明日は、大切な人が亡くなる日。
彼女の手術は、上手くいかなかったらしい。
病院から道を数本渡ったところに、小さな公園があった。連日の寒空のせいか、外にでて遊んでいる子供の姿は見えない。だまって正面の道を素通りしていく人影と、自動車の排気音が続くばかりだ。
僕は疲れていた。それでも明日、あるいはそれ以降のことを考えないわけにはいかない。
「……会社、どうするかな……休み、取るなら、はやく連絡いれないと……」
今日は日曜日。明日は月曜だ。
十二月の正午。陽は出ているくせに、風はとても冷たい。
ひとりきりの家に帰る気にはなれなかった。自動販売機で買ったコーヒーを飲みながら、かじかむ手に息をふきかけるように啜る。その時、首元に巻いたマフラーがひっかかった。
「さむい」
マフラーを手前に引いたとき。それが、彼女の遺品になってしまったことに気がついた。爪先に、ほつれた糸がひっかかる。
「やることなくてヒマなの」白いベッドの上に座り、最近はそんな事ばかりこぼしていた。三日前に見舞いに行った時は「次は手袋かな」と笑った。それが最後に交わした言葉で、「様態が急変しました」と連絡を受けたのが一昨日。面会謝絶になって、頭が混乱したまま自宅に帰り、彼女のご両親から「たった今息を引き取りました」と言われたのが今朝のこと。
家を出たのは八時だった。平日とは違う、ゆったりとした、やさしい空気の流れる市内を抜けて来た。明るいクリスマスのイルミネーションの中を歩き、目的地に着くまでの間、退化した脳みそは「現実ってなんだっけ?」とひたすら繰り返していた。
「もし。そこの若い方」
「……はい?」
そうやって、一人意味もなく時間を潰していたら、声を掛けられた。
「誰か、大切な人を亡くされましたか」
「っ!」
心臓が不気味にはねた。俯いた顔をあげた先には、僕と同じぐらいの、二十代そこそに見える男が立っていた。着ているのも同じような革ジャンに、ジーンズだ。
「もし、見当違いのことを言っていたら、申し訳ないが」
「いえ……」
男が発する声は、やけに落ち着いた気配があった。てっきり、ずっと歳のいった相手が声をかけてきたと思ったので、正直おどろいた。
「その、実は……」
焦りと、引き返せない不安。事実を否定して欲しい気持ちが募り、言葉は口から飛びだした。
「一緒に住んでいた女性が、今朝、亡くなった、らしくって」
「そうかね」
けれど、返って来たのは肯定だった。とてもあっさりしていて、僕は余計にわけがわからなくなる。
「ありえない」
「何故?」
なぜって。
わからない。ついさっき死に顔を見てきても、そうだ。
ここから一キロも歩いた先で、彼女は今も死んでいる。彼女の母親はまだすすり泣いているのだろうか。連絡をくれた父親は黙って肩をふるわせていた。
まだ、他人でしかない僕が、怒ったり、泣いたりする資格はないと思った。だから黙って場を抜け出して、ここまで逃げるようにやってきたのだ。
「だってまさか……最初はただの風邪だと思ってたぐらいで……。今年の春にも、お互いの会社で健康診断があって。異常なんて見つかってなかったし……」
「残念だが、その言葉に意味はないのだろう」
「……」
やっと。じわり、じわりとやって来た。
「その人は、君にとって大切な人だったのだろうね」
「あ、あたり前だろっ!」
事実を認めると、やたらと悟った口調が癇に障った。中身の入った缶コーヒーを、そのまま、殴りつけるように振りかぶる。
「ぐッ!」
寸でのところで理性が戻って、軌道を変える。中身が残った缶は、黒い液体を散らしながら地面を跳ねて、コロコロと音をたてて転がった。
「なんなんだ、なんなんだよ、アンタは!」
「君は、過去に戻りたいかね」
「……は?」
僕と同じぐらいの男は唐突に言った。
「もし、君がそう思うなら、良い物がある」
男は上着の内から何かを取りだした。それは、鎖のついた懐中時計らしきもの――実際にそんなものを見るのは初めて――だった。
「これはね、過去に戻ることのできる時計だ」
「僕をバカにしてるのか?」
「いや、違う。私はこの時計を使う資格をなくしてしまったんだ。だから」
「売りつけようって?」
「そんなつもりもない。ただ、必要な人間にもらって欲しいと考えていたのだ」
過去に戻る時計。
そんな物があれば、欲しがらない人間はいないだろう。
「この裏側の蓋を開くと、針を回し、時刻を調整する箇所がある」
男は真面目に解説しはじめた。
「短針を反時計まわりに一週させると、君は大切な人と〝初めて出会った時間〟に巻き戻ることができる」
「やめろよ、バカバカしい」
「バカなことを口にしている自覚はある。だがね、これは真実だ」
そいつは変わらず、どこか達観した顔で告げてきた。次に気に食わないことを言われたら、遠慮なく殴ってやろうと決め、僕は拳を握りしめる。
「で? 過去に戻ったら、人生をやりなおせるって?」
「そうだ。君が失った相手、大切な人間が死なない人生を、やりなおすことができる。その代わり、君にとって〝大切な別の誰か〟が、死ぬことになる」
そいつは、変わらず真面目に言いきった。正直、頭のネジが数本飛んでいるんじゃないかと疑った。
「いいかね。この時計の針を巻き戻すと、君は今日までの記憶と知識、そしてこの時計を引き継いで、人生をやりなおすことができる。やりなおしの起点となるのは、君が失った大切な人と、はじめて出会った日だ」
「……本当になんなんだよ! 宗教の勧誘でもやってんのかっ」
「いや、ただの通りすがりだ。外を歩いていると、視界の中に映ったものだから、声をかけさせてもらった。本当に、それだけに過ぎない。話を戻そう」
相変わらず、落ち着いた口調だった。脳みそはまた「現実ってなんだっけ?」と悲鳴をあげはじめている。
「未来を変えてやろうと、特別なことをする必要はない。ただ、未来は自然と置き換わる。そして望むなれば、君は、何回でも過去に戻ることが可能だ」
「……戻ったら、また最初の相手が死ぬのか?」
「いいや、死なない。その代わり、また別の誰かが死ぬ。つまり、君が過去に戻る毎に〝死なない存在は増えてゆく〟。ただし、君は必ず、その世界で別の大切な人をひとり、失うことになるわけだ」
「そんな都合の良い話が、」
「あってたまるか。私も以前、同じことを思ったよ」
そう言って、重たい鎖の音を響かせる時計を差しだした。
「よければ使いなさい。さっきも言ったが、私にはすでに必要のない物だ」
妙に年老いた口調で、そいつは僕に時計を渡した。
そして、どこかへと去って行った。
※
「キミって、なかなか真面目に働くねぇ。感心、感心」
僕は学生時代、引っ越し業者のバイトをやっていた。夏場に汗水たらして重たい物を運んでいると、そこで事務をやっていた彼女から冷たいお茶を差し入れられた。
「キミ、まだ高校生なんだってね。なにか欲しいものでもあるの?」
おどけた風に笑われて、こっちは反射的に抱きしめた。
「ちょ、なにすんの!?」
そこで初めて、あの男が言っていたことが本当だとわかった。そしてくすんだ制服の中には、渡された時計が存在した。
抱きしめたあと、思い切り頬を叩かれてしまったけれど。なんとか必死に頭を下げたりなんなりして、もういちど彼女と付き合いはじめた。
それから僕も社会にでて働きはじめ、彼女の余命の数年前になったところで、僕は口うるさいぐらい、病院で精密検査をするべきだと告げた。
「人間ドックって。あのね、私だってまだそんな歳じゃないんだけど。だいたいこの検査、お金も結構かかるじゃないの」
「僕も受けるからさ。君とはずっと一緒にいたいんだ」
あの男は確か、特に未来を変えようとする必要はない。と言っていた。けれど僕はもう、二度と彼女を失いたくなかった。
結果的に、彼女は渋々ながらも了承してくれた。ついでに僕もいろいろ検査を受けた。けれどお互い、これといった病気は見つからず、僕らはそろって健康体ですよと告げられた。
僕は彼女と結婚した。さらに一年後に、子供が産まれた。男の子だった。
僕たちは幸せだった。子供が、交通事故で亡くなるまでは。
――君は、望むなれば。何回でも、過去に戻ることができる。
迷う必要は、何もなかった。
※
「ほら、見て。男の子だって。……どうしたの?」
僕は子供の誕生に向き合っていた。目を閉じた赤子を黙って見ていると、彼女がすこし心配そうな声を発した。とっさに「感慨深くって」と言えば、ベッドで横になった彼女も、くすぐったそうな顔で「だよねぇ」なんて笑った。
僕は、自分の子供を厳しくしつけた。約束事を守らなければ、体罰を欠かさなかったし、その日の食事も抜かせた。本当は、その必要はなかったのかもしれないけれど、そうしないと心が落ち着かなかった。
息子は僕と顔を合わせると萎縮するようになった。けれど同時に、些細なルールをも模範的に守る子に成長した。
「と、父さん……あの、この猫が、車にはねられて……」
ある日、動かなくなった猫を抱きしめて、息子は震えながら言ってきた。
「い、家の庭に、お、お墓を、作ってもいいですか……?」
僕は了承した。息子が作った、名前も知らない野良猫の墓は、小さな石を乗っけただけだった。やがてその石もどこかへ行って、息子が猫を見舞うことがなくなってからも。僕はひとり、家族に見つからないところで、拝んでいた。
それから十数年が経って、子供は立派な大人に成長した。
僕と同じように、大切な人と出会い、結婚した。
「近々、子供が産まれる予定です」
電話先で、どこか照れたように告げてきた義理の娘は、しかし数か月後、母子共々に死産した。
息子も廃人のようになって、家から一歩も出なくなった。
「なんで、こんなことになったのかな……なんで……」
僕は、時計の針を回した。
※
「あ、あのっ、はじめましてっ! わたくひっ!」
初対面でいきなり舌をかんだ女性をみて、一気に空気が和んでしまった。息子が連れてきた女性は小柄で、痩せぎすだった。
「息子から散々、僕は怖いオヤジだったと言われていたそうだね?」
「えっ、あ、はいっ! そ、そーなんですよっ!」
言ってから、家に帰ってきた息子の方を見やると、久しぶりに慌てた顔になった。「あー、オレ、そんなこと言ったっけかな~?」
白々しい事を言いつつ、視線をそらしたのが、不覚にも面白かった。嫁になる女性の方もまた「言ってたよ! めちゃくちゃ言ってたよ!」なんて言いだしたので、妻とそろって吹きだした。
座敷にあがってからも、正直なところ会話は適当に聞き流した。まったりと茶を飲みながら、「ま、気長にやりなさい」なんて言ってやった。
――それから。ずっと、長い時間が流れた。
歳を重ねていく毎に。僕にとって大切な人、友人や知人は数を減らし続けた。しかし時計の針を巻き戻すことはなくなった。
やがて自分の歳が六十になると、父親が亡くなった。葬儀の翌日、残された母親は、自分がボケたら見捨ててくれ。と寂しいことを言った。
父親は、きちんと死ぬ準備をしていた。晩年に母親と交わした言葉や、弁護士に預けた遺言状などもあり、結果、家は土地ごと売りに出した。
母親も、僕たちの家からそう遠くないところにマンションを借りて、そこで住むことになった。
最低でも、一月に一度は様子を見に行った。顔を見て、言葉を交わすに限り、母親はまだまだしっかりしている様に思えた。
しかしある日。母親の身に法外な借用書が来た。訳を聞いてみれば、身元も知れない男が負った借金の保証人になってしまったらしかった。
つまりは詐欺だった。母親が騙されたことを知った僕は、つい、責めてしまった。少しの間をおいて虚ろな声がきた。
「責任は取るから、大丈夫」
母親は生命保険に入っていた。僕は即座に何かを言ったが、電話は切れた。直後に家を飛びだして、マンションに向かった。その時に車の鍵だけでなく、例の時計も握りしめていたのは、確かな予感を覚えたからだ。
※
「はじめまして、私の赤ちゃん」
優しい声は、僕に向けられたものだった。焦点すら定まらない視界の先に、なにかぼんやりとしたものが映っている。僕はそれが何であるかを知っていた。
(ごめんよ)
僕は母親に詫びた。だけどそれを正しく伝える手段を持っておらず、代わりにわんわん泣いて、指を一本、そっちへ伸ばした。
七つの誕生日を迎えた翌日。すべて合わせると、八十を超えた年月の先。
眼を覚ますと、枕元に、懐中時計が現れていた。まだ、私が赤子だった頃、その時計の存在はどこにも無かったものだから。てっきり、預かった制約はこれで終わったのかと思っていたが、違ったらしい。
「……大切な人が死なない代わり、べつの大切な人が、ひとり死ぬ」
それはある種の必然だ。なんら不思議なことはない。私は居間に行く前に、小学校への入学祝いで買ってもらった学習机に近づいた。引き出しを開き、大切な人と再び出会える懐中時計をしまい込む。
そしてパタパタと、履物をはいた足音が、寝室の方へと近づく音を耳にする。
「おーい、朝よ。って、あら?」
「こっちだよ。おはよう、お母さん」
「あらあら、どうしたの? もう起きてたの?」
「うん。今日の学校の用意、先に確かめてたんだ」
「えらいわねぇ。ごはんできたから、お父さんと一緒に食べましょ」
「はい」
私は応え、それからゆっくりと、食卓の方へ向かった。
世界に、目新しい物はなかった。
流れる情報は大方知り尽くし、同時に自らの限界も弁えていた。それでも子供の精神というのは、未知を欲するものらしい。脳はたえず新鮮な〝水〟を求め、私は難解な数式や論理を、片っ端から飲みほすことで代用とした。
「うちの子は、本当の天才だな!」
最初こそ両親も褒めてくれた。しかし時間が進んでいく内に〝子供らしくないもの〟に、疑問を抱き始めたらしい。
両親は二人目の子を作ることにした。誕生したのは女児で、二人は安堵した様子で、そちらに愛情を注ぎ込んだ。
年齢が八十の半ばに差し掛かった頃。私は、小、中、高と飛び級で卒業した。大学に通い、特例で古びた家を借りて、ただひたすら純粋に、頭が求める限りの知能を叩きこんだ。
そのうち、自分の年齢を数えるのも面倒になった。
時が流れるのは早かった。私の隣に寄り添う存在は何もない。
気がつけば妻と出会う年齢にも達していたが、この世界の私はもう、アルバイトはしておらず、はじまりの日となるきっかけは失われていた。
(最後に死ぬのは、私自身でいい)
そういう想いを抱き、毎日ずっと、何かしらの研究に没頭した。いくつかの成果は生まれ、それに伴う評価を受けた。ある程度にまとまった金も手に入り、研究一筋で生きていくことが許される日々が続いた。
合計にして、おそらく齢が百を超えた頃。
不意に外の風が吸いたくなって、ずっと篭っていた研究所から外に出た。熱い湯を浴びて、簡単な食事を済ませ、人らしい格好に着替えてから道を歩いた。そして適当に公園に入ってみると、一人の若い青年が、項垂れているのが目に映った。
上着の内側で、ジャラリと鎖の音が蘇る。
どうやら。ここいらが潮時のようであった。
「もし。そこの若い方」
「……はい?」
手元を見つめていた青年は、こちらを見上げる。私は確信を持って問いかけた。
「誰か、大切な人を亡くされましたか」