5
(――あ)
空が、近い。少し上のところに立っただけで、こんなに世界は変わるんだね。眩しい、青。
手を伸ばせば、届く、みたい。
「飛び降りて、どうするの?」
聞きなれない声に瞬きをして、今まさに倒れようとした体を起こす。そこには少年が居た。紫の花弁がふわりと舞っている。少女と間違えても可笑しくないような綺麗な顔をした少年は朱円にそう尋ねた。
「地面に叩きつけられて、苦しくて、痛くて痛くて?それでもし、死ねなかったら?」
「ッ、貴方は…いえ、そんなことはどうでもいいよね。おかしなこと言うね?ここ、屋上だよ。言うなら六階だよ?落ちたら間違いなく死ぬよ?痛みだって」
一瞬だろうし。
少年は「――ハハッ」と声に出して笑い――嘲ると、一歩足を踏み出してきた。朱円はナイフを自分の喉元に近づける。
「…それがどうしたの?あ、でもそっちの方が確実に死ねるんじゃないかなぁ。痛いだろうけれど」
「な、んなの、あなた…!」
嫌悪感から力が発動して、手に持ったナイフを彼に叩きつけるように投げつけた。先ほど紀磨に投げたものと比べ物にならないほど、強く重い投擲。それは間違いなく少年の白い喉元を貫くはずだった。
しかし、彼の目前でナイフは唐突に止まる。
速度を急速になくし、カタンと落ちたナイフ。どれだけ自分がナイフで彼を傷つけろと願っても動いてくれやしない。どうして、意味もない焦りが浮かぶ。それを見た少年はどこか楽しげに指を鳴らした。
「君の≪力≫が僕の≪力≫より劣っている。ただそれだけさ」
「――?!」
体が浮いた。
グン、と後ろに―――後ろに、引っ張られる。
「い、ぁ!!」
体が――支えを失って落ちていく感覚。
―――青。
映ったのは、青。
その青に手を伸ばした。
なんだ、私。責任取るとか、かっこつけたようなこと言っちゃって。
虐められて復讐じみたことしたのは、どうして?≪力≫を使うようになったのは、どうして?
そんなの、決まっている。
私、は。
「―――朱円さん!!!」
伸ばした手が誰かに掴まれる。
「ね、じ、くん」
「…よかった、間に合って、よかった」
どこまでも優しい彼の声に、あぁ、と朱円は確信した。
私、死にたくないなぁ。
青の空に散らばる紫の花弁を見ながら、≪力≫が渦巻く中で朱円は意識を失ってしまった。
×××
紀磨は今でも思い出す。あの時であった少年の事を。そいつは真っ直ぐで正直者、明るくて優しくて、正義感が強くて。
だけど救いようのないバカで、
そんなあいつを、救いたいって、思ったの。
ただ、それだけ。
捻子の≪力≫は二つ。
一つは≪繰る印≫と呼ばれるもの。これは他者の≪力≫を自分のものとして得るもの。コピーといってもいいかもしれない。そしてもう一つは炎。溢れんばかりの満ちた炎は、何もかも焼いてしまう。善悪関係なく、燃やし尽くす。
朝霧には体がないから、捻子は≪繰る印≫を使うことで朝霧に体を作成する。しかし捻子の≪力≫は朝霧には及ばず、結果的に朝霧が捻子の≪力≫を乗っ取る。体を持った朝霧は短時間の間だけ、その体を使い≪力≫、≪幻の揺らぎ≫――一般的に幻覚、幻術の類である―ものを使用することができるようになる。
来賀朝霧は、天才である。彼に敵う≪力≫は存在しない。
≪繰る印≫を朝霧に向かって使用した後、しばらく体の自由がきかない。圧倒的な≪力≫の重さに自分が耐え切れないのだ。だから動くことができず、ほぼ間一髪と言ったところだった。意識を失ってしまった朱円を何とかして引っ張り上げて、ようやく一息をついた。
「捻子!その子は…」
「大丈夫、気を失っているだけです。……朝霧」
捻子はこちらを見下ろしている朝霧を見た。朝霧は伏目がちな瞳を捻子と合わせた後、口を開く。
「彼女が死にたいと望むのであれば、そうさせればよかったんだ。そして、間違いなくその方が面白くなったはずだったんだけれどね」
残念だなぁ、と微笑む彼の姿に紀磨は眉を寄せる。人の命を何とも思ってないような言い方、それに紀磨は落ち着かない。朱円が願った通りに道を選ばせた、つまりはそういうことなのだろうけれど、反面彼は本気で――彼女が飛び降りるのを援助しようとしていたのだ。
「……今は、何も、ただ彼女が……生きていてくれただけで、十分です……」
それからしばらくは慌ただしい日が続いた。
今回の騒動は結局死者が出たため、警察の出動による事件となった。しかし≪力≫絡みだったために大きな報道があることはなかった。詳しい事情は残念ながら警察側の黙秘権が発動してしまったらしくわからないのだが朱円は未成年かつやはり≪力≫の影響があった上、精神科の病院に通っていたこともあり今は登校拒否の状態になっているようだ。時々彼女が遅れてきたのは精神科に通っていたからだろうか。そういったところでも気付けなかった自分が歯がゆく感じた。虐めの問題に関してはバレー部全体で起こっていた事らしく、それに加えて女子の間でも嫌がらせなどを受けていたらしい。また、全員がその事実を認めたという。
その日を境に、けが人は減った。
ちなみに、あのドアの修理は学校側がなんとか負担してくれたようだ。全く感謝しかなかった。
そして捻子は屋上に来ていた。
今日も寒くも暑くもない、優しい風が吹いている。そして、空は晴天だ。暫く晴れが続くと言っていたから、当分はこの空が見えることだろう。
彼女はもういない。
いつか、またここで彼女と青空の元、今度はゆっくりお弁当を食べたい。そう思いながら、捻子は今日もお弁当箱を広げた。
「――げっ、何であんたがここにいるのよ」
「紀磨………君こそ。」
「たまには私も屋上で食べたくなる時があるのよ!っていうわけだから早くどっかいってくれないかしら?」
「どうしてそうなるんですか…俺だってここで食べるの好きなんです」
「もういいわよ!」
手すりを向いて座っていた捻子の後ろにドカリとばかりに座り込んで弁当箱を広げだす紀磨。どうして背中合わせなんだ、と疑問に思ったが恐らく顔を見ないで済むから、だろう。おにぎりを取り出しながら捻子は苦笑しつつかぶりつく。笑みを察したのか、紀磨が不満げに「何よ」と鋭い声を上げた。
「いいえ、別に」
少し離れた位置、つまりは手すりに腰を下ろした朝霧がどこか呆れたように自分たちを見ていた。
今日も、空は、青い。