嵐
闇子は黒い蝙蝠傘を差して原っぱに立っていた。
――雨が好きだ。と、改めて感じる。
雨雲が黒く輝く太陽を隠してしまうと、辺りの風景は群青色に深く沈む。
闇子はその湿った空気の匂いや、色彩が自分の感情を優しく撫でてゆく感覚、何よりも雨のシルエットに同化してゆく自身が好きだった。
自分が嫌いというわけではないが、好きというわけでもない。
その狭間を行ったり来たりする心に付けられた『闇子』という名札が、滲んで読めなくなっていくようで安心するのかもしれない。
ホムンクルスに魂は無いから、存在があやふやになる瞬間は彼女が自由を感じる瞬間でもある。
顕在の曖昧さ。何者でもないという自覚は、何者にもなり得るという可能性を想像させた。
それは存在のありようが音無しに近づくということだ。二人の違いは名前の在る無しだけではないが、闇子という名が一つの境界線を引いていることは確かだ。
闇子が無意識に抱えている音無しとの同化願望は、彼の主に容姿に対する憧れ、延いてはホムンクルスという人工生命体である自分への劣等感へと繋がっている。
名前はあるが魂の無い闇子。名前は無いが魂のある音無し。
二人はそれぞれが互いを必要とする、云わば片翼同士のような関係になりつつあった。
相変わらず闇子と音無しの逢瀬は続いていたが、次に会う約束をして別れるわけではないから、会えたり会えなかったりの日々だ。
それでも闇子は毎日原っぱに立った。
洋館の中では一人で退屈というのもあったし、誰かを待つという行為が何やら妙に嬉しく、彼女の足をその場に縫い付けるのだった。
――今日は雨だし、音無しは来ないかもしれない。
そんなことを思って溜め息をついてはみるが、あと十分だけ待ってみようと思いながらも、その十分間をずっと繰り返している。
闇子は恋慕の情というものを知らなかったから、自分の行動が不可解でならなかった。
でも心地良い不可解なので、その行動の正体を探るようなことは避けた。
無理に紐解くのは、なんだか怖い気もする。
「こんにちは。お嬢さん」
闇子が声のほうを向くと、線の細い女性が番傘を差して立っていた。
闇子の瞳は真夜中を昼間のように見ることが出来る。
「隣、邪魔しても良いかな?」
闇子は返事に困った。
何故、この人間は自分を見て驚かないのか?
何故、こんな人気の無い原っぱにやって来たのか?
そして何よりも不可思議なのは、この人間がまったく気配を感じさせずに現れたことだ。
この見通しの良い場所に一体いつから、何処からやってきたのか分からない。
雨のせいだろうか。それにしても、現れ方があまりにも不自然すぎる。
闇子は警戒した。
「お嬢さんも音無しを待っているのかな?」
「音無しの知り合いか?」
「そんなところさ」
彩子は腰に差してある刀を見せた。
「私も殺し屋みたいなものでね。気配を殺す癖が身に染みついてしまっている」
驚かせてしまったら悪かった。と、女性は垂れ気味の目元を綻ばせた。
闇子は迂闊にも、その笑顔を信用した。彩子が黒い武道袴に刀という、どこか音無しを連想させる格好をしていたことも油断を招いた要因だ。
「この雨だし、今日は来ないかもねぇ」
しかし、霧のように優しい雨だ。傘を差していても濡れてしまうような、体に絡み付いてくる繊細な雫。
「音無しのことが好きかい?」
「き、嫌いじゃない」
「はっきり好きと言えないいじらしさは、私も嫌いじゃない」
闇子は頬を赤らめて俯く。
心に直接触れてくるような彩子の言葉に戸惑う。
「そうだ。良いものがある」
彩子は袖を探ると、細幅に織られた白い布を二本取り出した。
「これはね、リボンという女の子が髪に飾る装飾品だ」
「リボン……」
その形状と言葉が醸す可愛らしさに思わず声が出る。
「付けてあげよう」
彩子は持っていた番傘を草の上に落とすと、少女の黒い髪に純白の乙女心を結んだ。
「似合うよ。お姫様みたいだ」
人から何かをプレゼントされた経験の無い闇子は、彩子の言動にいちいち幻惑されて心が躍るのを止められない。
浮かれてしまっていることにも気がつけないでいる。
「私は渚 彩子。お嬢さん、名前は?」
「闇子……」
二人は遅い自己紹介を終わらせると、また沈黙の中に佇んだ。
「煙草を吸っても良いかな? お嬢さん」
闇子が無言で頷くと、彩子はマッチを擦った。紫煙が雨に浮かぶ。
「彩子は大人だな」
煙草を吸う姿がサマになっているので、大した考えも無しに口から出た言葉だった。
「大人……か。君は難しいことを言うね」
「難しいのか?」
「難しいさ。大人の世界はね。欺瞞に満ちているんだ。偽物しか置いていないデパートのようなものかな」
次の言葉を紡ぐ前に、彩子は煙を一口吐いた。
「そんな世界を知っても尚、納得して生きるのが大人なのか。迎合を拒むのが大人なのか」
難しいのさ。と、言いながら詰まらなさそうに煙を吐く。
闇子には理解の範疇を超えた話だ。彼女の世界は、その殆どが生まれた屋敷に限定されていたし、当然デパートが何であるのかも知らない。
空を見上げると、いつの間にか雨が止んで、重そうな雲が勢い良く風に流されていくところだった。
彩子は徐に番傘を畳むと、背後から迫る剣戟を去なして身を翻した。
突然の出来事に闇子は混乱する。何が起こっているのか分からない。
「三段突きか。殺気もほんの一瞬だけ。流石に良い腕だ」
霞の構えで後ろに立つ、黒尽くめの暗殺者。
「やぁ。会いたかったよ。名無しの音無し君」
空が明るくなって、周りの景色が鮮明になる。
澄んだ空気の中で、音無しと渚 彩子は体面を果たした。
「闇子! その女から離れろ!」
闇子が彩子の影を伝って音無しの影から出てくる。
「お嬢さんは影から影へと移動が出来るのか。便利だな」
「彩子は味方ではないのか?」
「俺の味方は闇子だけだ」
音無しの咄嗟の言葉に一呼吸だけ感慨に浸ると、闇子は彩子を睨みつけた。
「騙したな!」
「だから大人の世界は欺瞞に満ちていると言ったろう?」
彩子の声音からは余裕すら通り越して、倦怠が感じられた。
元々そんな声なのかもしれないが、緊張は微塵も無い。
――格が違いすぎる。
まだ構えてもいない彩子を前にして、音無しは死を覚悟した。
「闇子は逃げろ。俺の影を使って、出来るだけ遠くだ」
「でも、それじゃ音無しは?」
「俺はいいんだ」
いつか嵐がやってきて、自分の命を奪っていくだろうと思っていた。
目の前に居る女性が、その嵐であるのは間違いない。
「やれやれ。最近の若い者はせっかちで良くない」
勝負は一瞬でつくだろう。音無しの死というカタチで。
「あ、今のは私が若くないという意味ではないぞ。私だって充分に若――」
「そんなことはどうでもいいよ」
音無しの声は潔い覚悟を持って響いた。
こんな日が来ることは分かっていたのだ。待っていた気さえする。
「それじゃ、少し早いけど仕事を片付けるとしますか」
彩子は煙草を捨てると、抜刀の構えをとった。
「音よりも速く斬ってやるから、花のように潔く死ね」
乾いた風に乗って、彼女の言葉が不吉に泳ぐ。




