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空は深い黒[下]







それから1ヶ月後。

衿久は漸く警察に向かわなくてよくなった。

あの事件の後、事情聴取のため衿久は氏素性から事件に関わった理由まで、何度も同じ事を喋らされた。


お陰で岡坂守秋とまともに話ができていない。








岡坂絢也の逮捕直後、ニュースで知れる前にと思い、すぐに岡坂守秋と会って全てを話した。

衿久からの突然の電話に岡坂守秋はとても驚いていた。


とても大切な話がある。

できれば直ぐに会って話がしたい。


そう伝えると仕事を昼で切り上げて衿久の事務所へ来てくれた。


その表情から察するに、岡坂絢也に関係するニュースは耳に入っていないようだった。

そもそも、昼過ぎになっても報道はされていなかった。


「話とは何でしょう?」


正面に座る岡坂守秋は不安そうだった。


「以前──私が話をした古谷絢也さん。あぁ、いや。正しくは岡坂絢也さんだが──その絢也さんについて、私は報告していない事がありました。その時点で、それは確信するに値しない不確かな事で、報告する必用はないと判断したのです。──本日、私は絢也さんと話をする事ができた」


岡坂守秋は驚いて「え?」と声を漏らした。


「私にとっては思いがけない展開で、とても混乱しましたが、絢也さんは──まぁ少し驚いていましたが比較的冷静でした」


「思いがけないって──一体どうしたのです?」


「それについて話すには、もう一度絢也さんの過去について触れなければなりません。そこにはあなたの知らない事実がある。それを知らずに結果だけを伝えても無理解や誤解が生じるだけだ。あなたにとって辛い事だろうが、絢也さんはそれを望んでいます」


岡坂守秋は深く頷くと「──聞かせてください」と言った。


衿久は語った。

今度は知っている事を全て話した。

岡坂絢也の壊された人生は言葉にするだけでも残酷で苦痛だった。

それを毎日経験した幼い子供がどのような精神状態で育ってきたのかなど、分かろうと思ってもできるものではない。


途中、言葉に詰まり話をすることが苦痛になってくる。


岡坂守秋は前回もそうしていたように、両手に顔を埋めてその表情を読み取ることができなかった。


話を終えても岡坂守秋は動かなかった。


衿久はかける言葉が見付からず同じように動く事なく黙っていた。


衿久の脳裏に岡坂絢也の哀しそうな微笑みが浮かんできた。


岡坂絢也の最後の言葉。


─「明日になる」


衿久が「報道される前に岡坂守秋と会って直ぐに話をしなければならない」と言ったので、警察での取り調べでは黙っているつもりなのだろう。

自白し始めるのは早くても今夜。

それまでに岡坂守秋は岡坂絢也の辿った道を知り、犯した罪を知るのだ。


引き裂かれた兄弟は今お互いの事を思い苦しんでいる。


「──報道されれば間違った情報が流れる事もあるでしょう。私はそれが嫌だった。歪んだ物語は誤解を孕み、無理解と差別が生まれる。あなたには真っ直ぐ伝えたかった」


「誘拐された女の子は──死亡していたと─ニュースで言っていました。それが──弟が救おうとした女の子なのですね?」


「そう。犯人も死亡しました。──絢也さんは自分を誘拐した犯人を含めて4つの殺人を犯した事になる。それ相当の刑罰が下されるでしょう」


岡坂守秋は伏せていた目を衿久に向けた。


「会う事はできませんか?」


「絢也さんは──自ら会いたいとは言っていなかった。ただでさえ報道によってあなたに迷惑がかかるのに、会うなんてできない─と仰った」


「そんな!私は会いたい!会って話を──」と声を小さくさせると申し訳なさそうに肩を落とした。


「そう思っていた。でも、会って何を話せばいいのか──分からない。何と声をかけるべきなのか。きっと、私を恨んでいるんだろう。お前が自分だったら──自分がお前だったら。きっとずっとそう思って生きてきたのでしょう。──誘拐犯に侮辱され、馬鹿にされるたびに。屈辱を感じさせるため、誘拐犯は双子の兄が幸せに暮らしているという事を弟に突き付けたんだ。そんな事も知らずに──私は毎日能天気に笑っていたんだ。その怨みが溜まっているに違いない」


岡坂守秋は俯くと目に溜まっている涙を拭いた。


「だけど、会いたいんだ」


「──逮捕されてから勾留までの3日間は面会はあまり期待できない。会えるのは勾留されてからです。それでも本人が会ってくれるかは分からないし、勾留中でも面会ができない事もあるようです」


「弟の刑はどうなるのです?」


「それは分からない。まだ逮捕されたばかりだし何も分かっていない」


「4人の人間を殺したんだ。─情状酌量という見方をしたとしても─予想はつきます」


─極刑なのか。


「だから、尚更会って話がしたい」


岡坂守秋の頬は涙で濡れていた。








その岡坂守秋の涙から2ヶ月。


衿久はすっかり夏らしさを失った空気を感じて空を見た。

そこには、空間を遮断している無機質で頑強なコンクリートの壁が威圧感剥き出しで聳え立っている。

そのコンクリートの内側に衿久はいた。

刑務官があちらこちらに立っている異様な雰囲気である。


─壁一枚だけだというのに、こんなにも世界を変えてしまうものなのか。


「峯武さん」と小柄で愛想の良さそうなスーツ姿の男が声をかけてきた。

歳は40代前半といったところだろうか。

しかし、どこか子供っぽい雰囲気がある。


「あぁ。富原さん」


この男は富原勇夫。


「本日はありがとうございます」と深々と頭を下げる富原勇夫。






この男が衿久の事務所へ来たのは2週間程前だった。


行方不明だったネコを無事に飼い主の元へ届けたその日の夕方。

事務所に戻ると1階の外階段で直立不動で立っていた。

どうみてもネイルサロンの客ではない。


その時から男は愛想良くにこにこしていた。


「峯武さんですか?」と聞かれたので、何かの依頼かと思ったが違った。


「はい」と返事をする。


「私、富原勇夫と申します」


そう言って男は名刺を出してきたが、衿久はそれを受け取るだけで渡せる名刺など持っていない。


「─弁護士?弁護士の方が私に何の用です?」


「お願いがあってこちらに参りました。どこかでお話をさせていただきたいのですが」


どこかでと言われれば、一番近いのは事務所なので仕方なく上げる事にする。


ソファを勧め珈琲を出すと、衿久も富原勇夫の正面に腰を下ろした。


「いやぁ、私。探偵事務所というものをテレビや映画でしか見たことがありませんで──はぁ、こういった感じなのですね」


「どの探偵事務所もこんな感じだとは限りませんがね。私はこんな感じです。──で、一体何でしょうか?ご依頼ですか?」


「そうですね。では、早速」と富原勇夫は居住まいを正した。


「私は岡坂絢也氏の弁護を担当しております」


突然の知った名前に動揺してしまう。


「お、岡坂絢也──でも、何故この場所が?」


「担当検事に聞きました」


「そうか。事情聴取の時に情報は入っているのか」


「はい。報道で騒がれていたと思いますが先日、岡坂絢也氏の一審が行われました」


衝撃的なニュースは世間の興味を掻き立てた。

案の定、週刊誌などには誹謗中傷や岡坂絢也の過去について無礼極まりない表現で書かれていた。

その対象はモザイクがかけられたりイニシャル化はされていたが岡坂守秋にまで飛び火した。

こんなにも腹を立てたのは初めてだったが、自分にはどうする事もできない。

その無力感に衿久は数日間使い物にならなかった。

心配した父親が見舞いに来てくれたくらい落ち込んだ。


林良光が殺害された現場に居合わせたという事実。

あの光景はもちろんだが、それ以上に無神経な報道内容に憤る。

実はまだそれを引き摺っている。


岡坂守秋は仕事を辞めさせられそうだという。


「えぇ、そうのようですね。─判決が出ましたか?」


「いいえ。まだです。今日、お伺いしました用件というのは岡坂絢也氏の事です。それは全て口外法度でお願いします。探偵という職業をされているあなたなら大丈夫だと信用しております」


「聞きたくない事は聞きたくないのですが」


─もう、あれ以上の苦しみに耐えられる自信がない。


富原勇夫は悲しそうな表情をしながら頷いた。


「確かにそうですね。絢也氏はとても苦しい人生を歩まれてきた。──今、彼は落ち着いています。笑顔は見せないが、自分では『穏やかな気持ちだ、こんな気持ちは初めてだ』と言っています。今、心はとても安定しているのでしょう」


富原勇夫は少し微笑んだが直ぐに険しい表情に変わる。


「しかし、世間はそんな事はお構い無しだ。──恐らく極刑は免れないでしょう。そして、彼はそれを受け入れるつもりでいる」


「─こ、控訴しないのですか?」


「本来なら弁護士をつけるつもりもなかったようです」


「『悪い事をしたら罰を受けなければいけない』」


「えぇ。何度もそう言っています」


「──そんな。岡坂守秋さんが悲しむ」


「絢也氏の双子のお兄様ですね?──実は絢也氏はその方から何度も手紙を受け取っている」


「何度も?」


「そう。何度も。そして、その手紙は読まずにいるそうです」


「何故?」


「それは本人にしか分からない。私が岡坂守秋様から直接受け取った事もありますが、それでも彼は読まない」


「会いたくないのか」


「そうかもしれないです。しかし、絢也氏はあなたに会いたいと言っています」


聞き間違いかと思ったので聞き返す。


「─私に?」


「はい。本日はその件で伺いました。岡坂絢也氏に会って頂きたい。彼はそれを強く望んでいます」


「な、何故、私に?」


思いがけない言葉に完全に戸惑ってしまう。


「それは分かりません。それを確かめる為にも是非とも会って頂きたいのです」


「む、無理だ。──無理です。私には荷が重すぎる。話すことなどないし、話を聞いてやれる器でもない。──無理だ」


「岡坂絢也さんの最後の望みだとしても?」


「─そ、そんな」


「脅すような言い方になってしまって申し訳ありません。先程も申し上げましたように、彼に与えられる刑罰は極刑の可能性が高い。──どうかお願い致します」


富原勇夫は深く頭を下げた。





──────────




何故、岡坂絢也は衿久を呼んだのか。

岡坂守秋からの手紙はどうして読まないのか。


何を話せばいいのだろうか。

何を話すべきなのだろうか。




刑務官、富原勇夫の後に続いて無機質な廊下を歩く。

足音だけが響き、緊張感で周りを見ることができなかった。


鉄の扉が開けられると、テレビなどでよくみる、空間を仕切るための小さな穴が施されたアクリル板が目に飛び込んできた。


こちら側には椅子が2つ用意され、向こう側には1つだけ置かれていた。


富原勇夫は向こう側と正面になる椅子を衿久にすすめ、自分は少し後ろに座った。


すると直ぐに向こう側の扉が開き、刑務官につれられた岡坂絢也が入ってきた。


岡坂絢也はこちらをじっと見つめると小さく頭を下げ、衿久の正面の椅子に座った。

その表情を見ると緊張感はすっと溶けた。


「絢也さん。お久し振りです」と声をかける。


「──ご無沙汰してます」と言う声は、あの時の岡坂絢也だったが、思いの外はっきりとしていた。


「何だか元気そうだ。顔色が良い」


「あの時は──精神的にも環境的にもとても悪い情況でした。今の状態が良いのかと言われれば、それは違いますが、少なくともこれまでよりは安定しています」


「そう。それは──」


─良かった。など言える情況ではない。


「峯武さん。──忙しいのに来てくれてありがとう。来てくれないと思っていました。──あんな酷いものを見せてしまったし。そして、その思い出したくもない光景を俺のせいで呼び覚ましてしまって。恨まれてもおかしくはないのに」


「大丈夫。私の事はいいから。──探偵はね。悠々自適なんだ。時間はある。それを何に使うかは私の気分次第」


「いいですね、そういうの。それにあなたは見た目が探偵っぽい」


─あぁ、それ。その言葉。


「その言葉。同じ言葉をあなたのお兄さん、岡坂守秋さんにも言われた」


岡坂絢也は黙った。


「あの時は──まぁ、今もだが『探偵っぽい』とはどういう事だろうかと考えた。そんな事、初めて言われたんだ。きっとお2人の中の『峯武衿久は探偵だ』という先入観が強かったんだろうなぁ。普通にしているだけなのに探偵ってバレてちゃ仕事にならない」


岡坂絢也は兄の名前を出した瞬間に黙りこんだ。


「──予測はしていたでしょう?私がここへ来るとなると必ず守秋さんの話になるはずだと。絢也さんもそれを覚悟で私を呼んだのだと思ったのだけど、違うのかな?──あなたはただ、私と腹を抱えて笑いあうような話をするつもりだったのかな?」


岡坂絢也は俯いた。

その様子が兄のようだった。


「私には聞きたい事がある。それはあなたにしか答えられない事だ。残念ながら面会の時間は限られている。親族ではない私がそう何度もここへ来れるわけではない」


「─兄の話?」


「そう。何故、手紙を読まない?」


「─一番初めの手紙は読みました。とても綺麗な字で──俺を心配してくれているというのは分かった。でも、読めない漢字が沢山あった」


─あぁ、そうか。学校に通っていないのだった。


岡坂絢也の学力がどれ程なのかは分からないが、難なく仕事をこなせているのだから問題は無いのだろう。

しかし、本人は気にしているのかもしれない。


「いや、でも。そんな事で読む気がなくなったわけじゃない。──知ってしまえば戻れなくなる気がして──」


時計の針が音をたてて進む。


「戻れなくなる?」


「もうご存知かもしれませんが、俺は一生ここから出られない。死刑になる」


他愛もない会話をするようにするりと『死刑』という言葉を言う。

表情ひとつ変えない岡坂絢也の心境は分からない。


「まだ判決は出ていない」


岡坂絢也はじっと衿久を見た。

なんだか見透かされたような気持ちになる。

衿久が『死刑になるだろう』と思っている事を岡坂絢也は感じ取っているのだ。


「いいえ。そうなるのです。そうならなければいけない」


「悪い事をしたら罰を受けなければいけない、と?」


「そう。その通りです。罰は受けなければならない。必ず。上手く言えないけれど。それが強い気持ちです」


「─あぁ、きみは。その強い意思が揺らぐかもしれないと思っているのか。守秋さんの手紙を読めば、会いたくなるという衝動に加え、生きたいと願うかもしれないと」


「その通りです。まさに的確な答え」


「極刑を受け入れると?」


「もちろんです」


「守秋さんが悲しんでも?」


「会った事のない人物が死んでしまっても誰かの人生が変わる事はない」


「そんな事はない。──守秋さんはきみをとても気にかけている。何にも変わらないなんて事はないよ」


「─その全ては死んで行く人間に必要の無い事です」


「生きて行く人間には?」


岡坂絢也が不思議そうにこちらを見る。


「生きて行く人間にも必要ないとでも?」


「死んで行く人間が残すものは大きい。俺はあの男が残したものに苦しみ怯えた。──だから、俺が残すものも誰かの苦痛になると思う。そう考えると迷惑はかけられない。だから、会わないまま死んで行かなければいけない」


「──きみの考えを尊重したい。だが、聞かせてほしい。自分に与える罰─悪い事をしたら罰を受けなければいけない。そういうのを無しにして、きみはお兄さんに会いたいと思う?」


岡坂絢也は充分すぎるくらいの間を置いた。


「双子って似ているんですよね。顔は似ていますか?──声や仕草も?」


「似ているよ」


「──では、性格は?──きっと似ているんだろうなぁ」


そう言うと岡坂絢也はスッと立ち上がり看守に向かって「終わりました」と言った。


「ちょ、ちょっと待って!まだ終わっていない!」


絢也は立ったまま衿久を見る。

だから、衿久も立ち上がって岡坂絢也を見た。


「なぜ、私を呼んだ?私はたまたまあなたたちに関わっただけの通りすがりだ。赤の他人だ。絢也さん。あなたにとって私は邪魔者だし、恨むべき相手なんだ。私があなたと関わりさえしなければ、あなたは捕まらなかったかもしれない」


「──それです」


「それ?──ど、どういう事だ?」


「あなたは俺の人生に関わってくれた。人生の一部になってくれたからです。俺の過去を知ってくれたから。だから会いたかった。特別に話すことはないけれど、ただ、会いたかったのです」


そして、岡坂絢也は小さく頭を下げると、時間にはまだ少しだけ余裕があるにも関わらずこの場を後にした。


まだ聞きたいことはあったのだが、岡坂絢也はもう話したくない様子だったのでそれを見送った。





──────────




3年後の晩秋。



風が冷たく、世界が紅色に染まる季節が衿久は好きだ。

愁い。

秋に心と書くからには、やはりこの季節には人を思い悩ませる独特の空気があるのかもしれない。

それが、色彩なのか匂いなのか音なのか。

何によって心が染まるかは人それぞれなのだろう。


─まったく。


衿久は深く溜め息を吐いた。


─勘弁してくれよ。


だからと言って、現在衿久が抱えているのは哀愁漂う悩みではない。


目の前にはふざけた父親が能天気に持ってきた真面目な見合い写真が置かれている。

と言ってもプライベートで写した簡易なものを2枚だけで、それはアルバムにすら挟まれていない。


「近所の家に住む老夫婦の孫だって。歳はエリックより2つ年下で不動産関係の会社で働いているらしいよ。大学卒業してからずっと。真面目じゃないか。見た目は──まぁ、ほら。少しだけ──あぁ、いや。うぅん。そうだなぁ──体格は良い。うん。逞しいじゃないか。笑顔も良いよ」


「言葉を選んでそれなの?別に痩せてようが太ってようが関係ないよ。結婚なんてしないって言ってるじゃないか。なんで受けたの?」


「もしかしたら気が変わるかなって」と無意味に写真を指で弄ぶ。


「あまりにも多くの夫婦の最後を見すぎたよ。以前より増して結婚なんて考えてない。申し訳ないが諦めてくれ」


「そっか。そりゃそうだよな。結婚生活に失敗した私が言うのも説得力がないしなぁ!」


「そんな事を言っているんじゃないよ。親父は俺には最高の親父だ。それに、じぃちゃんとばぁちゃんも俺には最高の家族だよ。それは昔から変わらない。そりゃ、親父に孫ができりゃ最高だと思うし、そんな存在を与えたいとも思う。だけど、それを手に入れることは簡単じゃない。もちろん気が変わるかもしれないけどね」


「そうなのか?」と嬉しそうに笑顔を見せる。


「人生何が起こるか分からない。吹く風に任せる。──ほら、親父が昔言ったの覚えてる?『この風はお前のために吹いている。だから好きに使え』って。今考えたらなに格好つけてるんだよって思うけどね。それと同時に良い事だとも思う」


「ある歌手の言葉を貰ってアレンジしただけだよ」


誉められた事が嬉しかったのだろう、頬を緩めてそう言った。


「知ってるよ。ディランだろ?ボブ・ディラン」


「あはは!なぁんだ。知っていたのか」


「今じゃ知らない人の方が少ないよ」と笑う。


それから暫く他愛のない会話をして、父親は写真だけ置いて帰っていった。




夜の8時を少し過ぎた頃うつらうつらしていると、戸を叩く音がしたので目が覚めた。


こんな時間に来客なんて珍しい。

あるとすれば、階下の美容室かネイルサロンの店員であるが、そのような事も滅多にない。


「はい」


と言いながら扉を開けると、そこに立っていたのは相変わらずの冴えない風采の岡坂守秋だった。


「おや、まぁ」と間抜けな声をかける。


「ご無沙汰しております」と頭を下げる岡坂守秋。


「お久し振りです。如何しましたか?」


「このような時間に申し訳ありません。あの──今、お時間よろしいでしょうか?」


「構いませんよ。どうぞ」と定番の席へと案内する。


「気の利いた飲み物が紅茶くらいしかないのですが、それでも構いませんか?」


「私は水で大丈夫です」


「あぁ、そうか。あなたはいつも水だった。相変わらずなのですね」


そう言ってミネラルウォーターをコップに注いで出した。


「実に3年ぶり」


「3年と2ヶ月です。お世話になりました。料金まで良心的な価格にしていただいて感謝しています」


「本当は料金なんて頂くべきではなかったのですよ。あなたは結果を受け止めるだけで精一杯だったのに。あの後、仕事は辞められたのですか?」


「えぇ。辞めました。今は大学院で精神医学を学んでいます。──弟のような経験をさせられた人の話を聞いて、相手が少しでも前に進めたらなと思って決心しました」


「凄いじゃないですか。頭が良い人は羨ましいなぁ」


「元々大学で医学部を専攻していたのですが、どうやら大量の血を見るのが苦手で──。専攻を変えたのです。でも、やはり戻ってきました。若者に交じって机に向かうのも慣れました」


「それは素晴らしい事ですよ。若者に交じれば気持ちも若返ると云う。前回、会った時よりも──まぁ、その。若くは──見えないけど」と冗談を交えて笑うと岡坂守秋も笑った。


「峯武さんは、お元気にされていましたか?」と机に置かれた写真に視線を落とす。


「相変わらずです。──あぁ、これ。この写真、一応お見合い写真なんです。親父が持ってきた。近所に住む家の孫らしい」


「ほぅ。御結婚されるので?」


「いやいや。そんな気は全くありません。──この方だからという訳じゃなく結婚に興味がない」


「良い方を見つけられれば──それなりに楽しいですよ。私も最初は楽しかったですから」と自虐的に笑う。


「リアルな意見だ。──それはそうと本日はどうされましたか?ご依頼ですか?」


「いえ。依頼ではなく、ご相談がありまして」と岡坂守秋は鞄から白い封筒を出してきた。


宛名には岡坂守秋様とある。

子供が書いたような金釘文字だ。


「1週間前にこれが届きました。──どうぞ読んでみてください」


「あなたは読まれたのですか?」


「はい。その上でご相談に参りました」


「それでは、失礼して」と封筒を手にして裏の差出人を確認する。


─岡坂絢也。


「これは──絢也さん本人から?」と驚いて少しだけ声が大きくなった。


「えぇ。間違いありません」


衿久は複雑な心境の中、便箋を出す。


そこにはやはり金釘文字が並んでいた。




──────────




岡坂守秋様


お元気ですか?

生まれて初めて手紙を書きます。

どう書けばいいか分からないからもらった手紙を見ながら書いています。


あなたの字はとてもきれいです。

それを見ながら字の練習をしましたがうまく書けません。


長い間あなたから手紙をもらっていたのにどうして今ごろ返事をするのかと思っていると思います。


オレは少し前に人をなぐりました。

相手の指の骨が折れて口からは血が出ていました。

だからオレの刑が早まると皆が言っています。

だからそうなのだと思います。


刑務官になぐった理由を聞かれました。


あの男はオレの前でこう言いました。



お前が助けようとして失敗した子供。

あの子はハダカだったのだろう?

どんな感じだった?

聞かせてくれ。

こんな所に閉じ込められてたまってばかりだ。

発散したいんだ。



気持ちが悪くなったので吐きました。

そして相手をなぐりました。


悪い事をしたとは思っていません。


看守は今までオレの目を見ていたけど目を見なくなりました。

空気が変わりました。

死の空気がからみついているようです。


あなたに最後の望みを聞いてほしいです。

今まであなたの手紙を無視し続けていましたが今はとてもあなたに会いたい。

あなたに会って声が聞きたい。

あなたと話がしてみたい。


20△△年10月6日

岡坂絢也



──────────




衿久の手紙を持つ手は微かに震えていた。

便箋は何度か書き直された跡が目立ち、言葉の使い方も句読点の打ち方も子供が書いたようだ。


それを丁寧にたたんで岡坂守秋に返却した。


受け取った岡坂守秋は「ありがとうございます」と言って手紙を机に置いた。


「これが届いたのは1週間前だと仰いましたが──如何されるのです?もしかしたらもう時間が無いかもしれない」


結局、岡坂絢也の一審は死刑を言い渡された。

やはり控訴はせず、素直に受け入れたようだ。


日本では刑が執行される日にちは本人にすら知らされない。

その日の午前中に言い渡され、数時間後には執行される。

死刑囚が死をもって罪を償うのを確認されてから漸く家族に知らされるのだ。

一部の外国のような立会人はもちろんおらず、死刑囚は一人で死んで行かなければならない。


岡坂守秋は意外な返答をした。


「──会えません」


「何故です?あんなに会いたがっていたのに!」


「怖いのです。30年会った事がないとはいえ家族です。弟の事は全く記憶にない」


同時に生を受けた2人はいま、その一方が存在をなくそうとしている。

それを見届けなければならないその辛さは計り知れない。


「何と声をかけるべきなのか──」


「私が言うのも間違っているだろうが、言わせてもらう。今すぐ会った方が良い。絶対に。絢也さんをみかけて一人で懸命にその姿を追おうとした。それはあなたが会いたいと思っていたからだ。そうでなけれはそんな事はしないはずだ。──もし、それでも気が変わったなんて言うのなら、何故、死刑が言い渡された後も手紙を送り続けた?絢也さんが会いたいと言い出すかもしれないと思わなかったのですか?──既に答えは出ているんだ。会いたくなければ私の所へ相談には来ないはず。その手紙の事なんて直ぐに忘れてしまう。だが、あなたは私の所へ相談に来た。あなたの中に迷いがあるのは確かだと思う。どんな顔をして何を話せばいいのか分からないのでしょう。そんな事を前以て考えて行っても筋書き通りにはいかない。言葉は自然に出てくる。聞きたい事、話したい事。こんな声をしているのかとか、こんな表情で話を聞いているのかとか。笑いあえるかもしれない。涙が流れるかもしれない。怒ったり苦しむ表情を見なければならないかもしれない。でも、それがあなたの弟なんだ。それを見届けられるのはあなたしかいない。──多分この言葉はとても重圧になっているはず。だけど私は絢也さんに会ってほしいと思っている」


岡坂守秋は封筒を手にとって見つめた。


「──まぁ、そんなにも悩むのなら無理はしな」


「一緒に来て下さい」


「──へ?」


驚いて間抜けな声を出してしまった。


「弟との面会。一緒に来て下さい」


「それは──門の所までって事?」


「いいえ。立ち会ってほしいのです。一緒に会ってほしい」


「それは無理だ」


「お願いします。私ひとりじゃどうすることもできない」


「どうもしなくて良い。絢也さんの話し相手になればいいだけ。私は同行なんてできない。そんなの無理だ」


「何故です?」


「無理なものは無理だ。それが全て。それに絢也さんはあなたに会いたいと言っている。しっかりそう書いてあるんだ。私の事なんて書いていない。それに、大切なのは、あなたたち2人だけの時間だと云うこと。私はそれを忘れるほど無神経ではない」


「弟には刑務官が付いている」


「それは向こうの仕事であり義務だから。存在は空気のように静かなんだ」


「じゃあ私はあなたを雇います」


「──う」


「お願いです」


「──何だってあなたたち兄弟は私を間に立てたがるんだ──。もぅ───分かりました。お金はいりません。立ち会いますよ。その代わり、面会日は明後日。明日じゃ急すぎるでしょう。必ず来るように」


その言葉を聞いた岡坂守秋は肩の荷が下りたような顔をして帰って行った。





その2日後。


衿久と岡坂守秋は高く冷たい壁を見上げていた。


「この向こう側に居るのですね」とか細い声で独り言のように呟く岡坂守秋をちらりと見る。

眩しそうに目を細めている。


一昨日、岡坂守秋が帰った後、衿久は岡坂絢也の弁護士に連絡をいれて面会の申請を出した。

するといつでも構わないと言われた。

どうやら岡坂絢也は面会を許可するリストに兄の名前を書いていたらしい。

驚いた事にそれは死刑が言い渡された直後に書かれていた。


それを聞いた衿久は悲しくなった。

岡坂絢也はずっと待っていたのだ。

会いたいけど、会ってはいけないと自分で自分の事を押さえ付けていたのだ。





「さて。そろそろ時間だ」と歩き出す。





刑務官たちは、岡坂守秋の顔を一瞬だけ見ると直ぐに目をそらした。

『刑務官たちは目をあわせてくれない』という岡坂絢也の手紙を思い出してしまう。


3年前のあの時と同じように、無機質な廊下を刑務官の後ろについて歩く。


硬い足音が響き、何故か自分が追いたてられているかのような錯覚に陥る。


そして、鉄の扉が開かれた。


以前と同じで椅子が2脚用意され、穴が空けられたアクリル板を挟んだ向かい側にも椅子が1脚用意されていた。


「まだ──来ていませんね」


「あなたは正面に座って。私は扉に近い方の椅子に座ろう」


そう言って有無を言わせず衿久は腰を下ろす。


岡坂守秋は小さく狼狽すると、仕方なく腰を下ろした。


暫く黙っていると、向こう側の空間の扉が開かれて岡坂絢也が現れた。


何だか以前より2人は似てきたように思う。


岡坂守秋がいきなり立ち上がった。

そして、兄弟は無言で視線を合わせた。


「も、申し訳ない!」と衿久も立ち上がる。


何事かと場の全員がこちらを見た。


「昨日食べたカキがどうやら中ってしまったみたいで───トイレに行かせてもらいます」


そう言いながら腹を抱えて部屋を出た。



そんなものは嘘である。

なんと、下手な芝居なのだろう。



外で待っていた刑務官が何事かと聞いてきたが、どうもしないと答え、待合室で岡坂守秋を待つ。

しかし、特にやることもないので5分もしないうちに外へ出た。

そのまま帰ろうか随分と悩んだが、岡坂守秋がどのような心境で面会を終えるのか不安だったので待つことにする。

落ち葉がカラカラと音を立てながら足元で遊んでいる。

空を見上げて天が高い事を実感し、目を閉じて自分だけの暗闇を手に入れる。


今頃どのような会話をしているのだろうか。

もしかしたら、お互いに話はせずに黙っているかもしれない。

それはそれでなんの不思議もないし、あの2人ならそれも有り得るなぁ、などと考える。


もし。

もし───

2人が離れ離れにならず、お互いの成長を見ながら切磋琢磨して大人になったとしたら、どのような付き合い方をしていたのだろうと考える。

もちろん、そのような事を考えても意味のない事だし、実際にそうなっていたとしても、衿久とは付き合いがないかもしれない。


一人の人間の許されない愚行。


存在しか知らない兄の事を恋しく思い、どこかで暮らす家族を何度も思い描いただろう。

喜びや幸せを感じる事はなく、泣いても苦しんでも独りだった。

いつしか感情を表現しなくなってしまい、心の中で起こる変化に蓋をして深い場所へと押し込んでしまった。


慰めや哀れみなんて必要はない。


その存在を認められる事が大切なのだ。

岡坂絢也という個人を見つめ、岡坂絢也の発する言葉に耳を傾ける。

それが出来るのは岡坂守秋だけだ。

しかし慎重にしなければ、脆く繊細な硝子のような心にはヒビが入り、粉々になって元に戻せなくなってしまう。

それが恐ろしくて岡坂守秋は躊躇していたのだろう。


突然強い風が吹いて衿久は目を開けた。

先程と変わらない景色の中に知った姿が立っていた。


面会が終わったようだ。

時計を見れば、面会が始まってから35分が経っていた。


「申し訳ない。途中で出てしまって」と偽の体調不良を謝罪する。


「お腹の調子は如何ですか?」


「もうね、大丈夫」と腹を擦る。


「カキが中ったそうですが、どこで食べたのです?」


「今が旬だからって旨いぞって広島に住む知人から一斗缶で送られてきた。生牡蠣は注意しなきゃね」


「うーん。でも、おかしいですね。牡蠣なら冬が旬のはず。秋のカキと云えば木に成る方の柿が一般的ですよ。一斗缶に詰められた柿は見たことがないですし」


「──なかなか鋭い」


「考えなくても分かる事です」と笑う岡坂守秋。


「別人のようだ」と衿久が言うと岡坂守秋は不思議そうな顔をした。


「ここに入る前のあなたは緊張で塗り固めたように硬直していた」


「あぁ、なるほど。そうですね。とても緊張していたし、ここへ来る道を何度引き返そうと思ったか。──でも。峯武さんのカキの話。それで私たち2人の緊張の糸は解れた。あなたが部屋を出た後、弟が──絢也が言ったのです。あの人は嘘が下手だって。そう言って私たちは初めて一緒に笑いました」


「私の下手な嘘も役にたったわけだ。それだけでも来た甲斐があった」


「両親の話、結婚の話、離婚の話。勿論、峯武さんとの出会いも話しました。大学とかアルバイト。就職の話もしました。絢也がどんな仕事をしていたのか聞かせてくれて──とても楽しかった。時間が経つのが本当に早かった。刑務官が悪戯で時計の針を早めているのかと疑いました。それほど絢也との会話は楽しかった」


「──そう。──それは良かった」


「最後にあいつ──」と岡坂守秋が声を詰まらせる。


「──あ、いや。駄目だ。その先はあなたの心に仕舞っておいて」


「──いいえ。聞いてほしいのです。あいつの言葉を」


衿久は少し考えてから小さく頷いた。




『──ありがとう。──来てくれてありがとう。──本当は心細かった。独りで死んで行かなければいけない事に恐怖を感じていた──。でも。もう、大丈夫。本当にありがとう』




岡坂絢也はそう言って席を立ったそうだ。


「私たちは峯武さんにとても感謝しています。本当にありがとうございます」と頭を下げる。


「今まで色々な感謝の言葉を貰ったけど、あなたたちの言葉が一番重みがあるし忘れたくない」


2人の去る方向は正反対である。


衿久は岡坂守秋に頭を下げると、背を向けて歩き出した。







岡坂絢也は最後に最愛の人の前で感情を吐き出すことができた。

今までは独りで恐怖と戦っていたが、それを伝えられたという事で破裂しそうな心に少しばかりの穏やかな空間ができたのだろうか。

孤独ではないと気付くことができただろうか。





翌日の16時6分。

どんよりとした黒い雲が流れていた。


岡坂守秋から連絡があった。

岡坂絢也の刑が執行されたと。

どんよりと黒い雲が流れるだけの空から雨は降らない。



窓を開けた衿久は、この空をずっと見ていたいと思った。





─END─

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