光景が、所々で見られる。
道路には雪がなかったが、日陰や家の屋根には、雪がまだ少し残っていた。
そんな街並みを、minaと二人、時折町家の店に入りながら散策する。
minaは、初めて見る光景にしきりに感動していた。
そんなminaを冷やかしながら、オレは別の事を考えていた。
約四年前、オレは仕事が原因で、約二ヶ月の休職を余儀なくされた。
復帰するまで、オレは色々な書物を読み漁った。
その中に、四つの愛という話があった。
確か、キリスト教の話のはずだ。
世の中には、四種類の愛がある。
一つ目は男女の愛。いわゆる性愛。日本人がいう「愛」に最も近いが、相手に見返りを求め、お返しを期待してしまう、愛。
二つ目は、友情、友愛。真摯そうに見え、自然で優しい感情であるが、これも相手のことが好きだから優しくする。対象によってブレが生じる愛。
三つ目は、家族の愛。親が子に、子が親に、または兄弟姉妹がそれぞれに感じる愛情。これまでの三つの中では、最も安定している、本能的な愛。
先程も、オレの父親と母親の優しさ、「愛情」を感じることができた。
子供が地の果てまで行っても、最後まで心配してくれるのは親だけだと聞いたことがある。オレはまだ子を持ったことがないが、きっとそうなのだろう。
minaも家族の絆を取り戻し、今は家族の「愛」を受けている。
そして四つ目の愛が、神の愛。対象がどのような状態になっても、たとえ相手に嫌われたとしても、見返りを求めず、たゆまず注がれる、絶対的な愛。
その「絶対的な愛」に人はどれだけ近づけることができるか?
これが、キリスト教の重要なテーマなんだそうだ。
療養中のオレは、「神様」という言葉がうさんくさくて、その教えをどこか懐疑的な目で見つめていた。
この世に神が存在するなら、なんでオレはこんなに苦しんでいるのか? 他にも苦しんでいる人はたくさんいるじゃないか? そんな人々を神は救ってくれているというのか?
しかし、こうして両親の愛に触れてみると、書物に書いてあったことが、少し現実味を帯びて感じられる気がする。
minaが例えどんな状態になっても、オレは変わらず、見返りを求めず、minaを愛することができるだろうか?
minaは今、歌を失っている。
人前で歌うことが出来るようになるのか? いつ芸能界に本格復帰するのか?
全く目処が立っていない。しかもマスコミに袋叩きに合い、まさに日本中が敵に回っている状態だ。
オレは出来れば、minaにもう一度楽しそうに歌って欲しい。
その透き通った、迷っている人の背中を押すような歌声を取り戻したい。
そのためなら、どんなことだってやって見せる。
嬉しそうに土産物の置いてある町家を覗くminaの小さな背中を見ながら、オレはそう決意した。
町家の軒越しに見上げた空は、雲が多くなって来たのだろうか。
太陽の日差しが徐々に遮られてきて、辺りが少し暗くなった気がした。




