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空は深い黒[上]






青天が張り裂ける。

その様子を見ていたのは

黒い雲を待ちわびる罪人ただひとり。







──────────




父は言った。


この世にお前の望み通りになる物なんて、ひとつとしてない。

この石ころでさえも、お前の物ではない。


だが、この風は違う。

この風はお前のために吹いている。


だから──好きに使うといい。




母が見知らぬ男と蒸発したその日。

幼い私─確か幼稚園児だった─に離婚話をしてくれた父はそう言った。


意味が分からなかった。

勿論、今も意味が分からない。


正直言えば、父は間抜けである。


誰の周りにも一人は居るだろう。

やることなすこと裏目に出てしまうような者。

しかし、本人は長年そのように生きてきたのだから、それを不思議だとも周りから迷惑がられていることも感じない。

悪気はない。

むしろ、本人らは誰かのためと思ってやっているのだ。

善意だ。

それがまた周りを困らせる。


父の性格は人に迷惑をかけるようなものではなく、地味に一人でもちゃもちゃしている。

あれをやればこれを忘れる、左右違う靴をはいて仕事に行く、同じ場所で何度も足の小指をぶつけて悶絶したり、扉に挟まれる。

上げだしたら切りがない。

そういったことは日常茶飯事だったので、毎日付き合わされていた私は「またやってるよ」なんて事すら思わなくなっていた。


とてもじゃないが、器用な人間とは言えない。

まだ片手で数えられる程の年数しか生きていない鼻垂れ小僧に、見知らぬ男に妻を寝捕られたという現実を包み隠さず話してくれた事がそれを証明している。


しかし、それは父が悪い人間ではないし、憎めない人柄であるということも同時に物語っている。

学校の行事なんかも欠かさず参加してくれたし、雑巾や巾着も必ず手作りしてくれた。

遠足や運動会のお弁当だって。

もちろん見るに耐えないほどに不細工なのだが、私は何故かそれが嬉しかった。


離婚直後から祖父母宅で暮らすようになったので、助けを求めればいいものを、何故か一人で私の世話をしようとしてくれた。

自分の力を過信していたのだ。

一番厄介なのは、本人が自分のどんくささに気がついていない事であり、それを認めようとしない所。

祖父母も助けを求められない限り、子育ての事で干渉はしなかった。


まぁ、それらはそれなりの時間があったからできた事である。

父は1ヶ月おきに無職だった。

悪さをするわけではないし、同僚と喧嘩などしない。

お気づきかもしれないが、悪気のない父のどんくささは時に人を苛つかせ、不安にさせるのだ。

もちろん雇い主が直接「辞めてくれ」など言わない。

父が自ら退職するように仕向けるのだ。

争い事が嫌いな父はそうと察して職場を後にする。

それが良いのか悪いのか、父は様々な仕事の基礎を身に付け、それを私に教えてくれた。

それは、日常に役立つものもあれば、使い方を間違えれば犯罪となってしまうものまで、様々だった。

キャッチボールをやろうもんなら私が怪我をするか、何かを壊す恐れがあるので、子守りでは学校では到底教わらないような技術を伝授するくらいしかできなかったのだ。


祖父もまた間抜けな性格であった。

やはり本人はそうとは認めないが、おかしいなぁくらいは思っているだろう。

この家の男衆はその血筋を例外なく受け継いでいるようだ。


しかし、私は違う。

気がついていないだけだと言われるかもしれないが、そんな事はない。

私は男だが、祖父や父とは違うのだ。

2人を反面教師にして育ったのだから間違いない。


私は頭は良くないが、2人のようなどんくさい間抜けではないと宣言する。


まったくもって別物だ。






峯武(みねたけ)衿久(えりひさ)はそんな事を考えながら、窓の外の曇り空を眺め、人を待っている。

梅雨明けしたばかりだが、この雲のおかげで少しは涼しく感じられる。


あまり繁盛していない商店街の一筋横にある、もっと人影のない通路にある古びた喫茶店『マーズ』。

セピア色が似合う寂れた地域だ。

このような雰囲気が好きな者たちにとっては、たまらない場所なのかもしれないが、その様な者たちすら集まらない草臥れた喫茶店。

甘いだけのミックスジュースとくそ不味いクリームソーダ。

昨今のブームに乗っかって始めたレンジで温めただけの勘違いパンケーキ、いつから煮詰めているか分からない辛いだけのカレー。


それでも年配の常連は集まるが、食欲などを満たすためではない。

ご近所さんは今日も健在か確かめるために集まっているのだ。


衿久はそのような者たちから一番遠くに座る。

声は聞こえるが、何を話しているかまでは理解できない距離である。


そんな中に現れた小綺麗な格好をした女に店内は静まる。


「あの──。MPDの峯武さんですか?」


淡いブルーのワンピースの上に黒のジャケット、10センチはありそうなピンヒール、黒々とした長い髪からフワリと人工的な甘い香りが鼻に届く。

胸元と耳には石がキラリと光っており、探偵に会うだけだと言うのに、お洒落に抜かりがない。


「はい。峯武です。どうぞ、お座りください」と向かいの席を進める。


彼女は落ち着きなく椅子に座る。

大胆で挑発的な格好とは裏腹な態度に意外性を感じた。


シワだらけの手を震わせた店主がミネラルウォーターを盆に乗せてやってくる。


「ご注文は?」としゃがれた声で尋ねる。


「あ、こ、珈琲を」


彼女がそう言うと、頷いたのか老人特有の痙攣か分からないが、頭を振って去って行った。


「正解です」と衿久は言う。


「正解?」


「この店でまともなのは、ミネラルウォーターと近所のスーパーで購入しているパックで入れた紅茶、あとは他店から進められた珈琲だけ」


衿久は己の目の前にあるミネラルウォーターが入ったグラスをコツコツとつついた。


「あなたは、岡坂さんですね?」


彼女は「はい」と言いながら俯いた。


「改めまして、私、峯武衿久と申します。名刺はありません。そんなに秘するような人物ではないですが。あなたに教えられる私の情報は名前だけ。だから事務所にはご案内できません。それをご承知いただかなければ、依頼をお受けできない」


衿久は足を組んで椅子に浅く座る。

見る人にとっては放漫な態度である。


「はい。それは探偵を依頼する際に知人から聞いております」


「知人というのは、以前ご依頼を頂いた山辺可奈子様ですね?」


山辺可奈子の依頼内容は浮気調査。

旦那の浮気を疑った夫人は探偵を依頼してきた。

実際、浮気をしていたのだが、調査報告後に彼女がどうしたかは分からない。

その後は2人の問題である。

残された者たちの心情を考えぬ身勝手な事の結末を知りたくないし構いたくもない。


「はい」


衿久は小さく息を吐いた。

この女性も浮気調査の依頼なのだ。

依頼内容の80%は浮気調査である。

残りは、もの探しだったり、身辺調査である。

テレビや映画になるような活躍など、あるわけがない。

しかし、浮気調査など面白くない。

何が悲しくて発情中の奴の尻を追いかけにゃならんのだ。

それに関しては男も女も関係ない。

実に不愉快。

できれば、他の探偵を紹介したい所だが、生憎知り合いがいない。

他の探偵なら情報屋などが沢山居るが、衿久の場合それもほぼない。

だから、MPDでは労力と精神力を考慮して、離婚調査の場合は基本料金を相場より少し高めにしている。

全て1人でやるのだから文句は言わせない。

なのに依頼は止むことがないのだ。

それほど世間は腰を動かす事に必死なのだ。

それで景気が上向きになれば良いのだが、生憎それは空回りである。


─それとも俺が優秀なのか。


『Minetake Private Detective』


峯武衿久はこの探偵会社の社長兼探偵。

つまり社員は自分だけ。

どうも集団生活に溶け込めないので、定職なんか就いた事がない。

不本意だが、その部分は父親に似ているのかもしれない。


そこへ「お待たせいたしました」とマスターが珈琲を運んできた。

カップとソーサーがコトコトと噛み合わない音を発している。


「改めて依頼内容をお聞かせください」


衿久は小型のレコーダーの録音ボタンを押して机に置いた。




岡坂初枝の依頼はやはり浮気調査だった。


友人の紹介で出会った2つ年上の岡坂守秋と結婚して3年目。

岡坂守秋は今年32歳、岡坂初枝は30歳になる。


ここ数ヶ月、大学の事務職員である夫の帰りが遅いらしい。


残業は嫌いな質で、やっても月に10時間程度。

それなのに、異変を感じた頃から「夕食はいらない」と言うことが多くなり「疲れた」と呟く事が頻繁にあるという。

まったく関係のない辺鄙な場所で夫の姿を見掛ける事もあるようだ。

決定的な女の影はないし、日を跨ぐような帰宅はない。

夫人に対する態度も優しいし、先日の誕生日には花束を貰ったというが、疑いだしてしまうと色眼鏡で見てしまうものだ。

結婚から3年目になると倦怠期が訪れるというので、この状態で浮気を疑っても不思議ではない。


岡坂初枝が髪を耳に掛けただけなのに、香水のどぎつい匂いが鼻を襲ってきた。

腕には高級腕時計が自慢げに巻かれている。


「ご主人のお写真はありますか?」


岡坂初枝は、こんなサイズで何が入るんだという程の小さなバッグから一枚の写真を取り出して机に置いた。


それはウェディング姿の二人だった。

岡坂初枝は綺麗に微笑んでいるが、旦那である守秋の方はお世辞にも幸せそうだとは言えない。

微笑んではいるが、少し困ったような表情にみえるのは気のせいだろうか。


「奥様は何かお仕事はされていますか?」


「いいえ。独身時代は銀行で働いておりましたが、結婚と同時に退職しました」


─この高級品は独身時代の戦利品か。どうりで少し時代遅れなのだ。


「できれば最近のお写真が見たいのですが」


「あまり、写真が好きではないので」と気まずそうに目を伏せる。


これだけブランド品に身を固め、自信満々である人物が写真を嫌う事はあまり考えられない。

旦那が写真嫌いであったとしても、無理矢理ツーショットを撮ったりすることぐらいはできるだろう。

幸せオーラを周囲に自慢したいからだ。

これまで衿久が関わってきた女性の依頼人で岡坂初枝のような傾向の女性はそういう節がある。


「最近のお写真を拝見させていただきたかったのですが。無いのであれば、しかたがない。この頃から容姿に変化はありますか?」


「いいえ。ないです」


そう言って腕時計を見ると深く息を吸った。

時間は午後3時48分。

何かこの後、用事でもあるのだろうか。


「失礼ですが、夜の方はいかがですか?」


「な、何をいきなり」と視線を泳がせる。


「期間が空いてるのかそれが聞きたい」


「1週間に1度──くらいです」


「気配すらない?」


「そういう─わけではないですが。気配は──週に3度は──」とまた時計を見た。


「そのうちの2回はあなたが拒まれるのですか?」


「──浮気を─疑ってからは──私が拒んでいます。結婚当初からあまりありませんでした。身体の相性が悪いのです。きっと。この話は嫌です」と腕時計をチラリと見て小さく唇を噛んだ。


「そういう情報は大事なのですよ。あなたからの情報だけで浮気を確定するわけにはいかない。現段階で言えるのは、可能性は否定できないという事だけ。偏った目で見てしまえば、間違った結果が出てしまう。誰かの人生を左右するかもしれない。先入観だけで行動するのは危険だ。今日聞いたあなたの話を纏めると、旦那の帰りが遅い、たまに無関係な場所で見掛ける。それだけだ。まぁ、夜の方の回数に不満があるようですが、それでも全く無いわけではない。それに、あなたが拒まれている回数の方が多い。浮気を疑っていらっしゃるなら、拒否したくもなるでしょうが。あなたのお話を聞いていると、まぁ倦怠期によくあるような話です。しかし、それが切っ掛けで浮気に走ることもあるでしょう。───お急ぎなら今日はこの辺で切り上げて、私は早速調査に移りましょう」


「へ?」


「だって、あなた。何度も時計を見ているでしょう?世話しなく指を動かしているし、少し苛立っている。私から質問することはないので、今日はとっとと帰ってもらってかまわないです」


岡坂初枝は少し戸惑った表情を見せたが、勢い良く立ち上がった。


「な、何かあれば私の携帯に連絡をください。大概、お昼間はお稽古事があって出られませんが、夕方の5時頃には対応できますから」


衿久は神妙な面持ちで頷いた。


「そ、それでは、私はこれで。宜しくお願い致します」と言って頭を下げると足早に店から出ていった。


「お稽古ねぇ──」


岡坂初枝を見送った衿久は、清算を済ませて領収証を発行してもらい、経費として請求するため、それを綺麗に財布へ入れた。


その日から早速調査を行う。


夫人から聞き得た情報で行動パターンを読み取り、尾行するのだ。

夕方6時半には勤務を終了するようなので、その辺りに大学へ行って職員専用の門が見張れるような場所で待機する。

幸いヘンテコな子供の像があるので待ち合わせのふりができる。


岡坂守秋は6時40分に現れた。


結婚式の写真から変化はないが、その時よりも辛くて悲しそうだ。


岡坂守秋の第一印象は「悲壮な男」。


衿久より3つ年下なのに、トボトボと歩く背中は定年前のオヤジそのものである。

果たしてこんな男の浮気相手をする者がいるのだろうかという疑問が浮かんでくるが、人は見掛けによらないのだ。


そういう店に行っているかもしれないし。


岡坂守秋は家とは逆方向の電車に乗ると、空席は沢山あるというのに扉に張り付くように立った。


やはり、直帰はしていないらしい。


電車が走るにつれて外は田舎の風景に変わってゆく。

車内の人数は徐々に減ってきたので、自分の存在を知られないよう、衿久はそっと隣の車両へ移ると岡坂守秋を窓越しに観察した。


3駅、4駅と大学のあった駅から遠く離れて行くが、彼は全く降りる気配を見せない。

ただ、じっと窓の外を見ている。

頭が何かを追っているいるように時おり左右に振れるので、景色を見ているわけではなく、気になる物を探しているようにも見えた。


草臥れた男の観察に飽き始めた頃、終点の3つ手前の駅で漸く下車したので、不意を衝かれた衿久は電車を飛び降りた。

降りる人物は数人しかいないうえ、結構目立った動きをしてしまったのだが、岡坂守秋は全く気にする素振りをみせずに改札を出た。

すぐに道路があり、タクシーが一台だけ止まっている。

ボロボロの煙草屋があり、その隣にはクリーニング店が建っていた。

少し先には小さな不動産屋と銀行のATM。

どこにでもあるような寂れた駅前だ。


人気がないので尾行には不向きである。

今日はこの辺で切り上げて帰ろうかと思った時、岡坂守秋が鞄から何かをだしてそれを広げた。


─地図だ。


必要な部分だけすぐに見られるよう、地図をコンパクトに折り畳み歩き出す。

足取りから見て行く方向は決まっているようだ。


少し追っていると信号で足を止めたので、衿久は歩くペースを早めて彼の後ろに立った。

肩越しから地図を覗いて見ると、思っていた通りのものが書かれていた。


岡坂守秋の行動にある程度の予測をたてた衿久は、今日は帰る事にした。




翌日、翌々日と調査を続けていると、やはり衿久の思った通りの動きをしていたので早々と調査報告書に取り掛かった。






──────────





古谷絢也には困った時や、悲しい時、イライラした時、親指と薬指をコツコツと当てる癖がある。

両手をだらりと下げて指だけを動かすのだ。


自分ではどうしようもないような状況下に置かれるとその癖が出てくる。


たいして目立つ癖ではない。

いつからその癖が出てきたのか分からない。

きっと幼い頃からあるものだろう。


今も彼は目の前の椅子に座る、自分より遥かに年上の男が半べそをかいているのを見ながら指を当てていた。


だらしなく突き出た腹に、手入れをしていない薄い髪。

何年前のジーンズをはいているのだろうか、色は白くなり股擦れをおこしている。

着ているシャツはよれているし、だらしがない。


目は常に半分しか開いていない。

この男の何もかもが許せない。

見ているだけでイライラする。

しかしその反面こいつの存在に恐怖も感じる。


─腐った野郎だ。


男の両手両足はしっかりとロープで縛られている。

絢也がやったのだ。


この男の全てが許せない。


相手の男は絢也を見上げて震えている。

解放された時に人相を警察にでも伝えるつもりなのだろう。

必死になって目玉をこじ開けてこちらを見ている。


この男の記憶力がいかがなものかは分からないが──


「安心しろ。お前はもう悪さはできない」


「─ど、どういう」


男が耳障りな声を発したので頬を拳で殴ってやると、椅子のまま後ろに倒れた。

その拍子に背凭れで腕を挟んだのだろう、呻き声を出した。


少しすっきりした。


「俺の断りもなく声を出すな」


絢也は男を元の体勢に戻してやるとそう言った。

男の唇は切れて血が流れている。


「痛いのか?」と顎でそれを指すと、男は小さく頷いた。


「お前は子供が好きか?5歳くらいの子供だ」


男は困ったように何度か瞬きをした。


「子供は好きなのかと聞いているんだ」


答えていいものかどうか悩んでいる。


「お前は子供が好きなのかと聞いてるんだ!」と怒鳴ると、焦った男は再び小さく何度も頷いた。


「女か?男か?──惚けた顔をしても駄目だ。俺は知っているんだ。お前の口で答えろ。好きなのは女か男か」


男は目をぎゅっと瞑った。

殴られる覚悟でもしたのかもしれない。


「お──おとこの子」


絢也はゆっくりと男に背中を向けた。


─穢らわしい。





絢也がこの男を見掛けた時、目の前には真新しい通学帽を被った男児がいた。

今日は休みなのだろう、道路の隅っこで真剣に何かを拾っている後ろ姿は小さくて柔そうだ。

汗ばんだ代謝の良い身体にシャツが貼り付いていた。

絢也はその姿をチラリと見ただけで通り過ぎようとしたが、擦れ違った男の視線に嫌悪感を感じたので背後を気にして歩いた。


擦れ違った男は男児の後ろ姿を見て気持ち悪く微笑んだのだ。


絢也は曲がり角を過ぎると男の様子を伺うため、陰に隠れた。

案の定、男は男児に声をかけて立ち上がらせると、手を繋ぎそのままどこかへ行こうとした。


男児は後ろ髪を引かれるようにトボトボと男に引っ張られる。


少し離れた場所で男が車に男児を乗せた。

自分も運転席へ入ろうとしたその時、絢也は車へ駆け寄る。

そして、男が持っていた車のキーを素早く奪った。

驚く男をはね除けるようにして、扉を抑え車内を覗きこむ。

助手席には、不安に押し潰されそうな顔をした男児が両手を強く握っておとなしく座っていた。


「な、なんです?」と男は何とも言えないような表情でこちらを見る。


「道を聞きたいんだ」と大きな声で言って助手席を覗く。


「助手席のきみ。──きみの住所はこの男と同じか?」


その質問に男児は戸惑いながらも否と頭を振る。

男は息を飲んだ。


「この男を知っているのか?」


再び否の反応を見せた。


「な、何を言っているんだ。洋介くん。僕はきみのお父さんの友達だよ?そう言ったじゃないか」と困惑する男。


「助手席のきみ。何と言ってこの車に乗せられた?」


「お父さんが事故に遭ったって。お母さんはもう病院にいるから、今から一緒に病院へ行こうって」と涙を流した。


父親が心配なのだ。

絢也は男を一睨みすると男児に聞いた。


「携帯電話は持っているか?──持っていないなら家の番号を言えるか?」


絢也は言われた番号に電話をかけた。

男の様子はあえて見ないようにしたが、蒼冷めているだろう事は予測がつく。

吐き気がする。


電話の向こうから『もしもし』と女性の明るい声が聞こえてきた。


「◯◯宅配サービスです。広瀬様のお電話番号で間違いはございませんか?」


『いいえ。違います』と女性。


「そうですか。それは大変失礼いたしました」そう締めくくって電話をきる。


「助手席のきみ。安心しろ。お父さんは無事だよ。お母さんも家にいる」


「お父さんは生きてるの?」と嬉しそうに身体を弾ませる。


「あぁ。そもそも病院へなんて行っていない。この男はね──」と絢也は男を指差す。


「この男は研究者なんだ。人を騙す事を研究し、それを生き甲斐としているような男なんだ。何といえば相手は騙されるのか研究している。きみはまんまと罠にはまり、研究の対象にされてしまった。そこでだ、助手席のきみ。きみはこれから気を付けるんだ。知らない奴に付いていくなと家からも学校からも言われているだろう?それは大いに正しい。正しいから、それには従わなければならない。いいな?──よし。分かったなら降りて直ぐに帰りなさい。この男は研究室に戻らなければいけない」


男児は少し戸惑いながらシートベルトを外すと車から降り、こちらを1度だけ振り返って早足で道を戻った。

その後ろ姿を見送ったまま男に声をかける。


「さぁ、乗れ」と運転席のシートを蹴った。


「の、乗れって──」


絢也は振り返ると男の腹を拳で殴った。

男は小さく呻いて腹を抱える。


「乗れと言ったんだ。喋れとは言っていない」と睨むと、その視線に恐れた男は情けない表情を見せながら運転席へ納まった。


絢也は運転席の扉を閉め、助手席へ乗り込む。


「俺の言うとおりに進め」


そう言って車のキーを男に渡した。





行き先は雑草に囲まれた誰も寄り付かない、今にも壊れてしまいそうな建物。

シングルベッドくらいのステンレス製の水槽が等間隔に並んでいるので、元は何かの工場だったのだろう。

壁も天井もカビだらけで、足元のコンクリートの割れ目から雑草は生えているし、そこらじゅうにゴミが散乱している。

水槽になみなみと貯まる汚い雨水。


全てがあのときのまま。


駅からも遠いし、買い物するには車がないと不便な場所にある。

近所にあるのは、古びたラブホテルだけ。

一応、国道は通っているが、どの車も用事がないので通りすぎる。


根無し草で誰にも見向きもされず、存在を無視されてきた絢也にはお誂え向きな場所だ。

様々な事を思い出させる場所。

現実が剥き出しになる場所。






「拉致した」


そう言って薬指と親指をコツコツと当てた。


「ら、拉致してない!」


「俺がお前を拉致した」


男の懇願するようなその目に背筋が凍り付くようなものを感じとった。


それから逃げるようにして、絢也は男の座る椅子の背凭れを掴み、水槽の前まで引き摺った。


「お前は悪い奴だ!」


水槽と絢也を交互に見る男は大きく震えた。


「可愛いかったか?え?どうしたかった?」


「す、すまない!申し訳ない!」と声を震わせる。


「お前は──俺がいなければ、あの子供に一生の傷を負わせるつもりだったんだ!」


「ほ、ほんの出来心だ!ただ、2人で話がしたかっただけだ!ほ、本当にそれだけだ!」


─『嘘をつくな!』


頭の中で重たく汚い声が響く。


「嘘をつくな。お前は過去に何度か罪を犯している。出来心だけであんなに計画的な動きはできない」


男の車で見つけた1枚の紙を取り出した。

冷や汗が絢也の頬を伝う。


「お前は臨時の小学校の教師なんだな?お気に入りの生徒をあの車に乗せたか?小さな靴下が助手席の下に落ちていた。あの座席に座っていた事を考えるだけで──」


─『吐き気がする!』


「吐き気がする!」


その紙を投げ棄てると男の頬を殴った。


「まま、待ってくれ!わ、悪い事をしたと思っている!後悔してる!」


口の端は切れ、涎や血やらが混じったなんだか不潔な液体が口から垂れている。


─見るに耐えない。


「幼い子供に性的魅力を感じる者は少なくない。しかし、大抵の奴等は踏みとどまる。一線を越えたな?お前の小児性愛は治まらない。泣いて詫びても子供の心は治らない!」と水槽を蹴る。


「す、すまない!許してくれ!チャンスをくれ!」


─『お前は嘘をついた』


「何のチャンスだ、ふざけるな!お前は嘘をついた。悪さを隠そうとした!」


─『何度言えばわかる?お前は悪い人間だ。悪い人間には罰を与えなければならない』


「お前は悪い人間だ!悪い奴には罰を!」


「ば、ば、ばつ!」


男の顔色は一気に蒼冷める。

額からは汗が吹き出てやはり気持ちが悪い。


「悪い事をしたら罰を受けるんだ!悪い事をしたら罰を受けるんだ!」


絢也は男の頭を乱暴に水槽へ突っ込んだ。

顔を上げようともがく頭をさらに水へ押し込むと肩まで浸かった。

飛び散る水飛沫。

四肢を椅子に縛られたままなので上手く顔が上げられないようだ。


さっきまでの憤りはどこかへ行ったように、今は何も感じていなかった。

これ以上続けると死んでしまうだろう、とそれだけは確かに考えた。


「嘘をつくな。何度言えば分かる?お前は悪い人間だ。罰を与えなければならない。それでも馬鹿は治らない」


絢也はブツブツ言いながら頭を押さえ続ける。

指をコツコツと当てる。


「役立たずめ!馬鹿なやつだ!」


そのうち男は動かなくなった。


「お前は悪い人間だ。お前は──悪い人間なんだ」


手を離しても男は顔を上げず、水槽に顔を突っ込んだまま動かない。

頭だけが、張られた水の動きに乗じてユラユラ浮かんでいた。


暫くそのままその姿を見ていたが、そのまま帰るわけにもいかないので、男を水から上げてやった。






──────────





現在、午後5時28分。

衿久はマーズのお決まりの席にいる。

外はむせかえるような暑さだ。

しかし、年期の入った冷房が身体の芯まで冷やしてくれるので、あと数分いれば凍え死んでしまうだろう。


岡坂初枝の依頼を受けてから、もうすぐで1ヶ月。

夫である岡坂守秋の動向をチェックしても何の変化もなかった。


勤務時間が終わると家とは逆方向の電車に乗り、知らない場所で地図を片手に散歩をする。


ただ、それだけ。


もう少し調査を続けるべきだが、この先この男を追ったとしても結果は同じだろう。


しかし、1つ気になった事があったので勝手にその方向で調査を続けてみたら、これが当たった。


以前に岡坂初枝から、5時には電話に出られると言われていたので、その時刻に連絡をした。


「浮気の証拠を掴みました」と言うと、今すぐ行くと言っていたので到着を待っている最中だ。



5時30分を少し過ぎたところでやってきた。

岡坂初枝は「お待たせしました」と言いながら息を弾ませる。

そして乱れた髪を気にしながら少し落ちた化粧を気にせずニコニコしている。

今から浮気調査の現状を伝えるのに穏やかなものだ。


「お時間、大丈夫でしたか?忙しかったのではないですか?」


「いいえ。大丈夫です」とスカートの裾を直す。


「─そう。それではさっそく」と資料を机の上に出しただけなのに、岡坂初枝は前のめりになった。


「結果から言えば、あなたの旦那、岡坂守秋氏は浮気をしていない」


「へ?」と何とも情けない表情でこちらを見る。


「そう。驚かれるでしょうね。しかし、事実です。この1ヶ月近く、毎日張っていましたが浮気の可能性はゼロです」


「では、なぜ帰りが?」


信じられないという風にこちらを見つめる。


「私が思うに、何か──いや、誰か──かもしれないが、とにかく捜しものをされているようです」


「捜しもの?」


「そうです。あなたの旦那は細かい性格のようだ。1つの駅を下りては、その地域の地図を片手に何かを探している。しらみ潰しにね」


あの時見た地図には、赤色で塗り潰されていた所とそうでない所があった。

恐らく訪れた場所を塗っていたのだろう。


「何を探しているのでしょうか?」


「そんな事知りませんよ。私への依頼内容は浮気調査ですから。探しものの方が気になるなら、別料金を頂きます」


「浮気調査の費用プラス?浮気していなかったのに?あなたはお電話では浮気の証拠を掴みました、と──」


「掴みましたよ。どうぞ読んでみて」と机の上の資料を指差す。


それに目を通す岡坂初枝の顔色は、資料を捲るにつれて青ざめて行く。


「こ、これは──」


「えぇ。岡坂守秋氏の浮気の証拠ではなく、あなたの浮気の証拠です」


岡坂初枝の手が止まり、微かに震えている。

そのページに写るのは若者と手を繋ぎ、怪しげなホテルから出てくる様子を撮ったものだ。

磁石のように、嬉しそうに男に寄り添っている。


「私は─何も知りません」と往生際の悪い所を見せてきたので、早くかたをつけてやろうと一気に捲し立てる。


「初めての相談の時に違和感を覚えた。旦那の稼ぎだけで、特別に高収入という訳でもない。それなのに、随分と派手に着飾っているし、鼻が曲がりそうな程につけた香水は高級ブランドの物だ。しかし、どれも流行遅れの物。そのバッグは5年程前に流行った物だろう。今では毎年型が新しくなり、あなたが持っているそれは初代の型でもなんでもないから値打ちは、まぁあって1万円だろう。香水の下から漂う香りは考えた方がいい。長い間、箪笥で眠っていたものを引っ張りだしてきたから樟脳の匂いが消せていない。通りすぎる人間があなたを振り返るのも頷けるほどの匂いだ。ホテルに入る前と後の髪の乱れ方や歩き方も違う」


「これは私じゃありません」


衿久は岡坂初枝の手から資料を取り返すと、あるページを見開いた。


「この写真、あとこの写真。──この写真も」


全て、ホテルに入る前の2人と出てきた時の2人を撮った物だ。


「全ての写真に映るあなたの指を見るんだ。─ホテルへ入る時と出てきた時の薬指だ。入る時は指輪はしているが、出る時は外している。私があなたと初めての会った時は指輪はしていた。しかし、今は──していない。情事の間は外しているのでしょう。それは、旦那への後悔の現れであってほしいものだ。──今はただ私の電話を受けて急いで来たから、つける事を忘れていた」


「ゆ、指輪は長い間していません─指が苦しくて」と左手の薬指を擦る。


衿久はその手を無理に引っ張った。


「嘘をつくのも大概にするんだ。あなたの指には指輪の型がくっきりとついている。長い間付けていたのだろう、ほんのり焼けている」


そう言って岡坂初枝の指をパッと離した。


「あなたはこの男と密会をする度に指輪を外し、旦那の前では貞淑な妻を演じていた。旦那に浮気の疑いをかけて離婚をし、慰謝料でもふんだくる気でいたのにお気の毒なことだ。旦那は完全にクロだと思っていたのが敗因だ。運よく離婚ができたとしても、その男にはもう相手にされないだろう。その男もあなたとはほんの火遊び程度の付き合いだ。しっかりと本命の女がいる。あなたも火遊び程度で終わらせていればこんな事にならずに済んだのかもしれないな」


そう言って1枚の写真を見せた。

岡坂初枝の浮気相手の男と、若い女性の仲睦まじい写真である。

楽しそうに手を繋ぎ、見つめあっている。

岡坂初枝は口をぽっかりと開けたまま、その写真を見つめていた。


「私じゃ──ない」


「往生際が悪いなぁ。どこからどう見てもあなただ。この写真と、あなたが自宅に入る時のこの写真。服も鞄も靴も髪型も。同じだろう?これでもシラをきるのか?」


「そうじゃない。彼が選んだのは─私じゃない?」


衿久は深く溜め息をついた。

なんなのだ、この女は。


「浮気はしていない?」


「そう。気配もない。そういう店にも行っていない」


「では─あの人の捜しものとは何なのでしょう?」


「だから、それは直接本人に聞いてくれ」


「私は─」


岡坂初枝は左手の薬指を擦った。


「もうあの人と暮らすのは嫌なのです。だって私には好きな人が─」


その言葉を聞いた衿久は岡坂初枝の前に手を翳した。


「その続きは聞きたくない。夫婦の問題だ。私が聞いても無意味だ。そっちでどうにかしてくれ。とりあえず、今回の調査料は─」と請求書を出した。







無事に請求額を手に入れた衿久は夫人を見送った後、事務所兼自宅へ戻った。


マーズがある商店街近くのスーパーの裏口。

その近くにある3階建ての商業ビルの最上階に『MPD』がある。

『ホーム堂』と名付けられたそのビルは、衿久が所有している。

祖父母の遺産で父が買ったものだが、いつの間にか名義は衿久になっていた。

父は今、実家で畑仕事をしながら呑気に暮らしている。


ホーム堂の1階にはネイルサロン、2階には美容室が入っているので女性の出入りがあり、昼近くまで眠っていると女性の声で目覚める事がしばしばある。

たまに客の子供が迷いこんでオフィスの扉を開けたりするのが迷惑だが、それ以外は特に文句はない。



商業ビルの一室とは言っても自宅も兼ねているので、人並みの暮らしができるように設備は整っている。


衿久は郵便物を机の上に放り投げるとシャツの1番上のボタンを外し、買ったばかりのソファに寝転んだ。


─あの女。自分が浮気をしておきながら旦那に濡れ衣を。


岡坂初枝の事を思い出して溜め息をつく。

結婚式の写真では岡坂守秋は幸せそうには見えなかった。

それなのに何故、結婚したのだろうと疑問に思う。

もともとそういう顔なのかもしれないが、なんとも言えない妙な感じがする。


─捜しもの、か。一体、何を捜している?


地図を片手に1人で健気に何を捜しているのだろうか。

あの様子では見付かるものも見付からない。


何か物を捜しているのであれば見つかる可能性は無くはないが、人を捜しているのであれば骨折り損だろう。

妻に裏切られ、捜しものも見付からない。


─踏んだり蹴ったりだな。


ソファに寝転んだまま緩慢な動きで机の上に置かれたリモコンを取り、テレビのスイッチを入れた。


夕方のこの時間を騒がせているニュースは異様な事件だった。


2週間程前に38歳男性の遺体が小学校近くの川で見付かった。

ここから電車で30分程の土地なので記憶が直ぐに甦ってくる。

その時は酔って転落したと考えられていたが、司法解剖の結果、川に転落した際の損傷は死後に出来たもので、別の場所で水死してから運ばれた可能性があるため他殺の面で捜査が進んでいるらしい。


亡くなった人物の写真がテレビに出ているが、半開きの目と薄い頭髪、そしてその体型に年齢以上の貫禄がある。


─臨時の小学校教師か。


この男の勤務先の小学校ではないようだが、関係性は調査をしているとキャスターは言っている。


─わざわざ、こんなオッサンを殺害するなんて、よっぽどの事があったのだろうな。






──────────





特に何も変化はない。


あの男の遺体は小学校近くの川に棄ててやった。

これで、保護者や教師はもちろん近所の住人も警戒心を強めるだろう。


絢也は満足げに煙草の煙を吐くと社用車のエンジンをかけた。


住宅リフォーム会社に勤めて13年。

19歳の時から働いている。

ということは、父親が死んで12年。

月日が経つのは早いものだ。


家族経営なのは構わないが、アットホームを売りにしているところが嫌だ。

家族や人の温もりなど求めていない。


もともと父親がこの会社に勤めていたのだが、訳あって絢也もそこへ就職させられた。

四六時中、父親と過ごさなければならないことに苛立ちはあったが、自分の稼ぎが欲しかったので取り合えず我慢した。


我慢は得意分野だ。


建築の知識はもちろん、肉体的な自信もあるわけではなかったのだが、同僚が丁寧に教えてくれたお蔭か然程苦労はしなかった。

そんな絢也も今はベテランの枠に入っている。


今日の仕事場は一軒家の防水調査が3件だった。

どれも1時間程度あれば終わるものだが、工事となると話しは別である。


午後5時30分。

会社へ戻り明日のスケジュールを確認していると、専務である社長夫人が声をかけてきた。


「絢也くん。ご苦労様」と給料袋を渡してくれた。


─あぁ、そうか。今日は給料日か。


「有難うございます」と受けとる。


「あのね、絢也くん。この会社もそろそろ給料を振り込みにしようと思うのよ」


「─前にも言ったけど、俺口座ないんだ」


「作れない?」


「─俺、そういうの無理だから」


「そうよね。昔から嫌いだもんね。あなた本当に大昔の人みたいよ」と言って笑う。


─嫌いな訳じゃない。


「じゃあ、俺、失礼します」と有無を言わせずその場を去った。


─嫌いな訳じゃない。作れないだけだ。


父親から譲り受けた車のエンジンをかけると煙草に火を点けた。

肺に煙を満たして、大きく吐く。




翌日の夕方に衝動は訪れた。



その日は土曜日だった。

浴室の防水工事を終え、その家の夫人に今後の注意点などを事務的に話をしていた時、リビングから何かが割れた音が聞こえてきた。


「子供が─食器を」と呟く。


様子を見に行かなくても良いのかと思っていると、今度は何かがぶつかる音がした。


「慌てて転んだのかしら」と視線をさ迷わせる。


食器を割って転んだとなれば今すぐ駆けつけなくて良いのだろうか。

扉1枚挟めばリビングである。

様子ぐらい見るのが当然だろう。

しかし、夫人は心配そうに背後を気にするだけで、その場を動こうとはしなかった。

その拍子に髪がひらりと靡いて、彼女の頬にうっすら痣があるのが見えた。


─頬に痣。


絢也は一旦車に戻り、鞄の中から小型の機械を取り出すと直ぐに家の中へと引き返した。


「奥さん。只今、わが社ではサービスとしてキッチンの水漏れも無償で点検をしています。時間も10分程度で終わります」


「水漏れなんてしてないし──」と戸惑う。


「シンクの下の様子を見てみるだけです。点検だけなので手間はありませんよ」


「─う、うん。でも」


そう言ってリビングの様子を気にかける。


「もし、何か不備があっても簡単な物なら無償で直します」


すると、突然リビングへの扉が開いた。


「いいじゃないか。見てもらえば」


そう言ったのは、この家の主だろう男。

背が高く細身の神経質そうな奴だった。


「さっさと済ませてくれよ」と吐き捨てるように言うと、リビングから出て階段を登って行った。


絢也は何も言わずに小さく頭を下げると、リビングへと踏み入れた。

そこには子供の姿は見当たらず、食卓の下に皿の破片だけが散らばっていた。


「散らかしてすみません。すぐに片付けますので」


「大丈夫です。作業はキッチンだけで済みますので。私が片付けましょうか?」


「いいえ。お気になさらないでください」


「お子さんは大丈夫ですか?」


「えぇ。人見知りなもので。奥の部屋に隠れているのです」


「そうですか」と言うとさっそく作業に取りかかった。


キッチンの水漏れの無償点検なんて大嘘だ。


以前、似たような環境の家庭へ訪問した時、自分に何が出来るのか考えた結果がこれだ。


夫人の見ていない隙にコンセントのカバーを外し、先程車へ戻った時に持ってきた小型の機械──盗聴器を仕込んだ。

そして、一応水漏れの点検を終わらせる。


「それでは、何かあれば会社に連絡をください」と事務的に全てを終わらせると車に乗り込んだ。


─頬に痣。


煙草に火を点ける。


─頬に痣。


車のエンジンをかけた。


─痣は頬だけじゃないはずだ。


無意識に指をコツコツと当てる。


「悪い奴は誰だ?」


そう小さく呟いて車を発進させた。





1週間程盗聴していた。

案の定、亭主は妻と8歳になる息子に暴力を振るっていたのだ。


姑息な男は隣近所に知られないよう、家庭円満を装い物音がしないように布団などの上で暴力を振るっていたようだ。


怒りが抑えきれなくなった絢也は男の行動を調べ、ある日の昼休憩中の男の後を追う。

コーヒーショップでサンドイッチとコーヒーを頼んだ男がショップ内の席に着いたので話しかけた。


「突然すみません。この間、防水工事を請け負った者ですが」


そう言うと「あぁ」と面倒臭そうな顔を見せてきたが構わず続ける。


「その後、何かお変わりはありませんか?」


このような時の顔の使い方の変貌ぶりには自分でも驚いてしまう。


「え?あぁ。大丈夫。キッチンも何にも変化はないそうだし」


「そうですか。それは、よかった。お願いがあるのですが、店が混んでいて席が無いので、少しだけ相席しても宜しいですか?私は次の現場に行かなければならないので5分くらいでいいのですが」


迷惑そうな顔を見せてきたが「5分だけ」と念を押すと一つ頷いて新聞を読み始めた。


「有難うございます」と言って相手のカップを動かす。


「いや、自分でやるから」と言ってきたので手を引っ込めた。


絢也は自分で購入したサンドイッチとコーヒーを宣言通り5分で胃に収めた。






そして今、あの廃墟で男の寝顔を眺めている。


外は陽射しが痛い。

しかし、この荒れた建物はひんやりとしている。


この後、自分の身に起こることなど予想すらしていない無防備な寝顔に吐き気がする。

男の顔へ水槽に溜まる水をかけると静かに目を覚ました。


「おはよう。暴力亭主」


絢也は男の懐から抜いた財布を水槽へ落とした。


意識が朦朧としているのか「お前──」と呟くと緩慢な動きで辺りを見回す。


「よく眠れたか?──いや仕事なんてしていないから一日中眠りっぱなしか?レシートを見ていたんだが、随分と切り詰めた生活をしていたんだなぁ。週に1度の安い珈琲があんたにとって贅沢なんだな」


「お前、なぜそれを?」と舌打ちをする。


「少しは警戒心を持った方がいい。次の現場に行かなければならないと言ってるくらいなら、車で食えば良いではないか、と返されると思ったのだけどね。いくら満席でも車があるなら相席はない」


「何のためだ?」


「お前をここに縛り付けるためさ。あの時──お前のコーヒーカップを動かした時、薬を仕込ませてもらった。店から出るや否や足をふらつかせたお前を補助したが既に眠っていた。肩を組んで車まで運んだのさ。昼時の街は自分の事に必死になった奴ばかりで俺たちの事など見向きもしなかったぞ」


「俺をどうするつもりだ?」


「立派なスーツを着て、いつまで家族を騙し続ける?時間の問題だぞ。お前は自分のミスで左遷になったのに、その腹いせで家族に暴力を振るっている腐れた人間だ。あんた、職場では良い人ぶっているようだな。『良い人ですね』とか当たり障りない評判だった。それ以上の褒め言葉は聞けなかったよ。何十年も働いてその言葉だけだ。よほど『良い人』なんだなぁ。その外面の反動で家族に当たっていたわけだ」


「悪を成敗ってか?お前は正義の味方気取りか?汚い服を着て威張ってんじゃねぇよ」


「お前の人生よりは綺麗だ」と両手を広げて見せる。


「格好いい事を言っているつもりか?くだらない事を言ってないで外せ!殴り殺してやる!」


そう言いながらも声が震えている。


「そんな事を言ってないで自分の身を案じたらどうだ?」


そう言ってナイフを出した。

相手の縄を切るためではない。


その冷たい切っ先を喉元に当てると男はヒッと息を飲んだ。

少しだけ力を入れると皮膚が切れて微量の血が滲んできた。


「悪い奴には罰を与えなければならない」


もっと力を加えると、もっと血が滲んでくる。


「よ、よせ!やめてくれ」と声を震わせる男の頬に刃を当て肉を切る。


相手の興奮した目をじっと見ていると、なんだか恐ろしい気持ちになったので、ナイフを引っ込めて後退りをした。

腹の底を力強く握られているような気持ち悪さが込み上げてくる。

目の前がチカチカして景色がぐるぐると回る。


「すまなかった!も、もうしない!あいつらに暴力は振るわないし、仕事もみつける!お前を馬鹿にしないから!縄を切ってくれ」


頬と喉元から血が流れている。

汗をかいた額に貼りついた髪が情けなさを際立たせている。


─『嘘をつくな。お前の事は全てお見通しだ』


頭の中で汚ならしい声が響く。


「─嘘をつくな」


指をコツコツと当てる。


「もうしないから!約束するから!」と情けなく声を震わせる。


─『反省するまで、飯は抜きだ!』


絢也はその言葉で我を取り戻した。


「そんな約束、俺にじゃなくて家族にしろ」


そう叫んで太股にナイフを当て、そのまま横へスライドさせると、服が裂けて身を切った。

男は悲痛の声を上げて痛がる。


「情けない!」


もう一方の足も同じようにナイフを立てて身を裂いた。


「や、やめてくれ!解放してくれ!あいつらに頭を下げる!お前の事も誰にも言わない!約束する!な?だから!許してくれ!」と泣き叫ぶ。


「お前を許さない。お前は誰にも謝れない」


そう言って胸の辺りをナイフで切ると、男は情けない声を上げて涙を流した。


「勘弁してくれ!こ、殺さないでくれ!」


「ぺちゃくちゃと五月蝿い男だ」


絢也がナイフを喉へひと振りすると、男は声も出さずに目を見開いて次の瞬間には力なく頭を垂らした。

服に広がる鮮血が小綺麗なスーツを染めてゆく。



幼い頃、テーブルにお茶を溢してクロスに染みを付けた事を思い出した。

自分に与えられた口にできる数少ない飲食物。

黄ばんだクロスがさらに茶色く染まってゆく。

徐々に侵されてゆく。


『茶もまともに飲めねぇのか!』


その後、父に気を失う程殴られた。

何度も怒鳴られ、殴られた。




気が付けば自分自身の服も紅く染まっていたので慌ててそれを脱いだ。


「や、やめろ!やめろ!やめろ!汚い!汚い!」


こんな穢らわしい男の体液が付くなんて耐えられない。

服を脱ぎ捨てた絢也は嘔吐した。


─穢らわしい。穢らわしい。


息を切らしながら男を睨む。

もう絶命していた。


それは、一瞬の出来事だった。





──────────





ドアのノックの音で衿久は不快に目覚めた。


自分で目覚ましを設定して目覚めるのは構わないが、誰かに起こされる事は大嫌いだ。

適当な時間に眠り、起きる。

それに勝るものはない。


下の階にある美容室かネイルサロンの客の子供が悪戯でもしているのだろう。


─最近の子供は躾がなってない。


昨日は、何処かの金持ち息子が初めて一人でおつかいをするので、心配だから後をつけてほしいという依頼に振り回された。


どうやら学校の課題の1つらしいが、その息子はそんな事は頭の端にすら無かったようで、ゲームセンターで遊んだり雑貨屋で不必要なものを買い漁っていた。

そして、自分では持ちきれない量を購入した事に気がついた息子は結局親を呼んだ。

馬鹿馬鹿しいにもほどがあったし探偵を何だと思っているのかと呆れたが、報酬が並みではなかったので結果、引き受けてよかった。


─終わりがよければ大満足。


叩かれ続ける扉を無視してベッドから立ち上がる。


昼の12時である。


─丁度良かった。飯でも食いに行こう。


ドアのノックが落ち着いたら出掛けようと思い、顔を洗ったり歯を磨いていたのだが、なかなか止まない。

よく見れば磨りガラスに人影がある。

子供ではありえないような背の高さである事にようやく気が付く。


目覚めてから10分は経っているのに、叩き続ける気力に感心する。

中に誰かが居ることを知っているからできることだろう。


─それほど緊急なのか?


開けない事には昼食にも出られないし、無視し続けても鳴り止まないと踏んだ衿久は仕方なく扉を開けた。


「はい」と言いながらどんな奴か見る。


相手の男を見て「あ──」と声を漏らす。


「こうやって声を聞くのはお互い初めてですね」と言った岡坂守秋は軽く頭を下げた。


「つけていたのがバレていましたか?そうなると探偵失格だなぁ」


「いいえ。そういう事ではないのですが、今日はご相談したい事がありまして──。お休みでしたか?」


「十分な休みはとりました。どうぞ、お入りください」


テレビに背を向けるようにして置いてあるソファーをすすめ、冷えた水をコップに注いでそれを出した。

自分はその正面のソファーに腰を下ろす。


「何だか不思議な感じだなぁ」と苦笑いを溢す。


岡坂守秋は「まったくです」と言って頷く。


怒っているのではないようだが、顔の表情が変わらない。


「ところで何故、ここが分かったのです?」


「妻にマーズという喫茶店の事を聞きました。そこに出入りする同年代の男の人をつければ事務所が分かるんじゃないかと言っていました」


「なるほど。私もつけられていたのか。気が付かないものだなあ。気を付けないと」


「申し訳ありません」


「いいえ。私も勉強になりました。─あぁ、そうだ。自己紹介くらいはしておかないとね。私、峯武衿久と申します」


「ご存知かと思いますが、岡坂守秋と申します」


お互い軽く頭を下げる。


「──それで、どのようなご要件で?」


岡坂守秋は衿久をじっと見てからふっと目を反らせた。


「妻が──あなたに依頼して私をつけていた事は3日程前に知らされました」


「あぁ、そう。調査報告をしたのは1週間も前ですがね」


「正確には2週間と2日です」


そんなに細かくよく覚えているものだと感心する。


─いや、自分の記憶が適当なだけなのか。


「それで何か?私の調査にご不満が?それとも調査料金?」


「いいえ、そうじゃないです。調査内容には問題はありませんし、料金も納得しています」


「あなたからそれを聞くのも何だか変な気がするなぁ」


「妻──あの女とは離婚しました。あなたに言われた事が正しいと、言っていました。私と別れたいがために、怪しい動きをしている私を探偵につけさせたのだと」


「3日前に言われて直ぐに離婚だなんて。あなたは良かったのですか?」


「彼女は離婚届に署名までして準備万端であなたの話をしてきました。あの状態では止める事もできないし、もぅ、どうでも良かった。疑われてそれを餌に離婚話を持ってくるなんて考えてもみなかったけど。そんな事をされてまで夫婦生活を続ける意味が分からないので」


「あなたは潔白だった。彼女は墓穴を掘ったわけだ。しかし──その調査で私には一つ気になる事ができた。今日でその気になる事は解決されると考えても宜しいですか?」


岡坂守秋は小さく頷くと「察しが良いですね」と笑った。


「ここは探偵事務所で、私は探偵です」


「お聞きしたいのです──どの辺りで私を付けていましたか?」


「O駅からH駅の間。4駅で」


つけていた場所は大学から見て全て岡坂家から逆の方向にある。

何かを探し歩いている岡坂守秋の背中が脳裏に浮かんできた。


「それ以外で私を見掛けたりしませんでしたか?」


「それ以外?──うぅん」


仕事から離れている時は意識をしていなければ見付ける事はない。

簡単に言えば、プライベートに仕事を持ち込まない主義なのだ。

自宅を事務所と併用しておきながら言う事ではないかもしれないが。


しかし。


「あぁ。──そうだ。見た。あなたは勤務中の時間なので他人のそら似だと思っていたけど。S駅。ほら、駅前にコンビニあるでしょ?あそこの駐車場で。車に乗っていたから似ているだけだと思った」


煙草を吸っていたし、車に建築関係のロゴが貼られていたので余計にそう思ったのだ。

色も少し焼けていたし、窶れていたようにも見えた。

とにかく、目の前に座る岡坂守秋よりも疲れはてていたのだ。


「それとも、あれはあなたご本人だったのかな?」


「いいえ。違います。私はS駅なんて降りた事がありません。恐らくあなたが見たのは──」


岡坂守秋はそう言いながら胸ポケットから1枚の写真を出して机の上を滑らせこちらに見せてきた。


「冗談がつまらない。これはあなたの写真だ」


うだつの上がらない表情の岡坂守秋が写っている。


何かの飲み会なのだろうが、全く楽しそうではない。

目の前の酒と彼の周りの人が減った後の写真である。

気を効かせたのか、その場の悪ふざけか誰かが岡坂守秋を撮ったのだ。


「そうです。これは、私の写真です。あなたが見たのは私とよく似た人物」


そう言って違う写真を見せてきた。


古ぼけた1枚の写真。

やっと座れるようになったくらいの瓜二つの幼児2人が写っていた。


「あぁ、あなたは双子ですか」


「はい。そのようです」


「その口調からして──それを知ったのは最近?」


「4年前です。親に結婚の報告をしに実家へ行った時です。式に流すVTR用に写真を探していたらそれが出てきて、これは誰か問い詰めたのです。すると、この写真を撮って直ぐくらいに誘拐された双子の弟だと教えてくれました。私たち2人を乳母車に乗せて両親が少し目を離した瞬間だったそうです。前後に並んでいた前の方に座る弟が──一瞬の隙に」



名前は絢也というそうだ。

スーパーで買い物をしていた時。

夫婦で品定めをしている隙に連れ去られた。

取り乱す両親の動揺を感じ取った守秋はただ泣き叫んだ。

犯人を見ていたはずだが、それを伝える術もなく意味も分からなかった。


母はきつく守秋を抱き締めた。

息も出来ないくらいにしっかりと。


誘拐事件で生きて戻ってくる可能性のタイムリミットは3日だそうだ。

もちろん警察に通報したが、時間が経つにつれて疑いの目は両親に向けられた。


ストレスの矛先が1人の子供に向けられた。というのが下世話な輩の出した答えだった。


周囲からのその異様な視線に耐えられず、泣く泣く遠くに引っ越しをした。


そして守秋の中で弟はその存在を無くしていった。





「なるほど。それは、とても辛い経験だったのでしょうね」


「その弟を探してほしいのです。それが、本日ここへ来た理由です。捜索をお願いしたい。両親に会わせてやりたいと思っていたのですが間に合わなかった。──父は去年の春に亡くなり、後を追うようにして母が亡くなりました」


岡坂守秋は初めて厳しい表情を見せた。


「いや──でも」


─無理だ。こんなに年月が経っている。生きているかさえも不明なのに。


「生きてます!」と声を張る岡坂守秋に少し圧倒された。


「わ、私は見ました!自分にそっくりな人物を!」


「しかしねぇ。──元々住まれていたのは何処です?」


「山口県だそうです。全く記憶にはないのですが」


「それで、どちらに越されたのです?」


「新潟県。──大学の時に私は千葉へ移り、今に至ります」


「元々住まれていた山口県からだとここは離れすぎている。似ているだけだと思わなかったのですか?」


岡坂守秋は悔しそうに俯いた。


「─弟だと思ったんだ。本当に。あの時──あの姿を偶然見つけた時、言葉では言い表せない何かが、髪の先から爪先を駆け巡った。電気が走ったように痺れたのです。一瞬だったけど間違いないです」


─双子特有の感覚。なのかもしれない。


「あなたは、その姿を追って見掛けた駅の周辺を探していたのですね」


知らぬうちに近所に住んでいたかもしれないだなんて、奇跡的な話である。


仕事帰りに無関係な駅をしらみ潰しに調べていたくらいだ。


岡坂守秋は必死なのだ。


いつもなら依頼を受けたとしてもその後の展開を聞くことはないが、何故かこの件に関しては違った。

衿久の中にある何か不思議な感情が岡坂守秋に寄り添おうとしていた。


「探しだしてどうするのです?いきなり目の前に現れるわけにはいかんでしょう?」


「──知りたい。弟がどんな風に生きてきたのか、心に傷を負っていないか。近付けるような近況でなかったら、触れずにいるつもりです。いきなり自分には双子の兄がいるなんて言われても困るかもしれないし」


「なるほど。とりあえず、彼がどんな生活を送っているのかを知りたいのですね?」


「えぇ。その後の事は結果次第です」


衿久は目の前に並べられた2枚の写真を手に取り、岡坂守秋と見比べた。


「分かりました。お調べいたします」


岡坂守秋は安心したように笑った。

4年前まではこの笑顔を頻繁に見せていたのかもしれない。

誘拐犯は多くの笑顔を奪い去ったわけだ。





その日はそれで別れた。

衿久は今までの記憶を掘り返す。

弟かもしれない人物をみかけたS駅での目撃以外であの顔を見た場所を考えてみたが、なかなか浮かんでこない。


─あぁ。そう言えば、岡坂守秋の元妻が言っていたな。「職場とは無関係の場所で見掛けることがある」と。それは、岡坂守秋が捜索していた場所とはまた違う場所だったはずだ。それはもしかすると弟のことなのか?


手軽に昼食を済ませてから、岡坂守秋が利用しているK線ではなく、元妻が言っていたN線にある3駅を捜索してみることにした。

目的の駅まで電車に揺られる。


その間にも岡坂守秋の弟かもしれない人物が乗っていた車のステッカーを思い出す。

残像としてしか記憶にないが、建築関係だったので、恐らく『○○建築』とか『△△工務店』とかだろう。


一瞬、紫色のイメージで文字が浮かんできた。


─あぁ。『工務店』だ。でも肝心なのはその前だな。何工務店だっけ?


余計な情報を遮断しようと瞼を閉じたが、無駄だったのでタブレットを出して『S駅』『工務店』というキーワードで検索をかけてみた。

一つの駅だというのに30件ほど出てきた。

それを1件ずつ確かめるが、見覚えのあるものはなかった。


─S駅に居たのは現場がそこだったからか。


今度は範囲を広げ、県全域で検索をかける。

大きな施工会社なら、県一帯を担っていてもおかしくはない。


しかし、岡坂元夫妻の証言ではこの付近一帯での目撃だった。


─それに、県で検索してもその先が大変だ。やはり、この区域で絞るか。


時間がかかるだろうなぁと思っていたのだが、とりあえず元妻が言っていた駅名と工務店をクロス検索にかけてみることにした。

今から下りようと思っているG駅から先にかけて驚いた。


─おぅ。これは。


なんと2つ目の候補に上げられた工務店名に見覚えがあるのだ。


─これだ。ビンゴ!村崎工務店!村崎だから紫色。覚えやすいはずなのに。


さっそくG駅で下車すると村崎工務店を目指して歩く。

駅から徒歩15分。

近くも無ければ遠くもない。

車がやっとすれ違えるくらいの道の両端は住宅地である。

町の住人しか寄らないであろうケーキ屋、居酒屋、酒屋がある他に店はない。


村崎工務店はいきなり現れた。

一階は駐車場になっているが、現在車は全て出払っているようだ。

看板には『外壁塗装、白蟻駆除防除、防水工事。請け負います。地元密着!大切なお住まいで困った時はムラサキ!まずは無料お見積もり!』とある。


─なるほど。村崎工務店の子会社なのか。このムラサキは施工会社なんだ。


近くに喫茶店があればいいのだがベンチすらない。

役立ちそうな場所はムラサキが所有している小さなガレージと、その隣にあるコインパーキング。

どちらも道路を挟んだ反対側にあるが、休憩をしながら対象人物を待つのは難しいと考え、その日は出直すことにした。





翌日、再びそこを訪ねると1階のガレージとパーキング横のガレージに『ムラサキ』と書かれた車が1台ずつ停まっていた。


衿久はナンバープレイトが事務所から見えないように側面を見せるようにしてコインパーキングに駐車させる。


衿久が所有している年代物のミニだと目立ちすぎるので、周囲に紛れるようにわざわざ流行りの車をレンタルしたのだ。

ナンバープレイトが見えないようにしたのも、レンタカーだとバレてしまわないようにと念のためだ。

窓を開けて小さな扇風機を廻して風の流れを作ると、左右にあえて取り付けたカーテンをひき、監視を開始する。

飲み物も大量に購入しておいた。

こうでもしないと暑さでやられてしまうのだ。



基本的には暇である。


外の音に気を配りながら暇潰しに持ってきた今朝の新聞を広げる。


もはや珍しくはなくなってしまった政治家の汚職事件、小学2年生の女子が発明したキッチングッズが市の賞を受賞した件、お年寄りが集結して舞台に立った件などがあったが、その中でも一面を取ったのはこの近辺で起きた事件だった。


会社員の男性が喉を切り裂かれ、両足や胸にもナイフでできた傷があったらしい。

その遺体は市の教育委員会の前にある電信柱に括り付けられていたという。

通報を受けた警察が現場に到着すると、遺体は濡れていた。

その身体から検出された水質と、前回の川へ遺棄されていた遺体から検出された水質が一致したので、この事件の犯人は同一人物だと判断されたらしい。


─恐ろしいな。


しかし、被害者の共通点は今のところ皆無だそうだ。

殺害方法も違うし出身地も趣味も仕事も合うところはない。

顔も体つきも全く正反対。


そこで『ムラサキ』から誰かが出てきた。

どうやら現場へ向かうようだが、岡坂守秋とは似ていないので早早と顔を新聞に戻す。


─教育現場に不満があるのだろうか?


前回は小学校近くの川、今回は教育委員会の前の電信柱。

何か訴えかけたい事でもあるのだろうか?

ただただ子供達が怖がる顔を見たいとか?


インタビュー記事を見ても被害者の悪評は聞こえてこない。


表があれば裏はあるものだから、被害者の評判が全てというわけではないだろう。


何か必ずある。

立派な成人男性を襲うには大きなリスクと力がいるだろう。

ましてや2人となるとそれが倍となる。

そのようなリスクを冒してまで殺らなければいけない理由は何だ?


─外には危険がいっぱいだという事を報せるためか?警鐘を鳴らしているのだろうか?


『ムラサキ』と書かれた車が1階の駐車場へと入って行くのが見えたので、運転手の顔を確認するが女性だった。

その女性が下車すると同時にもう1台車が駐車された。

降りてきたのは何と岡坂守秋だった。


─あぁ。あの男か。うん。やはりよく似ている。


女性は愛想よく話しかけるが、男性の方は下を見ながら無愛想に頷くだけだったのを見て、あまりコミュニケーションが得意ではないのかもしれないと思った。


衿久は2人が事務所に戻った事を確認してから車を降りると、岡坂守秋によく似た人物が乗っていた車に近付いた。


─ビンゴだ。


工事現場などで使用する車には、その車が通行などの妨げになった場合、車両をすぐに退けられるように担当者の名前と電話番号が記されたボードがあるのだ。


衿久はその名前を見て少し驚いた。


─古谷絢也、か。名前はそのままなんだ。一体どんな人生を歩んできた?


そして、ボードの写真をカメラに記憶させてその場を去った。




──────────




世間ではあの男が話題になっている。

絢也の勤める会社でもその話題で持ちきりだ。

女子社員は仕事もせずに空想話で勝手な犯人像を造り上げて言い触らす。

被害者に同情している口振りである。


─馬鹿馬鹿しい。


絢也はこの会話に胸糞が悪くなったので、午前中に行った調査の報告書を手っ取り早く仕上げると、午後の予定にある調査へ向かった。


あの男は表では立派な旦那を演じていたが、裏ではろくでもない腐った奴だった。

学校ではその事実を知らなかったようなので、遺体は教育委員会の前に縛り付けてやった。

警告してやったのだ。


これからあの男の正体が露になっていく。

女房子供はあの男の呪縛から解放され、新しい道を行くのだろう。


しかし、絢也にとってあの一家の事はもうどうでも良かった。

自分にとっての嫌なものを排除したというだけで、それ以上は何もない。


絢也は紫煙を吐き、自分が歩めなかった道を夢に見ながら微笑んだ。


別に正義の味方を気取っているわけではないし、誰かを助けるためでもない。

単純にあの男たちに嫌悪感と憎しみを抱くと苦しくなり、自分が壊れてしまいそうだったのだ。

あんな奴らが存在しているだけで耐えられない。

自分の世界に入って来られると耐えられないのだ。

自分を保つためには避けられなかった。




外は曇っている。

どんよりした重い雲が絢也の影を喰った。


ここ数日は暑い日が続いたが、今日は風も吹いて過ごしやすい。

なぜか絢也はこの曇り空が好きだった。

あのどんよりとした雲から救いの手が伸びてくるのを待っていた。

晴れた日ではいけない。

日が射していれば全てが明るみに出てしまう。

だから、暗い空の元でひっそりと助け出してくれなければいけない。

空を多い尽くす黒い雲は絢也にとって希望だった。


汚い奴らを排除した今、この空は格別に美しく感じられる。


この黒々とした空は身体。

流れの早い雲は脈打つ血液。

遠くで光る稲妻は衝動。


─あぁ。そうか。


絢也は思い出した。


─あの日も。こんな空だった。




12年前。

父親を殴り殺した日と同じ空。


不思議と何にも感じる事がなかった。

嬉しい、解放されたとか思わなかった。

罪悪感もなければ後悔もしなかった。


前々から実行したいとは思っていたのだが、この時は顔の回りを飛び交う虫が邪魔になったので殺したという感覚に近かった。


周囲には父は行方不明だと言ったままだが、未だにそれを信じている。

『息子である絢也は就職し仲間にも恵まれた。一人前だ。親の手を離れてもおかしくはない』と思って出て行ったのだろうと話をしているが、現実は全く違う。


周囲はいつも現実とはかけ離れた妄想を膨らませて自分自身を納得させる。


そもそも、あんな男は父親ではない。

血など繋がっていないし、戸籍上も親子ではない。



ただの同居人である。



あの男は怒りの捌け口や遊び道工にするためだけに、生後間もない絢也を本物の親から奪ったのだ。







昼間からどんよりとした曇り空だったあの日──日の沈んだ冬の日。

その日もあの男は絢也をレイプした。


2人で施工現場から社用車で帰っている最中だった。

会社から少し離れた現場だったので、帰社時間が遅くなりそうだと言ったあの男は山道を使って早道をした。


暗く灯りが一切無い山道。

さっきから車と擦れ違う事はない。


「おい、絢也。さっきの現場の子供、覚えてるか?」


ハンドルを握る男は普通の会話をするように、普通の口調でそう言った。


「あんまり」


絢也は窓に映る男を見た。

じっと前を見ている。


「姉の方じゃない。弟の方だ」


そう言った男の口元がつり上がったのを見て背筋が凍った。


─まずい。


そう思ったが絢也には逃げる術はなかった。

男は車を木々の間に停めると運転席から下り、助手席の扉を開けた。

「下りろ」と言ったが、なかなか下りない絢也の腕を乱暴に掴むと引き摺り下ろした。


ここで反発して置いてきぼりになるのは嫌なので、素直に従うしかなかった。


ヘッドライトに照らされた男は下半身を露にし、絢也を木に押し付けた。

そして、背後に密着すると気持ち悪い吐息に混じって笑いながら耳元でこう言った。


「お前の兄貴はこんな姿の弟を見て何て言うかな?」


自分に双子の兄がいる事は男から聞いていた。

本当の名前も、住んでいた場所も。


幸せそうな家族だったそうだ。

両親はまだ言葉も話せない兄弟に嬉しそうに話しかけながら買い物をしていたらしい。

その会話の中で絢也が弟であることを知ったのだ。


何故、絢也を連れ去ったのかというと、近かったから。

ただ、それだけである。

服に『絢也』と書いてあるので、名前もそのまま呼び続けた。

このような男に本当の名前を呼ばれることはとても屈辱的だった。


あの男はあらゆる方法で絢也の全てを支配しようと、精神を詰っていたぶり、逃げようとする気力を奪い続けた。



家族の事はその存在だけ絢也の心にあった。


いつもいつも兄に変わりたいと願っていた。


怒られる度に玩具にされる度に。


何度も何度も願った。


「きっと良い女でも抱いて幸せに生きてんだろうな。お前とは大違いだな!」


─なんで、俺なんだ。


「ベビーカーに乗せられる位置が違うだけでこんなにも違う人生を歩むなんて残酷だな」


─なんで。


絢也は振り返って息を切らした男の顎を殴った。


気持ちの悪い音がして、歯が数本飛んでいった。

いきなりの抵抗に困惑の表情を見せる。


よろめいて転んだ男の下半身は露になっていて、なんとも情けなくて気持ちが悪い。

そんな腐った男に股がり、顎を踵で蹴ると嫌な音がした。

次は膝をついて拳で鼻や頬を殴ると生暖かい血が男の顔を覆った。


一瞬自分のした事の重大さに気が付き、立ち上がって男を見下ろす。


男は驚いた表情をするだけで何も言わず絢也の事を恐れている。


「なんで俺なんだ!」


絢也は再び男を蹴った。

何度も蹴っているうちに、浮かび上がるのは存在しか知らない兄の事だった。


双子なのだから顔は似ているのだろう。

名前はなんて言うのかな。

友達や彼女はいるのだろうか。

勉強はできるのかな。

趣味は何だろう。

どこに住んでるのかな。

どんな車に乗っているのだろうか。

お父さんとお母さんはどんな人なのかな?



弟の存在を知っているのだろうか?



自分は学校なんて行った事はないし、友達もいない。

ずっとずっと男の手中で生きてきた。


「お前は俺に何て事をしてくれたんだ!」


どのくらい蹴っていたのだろうか。

気が付いた時には男はピクリとも動かなかった。

様子を見てみると微かに呼吸をしているが、弱々しく今にも消えてしまいそうだ。

顔や身体は血や土で汚れ、腕は変な方向に曲がっている。


この穢らわしい男を隠そうと車から使えそうな物を探した。

生憎、工事用の鉄製のヘラしかない。

それでも無いよりはましだと無我夢中で砂を掘った。

土は柔らかく、1メートルほどの穴を30分程で掘る事が出来た。


嫌がる男を絢也は穴へ蹴り落とした。

変な格好で穴に嵌まった男はそれでも「怖い」とか「許してくれ」とか蚊のなくような声を発しながら嫌がっていた。

弱々しく情けない。

みっともない。


「俺が嫌がっているのにお前は止めなかった。ようやくその気持ちを味わえるじゃないか」


絢也はそう言って穴を埋めた。


その日は直帰する事を会社に伝え、家に帰ってシャワーを浴びた。

自分以外に誰も居ない家。

こんな安堵は初めてだった。

絢也は拳にできた痣を撫でる。


「痛いの痛いの─飛んで行け」



今回ばかりはこのおまじないは効きそうだ。と思うと急に力が抜けて死んだように眠った。




──────────





古谷絢也という男を3週間つけてみたが、毎日なんの代わり映えの無い生活を送っていた。

職場と家の往復である。

どこか買い物へ行く他に外出は一切しないし、勤務終了後に同僚と出掛けることも無い。

そもそも、誰かと居るところを見掛ける事がないのだ。


─生きているだけで奇跡なのかもしれない。


全く表情を変えない古谷絢也は何を考えているのか分からない。


家は小さな平屋である。

裏には川が流れ、ガレージと道路に挟まれた場所にポツリと建っている。


表札には古谷とだけかかれているので、他に誰が住んでいるかは分からないが、家には古谷絢也しか出入りしないので独り暮らしだと考える。

食材の買い出しの量を見る限りそれは間違いないだろう。


敷地内にクリーム色の古びた小さな車が1台ある。

錆や傷が目立つが全く手入れされていない。

しかし、古谷絢也はそんなことは気にもせずにこの車に乗っている。

一応ナンバーを控えた。


古谷絢也は近所の住人とも全くコミュニケーションをとっていないので、ある程度の聴き込みは可能であると踏み、ガレージの反対側にある家へ行ってみた。


出てきたのは食事時でもないのに割烹着を纏った目のつぶらな老人だった。


衿久は老人の顔の高さに身を屈めなければならなかった。


「お隣のガレージについてお聴きしたいのですが?」


老人は耳は良いようで、すんなりと返事をしてくれた。


「あのガレージはワシの所じゃないね」


「ということは、お隣の古谷さん?」


「いいや。違う。知らない家。ガレージ代で金取っとるんよ。働かんでええらしいね。他にもガレージあるらしいんよ。マンションとかもね。持っとるらしいんよ」と情報を色々とくれたので古谷絢也についての噂も聴けるかもしれない、と感じた。


「では、古谷さんに聞いても意味がないという事ですね?」


「そう。ないね。意味無いね。そもそも、あの人、話はしねぇしな。顔も暗れぇし。何を考えとるか分からんしね」


「変わった方なのですね」


「真面目な人間なんだろうがね。変わってるかもねぇ。あの家族は」


「家族?」


「そう。確かねぇ──ワシがあん時だから──15年かもうちょっと前かぐらいに、どっかから──あぁ、確か三堂から引っ越して来たって山邊の爺さんが言っとったな。母親はおらんかったから、父親と息子だけで住んでたね。それから暫くして、息子が父親の職場で働くようになったみたいね。一緒の作業着みたいなの着て、出てったり帰ってきたりしとったから」


「そうなのですか。では、今も2人で住まれてるのですか?」


「父親は見ないねぇ。もう、10年近いんじゃないかね」


「ご病気か何か?」


「どうも違うみたいでねぇ。お向かいの坪井さんが聞いてみたそうなんよ。お父様は具合でも悪いのですか?って。そしたら、息子はあの暗い顔で、出て行きました。気分屋だからいつ戻るか分からない。って答えたらしいね」


「ということは、今は息子さんがお一人で住まれてるのですか?」


「そうなるね。不思議な親子だね。会話してなかったんじゃないかねぇ。でも、いつも一緒だった。顔も全然似てないもの。大概さ似てなくても面差しとか体格とかさ、似てくるもんでしょ?父親と息子ならさ。母親の連れ子だったのかねぇ」


「2人は本当の親子ではないと?」


「うん。まぁ噂だけどね。近所は皆そう思ってるよ」


「母親の連れ子だったとしたら、血の繋がらない子供を引き取ったって事ですよね?父親は良い人物だったのですか?」


「それは頷けないね。きっと暴力親父だったよ。あの男は。怒鳴り声とか物音こそ聞こえてこなかったけど、息子の顔に痣がある時があったからね。近所の人がどうしたのか?って聞いたら職場で転んだって言ったらしいね。それ以来、顔に痣がある事はなかったけど、あの息子は常に長袖着てたから怪しいね」


「息子さんは父親に服従してる感じだった?」


「服従ねぇ。そうかもしれないね。恐れてるって云うより、静かに従うって印象だったね。元々そういう性格なのかもしれないけどねぇ。でもね、無口だし無愛想だけど悪い人間じゃないと思うね。挨拶はするし、花にも水をやってたしね。むしろ、おかしかったのは父親の方だ。目付きとか言葉の端々に異常なものがあったって皆言っとるよ。今思ったら息子は哀れだね。あんな父親じゃ可哀想だわ」


衿久は老人に御礼を述べてその場所を辞すると車へ戻った。


話したことはない。

古谷絢也のその身に起こった事であろう話しは、幼い頃から継続的に虐待されていた可能性があるということを表していた。


逃げられない、助けをもとめられない。


何のために誘拐したのだろう。

ただ、ストレス発散の矛先を求めるだけのために古谷絢也が誘拐されたのだとしたら───。


エンジンをかけて車を出してようやく自分の目が潤んでいる事に気が付く。


「古谷絢也。どんな人生を歩んできたんだ」


虐待されていたのかもしれない。

もう少し調べてからでないとはっきりとした事は言えないが。


とりあえず、三堂まで車を走らせた。

ここから15キロほどなのでそう遠くはない場所にある。

地名を耳にするぐらいで用がなければ行く事はないし気にする事もない。

誰もが通り過ぎる何もない場所であるが、衿久は用があって何度か行った事がある。


そこには古びたラブホテルがある。

外観からして年季は相当なものだろう。

そのホテルは絶好の不倫スポットらしく、そこへ出入りする対象者を写真に納めた事がある。


─あの近くに家なんかあったか?


30分程で到着した。

周辺を探ってみてもあの古びたラブホテルがあるだけで、人が住めそうな建物なんか見当たらない。



辺りを走ってみたが民家はない。

ラブホテルの従業員に聞いてみることにする。

ひび割れた外装、くすんだ外壁、上手に灯らない電飾。

反応の悪い自動ドアを抜けると、薄暗い廊下の横にカウンターがあり、年老いた男性が将棋の本を読みながら座っていた。


「すみません」


「1時間2000円、5時間5000円」とハッキリとした口調でこちらを見ずに言う。


「いや、そうじゃなくて」と言うと、老人は汚れた眼鏡の向こうからこちらを見た。


「なんだ、1人か?後から来るのか?」


「いや、だから。そうじゃなくて。お聞きしたいことがあるのです」


「なんだ?」


「この近辺に民家はありますか?」


年老いた従業員は髪の無い頭をかく。


「無いな。ここらは、なーんもない」と歯の抜けすぎた口を開けて笑った。


「では、過去にはありましたか?人が住めそうな建物とか」


「うーん」と首と上半身を器用に捻って奥の部屋を覗く。


「ばぁさん。ここらに昔、民家はあったか知ってるか?」


すると、その声に「知らねぇ」とだけ返事があった。

老人は「だとよ」と言いながら笑う。


「わしら15年位前からここに住んでるんだ。その時期からここらは何にも無かった」


「ここってのはこのホテルに住んでるのですか?」


「そう。その時期にこのホテルの管理人を募集しててね。応募したんだ。したら当たった。前の管理人なら何か知ってるかもしれねぇな」


「はぁ、なるほど」


「でも、その時期から空き地は雑草だらけだったから、やっぱ何もないのかもな」


「その、以前の管理人の方の連絡先はご存じですか?」


「いや、知らないね。防火設備とか非常口云々を引き継いでもらっただけで、半日も一緒におらせんだった。その家族もこのホテルに長い間住んでたんじゃないかな?」


「家族でラブホテルに住んでいた?子供も?」


「そう。子供にとってはあんまり良くない環境だろう?でもまぁ、20歳そこそこの若い男の子だったな。父親と2人で住んでたぞ」


「なんですって!?」


衿久の驚きに老人は驚いて少しの後ろに下がった。


「何だ、大声なんか出して」


「お、親子って──2人は似ていましたか?」


「顔までは覚えてないけどもなぁ──」


その声を引き継ぐように奥から老婆が出てきた。


「全然、似てなかったよ」


「に、似てなかった?」


「そう。私らにも息子が2人おるけど、長男はこの人に似とる。次男の幼い頃の顔は私に似てたけども、今はこの人だ。10代後半なんて、体格も似てた。髪質とか声とかどこかしらに共通するものはあるのに、あの親子は全く無かった」


「奥さんの連れ子ではなく?」


「あの人に奥さんが居たようには思えないね。離婚してあの環境じゃ子供が可哀想だし、亡くなったのなら写真があるだろうに」


「因みに、お名前は覚えていらっしゃいますか?」


「藤原だったかな?」と老人が言ったが老婆が直ぐ様訂正する。


「古谷だ」


─古谷。


一致してほしかったような、ほしくなかったような。

何だか複雑な気持ちだった。


「そう──ですか。ありがとうございます」


「どうした、兄ちゃん。寄ってかないのか?」と老人が言う。


「用は済みました。─ありがとうございます」


カウンター越しの2人は不思議そうに顔を見合わせながら衿久の後ろ姿を見送った。





時刻は夕方の6時を少し回った所だったので帰ることにした。


三堂は古谷絢也のルーツだった。

あの汚いラブホテルに住み、幼い子供は大人の世界を垣間見たのだろう。


─この事を岡坂守秋に報告するかはもう少し考える事にしよう。


部屋に戻り、本日の調査をまとめる。

岡坂守秋の浮気調査の写真を引っ張りだして古谷絢也の写真と並べた。


感情が揺さぶられる。

似た顔の2人。

同じ時間に同じ母から産まれたのに、こんなにも違う人生を歩まなければならなかった。


─古谷絢也は兄の存在を知っているのだろうか?そもそも、自分は誘拐されたと知っているのだろうか?


その時、ちらりと視線を外した先に岡坂守秋の妻の浮気写真が目に入ってきた。


─あぁ。確かあの女もあのホテルを利用してたな。


と報告書をペラペラ捲っていると、ある写真に目が止まった。


「え──」


それはホテルから出てくる岡坂初枝とその相手を撮った写真だったのだが、その背後に映る寂れた建物脇に停められた車に見覚えがあった。


─なんで、こんな所に。古谷絢也の車が?


その車の色と古びた感じはハッキリと記憶に残っている。

一応、故郷なのだから訪れても不思議はないが、なんだか鼓動が早くなる。

その写真は岡坂初枝がホテルに入る時と出る時の2枚あっが、その両方に写っていた。

時間にすれば1時間15分である。

もしかすると、もう少し前から停まっているのかもしれない。


─あの廃墟に行ってみよう。






─中へ─

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