妻の遺書
今夜は妻の葬儀だった。
妻とは、私が30の時に知人の紹介で知り合った。
最初はお互い会話もままならなかったが、共通の趣味であったパズルの話題を潤滑油にして次第に意気投合し、3年間付き合った後にめでたく夫婦となった。
結婚してから1年間は、誰から見ても理想の夫婦であったに違いない。
当時の私は妻を愛していた。
しかし月日は過ぎ、次第に私の妻への愛は、感熱紙に印刷された文字がいつの間にか読めなくなってしまうかのように、気が付いたら掠れて消え去っていた。
私にはその頃、愛人がいた。
相手は5歳年下の当時の私の部下である。
仕事の相談がある、と向こうから飲みに誘ってきたのだが、酔った勢いからか、その夜に最後まで事を運んでしまった。
それからというもの、妻への関心は更に無くなり、気が付けば仮面夫婦のような状態になっていた。
部下と愛人関係に陥ってから2年が経とうとしたある日、その愛人から衝撃的な報告を受けた。場所は最初に相談を受けたあの居酒屋の個室席だった。
「私、あなたの子供ができたの。」
隣の席では大学生が合コンでもしていたのだろうか。やけに盛り上がっていた。
バックグラウンドには90年代の懐メロ、食べかけのアボガドサラダと鳥皮ポンズ、店員を呼ぶ電子式の呼び鈴の音。
その時の周囲の様子は、些細な部分まで鮮明に記憶に残っている。
煙草を吹かせていた私は激しく咽てしまい、喉が焼け付くあの嫌な感覚に苦しんでいた。
何かの間違えだろうと思いたかったが、思い当たる節が数回あることを記憶していたため、私は残ったビールを飲みながら、渋々現実と向き合う覚悟を決めた。
一気に酔いが醒めた。
「奥さんと別れて」、「責任とってよ」、「私と奥さん、どっちを選ぶの」
そして、最低なことに、私は愛人を選んだ。
妻に別れを切り出した。
久しぶりに妻の声を聴いた気がした。
「そう・・・。私の事、もう愛していないの?」
「話すまでもない事だろ。」
私の冷徹な言葉に対しても、妻の声色からは悲しみや怒りなどの感情は一切伝わって来なかった。
当時の私はその様子に安堵していた。
今思えば、当時の妻は精神を病んでいたのだろうか。
その一週間後、妻は寝室の角でロープに全体重を首にかけてぶら下がっていた。
傍らには遺書が残されていた。
いま私は、とても悲しいの
なのに、あなたはこのごろ
さっぱり私を見てくれない
許せない。私と一緒に逝こ
はなすまでもないことだろ
たった一言…。ほんの少し
なにか慰めの言葉、かけて
あぁ、そろそろ行かなきゃ
あ い し て る
妻の悲しみと私に対しての憎しみが伝わってくる。
もう少し優しい言葉を使っていれば、こんな事にはならなかったのかも知れない。
私は妻の仏前で、今、もう一度この遺書を読み返している。
しばらくして、私は戦慄した。
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