雨下石 浅葱
雨下石家の敷地内には本邸の他に、いくつもの離れ座敷がある。ワケありの人物を匿ったり、閉じ込めたり、中には特定の妖を封じている建物まである。
その離れの一つで、亜緒は差し出された茶を前に足を崩した。
正座に痺れたというわけではなく、改めて畏まる必要を感じなかったのだ。窮屈な空気は性に合わない。
広すぎず狭すぎない座敷の四隅には、髪の長い女人が目を瞑ったまま控えている。皆が同じ着物を纏い、同じ顔と軀を持っているので、誰がお茶を運んでくれたのか亜緒にはもう分からなくなってしまった。
「相変わらず趣味悪いなぁ」
「彼女らは家具みたいなものさ。気にするほうがどうかしている」
穏やかな所作で男は亜緒に茶を勧めた。長い浅葱色の髪が軽く揺れる。
雨下石 浅葱は群青の弟であり、亜緒とノコギリの叔父である。
花浅葱の着流しに身を包み、およそ争いや敵愾心のような負の感情とは無縁の、温室育ちの花という佇まいを持つ。
愁いを帯びた瞳の水色と柔らかな物腰は、対峙した者に春の小川のような印象を与え、兄である群青をよく知る者であればあるほど、浅葱の穏やかさに安心を覚えるのだ。
そんな緩衝材のような役割を果たす人物であるが、兄弟が揃って人前に出ることは滅多に無い。
事実、群青と浅葱が一緒に居るところを亜緒は一度も見たことがなかった。
年の差がいくつ離れた兄弟であるのか知らないが、見た目も異常なほど若く二十代後半と言っても通るだろう。
亜緒は子供の頃から、この叔父の醸す浮世離れした雰囲気が気になっていたのだ。
雨下石家には比較的珍しいタイプの人間であることに加えて、まるで人と人形を掛け合わせたような存在感の透明に幻惑されていたのかもしれない。
しかしながら雨下石 浅葱という男は見た目と違って、実は大層厳格な人物であることを亜緒は身をもって知ってもいる。
柔和な外見と違って、中身はなかなかの曲者であるのだ。
「楓、栗きんとんを持ってきてくれないか。次期当主様の分もね」
温もりの在る優しい声で名を呼ばれた女人の一人が、立ち上がって目を開ける。
すぐに菓子皿を二つ持ってくると、静かな動作で浅葱と亜緒の前へと置いた。
茶巾絞りで栗を模った甘味は、所謂お節料理の栗きんとんとは違う。栗に砂糖を加え、炊き上げてつくる秋の和菓子だ。
用が済むと楓と呼ばれる女人は無言で元居た隅に戻り、同じ姿勢で沈黙した。
「師匠は四人の区別、ちゃんと付いてるわけ?」
「愚問だね。それと私はもう君の師匠ではないよ」
桜、霞、楓、山茶花。それぞれが四季の花の名前を浅葱から与えらている。
彼女らは浅葱のお手製だ。
からくり人形を作るのが趣味の浅葱は、複数の人形に身の回りの世話をさせている。だから彼の住居には生きた人間が一人も居ない。人嫌いというわけでもなさそうだから、単に変わり者なのだろうと亜緒は思っている。
彼の拵える人形は特別だ。
式の呪術を応用した人形たちは、人と寸分の見分けも付かない。精巧過ぎるのである。
浅葱が彼女らを「家具」と称するのは、そういうことだ。
「君が鵺を連れずに来るなんて珍しい」
返答を無言に代えて、亜緒は茶碗に口を付けた。『左団扇』の番茶と違って、香りも口当たりも円やかな玉露がありがたい。
雨下石家の者にとって、鵺は祀るものであり家族ではない。もっとも雨下石家自体、家族の絆は非常に薄く、血の濃さと霊力の強さを重んじるのが常識だ。
狂った家の狂った仕来り。この微妙な感覚は、家の者でなければ理解するのは難しい。
「君は無茶ばかりする。神様に名前を付けるなんて禁忌だ。後でどうなっても知らないよ」
他人事な口ぶりで浅葱は栗きんとんに竹串を入れた。上品で濃厚な栗の甘みが亜緒のところまで漂ってくる。
そういえば師匠は甘党だったなと、記憶の海に思考の指で触れては思う。
「兄上も無茶ばかりしていたけど、それ以上に実力があったからいい。君は後先を考えていないのが駄目だね」
話題が小言めいた内容に傾いてきたので、亜緒は早々に本題を切り出すことにした。茶飲み話の相手をしに来たわけではないのだ。
「師匠、僕に剣術の稽古をつけてくれないかな?」
浅葱が声無く嗤った。水色の瞳に洋装の甥を映しながら、座敷に短い沈黙が降った。
「私はね、一度でも自分の元を去った人間には興味が無いんだ。それが才能に溢れた身内であってもね」
声音の端々からは揺るぎない決意のようなものが感じられた。強い言葉だ。
「そこを改めて頼んでいるんじゃないか」
亜緒とノコギリに武術を教えたのは浅葱だ。ノコギリのナイフも亜緒の体術も、みな彼の直伝である。
線の細い外見からは想像できないが、浅葱は雨下石家に伝わるあらゆる武芸の極伝を持つ実力者でもあるのだ。
「紅桃林の若当主と斬り結んで己の未熟さを痛感したのかな? 君がフラフラしている間に、彼のほうは地獄を何度も見てきたんだろう。これでは勝てる道理が無いよね」
表情も声も、先程から何も変わらず柔らかいままだ。しかし、見知らぬ他人のような距離を感じる。
強い意志を秘めた水色。それが雨下石 浅葱の本質だ。
亜緒にしても、今さら叔父が了承するわけがないと知って頼んでいるのだから始末に悪い。
ダメモトで言うだけは言ってみる。浅葱にはそんな浮ついた思考が手に取るように分かってしまう。
顔には出さないが、彼は亜緒のそういういい加減なところを好かないのだった。
「君がその瞳に頼っているうちは、強くなれないだろうね。まだノコギリの薙刀のほうが余程見込みがある」
当主の実弟とはいえ、浅葱の霊力は一族でも強いほうではない。彼が亜緒よりもノコギリに肩入れするのは、雨下石家の中で肩身の狭い思いをしてきたことと無縁ではない。
「例えば、君はあの花を見て何を思う?」
縁側から庭に咲く金木犀に、浅葱色の視線が流れて止まる。
「特に何も」
本音である。亜緒には花を愛でるような趣味は無い。
「花は心を映す鏡だ。その言葉は今の君自身を表している」
「それじゃあ、師匠はどう思うのさ」
「そうだね……」
浅葱は改めて茶を一口啜った。
「滅茶苦茶に壊してやりたい」
月彦の営業スマイルとは違う。心からの笑顔で物騒なことを言う。
「師匠って、怖ーい」
本当に心から美しいと思えるものは壊してしまいたくなる。花は手折り、白い首は斬り落とし、命葬送どこまでも。
だから自分の周りには中身空っぽの人形だけで良い。彼にとって、命の入っていない器だけが、何よりも安心できる温もりなのだ。
座敷に暫し間が空いて、庭の金木犀が僅かに花を零した。
その橙が土にぶつかって弾ける暇に、浅葱の手元で何かが光り、亜緒は紙一重に滑ってゆく凶を見送った。
首を傾げて避けていなければ、間違いなく亜緒の顔面を裂いたであろう鋭い四本の刃が、不満気に部屋の壁に突き刺さって無言の抗議を呟いている。
ちょうど両眼、眉間、鼻下の位置。どれも急所である。
「よくぞ躱してくれた。私は君のそういうところだけは唯一好きだ」
だから浅葱の弟子たちは最初に反射神経だけを徹底的に鍛えられる。
何時、師の凶刃が飛んでくるか分からぬ状況で修行は行なわれてゆくのだ。
避けられなかった者は才能が無かったということで、命が残っていれば破門となる。
亜緒は教える前から常人離れした反射神経を持ち、絶対防御体術である『凪』の習得も弟子の中で誰より早かった。
当主の弟が次期当主を害するなどあってはならないから、亜緒の才能に浅葱は感謝をしたものだ。
まさに理想的な弟子であった。
「そんなことより、ノン子は何時ごろ帰ってくるのかな?」
壁に深く光るナイフの銀を見ながら尋ねる。亜緒が実家の門を潜ったのは、ノコギリに用があるからだ。
「ノコは此処二日ばかり帰宅してないよ」
「……それって、ヤバイんじゃないの?」
亜緒が厚い板からナイフを一本だけ抜いた。
雨下石家では当主以外の外泊を厳しく禁じている。何時、誰に、どんな仕事がやって来るか分からないし、何よりも常日頃から緊急事態に備えておかなければならない。もしもの時に不在でしたでは済まないのだ。
ノコギリも当然例外では無い。考えられる可能性は一つ。
「何処かで妖と遣り合っているのだろうね」
言葉に微塵も感情の揺れを感じさない叔父に向かって、亜緒は先程手に取ったナイフを投げつける。
空気を裂き、線形の殺気を孕んだ刃を浅葱は古傷だらけの指二本で造作も無く止めた。まるでキャッチボールでもしているような気軽さだ。
「何をイラついている」
亜緒の瞳の青が明るさを失い、深みを増してゆく。薄暗い世界の影が濃くなった気さえ、する。
浅葱は知っている。普段飄々としている甥だが、気に入らないことが起こると感情が消えて霊力が重く圧し掛かるように渦を巻くのだ。
「そうやってすぐ心の動きが霊力に出るのは、精神修行がなっていないからだ」
創造主の危機を感じ取ったのか、亜緒の異常な霊力に反応したのか、四隅の女人形が一斉に目を開いて立ち上がった。彼女らの本来の役目は浅葱の敵を排除することだ。
「勘違いしてはいけないな。妖と戦って死んだのなら、雨下石の娘としてこれほど相応しい様もないのだから」
浅葱の言は正しい。それが雨下石家の本懐だ。助けに行くことは、即ち名誉を傷付ける行為なのである。
それは亜緒だって充分、理解している。それでも譲れないものがあるのだ。
「僕はさ、雨下石家の名誉だとか仕来りとか、そんなものはどうでも良いんだよ。やりたいようにやる。師匠の気持ちも分かるけどね」
立ち上がって戸口へと向かう亜緒を浅葱が止めた。
「少し待っていろ。若造」
人形の髪の毛を一本抜いてから懐紙に包んで亜緒へ渡す。
「ノコの髪の毛だ。響きを追うのに役に立つだろ」
亜緒は叔父の心遣いを受け取ると、無言で座敷を出て行った。
庭を見ると、いつの間にか金木犀の花がすべて散っている。
「アレは当主の器では無いかもしれんな……」
亜緒の言動は、およそ雨下石家に相応しくないと浅葱は思う。
ノコギリが生きて帰ってくるなら良し。もし死んでいたとしても良しだが、それなら自分が姪の白い首を落としたかった。
きっと光る花びらのように、ソレは儚く脆く散っただろうに。
「だって、それが師弟愛というものだろう?」
浅葱は四隅に座する人形たちに語りかけた。
返らぬ返事に穏やかな笑顔を浮かべる。




