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左団扇奇譚  作者: 音叉茶
第二章『濡れ女』
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三途の川

挿絵(By みてみん)


 主な登場人物


雨下石しずくいし 亜緒あお

 青い髪と瞳を持つ洋装の術士。

 勘当同然で家を出るときに御神体である鵺を持ち出す。


みぎわ 蘭丸らんまる

 夜を溶かしたような長髪に墨黒色の着流しを着た黒衣の美剣士。

 この世に五振り在る妖刀の一振り『電光石火でんこうせっか』の所有者。


ぬえ

 妖調伏の大家、雨下石家が祀る御神体。

 人と融合して霊格を堕としてしまった。

 亜緒は普段夢を見ない。


 見ることがあるとすれば他人の夢の中へ招待されたときか、予知夢の類が降りてくるときだけだ。


 しかし、今回はそのどちらでもなかった。


 紅い月が明るく照らす川原を亜緒は当ても無く歩いている。


 月なんて亜緒の住む世界には存在しないものだから、亜緒の認識は空に輝く大きな提灯のようなものといった曖昧さだ。


 ガス燈も無いのにまるで真昼のように明るい川原は、亜緒からすれば充分に不思議で刺激的な光景である。


 しかし、寂しい場所だ。


 風も無く匂いも無い。


 亜緒が存在する音だけが虚しく響くだけの無常の世界。


 川辺には枯れた水草らしきものが数える程度に水面から突き出ている。


 隣を流れる川は向こう岸が見えないくらいに幅広く、遠い。


 ――三途の川。


 誰に教わるでもなく、此処が此岸しがん彼岸ひがんの境目であることを亜緒は承知していた。


 生者の世界の果てに来るのは、今回で四度目だ。


 暫く歩くと水辺に一艘の小さな木舟が揺れているのを見つけた。かいは無い。


 舟には楚々とした女性が腰を下ろしている。


 亜緒は自分がどうしてこんな所まで来てしまったのか、漸く合点がいった。


 亜緒が近づいて行くと女性はおもむろに立ち上がって小さく頭を垂れる。


「僕を呼んだのは貴女ですか?」


「はい」女性は肯定してから顔を上げた。


 長い髪を三つ編みに結って眼鏡を掛けている。

 ワイシャツとスカートのシンプルな服装が清楚な、年の頃二十歳前後の女性。


「藤村 雪絵ゆきえと申します」


 亜緒は死人相手に名乗るつもりはない。一方的に呼びつけられて機嫌も悪かった。


「こんな処で何をしているんです? 早く向こう岸へ渡りなさい」


「ある人を待っております。いくら待ってもやって来ないのです」


 雪絵という女性は亜緒に写真を一枚差し出た。


 好青年と雪絵が仲睦まじく、時が止まったモノクロームの世界に収まっている。


 幸せを切り取ったような写真だ。


「藤村 草之介くさのすけ。私の夫です」


 聞かれてもいないのに写真の相手を紹介する。


「生きているとしたら、そろそろ寿命が尽きる頃合なのです」


「なるほど。彼を待っているのですね」


「はい。貴方には彼の様子を見てきて欲しくて、お呼び立てしてしまいました」


 失礼を詫びるように、女は今度は深く頭を下げた。


「しかし、この写真は随分昔の旦那さんの姿らしい。参考にはなりませんね」


 亜緒の声音は素っ気無い。


 此岸では時の流れに従い、その容姿も変わっているだろう。


 女が船から亜緒を呼ぶ。


「もっと、こちらへ寄ってくださいな」


 どうやら彼女は舟から降りることが出来ないようだ。


 舟へと近づいた亜緒に、雪絵が一方的な接吻をする。


「これが草之介の響きです」


 雪絵の頬が控えめに染まった。


 『響き』とは生きている人間が常に発している生態信号のようなもので、指紋や声紋のように一人一人の成り方が異なる。


 雪絵は亜緒に草之介の響きを口移しで伝えたのだった。





 突然、目が覚める。


 のそのそと起き上がり、寝間着から普段のシャレた洋装に着替える途中で雪絵という女から渡された写真を手に持っていることに気づく。


 写真を懐に仕舞ってから、亜緒は階段を下りて座敷の襖を開けた。


 座敷には現子と亜緒が立ち回った痕跡はもう無い。


 おかげで宗一郎から受け取った三百万は、家の修繕費と借金返済ですべて消えてしまった。


「亜緒、やっと起きた」


 鵺が「もうお昼になるよ」と不満そうに時刻を指し示す。


 一人での店番は退屈で鵺は何度も亜緒を起こそうとしたが、まるで死んだように眠っていて反応が無かったという。


「春眠暁を覚えずってやつで」


 おどけて見せるが、彼岸へ意識が飛んだ時の亜緒は何をやっても目覚めることはない。


「ところで蘭丸は?」


「仕事に行った」


 そういえば、小さな仕事が入っていたのを亜緒は思い出す。


 一人で充分だからと言う蘭丸に任せてしまったのだ。


「ただいま帰った」


 噂をすれば何とやらで、蘭丸が帰ってきた。


 何故か大量のパンの耳が入った袋を手に持っている。


「お帰り。仕事はどうだった?」


「他愛無いあやかしを斬って捨てるだけだったからな」


「そりゃ、君の前では大抵の妖は他愛無いでしょ」


 業界では「妖殺し」の異名を持つ蘭丸である。依頼は一瞬で片がついたのだろう。


 美貌の剣客は脇に差した『電光石火』を優美な動作で着物の帯から引き抜くと、落ち着いた日常に腰を下ろした。


「いい匂いがする」


 鵺がパンの耳に反応して小さな鼻をスンスンさせる。


「パン屋の前を通りかかったら渡されたんだ」


 家が火の車なのが近所に知れ渡っていると、蘭丸は恥ずかしそうに顔に手をやった。


「まぁ、事実だしねぇ」


「オマエも少しくらい恥だと思ってくれ!」


 世間体じゃ腹は膨れないと亜緒は一笑する。


「亜緒、コレ食べてもいいか?」


 鵺のお腹が小さく鳴った。


「丁度良いから昼飯にしよう」


 袋を開けるとパンの香ばしい匂いが亜緒と鵺を誘う。


 今まで食事とは無縁の存在であった鵺がお腹を空かせるようになったのは、明らかに人の体を持ってしまったが故のさがだ。


「美味しい。これは……美味しいぞ!」


「そうだろう? パンの耳というのさ」


「パンという生き物の耳なのか?」


「そうそう。この世で一番美味しい食べ物なんだ」


 味気無さそうにパンの耳を口にしながら、亜緒は鵺にいい加減なことを教える。


 蘭丸はそんな亜緒に呆れた視線を送りながら、よくもあれだけ自然に嘘が口を衝いて出るものだと感心していた。


「蘭丸は食べないのか?」


 鵺がパンの耳を勧める。


「俺は依頼主の家で馳走になってきた」


「さては寿司でも食ってきたな。一人だけズルイぞ蘭丸!」


 パンの耳を銜えながら亜緒が詰め寄っていく。


「安心しろ。天麩羅蕎麦だ」


「うん。まぁ、それなら何とか許せるな」


 依頼主が蕎麦屋の店主だったのだ。


「ところで謝礼はいくら貰った?」


「三十万入っている」


 蘭丸が懐から札束の入った包みをテーブルへ載せる。


「ようし。今夜はこの金で夜桜見物でもしよう」


「ダメだ!」蘭丸が一喝して現金に伸びた亜緒の手を撥ねた。


「なんだよ。今行かなきゃ桜の季節が終わっちゃうぜ」


「花より貯金だ。家の経済事情を考えろ。祭りなど金持ちの遊びだ」


「こういった祭事は大切だよ?」


「花より団子の口が何を言う」


「お祭りっていい匂いがするアレか?」


「鵺だって行きたいだろ?」


 大きく頷きながら頭の猫耳がピンピンと踊る。


 今まで知らなかった。知る必要がなかった食べるという行為に対して、鵺は興味と喜びを見出してしまったらしい。


「とにかく、この金は当面の生活費を残して貯金だ。次の依頼がいつ来るのかも分からないんだからな」


「つれないねぇ。世知辛いねぇ」


「何処へ行く?」


 あっさりと引き下がった亜緒を蘭丸が呼び止める。


「ちょいと出かけてくる」


 野暮用だと言い残して、亜緒は薄暗い昼の下へと出て行った。


「なんだアイツ……」


 遊び事となると引かない亜緒が食い下がってこなかったことで、蘭丸は興を削がれてしまった。


 いつもなら駄々をこねる亜緒を諦めさせるのに一苦労するのだ。


「蘭丸。世界一美味しい食べ物がここにあるのに、亜緒はどうして別の食べ物に拘る?」


 鵺の真っ直ぐな視線を受けて、美しい剣客は困ったようにため息をついた。


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