エピローグ
独りになって、もうどれくらい経つだろうか。
気が遠くなるくらいの時間が流れたような気もするし、まだほんの少ししか経っていない気もする。
鍋島 小夜子は途方に暮れながらも、小さな歩みを止めることなく思考の糸に手を伸ばした。
此処は一体、何処なのか。自分は何故、此処に居るのか。思い出さなければならない大事な部分が抜け落ちてしまっている。
洋風建築の廊下。何も映らない曇った窓硝子。薄暗い満月灯の明かり。分厚い扉の部屋、部屋、部屋。
歩けども変わることの無い光景は、まるで出口の無い迷路のようだ。
心細いけれど、飼い猫のミルクが傍にいてくれるから寂しくはなかった。
「この家からは、どうすれば出られるのでしょうね」
ミルクに話しかける。猫から返事が返ることはないから、半分以上は独り言だ。
絨毯を踏みしめる柔らかな靴音に混じって、ふと旋律が耳に触れた。
「ピアノの音……」
あどけなさが残る円らな両の瞳に光が灯った。
誰かが曲を弾いているのか、音盤を聴いているのかもしれない。どのみち、音の先には誰か人が居るということだ。
小夜子は四分の四拍子を辿って足を速めた。猫も少女の弾む足取りに続く。
辿り着いた先は広いホールだった。伽藍とした場所で洋装の青年がピアノを弾いている。
バッハのゴルトベルク変奏曲。
小夜子は青い髪のピアニストにゆっくりと近づいていった。足音を立てないように。演奏の邪魔をしたくない。
アリアのダ・カーポで演奏を終えると、ピアニストは静かに振り向いて口を開いた。
「こんにちは」
オーボエを思わせる声に、小夜子ははにかみながら軽く頭を下げる。
「あの……何処かでお会いしましたかしら?」
湖面を思わせるような、深く澄んだ青色の瞳に小夜子は見覚えがある気がした。
「いいえ。初めてですよ。影でない貴女に会うのは」
眼帯を付けていない小夜子。
波のある美しい髪。白磁の肌に細い体。あどけなく濡れた瞳の黒は、両目ともに可憐で愛らしい。
「私、この曲のアリアが大好きなんです」
「これは子守唄だからね」
「もう一度、弾いてくださいますか?」
「弾いてあげましょう」
亜緒の繊細な指が鍵盤の上に置かれる。
小夜子は優しい旋律に耳を傾けた。
猫を抱く。眠くなった。
《化け猫、了》




