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空は深い黒[中]




絢也は呆れていた。

腐った人間がこの世には何人いるのだろうか。

それが自分の周りにわらわらと集まってくるだけなのだろうか。


─また、見付けてしまった。


煙草を切らしたので近くのコンビニに立ち寄った時だった。

小さな女の子が1人コンビニに入ってきた。

肌は白く目が大きい。

口もとに黒子があるのがとても印象的だった。


それくらいなら特に何とも思わないのだが、雑誌を立ち読みしていた大学生くらいの男がその女子児童を見つめていたのだ。


その男を見た時、絢也の中の嫌悪感が目を覚ました。

過去に絢也のような経験をした人物なら同じような感覚になるのかもしれない。


─腐った奴め。


絢也は中指と親指をコツコツと当てた。


女子児童はおつかいを頼まれたのだろう、牛乳を重たそうに持ってレジまで行くと精算をして出て行った。

男はその様子をちらちらと気にしながら、女子児童が出て行った数秒後に店を出た。

車は店先へ置いたまま絢也もそれを付ける。


近所に住んでいた女子児童は直ぐに家へと入った。

それを見届けた男は自然な風を装って女子児童の家を通りすぎる。

絢也もそれを付けて家の前を通りすぎる。

その時、表札を確認した。



─大槻。



絢也はそのまま男の後を追う。

先程まで居たコンビニを通りすぎると、近くにある踏み切りを越えた。

そして、線路沿いに歩いていた男が入ったのは2階建てのアパートだった。

男が入った部屋の表札を確認する。


─林。


絢也はコンビニに停めた車に戻ると煙草に火をつけた。


─この嫌悪感が間違いならば良い。


しかし、悪い予感は当たる。

誰だってそう思うものだ。

もちろん、気の持ち方次第で変わるものなのだろうが。


大概の悪い予感は当たってしまう。





そして、それは1週間後に現実となったのだ。



ニュースで流れたのは行方不明になった女子児童の事だった。

名前は大槻春世。

小学2年生。

テレビで流れたのはあの肌の白い、口もとに黒子がある女子児童の写真だった。

それと同時に脳裏に浮かんだのは、あの男の虫酸が走るような目付きだった。




その日、仕事の合間を縫って男のアパートの様子を伺った。

わざわざ扉に耳を付けて部屋の中の様子を確かめたが、物音はせず、誰かが居る気配はない。


仕事が終わり、車の中でラジオをつけながら一晩中、男のアパートを見張っていたが、朝になっても部屋の様子が変化することはなかった。

相変わらず女子児童は見付からない。


─どこにいる。






その様子を遠くから見ているのは衿久だった。

古谷絢也が珍しく外出したので後を追ってみたら、探偵擬きの行動をしていた。

あるアパートの一室を食い入るようにして見ている。


─一体何をしている?


古谷絢也が一晩中起きていたので、衿久も眠る事ができなかった。

朝の8時を過ぎた頃、ようやく古谷絢也は車を走らせ家へと戻った。

暫く出てこない所を見ると今日は仕事を休むようだ。


衿久は古谷絢也が見張っていたアパートまで引き返すと、その部屋を確かめた。


どうやら部屋の住人は林というみたいだ。


古谷絢也がやっていたように、衿久も扉越しから部屋の様子を伺ったが、誰かが居るような気配はなかった。


─誰だ、こいつは。古谷絢也と関係があるのか?


すると、隣の一室から学生のような若い女性が出てきたので、すかさず声をかける。


「あの、すみません」


女性は「何か?」と言いながら鍵をかけた。


「こちらの林さん。昨日は戻られたかご存じですか?」


「うーん」と頚を捻るが何か思い出したような表情を見せた。


「見掛けてはいないけど、そういえば物音はしました。一回だけ。凄く大きい音でした」


「そうですか。それは何時頃?」


「えっと。確か──朝かな。ちょうど出掛ける準備してたから、この位の時間だったと思います」


姿は見ていないらしい。

衿久には男か女かも分からないが、それを聞くのは少し憚られた。


「僕、知人に頼まれてて。急ぎで渡さなきゃいけない物があるんですよね。朝はいつも見かけないのですか?」と嘘をつく。


「そうです。大学生だから、決まった時間には出ていかないですよね。あの、私もう行かなきゃ」


「あ、それはどうも失礼しました。ありがとうございます」


衿久は女性の後ろ姿を見送っていたが、急に相手が「あ、そういえば!」と振り返ったので少し驚いてしまった。


衿久は女性に駆け寄る。


「何か思い出しました?」


女性が「歩きながらでもいいですか?」と聞いてきたので、並んで駅まで歩く事にした。


「彼──えっと、林さんか。昨日は誰かといるっぽかったなぁ。物音の少し前に女の子の笑い声が聞こえてきたから」


「女の子?」


「少し子供っぽかったです。あ、でも、あの人アニメが好きみたいで──窓とか開けてると、テレビの音とか入ってくるんです。それかもしれないけど」


「恋人ではなくて?」


「違うと思います。そもそも誰かと居るところを見た事がないし」


「なんていうか──モテそうにない?同い年の女性とコミュニケーションできそうにない感じ?」


「ううん。全然。背は高いしむしろ少し男前。少し痩せすぎで服装のセンスはないけど。まぁ雰囲気は冴えない男って感じ。髪もぼさぼさだし。もう少し気を使えば絶対モテる」


突然、女性が小さく笑った。


「私、何だか失礼な事を言っちゃってるな。ただ、頼まれ事をしに来た人なのに」


「しかし──朝からアニメ番組ですか。そんなの観るものだろうか」


「好きなら観るんじゃないでしょうか?時間が比較的自由に使える大学生なら尚更」


「──そうかもしれないですね」


そう言って林という男の部屋を振り返る。


「あ─」


「どうかしましたか?」


「あ、いや。別に。──朝からありがとうございました。僕、今から行く所があるのでここで失礼します。お忙しい中ありがとうございました」


「え?あ、はい」と女性は小さく笑うと会釈して、その場を後にした。


─あの部屋。誰かいる。


振り返った瞬間にカーテンが揺れたのだ。

窓は開いていないので、カーテンが勝手に揺れる事はない。

居留守を使っているようだ。

なぜ、そんな事をする必要があるのだ。


─林という男は古谷絢也とどういう関係があるのだろうか?林を見た事がないが、2人に共通点があるとすれば冴えない男という所だけだ。


そもそも2人は知り合いなのだろうか?

衿久が古谷絢也を調査している間は誰とも出掛けたりしていないし、林という男は隣の住人によると、友達のような存在を見た事がないと言っている。


─知り合いではないのかもしれない。


林を監視する古谷絢也。

何かから隠れるように部屋に籠る林。


─何か引っ掛かる。


衿久は車に戻ると古谷絢也が車を停めていた場所で林の部屋を監視する事にした。





──────────




林の部屋を後にし、帰宅した絢也は風呂に入ると夕方まで眠っていた。


目を覚まして直ぐにミネラルウォーターを飲む。

3口程飲んだ所で呟く。


「火は熱い。火傷は痛いし」


そう言って左腕を捲る。

火の着いた煙草を押し付けられた痕が痛々しく残っている。


─『お前は俺だけのものだ。逃がさないぞ』



あの男の声が耳に──脳に響く。



過去の痛みが蘇り、その痕を何度もかきむしったその傷も残っている。


あの男の言う通りだ。

この痕を見る度にあの男を思い出してしまう。


─俺はあいつから一生逃れられない。


この家もあの車もここにある全てがあいつの遺した物だ。

その中で生きている。

あいつの中で生きているのだ。


絢也は深く息を吐くとテレビをつけた。


あの女子児童はまだ見付からないようだ。

何の手がかりもないまま。


恐怖と不安で独りで震えているはずだ。


自分の事を考えた。

まだ乳母車に乗っている自分が知らない男に連れ去られた後の事。


─俺に、生きてきた意味はあるのだろうか?


死んでしまった方が良かった。


─もう3人も殺してしまった。


あの男がいなければ、今ごろ自分は何処で何をしているのだろうか。

そうなればこの事件の事はすぐに忘れてしまうのかもしれない。


─それはそれで悲しい。


ペットボトルの水を飲み干し、分別してゴミ箱に棄てるとテレビを消して家を出た。


男が遺した車に乗り込んでエンジンをかけると、近くのホームセンターへ向かった。

そこで液体の着火剤とマッチを、そして店先で売られていたタコ焼きを購入して車内に戻りそれを食べる。




計画は単純だ。


林の部屋へ行く。

そこで女子児童を見つけたら林に着火剤を浴びせかけて火を着ける。


それだけでいい。

後は炎に任せる。


ただ、場所が問題だった。

あのアパートで火を着けるのは良くない。

他に燃え移り、被害者を増やしてしまう事を考えれば違う場所で実行するべきだ。


そうなると、やはりあの廃墟でやるのが都合が良い。


─あぁ。やっぱり俺の世界はあの男によって作られたものだ。


あの廃墟はあの男が絢也をいたぶるのにとても都合の良い場所だったらしい。

人目につかない静かな孤立した空間。

ホテルに客が居るときは此処に連れられ、身心共に傷つけられた。

絢也にとってこの廃墟はそういう場所でしかない。


しかし、問題が出てくる。


─どうやって連れ出そうか。


その時、目の前の道路をパトカーが走り去った。






──────────




あのカーテンの揺れ以来、何の変化も見せない林という男の部屋を監視して5時間が経った昼の2時。

空腹も感じていたし、もうそろそろ眠さが襲ってきたので、諦めるかと思っていると電話が鳴った。


岡坂守秋だった。


衿久は客と滅多にコンタクトをとらない。


名刺もないし事務所の場所だって伏せてあるのだから、連絡先の交換なんて論外だ。

連絡が必要な調査の際にこちらから電話をかける程度である。

しかし、何故か岡坂守秋とは連絡先の交換をした。

頻繁にやり取りはしない。

電話をかけた事はないし、かかってくるのも初めてだ。


「峯武です」


『突然すみません。岡坂です』


電話の向こうから申し訳なさそうな声が聞こえてきた。


「こんにちは」と目を擦る。


少し目が覚めた。


『今、お時間宜しいですか?』


「えぇ、構いませんよ。気を使わなくても私はいつでも時間はあります。それを何に使うかは私の気分次第」


そう言うと岡坂守秋は電話の向こうで少し笑った。


『いいですね、そういうの。それにあなたは見た目が探偵っぽい』


「あなたも探偵になればいい。捜索の仕方は一から教えましょう」


『私はパソコンに向かっている方が向いています』


「人には向き不向きがありますからね。見た目なら誰でもそれっぽくなれる。すみません。話を反らしましたね。どうかしましたか?」


『──調査状況をお聞きしたくて。─弟は──見つかりましたか?』


いつかは報告しなければならない事だったのだが、急にそう言われたので少し驚いてしまった。

衿久は相手に悟られないよう大きく息を吸う。


「本日はお仕事ですよね?」


『えぇ。勤務時間はご存知の通りです』


「では、夜7時に事務所までいらしてください。調査は完了していませんが、解っている所だけでもお話しします」


『電話では難しいのですか?』


「えぇ。直接お会いして話をしなければなりません」


電話で伝えるにはあまりにも重すぎる。

起きた事を会って伝えなければ──そうでないと古谷絢也が可哀想だ。


『─分かりました。それでは、7時頃にお伺いします』


岡坂守秋はそう言って電話を切った。

衿久はハンドルに頭を預けると溜め息をついた。


徹夜の疲れと眠さがどっと押し寄せてきて身体が怠くなる。


─それに加えて今夜は。


緩慢な動きでエンジンをかけると車を発進させた。






事務所に戻り軽い睡眠をとるつもりだったのだが、約束の時間まで一度も目覚めなかった。

岡坂守秋がドアを叩く音で目を覚ますのは2度目である。


「こんばんは」と不安そうに言う岡坂守秋。


「こんばんは」と言って以前と同じソファに案内する。


珈琲か紅茶どちらが良いか聞いたが、水で良いと言うので2つのコップにミネラルウォーターを注いで出した。

衿久は岡坂守秋の正面に座ると喉を潤した。


そして、まだ整理ができていない写真を手にする。


「現段階での調査であることを了承してください」


そう言うと岡坂守秋は1度だけ頷いた。

それを確認した衿久は古谷絢也の顔が一番ハッキリと写った写真を見せた。


「あなたが目撃されたのはこの方です」


岡坂守秋は恐る恐るその写真を手にとって食い入るようにして見た。


相手が何か言うまで黙っていることにした。


瞳は写真の人物を一点に見てぶれることはないが、唇が微かに震えている。

その表情を見ていると胸が苦しくなる。


「─お、弟?」


「えぇ。あなたの双子の弟だと思われる。ハッキリと断定できる証拠は残念ながら持ち合わせていないが間違いない。それを前提として調査を進めている所です。調査が進むに連れ可能性は濃くなっている」


「とても痩せていますね。顔色もあまり良くなさそうだ。──元気そうでしたか?」


「直接話はしていません。体力を使うお仕事をされているので、体調は悪くはないかと」


岡坂守秋は「あぁ」と言って何度か頷いた。


「焼けているのか」と嬉しそうにしているが、それよりも悲しそうだった。


「仕事をしているのですね。普通に暮らせているのですね?」


その質問には答えずに続けた。


「──彼の名前は古谷絢也」


そう言って社用車にあった名前の書かれた写真を見せる。


「ムラサキという施工会社で働いています。主に現場に出ているので、岡坂さんが古谷絢也さんを見かけたのは仕事中だった可能性が高い。その会社で働いて恐らく13、4年になるでしょう。同僚とは距離を置いているようで、調査をしている期間に誰かと出掛ける事はありませんでした。プライベートも静かです。休みの日は家に籠っている」


「その辺は私と変わりがない」と嬉しそうに笑う。


「住まいは今は伏せておきますが、平屋に独り暮らしをしている。結婚はしていないし、していた過去もないと思います」


「独り暮らし──私もです」


岡坂守秋はそう言うと本当に小さな声で「生きていたんだなぁ」と呟いた。


「自分は誘拐されたという事を知っているのでしょうか?」


「それは分かりません。でも、多分──知っているでしょう」


「犯人から知らされた?──そもそもあんな子供がどうやって生き延びたんだ?誘拐して──犯人が育てたことになる。犯人は女ですか?」


岡坂守秋は珍しく興奮している。


「少し落ち着いてください。順を追って解っている事をお伝えします。とても衝撃的な話ですが、あなたはそれを聞かなければならない。それを理解した上で古谷絢也さんに会うか会わないか決めてください。いいですね?」


岡坂守秋は怯えたような表情を見せたが、心に何かを決めたのか力強く頷いた。


その様子を見て衿久は誘拐されてから引っ越した事、そしてその場所から現在の場所に移り住んだ事、現在は誘拐犯とは離れて暮らしている事を話した。

そして、日常的に虐待されていた事を伝えた。


話の最中、岡坂守秋は辛そうに顔を歪めたり両手で顔を覆って表情を隠した。

何を思ってこの話を聞いているのだろうか。

岡坂守秋は一言も発することなく衿久の話を聞き終えた。


暫く黙していた。

それはとても長く重たい空気だった。


「まさか──」


その空気に馴染むような声色で岡坂守秋が言う。


「そんな酷い──」


そう言って両手に顔を埋める。


「生きているだけでも奇跡なんだって──そう思っていました。でも、その奇跡が苦痛になっているかもしれないのですね」


衿久はその様子を見て辛い気持ちになった。


実はまだ話すべき事があるのだ。


しかし、それを本当に伝えるべきかは判断できないでいた。

自分の事のように苦しみ、それに押し潰されてしまいかねない。

それに、もしそれが──昨日、あの廃墟で衿久が調査した内容が事実であるならば、もう自分ではどうもできない事態になってしまっている。


─これ以上を伝えるのは無理だ。


「現段階での報告は以上です。これからも調査を続けますか?それとも──中止しますか?」


岡坂守秋の視線の先にある古谷絢也の写真を見た。





昨日の衝撃的な出来事が映画のように頭に流れる。





昨日、三堂にあるホテルへ再び出向いた。

前の管理人の事を知りたいと言ったら、老夫婦は訝しそうにしていたが、喋り相手がお互いしかいないせいか進んで物置などを見せてくれた。


しかし、15年も前の話だ。

手がかりになりそうな物はなかった。

引っ越しの際に綺麗に処分したのだろう。


衿久は帰り際に老夫婦に尋ねてみた。


「前管理人の息子の事は覚えていらっしゃいますか?」


それに答えたのは妻の方だった。


「不思議な子供だったからね。この間も言ったように、あれは血は繋がってないって一瞬で感じたよ」


「顔に傷とかありましたか?身体が痛そうだったとか」


「あぁ。虐待だね?───うーん。確かな事は言えないがね、あれは痣だったのかもしれないね。服に隠れてハッキリとは見えなかったけど首の付け根あたりが青黒かった。足も引き摺っていたし。真夏なのに長袖長ズボンで服も小汚なかった。じぃさんは覚えてないか?あの後、あの息子と話してなかったか?」


「覚えてないね。だが、親父の目が異常だったのは覚えとる。目が──異常だった。普通の人間とは違う。子供を見る目が──何て言うかな、汚い物を見るような目付きになったり、獲物を見るような獣のような目付きになったり。とにかくコロコロと落ち着きなく変化してたな。あぁ、そうか。あれは虐待だったか。嫁の連れ子を──ねぇ。腐った野郎だな」


衿久は老夫婦に丁寧に礼を述べてホテルを出ると、そのまま廃墟へ向かった。






元は何かの工場だったのだろう、コンクリートで造られているカビた壁や天井のひび割れから、数日前に降った雨水が未だに染みている。

足元のコンクリートからも雑草が逞しく生えてきている所からみると、もう何十年と時が止まったままなのだろう。


部屋の中央にいくつかの金属製の大きな水槽が並べられ、その中には汚い雨水がたっぷりと張られていた。

衿久はある水槽の前に置いてある椅子が気になったので、その辺りを観察することにした。


廃れた工場には似合わない新しい木製の椅子だ。

その脚には縄がぶら下がっており、椅子の周囲には赤黒い染みがあった。

その染みから鉄の臭いが鼻をついてきたので、何だろうと思い脚でそれを伸ばしてみる。

それは粘りけがあり線を引くように掠れた所は赤かった。


─血だ。


衿久はその染みから逃げるようにして数歩後退る。


─何で血なんだよ。何の血なんだ?


血液の範囲からしてこの量を無くしては生きてはいけないだろうというのだけは推測できたが、肝心の血を流したであろう対象がない。


─人間なのか?それとも動物か?


ふと足元に目をやると、広告のような物が落ちているのに気が付いた。

念のためと常に持ち歩いているゴム手袋を出して装着する。

落ちていたそれを拾って見てみると、それは広告ではなく小学校でよく配布されているような連絡プリントだった。


そこには『臨時教員のお知らせ』と書かれており、子供達に向けて、柔らかく砕かれたメッセージが載っていた。

産休で抜ける教員の代わりに男の教員が入るという話だったのだが、この代わりで入る教員に目が止まる。


─この顔と体系。どこかで見たような。


衿久はタブレットを取り出してその教員の名前を検索した。


─これは。


その教員は1ヶ月程前に小学校近くの川に遺棄されていた人物だった。


この小学校から三堂は離れているし、ネットに載っている被害者の住む地域からも近くはない。

三堂はどちらの小学校の区域ではないのだ。

だから、この連絡プリントがここに落ちているのはおかしいのだ。


衿久は勇気を出して血の痕跡に近付くと、そこにある水槽の中を覗いた。


─何か落ちている。


それは財布のような、またはカードケースのようなものだった。

とても手を突っ込んで取る気にはなれないので、長い棒か水を掬い出せるような何かを探した。


少し視線を動かすと、壁に箒が立て掛けてあったのでそれを使うことにする。

近くで見るとその箒もやはり腐って黴ていた。


箒を手にして水槽へ戻る時に何かを蹴ったらしく、その物体が1メートルほどスルスルと飛んでいった。


それを拾って確認してみる。

8ミリのビデオテープだった。

その昔、流行った家庭用ビデオカメラである。


─お。これは。


そこには『絢也8才』と汚い字で書かれていた。

ケースは傷が目立つし泥の汚れもあるが、肝心の中身であるテープは無事のようなので、これを見られるようなデッキを置いている場所を後で探すことにする。


水槽に戻って中に落ちている物体を箒の柄に引っ掛けて取り出した。

それは財布だった。

慎重に中を開けてみると運転免許証が入っていたので、それを確認してみる。


─あぁ、まさか。そんな。


その人物にも覚えがあった。

古谷絢也の張り込みをしている際、頻繁にラジオから耳にした名前である。


喉元を切られて教育委員会の前に遺棄された人物。


─なんで、被害者の財布が?


大量の血液、椅子から垂れ下がる紐。

さっきのプリント、そしてこの財布。

どちらも殺人事件の被害者である。


─たまたま。そう、たまたまだよな。


いつの間にか力が入っていたようで、脆くなったビデオテープのケースにヒビを入れてしまった。





その場から逃げるようにして、ビデオテープだけを持って車へ戻ると、早速これを見られるようなデッキが置いてある場所を探す。

しかし、なかなか見付からない。

商品として置いてある店があるだけだ。


─どうしたものか。


とふいに浮かんで来たのはビデオカメラを回す父の姿だった。

小学校の運動会で買ったばかりのビデオカメラを嬉しそうに回していた。

しかし、肝心の衿久の出番になってバッテリーが切れてしまい、祖父母からブーイングを受ける羽目になっていた。


─久々に帰るか。


久々に帰るからといって随分と遠くに住んでいるわけではない。

車で20分程で到着する。


午後6時。


「エリックお帰り」と玄関まで出迎えてくれた父が嬉しそうに言う。


父は衿久をエリックと呼ぶ。

漢字の読み方を変えただけだ。

そもそも『衿久』という名前自体父が考えたものなのに、なぜか呼び方を変えてくるところが理解できない。


そんな父は畑仕事が楽しいのか、生き生きとしており肌も随分と焼けている。


「ただいま。わざわざ出てこなくていいのに」


「いやぁさ、エリックが帰って来るって考えただけで楽しくてね。ずっと一人だと寂しくってね」


玄関を上がると父が急に痛みに悶絶する声をあげた。


「また小指打ったの?」


父が足を抑えながら指差す方を見る。

小指をぶつけた柱にタオルをクッション代わりにして巻き付けてある。


「相変わらずあそこでぶつけるんだ?」


「クッションを貼り付けたのに痛いのなんのって。いい加減痛さにも慣れたいものだ」


「それさ、クッションの厚みで余計にぶつけるんじゃない?」


すると父は「お前は相変わらず鋭いなぁ」と嬉しそうに言うとクッションを剥がした。


「こんなもの、いらねぇ!」と言って乱暴にゴミ箱に棄てる。


帰省する前に父親に連絡を入れ、ビデオカメラを出しておいてほしいと頼んでおいたらセッティングまでしてくれていた。


「エリックがテープを持っていたなんて気がつかなかったよ」となぜかわくわくしている。


「あぁ。期待させて悪いけど、俺のじゃないから。仕事で見つけたんだけど、これを見られるような場所がなくてさ」


衿久のその言葉にしょげる父。


「仕事ってのは人のプライベートを覗き見る探偵か?」


「言い方変えてくれよ」


「他人のプライベートを見るのは夕食の後だ!夕食だ!腹が減った!」


父は子供のように叫ぶと台所へ消えていった。


─親父の手料理か。


としょげていると、悪戯を仕掛けた子供のような表情で父が戻ってきた。


「ふふふ。俺が飯を作るとでも思ったか?」と言った。


手には寿司桶がある。


「寿司を頼んでおいた。ビールもあるぞ!」


「酒はいいや。まとめなきゃならない事があって──。長引かせたくないんだ」


「じゃあ、帰るのか?泊まらないのか?」


「また今度にするよ」


そう言うと父は寂しそうにビールの詮を開けた。




9時近くまで飲んで食べて話をしていた。

一人でいると衿久の頭にある小さな不安は肥大し続け、その後はどうなるか分からなかったので陽気な父の存在は正直言って助かった。


ビデオテープの事を考えないようにしていたが、見ないわけにはいかない。

楽しくて笑いが止まらないような映像が記録されていないという事ぐらいは予測できる。


「見ないのか?」と頬を赤く染めた父がビデオカメラを軽く指差す。


「あぁ。いや。見るよ。──親父が寝てからにするよ」


「それを一人で見る覚悟はあるのか?」


「──なんだよ、それ」


「気が進まないんだろ?今の案件で抱えている真実を見たくないんじゃないか?」


たまにこうやって痛い所をついてくる。

それが急所に入ると衿久は父親の大きな力を思い知る。


「見るよ。大丈夫だって」


「見なきゃならないから見るのか?それとも、誰かのために見るのか?同じ様に聞こえるけど、感じ方は全く違うぞ」


「──きっと、見るに耐えない映像だと思う。でも、それを見つけたからには見なきゃならない。見なくても良いなんて──そんな簡単には切り捨てられない。仕事だからと割り切れるわけでもない」


真実を知ったら岡坂守秋はどう反応するだろう。

真実を知られた古谷絢也はどう反応するだろう。


知らなければ良かった?

知られたくなかった?


そっとしておけば良かった──。

そっとしておいてほしかった──。


自分が弟だったら。

自分が兄だったら。


あの時、立場が逆だったら。


「お前自身が理解していれば大丈夫だよ」


父親の妙に明るい声に促されてテープをセットする。

上手く回るかと不安になったが、無事に粗い映像が流れてきたのでテープもカメラも機能しているようだ。




そこは衿久が調査をしていた廃墟だった。

あの古びた水槽の並びとしんと静まる室内。

今日見た印象と変わりがなかったので、あの建物は昔から廃墟だったのだろう。


いきなり画面に少年が現れた。

岡坂守秋と古谷絢也の面影がある。


─古谷絢也だ。


少年は俯き背を丸めたまま正面を見ない。


『おい』とテレビから男の声が聞こえてきた。


『おい、絢也。カメラを見ろ』


その声にゆっくりとこちらを見つめる古谷絢也。


『何だよその目は。少しぐらい笑えよ。せっかくカメラを買ったんだ。良い映像を録ろうぜ』


それでも表情を変えない古谷絢也に対して、男が舌打ちるのが聞こえてきた。


『まぁ、いいや。別に構わない。じゃあ、脱げ。上の服から脱いで。脱ぐ度に1回転しろ。2度は言わせるな。失敗したら俺がどうするか想像できるだろ。理解できたよな?』


古谷絢也は小さく頷く。


そして、少年は言われるがままに1枚脱いではその場で1回転した。

そして、とうとう下着1枚の姿になる。

骨が浮き出るほどに痩せ細った身体のそこらじゅうに、青あざや切り傷、火傷の後があり、もう見ていられなかった。


その時、全裸の成人男性がカメラに入ってきた。

そして、古谷絢也の頭をそのまま自分の股間に押し付けた。


テープを止めたのは父親だった。


「──偉そうな事を言って悪かった。すまない」


暫く2人は黙っていた。


「─性的な虐待もあったのか」と衿久が呟く。


「何て酷い男なんだ。警察に通報するんだろ?」と父親。


「居場所が分かればね。この男を追うにも、これは25年程前の映像だから手掛かりは少ない」


「この男の行方は分からないのか?」


「あぁ。今ごろ何処かで同じ事を繰り返しているかもしれない」


「──何という事だ」


「ごめん。付き合わせちゃって。嫌なもの見せちゃってごめん。俺、もう帰るよ」


父親は心配そうに衿久を見送った。







その悲しそうな父親の表情が脳裏に浮かぶ。


残酷な映像を残したそのビデオテープはデスクの引き出しに入っている。

正面で古谷絢也の写真を見つめる岡坂守秋は、そんな事も知らずに今後の調査の継続をするか否かを悩んでいる。

継続しても結果は同じであるだろうと云う事は伝えた。

だから、岡坂守秋を悩ませているのは会うか会わないかである。


「──会いたいのでしょう?会って話がしたい。しかし、絢也さんに迷惑かもしれない。そこで悩まれてるのですね?」


岡坂守秋は頷いた。


「答えは今じゃなくても良いです。取り敢えず調査は続けて、あなたが決心した所で止めましょう。しかし、期限は決めた方が良い。当初予定していた1ヶ月まで、あと4日だ。それで良いですね?予定通り4日後まで調査を続ける。それまでにあなたは答えを出す。会うか会わないか。いいですね?」


岡坂守秋は頷いた。


「答え。出せますか?」


岡坂守秋は少し間を置いてから頷いた。


信用ならない返事だったが、衿久は理解したという風に資料を片付ける。

それを力なく見つめる岡坂守秋の目が、あのビデオテープに残された少年の目と重なってしまったので、急いで顔を反らした。





──────────






女子児童が行方不明になって2日が経った。

しかしそれは報道されてからなので、実際は3日目である。

最初の1日に外出していない限り、林は部屋から出ていない。


昨日の昼頃に林の部屋のガスメーターを確認した時はしっかりと動いていたので居るのは分かっている。

その時は昼食でも作っていたのだろう。

しかし、もうそろそろ食料が心配になるはずだ。


時計を見れば深夜0時。

部屋に動きが全くない所を見ると、自分のしでかした事に怖じ気付いたのか、もしくは監視に気が付いているのかもしれない。


─林。お前はいつまで持ちこたえられる?


紫煙を燻らせながらハンドルをコツコツと叩く。


─俺はもう限界だ。


午前0時。

絢也は車から出て林の部屋のインターホンを乱暴に鳴らした。





──────────




真っ暗な部屋で1人、林良光は床に座って苛立っていた。

苛立ちは不安に変わり、それから焦りになる。

焦ると苛立ち、そして不安になりまた焦る。


このように、ここ数日同じ感情を繰り返している。


─くそっ!あの男たちは何なんだ!


いらいらして頭をかきむしる。


昨日と今日、入れ替わりで2人の男がこの部屋の様子を伺っている。

部屋のインターホンを鳴らされたが、居留守を使うと今度は車の中から部屋を監視している。

隣の住民に聞き込みをしているようだったが、内容までは聞き取れなかった。


どうやら警察ではなさそうだが何をしているのか分からないので不安だ。


「くそっ!くそっ!くそっ!」


せっかく望み通りのものが手に入ったのに、これじゃちっとも安らがないし楽しくないじゃないか。


それにもう──あの子は動かない。


─全部あいつらのせいだ。あの意味の分からない男たちのせいだ!


と空になったペットボトルを壁に投げ付ける。


「きみがあの時、叫ぼうとするから」と扉を1枚隔てた部屋に横たわる動かなくなった少女に向かって言うが、もちろん返事など来ない。

彼女が眠る部屋の室温は震えてしまうくらいに保っている。

扉を触ればヒヤリと冷たい。


─どうしよう。


こんな時だと言うのに腹が減る。

行き当たりばったりで彼女を連れてきたので、食料がもうすぐ底を尽きてしまう。

学校も休んでいる。

バイトも病欠しているがそれもそろそろ限界だろう。


「もう、終わりだ──」


ゆっくりと頭を上げて隣の部屋への扉を見つめる。


─終わりなら最後に。


立ち上がって隣の部屋への扉を開けると、冷たい空気が足元を滑り、全身を包んだ。

その冷気に誘われるように静かに部屋へ入る。


手探りで目的を探していると、柔らかく冷たいものが指先に触れた。


─ここに、彼女がいる。


その肌を撫でる。

何とも言えない幸福感。

この先、悲惨な現実が待ち構えているかもしれないというのに、優雅で満ち足りた時間を味わっている罪悪感に酔いしれる。


その時だった。

部屋のインターホンが鳴った。

1度ではなく、2度、3度と鳴り続ける。

デジタル時計を見ると、深夜0時を廻った所だった。


─こんな時間になんて非常識なんだ!近所迷惑じゃないか!


しかし、返事をするわけにはいかない。

部屋には死体があるのだから。

だからといって無視するわけにもいかないだろう。

不審に感じた近所の連中が警察を呼ぶかもしれない。

そうされてしまうと、


─彼女の存在がバレてしまうかもしれない。


それでも鳴り続けるインターホンに焦る。

取りあえず、彼女が眠る部屋の扉を閉める。


─あ、そうか。閉めていればバレる事はない。あとは冷静を保てば完璧だ。


林良光は大きく深呼吸をしてから玄関の電気をつけた。


扉の覗き穴から外を確認する。


─昨日来た奴だ。しつこいな。でも、もう1人はどこだろう。


その間も煩く鳴り続けるインターホン。

チェーンをかけたまま震える手で鍵を開ける。


ようやく静かになる。

こちらが声を出す前に相手が口を開いた。


「あんた居留守が下手だな」


そこから覗いた顔にぎょっとする。

目の回りにクマができ、眼球は血走っている。

その鋭く容赦のない目付きは力強く、有名な俳優に似ていた。

しかし、それが誰だっただろうと考える余裕などなかった。


「あ、あなたは、誰、だ、誰ですか?」


自分の声が震えている。

早く打つ鼓動に荒くなる呼吸。


「あんたに用がある。ここを開けてくれ」


抑揚の無い声が良光の不安を募らせる。


「な、何を言ってるんですか。こんな時間に。ぶ、無礼ですね」


「周囲に無礼は承知で来ている。しかし、あんたに払う敬意などない。開けてくれ」


表情ひとつ変えない男は不気味だった。


「こ、ここはぼ、僕の部屋だ」


「だから丁寧に開けてくれと頼んでいるじゃないか」


「て、丁寧に?あなた、頭おかしいんじゃないか?」


「おかしいのはあんただろ。開けてくれ」


「知らない人間を上げるわけにはいきません」


「もう既に知らない人間が上がってんだろ?いいじゃないか、もう1人増えるくらい」


「だから、何を言ってるんですか?」


「あぁ、そうか。あんたにとっちゃ、知らない人間ではないのか。下調べしてたしな」


「し、下調べ?」


「惚けても無駄だ。──開けないなら警察でも呼ぼうか?」


男は電話を取り出して画面を操作した。


「け、警察!」


「そう。あんたが他人に言えないような事をやってんのは知ってるんだ。だから、とにかく開けろ。さもなきゃ、警察呼ぶぞ」


「ちょ、ちょっと待って!わ、分かったから、待ってくれ」


良光は1度扉を閉めてゆっくりとチェーンを外したが、そんな時間稼ぎは何の役にも立たない。

むしろ、相手を苛立たせただけだった。


チェーンを外し終えるタイミングと痺れを切らした男が扉を開けるタイミングはほぼ一緒だった。


男の全身が良光の前に立ちはだかる。

痩せているが体格はしっかりしている。

恐らく30代だろう。


「時間を稼ごうったって無駄だ」と襟首を掴まれる。


「夜分にすまないね。上がらせてもらう」


男は襟首を掴んだまま部屋へ土足で上がり込むと、手当たり次第に灯りをつけた。


リビングの隣にある寝室への扉に目をやる男。


─あぁ、そこは。そこは。


男は扉に手かけると、躊躇うことなく開けた。


冷気と静寂が2人を覆い、良光の心臓はこれ以上ないくらいに早鐘を打つ。


男は良光を引き摺るようにして寝室へ入ると、部屋の電気をつけた。


そこには全裸の女子児童が目を閉じて眠っている。

まるで、別世界のようだった。




すると突然、男が鼻をすするようにして泣き出した。


─なんだよ、こいつは。


良光は何も言わず、静かに泣く男に襟首を掴まれたまま女子児童の亡骸を見ていた。

すると、男は1粒の錠剤を良光に渡してきた。


「飲め」


「え?」


「毒ではない。市販されている安全な睡眠薬だ。俺は寝付けない時によくこれを飲む。すると──」


男はぱちんと指を鳴らした。


「し、死ぬって事ですか?」


男は良光の頚を掴んだ。


「言っただろう?睡眠薬だって!」


息ができない。

苦しくなり、男の腕を力なくぱたぱたと叩いた。


「何も言わずに飲めるか?」


その言葉にありったけの力を込めて頷いたが、僅かにしか頚は動かない。

その微妙な反応に男は腕を離した。

良光が苦しがっていると、男は台所にあるコップに水を注いでそれを渡してきた。


良光は男の言葉に従うしかなかった。


精神的にも体力的にも疲れていたのかもしれないが、良光はすっと眠りの世界に落ちる事ができた。





──────────




岡坂守秋が帰ってから1人ソファに埋もれて動けないでいたらそのまま眠ってしまっていたようで、気が付けば外は明るくなっていた。

ぼんやりとした頭で時計を確認すると、朝の7時だった。


飲み残しのミネラルウォーターを一気に飲み干すとシャワーを浴びる。


頭の中のはっきりとしない不安以外はスッキリした。


─もう一度あの廃墟に行かなければ。古谷絢也の過去の鍵はあの廃墟だ。


もう少し細かく見ていけばもっと何か分かるかもしれない。

誘拐されてから三堂に行き着くまでの間の事。

なぜ、誘拐されなければならなかったのか。

なぜ、殺害されず生きてこれたのか。

どのような日々を送ってきたのか。

そしてそれが幼い子供にどう影響し、その結果、


─どんな人格を形成したのか。


他人でありながら、衿久の胸には心配と恐怖が渦をまいている。


これ以上、何があったのか知っても岡坂守秋が傷つくだけだろうし、誰も幸せにはならないかもしれない。

しかし、もう衿久は自分を止められなかった。

見てみぬふりは出来なかった。

古谷絢也が望まない事をしなければならないかもしれない。

知ってしまったらもう後戻りはできない。



あの廃墟にあった物は、あの場所で犯罪が行われたかもしれないという事を示している。

岡坂守秋の元妻の浮気調査の写真に写りこんだ廃墟横に停められた車から見ると、古谷絢也は頻繁にあの場所を訪れているに違いない。


覗いてはいけない。

しかし、覗かなければならない。


洗面台の鏡に写る無精髭を伸ばした自分は、情けないくらいに不安な顔をしている。


喝を入れるようにして両手で頬を叩く。


─しっかりするんだ。


丁寧に髭を剃り終え、クリーニングから帰って来たばかりのパンツを履き、ワイシャツとベストを着込むと見た目だけでもさっぱりした。


─今から行く場所には不釣り合いな格好だな。


と苦笑いを浮かべる。





──────────





先程コンビニで調達したおにぎりを頬張る。

早朝だったからか、品揃えが良かった事に少し気分が良くなり、1人では食べきれない程の量を買いそうになってしまった。


しかし、この男の事を考えるとその気持ちも何処かへ飛んで行ってしまう。


絢也は最後の一口を食べ終えると、お茶で口を潤した。

そして、煙草をくわえて火を点ける。


前回の男たちのように椅子に縛りつけて、その姿を睨み付ける。

男はまだ起きない。

死んでいるのではないだろうな、と呼吸をしているか胸の動きで確かめてみたら生きていた。


自然に目覚めるまで待つことにする。

取り敢えず、先日購入した液体の着火剤を林の全身に振り掛けておくが、その作業は直ぐに終わったので何もすることがなくなった。


─なんだ、これは。


男を縛り付けている椅子の周りには、前回の穢らわしい男の血液が残っているのだが、その一部が線を引くようにして数センチ程伸びていた。

そして、その先には


─靴跡?


絢也は自身の履く靴の裏を見てみたが、血など付いていないし靴跡の模様も全く違った。


どういう事だ?と思っていると、水槽の横に箒が転がっているのを見つけた。


─こんなもの。どこにあった?


そして、少し視線をずらせば臨時教師の男の紹介プリントが落ちていた。


─あの時あの紙は丸めて投げつけたはずなのに、何故開いている?


それに、前回の暴力亭主の財布も落ちている。


─この男の財布は水槽に沈んでいたはずだ。


絢也は紫煙を細く吐いた。


「誰か──来たな」


─12年前に殺したはずのあの腐った男が本当は生きていた、とか?


自分で考えて可笑しくなる。


─馬鹿馬鹿しい。


男を縛っている横の水槽に腰掛ける。

足で男を突っついてみても起きない。


時計を見れば午前9時。

もうそろそろ起きるはずだ。

恐らく過去は窓だったのだろう四角い穴から外を見れば薄汚いホテルが見えた。


─まだ経営してるんだ。まったく、しぶといなぁ。


短くなった煙草を床に落として踏みつける。


─『いつまで寝てるんだクソ餓鬼』


と頭に穢い声が響いて身体がビクッと震えた。


─『俺はお前を喰わせるために働いてんだ。少しは孝行しろよ!』


絢也は震える自分の手を見つめる。


─一生逃れられない。


その手の震えを止めようと強く拳を握る。


─『何だ、その目は!俺にそんな態度をとっていいと思ってるのか!こっちへ来るんだ!いい事してやるよ!』


あの男は知人女性数名とあの薄汚いホテルの一室に籠った。

暫くして絢也はその部屋に呼び出され──

大人たちの性交を───


そのフラッシュバックから逃れるように胃の中の物を全て吐き出した。


─何なんだよ。もぅ。止めてくれよ。


両目から涙がこぼれる。


「開放してくれよ!」と喚きながら頭をかきむしる。

足元に転がっている箒を手にし、水槽や床を乱暴に打った。

壁や水槽を蹴るがびくともしない。

頭にこびりついた男の陰を振り払う事はできない。

それどころか、あの男の存在ははっきりと線を持ち絢也を苦しめる。


あの男の嘲笑に孤独を感じる。

あの男の罵りに屈辱を感じる。

あの男の怒りに戸惑いを感じる。

あの男の喜びに恐怖を感じる。


絢也が感情を表すと男は不愉快になる。

だから絢也は表現しなくなった。


この感情の発露はどうすれば良いのだろうか。


暴れているうちに箒の柄が折れ鋭く尖った。


それを林の喉元に突き付ける。


「起きてんだろう?芝居は通用しない!」


林はゆっくりと静かに頭をあげる。

震えながら涙を流している。


「今、お前の部屋には警察が大勢詰め掛けている。お前に帰る場所はない。──お前に用意されている唯一の場所は地獄にある。泣いても叫んでも後悔してもそれは変わらない」


「─ゆ、許し」


腕に力を入れると、尖った柄が喉に食い込んだ。


「許しを乞うても無意味だ。何故か分かるか?」


「─ゆ、許されない事を──したから」


疲労と恐怖で歪んだ顔が涙のせいで余計に汚ならしくみせる。


「違う。その懺悔を聞く相手が俺しかいないからだ。そして、俺は偉くもなんともないから、お前を許す事はない。だから、お前が許される事はない。お前は俺以外の奴に許しを求める事はできない。何故ならお前の最後の声を聞くのは俺だからだ」


林は怯えて目を見開いた。


「俺はお前を許せない。例え誰かが許したとしても、俺はお前を許さない。悪い事をしたら、罰を受けなければいけない」


「こ、殺さないで」と小さく掠れた声を出して失禁する林。


「殺すしか道はない」


絢也のその言葉に表情を無くす林。

脅すような言動をしていても、さすがに殺されはしないだろうと思っていたのかもしれない。


「た、頼むから!」と声を裏返しながら必死に叫ぶ。


「お前が誘拐した女の子は今のお前のように頼んだのだろう?家に帰してくれと。母親に会いたいと。何度もそう頼んだはずだ。なのにお前はその頼みを聞いてやらなかった」


絢也は箒の柄を振り上げると、男の横顔に何度も叩き付ける。

男の頬や唇からは血が流れる。

しばらく殴っていると腐っていた箒の柄は折れて、先程より短くなった。


「や、やめてくれ!じ、自首するから!」と泣きじゃくる男。


「言っただろう!殺すしか道はないんだ!」


「そんな事はない」


そう答えたのは林ではなかった。

その声に背後を振り返る絢也。


部屋の入り口に立っていたのは見知らぬ男だった。

汚ならしい廃墟に不釣り合いな格好をしている。


「誰だお前」


男との距離は4メートル程だろうか。

何故か男は哀しそうにこちらを見ていた。


「私は峯武衿久。探偵だ。きみを──探していた」


「俺を?──それともこのクズを?」


絢也は林の頚に尖った柄を突き付けた。


「どちらもだ」


衿久がそう言うと絢也は目を細めた。


「どういう意味だ?」


「ラジオは聞いたか?速報でニュースが流れている。大槻春世という児童が発見された。残念な事に──遺体でだが」


「こいつの仕業だ!」と頚に柄を食い込ませる。


「あぁ、分かっている。その男は取り返しのつかない事をした」


「俺が通報したんだ。少しでも早く親の元に帰れるように」と絢也は声を震わせる。


「そのようだな」


絢也は納得したように何度か頷いた。


「あぁ──あぁ、そうか。なるほど。ここに侵入していたのはあんたか。なら俺のした事も分かっているんだろうなぁ。──何故、俺達を探していた?」


「林を警察に突き出したいんだ」


「それは断る。やらなければいけない事があるものでねぇ」とちらりと林を見る。


「その男の行く末を決める権限はきみにはない」


「あぁ、そうだ。しかし、それは法に照らし合わせればの話だ。俺に法なんて通用しない。俺に常識を解くのは無意味だ」


絢也の声は落ち着きを取り戻した分、恐ろしくもあった。


「しかし、よくこの場所が分かったね。俺だけの思い出の場所なのに」


絢也は皮肉を交えて言い放った。


「その男のアパートへ行ってみたら、パトカーが停まっていた。それを見てすぐにこの場所が浮かんだ。──そいつを殺すのか?」


「もちろんさ。──その行為事態は決して良い事ではないけどね。悪い事をすれば罰を受けなければならない」


林は2人の会話を注意深く聞いている。


「俺は──人らしい感情をどこかに落としてきたのかもしれない。喜びとか哀れみとか。俺はきっと獣のような人間なんだろうな。人を思いやる気持ちというのかな──そんなものは幼い頃、無理にふるい落とされてしまったんだろうな。それさえあれば、変わったのかな」


絢也は片方の手の指をコツコツと当てた。


「──聞いてくれ。岡坂絢也さん。私はあなたを探していたんだ」


絢也は耳を疑った。

一瞬、世界が止まったかのような錯覚に陥った。


「──あんた。今、何て言った?──俺の事を──何と呼んだ?」と動揺する。


「岡坂─絢也さん。あなたの本当の名前だ」


信じられないとでも言うような表情で衿久を見つめる。


「何故──あんたがそれを知っている?それを知っているのは──」


「あなたを誘拐した男だけではない。あなたにその名前を与えた家族が──あなたの事を探しているんだ」


「家族が俺を探している?馬鹿にするな!俺には家族なんていない!幼い時から今までずっと1人だったんだ!─家族?──探偵ってのは嘘が下手だな。それ以上ふざけた事を喋るとお前も殺してやる!」


絢也は尖った柄を衿久に向けた。


「──私はまだ死にたくない。それにあなたは私を殺せない。何故ならあなたが殺人を犯すきっかけは、相手を自分を誘拐した男と重ねるからだ。それ以外の事には無関心だ」


「人を馬鹿扱いしやがって。それ以上喋ると本当に殺してやる。探偵になった事を後悔する暇もなく殺してやる」


「あなたの出身地は山口県。今から30年程前──ベビーカーに乗せられたあなたは、ご両親が少し目を離した瞬間に誘拐された。そのベビーカーにはもう1人乗っていた。──その人物があなたを探してほしいと依頼された双子のお兄さんだ」


絢也は何かを考えているのか、視線を衿久から離さなかった。

衿久は絢也の様子をしっかりと見つめる。


スッと絢也の頬に涙が伝う。

暫くの静寂のあと、絢也が口を開いた。


「信じて──いいのか?」


掠れた声は少し怯えていた。


「あぁ。信じてくれ」


「─似ているか?」


「双子だからね」


「幸せ──なのか?」


「どうだろうか。それは分からない」


「─俺に会いたいと?」


「まだ答えは出ていない。もし、あなたが会いたくないならそう伝えることも可能だ」


「何故、俺が会いたくないと言うと思う?」


「考え方は人によって違うからだ。自分の思いを他人に押し付けるような事は好ましくない。他人を尊重するのだ」


「そんちょう?」


「相手の事を尊敬し大切にすると言う事だ」


「─俺の事も?」


「あぁ。大切に思われているんだ」


絢也は何かを考える表情を見せると、尖った柄を床に落とした。

そして、煙草を取り出してくわえマッチで火を点けた。


衿久はほっと胸を撫で下ろすと林を見る。

何故か全身が濡れていた。


「俺に何を言い聞かせたって無駄だ。『そんちょう』とか言う感情を俺は持ち合わせていないからな。それに俺はやらなければならない。自分がどうなろうと構わない。俺はこいつの様な奴等が許せないんだ。あんたは俺の事を調べていたようだから、何故そう思うか分かるだろう?」


「あなたの過去について、ここで話すつもりはない」


「俺が恥ずかしい思いをしないよう気を使ってくれたのか?何と優しいんだ」


衿久は凶器を持っていないはずの絢也に対して、何故か先程よりも強い緊張感を覚えた。


「俺は子供の頃──世間の子供が皆、俺の様な思いをしているんだと思っていた。息ができなくなるほどに殴られ蹴られ、暴言を浴びせかけられる。性交を見せられ、無理矢理脱がさせる。優しい言葉なんて聞いたことがないし、そんな世界は考えた事もなかった。存在しないと思っていたのだからそれが普通だった。でも、それは違っていた。テレビとか新聞で──同年代の子供が笑っているんだ。その時、考えた。外では幸せそうな芝居をさせられているんだと。家に帰れば酷い事をされているんだって。──だが、あの男は俺に言ったんだ」


テレビに写る子供達を羨ましそうに見つめる絢也に対して。


『あいつら楽しそうだな。お前だって誘拐されていなけりゃ、今頃あいつらみたいに友達と遊んで笑って、好きなだけ食って寝て、やりたい事やって走り回って、親からは甘やかされるような今の人生とは程遠い道を歩んでいただろうに』


「そう言ったんだ。──俺だけが、独りぼっちだったんだ。俺だけが痛い思いをしていたんだ。俺だけが笑えないんだ。あの男のせいで、全てが歪んでしまったんだ。──その時から毎日、俺はあいつを殺してやる事だけを考えた」


その言葉を聞いて身体を痙攣させる林に軽蔑するような視線を送りながら紫煙を吐く。


「自分の身体が成長し、あの男と体力の差では負けないようになるまで耐えた。あいつは俺の事を意気地のない弱気な奴と思い込んでいた。職業の影響だと考えたのか、身体を鍛えても何とも思わなかったみたいだ。──そして、俺はあいつを殴り殺した」


衿久は心で溜め息を吐いた。


─やはりそうか。


この廃墟にある証拠とあのビデオを照らし合わせた時から、そんな予感はしていた。


「あの時のあいつの怯えた目。今のこいつと同じだったぜ」


絢也はそう言って煙草の先端を林に向けると、それを指で弾いた。

弾かれた煙草は林に目掛けて飛んで行くと、その腕に軽く触れ、そのまま床へ落ちた。


すると次の瞬間、大きな炎が林の全身を包んだ。


叫ぶような苦しむような叫び声が廃墟に響く。



衿久は身動きがとれず、声も出せなかった。

ただ、燃える男を見ているしかできない。

恐怖と熱さに喘ぐ男の悲痛な声を聞いていた。

耳にこびりつくような不愉快な声。


水槽には水がたっぷりと入っているが、それを炎にかける事ができない。

手で掬ってかけるにはあまりにも地味だし意味がない。

火だるまになった男を水槽の中に放り込むのが一番だ。


しかし、何故か身体が動かない。


炎への恐怖か、それとも絢也の態度に制されているからか。


いや、いずれも避ける事はできる。


自分の着ている服に水を吸わせて炎に被せる事だってできる。

凶器を持たず背中を向けている絢也を恐れる事などないのだ。

まだ息がある林を助ける事はできるのに。

何故か、その場に留まっていた。


炎は、熱さに苦しむ男への罰のようにして身体にまとわりついている。

意識がある中でじわりじわりと。


酷い臭いが鼻につく。


遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきてようやく我に帰った。


「─いつの間に呼んだ?」と絢也が言う。


「きみが林を殺すと発言した時だ。──本気だと思ったからね」


2人は互いを見ずに炎を見ていた。

徐々に近づくサイレン。

痙攣する林。


「─何故、止めなかった?そうしようと思ったならタイミングはあったはず。今だって──俺はあんたに背中を向けているんだ。俺を殴り倒せば消火はできたはずだ。愚かなこの男を助ける事ができたはずだ」


その通りである。

そんな事は分かっている。


「──何故だろうか」


絢也はゆっくりと衿久を振り返る。


「兄さんは──俺のした事を知っているのか?」


「いいや。──だが、ニュースになれば知れるだろう」


「どう思うかな?」


「──会ってみたいか?」


このような情況であるにも関わらず、冷静にお互いの言葉に耳を傾けていることが不思議だった。

サイレンは近くまできた。


絢也は困ったように小さく


─笑った。


「──迷惑かけちゃうよ」


その表情は岡坂守秋と瓜二つだった。


「だから、会わない方がいいんだ」


「きみは会いたいのだろう?」


「─俺のした事を報告するのか?」


「きみが逮捕されなければ黙っているつもりだったが、伝える事にする。ニュースで知るのはあまりにも可哀想だ」


「どうやって話をする?」


「できれば報道より早く伝えたい。報告されるタイミングが分からないのが残念だが」


「明日になるよ」


その言葉を最後にして警察官が流れ込んできた。


「この男を燃やしたのは俺だ」と警察官に向かって両手を挙げた。


─明日になる?どういう事だろうか。


岡坂絢也は現行犯で逮捕され、衿久とは目も合わさず連行された。


衿久はまるでテレビでも見ているかのように、切り取られたその情況を見ていたが、1人の警察官に肩を叩かれて自分もその一部であったことを思い出す。

その時、目の前に現れたのは、人間の形をした真っ黒い物体だった。

椅子も灰になっている。

警官たちはハンカチで鼻を押さえながら、口を開けたままの黒い塊を嫌悪感を丸出しの表情で見ていた。


─あぁ。報道よりも早く知らせなければ。






─下へ─

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