第三話 ハプニング
オレの最寄りの駅から、マンションまでは歩いて十五分くらいかかる。
オレと佳奈は並んで歩いていた。佳奈はさっきみたいに腕は絡めてこなかったが、華奢な肩がオレに触れるくらい、近い所を歩いていた。
いつの間にか、今でも雨が降り出しそうなくらい空が暗くなっていて、やがて、ポツリ、ポツリと、雨粒が空から落ちてきた。
「急ごう! 」
あっという間に、雨は本降りになった。
こうなったら走るか!
オレのマンションまで着いた。
ジムに通い出したせいか、以前みたいにひどく息が切れることがなくなった。
雨はますます強くなり、やむ気配はなかった。
時折、遠くで雷の音がしていた。
オレも佳奈も全身ずぶ濡れだ。
佳奈もTシャツの色が変わるくらいまで濡れており、付けているであろう下着のラインがくっきりと浮き出ていた。
スカートが太ももに張り付いている。オレがペースを上げすぎたか、はあはあと切なそうな表情で、肩で息をしている。
なんだか艶めかしくて、オレは慌てて目をそらした。
髪もしっとりと濡れていて、寒そうだ。
さすがに、これでは「そのまま帰れ」とは言えない。
オレは絶対国防圏を見直すことにした。
大本営発表、退却ではない、転進だ!
「取りあえず、タオル取ってくるから、ちょっと待って」
そんなに部屋は散らかっていないから、佳奈を上げても大丈夫だろう。
今はたいがいネットで済むから。掃除中の母親に見つかって学習机の上に綺麗に置かれている、ような本もないしな。
「カズ兄、パンツの中まで濡れちゃったよーー」
佳奈が悲しそうにつぶやく。
年頃の娘がそんなこと言うもんじゃありません。
「えーと、どうしようか?」
「カズ兄悪いけど、シャワー貸してくれる? あと着替えも、乾燥機使って乾かすから」
佳奈はテキパキしてるなあ。
まあ、そうなるよな。
ワンルームだから、脱衣室なんて気の利いたもんはない。
一応、部屋とカーテンで仕切れるようになっているが。
オレが持っているTシャツは撚れていたり、白地のものが多かった。
もちろん女性ものの下着なんてオレは持ってない。
Tシャツは以前minaにもらったファンクラブのデザインが入った黒地の新品を渡した。取りあえず透けることはないだろう。
下着は未開封のトランクスならある、と伝えると、それでいいから貸してと佳奈が言ってきた。
佳奈にシャワーの使い方を教えて、オレはタオルで自分の頭をゴシゴシと吹きながら、部屋へ戻った。
こっちもびしょ濡れだ。なんか、寒くなってきたし。
カーテンの向こうから、佳奈が服を脱いでいるらしく、衣擦れの音がする。
なんかそわそわして落ち着かない気分だ。
いや、オレは何を考えているのだ?
佳奈は妹みたいなもんだぞ。
「カズ兄、タオルもう一枚置いといて」
佳奈の声で、ふと我に帰った。
そうだな、取りあえずこのお嬢さんのお世話だ。
オレはすぐにタオルを取り出して、カーテンを開けた。
考え事をしていたせいか、佳奈が風呂場に入ったのを確認していなかった。
「キャッ!」
佳奈は短く叫んだ。
その光景はなんだかスローモーションのように、オレの目に焼き付いてしまった。
佳奈の華奢な肩や鎖骨……
その下の柔らかそうな膨らみ……
下はとっさにタオルで隠していたが、か細い太ももや足首をバッチリ見てしまった。
ほんの数秒だったと思うのだが、やけに長い時に感じた。
「ごめん、ごめん」
オレは慌ててその場から離れた。
「うーん、もうー、カズ兄のエッチ!」
佳奈は少し怒った様子で、そのまま風呂場に消えていったようだ。
参ったなあ……
佳奈の裸をバッチリと見てしまうとは
充分大人の女性になっていたよな。
昔は一緒に風呂も入ったこともあったのに……
いや、オレは一体何を考えているのだ。
平日が忙しくて最近スッキリしてなかったせいか。
あとで、風呂場で一回スッキリしておくか……
いや、違う、そういうことじゃなくて……
オレは一人、部屋の中で悶々としていた。
「カズ兄、シャワーありがと。あとカズ兄の服も乾燥機に入れておいて。すぐに回しておくから」
カーテンを開けてタオルで髪を拭きながら出てきた佳奈はいつもの表情だった。
minaのファンクラブの黒いTシャツ。胸元はあまり見ないようにした。
佳奈は怒っている感じはない。
おれは取りあえずほっとして、佳奈と入れ替わりに風呂場へと急いだ。
熱いシャワーを浴びて、着替えに袖を通すと、体がポカポカと温かくなって、
やっとオレは落ち着くことができた。
オレが部屋に戻ると、佳奈はあたたかいお茶を入れてくれていた。
佐伯家は緑茶は薄味が好みだからな。この辺もピッタリだ。
なんせ、八畳のフローリングのワンルームなので、クッションかベッドに腰掛けるくらいしか、座る所がない。
佳奈は最初床にクッションを敷いて座っていたが、オレが自分のベッドに腰掛けると、彼女もオレの隣に移動してきた。
ベッドがきしっと少し音を立てた。
佳奈とオレの距離、約三十センチ。普通にしている分には問題ないが、少し手を伸ばせば、届いてしまいそうな、そんな距離。
佳奈の方を見る。佳奈と目が合った。佳奈は少しバツの悪そうな、そんな表情をした。
外で雨が降る音と、乾燥機がカラカラと回る音だけが、空しく響いていた。
先ほどの件のせいか……なんか気まずい。
ふいに、激しい稲光がして、一拍おいて、天地をつんざくようなものすごい雷鳴が響き渡った。
「キャーーー!!」
佳奈が叫んでオレに抱き着いてきた。
佳奈の体が少し震えている。
「おい、大丈夫か?」
佳奈は無言で、オレにしがみついたままだった。
湯上りの、いい匂い。
少し濡れた髪がオレの方に張り付いて、佳奈の体温が間近で感じられた。
お互いの鼓動まで聞こえるんじゃないかと思えるような静けさ。
佳奈の柔らかい膨らみが、オレに当たって……
佳奈はオレにきつくしがみついたまま、顔を上げた。
思いのほか、近い距離で、佳奈と視線が絡み合った。
まだ、幼さの残る顔だち……長いまつげ……潤んだ瞳……
佳奈はオレにむかってささやいた。
「カズ兄……さっき、佳奈のハダカ……見た?」
「う、……うん、ごめんな」
「佳奈のハダカ……どうだった??」
どうだった……って??
佳奈はさらに追い打ちをかけてきた。
「佳奈のハダカ……もっと見たい??」
い、いや……そんなことない。
のどの奥がカラカラに渇いてきた。声がうまく出ない。
ドクドクと鳴っているがオレの心臓なのか、佳奈の鼓動なのか、それすらもわからないくらい、お互いの体が密着している。
このままでは、まずい……絶対国防圏どころか、首都を強襲される。
ふと、佳奈の肩に目をやると、黒いTシャツに、minaの似顔絵がプリントされている部分に目がいった。
minaの似顔絵は、少ししわが寄って、なんだか泣いているように見えた。
おれは、完全に我に返った。
佳奈を優しく諭し、彼女を起き上がらせた。
彼女は少し残念そうにしていたが、興奮が冷めてきたようだ。
そして、ぽつりとこう言った。
「カズ兄……minaちゃん、好きなの??」
なにっ!! どういうことだ??
「だって……このTシャツ、ファンクラブの中でも、限られた人しか手に入らない、限定品だよね? それを持っているってことは相当のファン?」
なんだ、そういうことか!
「うん、まあ、実は今の店舗の支店長がminaの叔父さんでさ。グッズとかもらったりしたんだ。曲も……若い子向けのが多いけど、なんかいいなって」
「いいなあ、カズ兄、minaちゃんに会ったことあるの?」
「えっ、まあ、数回な」
大きく嘘は言ってない、と信じたい。
「えーーっ! ねえねえ、佳奈もminaちゃんに会いたい! 会わせてよ」
「えっ! そんな、向こうも忙しいし、無理だよ」
オレも最近会ってないってのに。
「そこをなんとか、お願い……」
ツインテール美少女から上目遣いに見つめられると、うまく断ることができなかった。さっき少し拒絶してしまった負い目みたいなのもあるし。
とりあえず、支店長を通じて都合を聞いてみる、と言っておいた。
でも、ここまで来たら、会わさざるを得ないだろうな。
さて、どうしたものか??