9
僕は思う以上に図太い神経をしていて、誰かが身体を揺さぶるまで保健室で眠っていた。眠っていることも気づかない、時間の消失だ。
「下校の時間になったよ」
早退する云々は、いつの間にか無かったことになったようである。僕が眠ってしまったせいか、母が拒絶した所為かは分からない。いや、その両方だろうか、僕が眠ってしまったのは事実であり、母はおそらくあと数時間で学校が終わるのに早退をするのは駄目だと言ったのか。彼女は僕が熱で初めて学校を休んだ時、「せっかくの皆勤賞が台無しじゃない。何にもできないあんたには、それだけしかとりえが無かったのに」と愚痴を言い続けていた。病院に行き、それがインフルエンザによるものだとわかったとき、母と父、それから姉も笑い声で「公欠扱いになるから良かったね」と胸を撫で下ろしていた。皆勤、その響きだけなら、僕は健康優良児のようだ。実際の僕は、運が良いのか悪いのか、熱が出ないだけでよく風邪は季節の代わりごとに必ず引いていた。喉と鼻水が出るだけなら、確かに休ませるに少し弱いかもしれない。それに、彼女らの反応から、微熱程度であれば、おそらく学校に行かされていたことだろう。僕が、姉のように優秀だったなら、多少休んでも勉強の遅れもなく、それに縋る必要もないほど、取り柄や才能に恵まれていただろうか。才能以外にも、単なる努力不足が現実だろうか、勉学も体力も出来損ないとして生まれたからには、家族愛として、何とか取り柄を与えようとしたのだろう。けれど、そんなものが一体何になるのか、所詮紙に記されたまやかしで、実際の僕は本当の健康優良児に比べることもおこがましいではないか。
教室に戻りながら、僕は空腹に腹を押さえながら歩いた。教室の前に来て、廊下に吐いた筈の僕の汚物が跡形もなく消えていることに気づいた。いつまでもあんなものを放置しておく方がおかしいのだが、本当に、僕以外の誰かが片付けてしまったのかと思うと申し訳なさがこみ上げた。人は誰かしら、迷惑をかけて生きているのだ、誰かの行動が僕にも迷惑をかけているのだから、必要以上に気にしなくともよいと言い聞かせていたが、存外、図太いようで少し神経質なのかもしれない。
ドアを開けると、もう誰の姿も残っていなかった。僕のロッカーにランドセルが一つだけ残されて、望んだことのない赤が妙に浮いた印象を与えた。黒のランドセルはなく、間違いなくそれは僕のランドセルだった。そのとき僕は、改めて思い知らされた。赤と黒のランドセル、男と女、僕は黒のランドセルが欲しかった。男でも女でもどっちでも構わない、ただ、大輝と同じように黒い色が良かった。入学前、当然のように黒のランドセルになると思っていたのに、赤いランドセルは僕の意向を聞く間もなく、ポツンと学習机の上に置いてあった。姉はそれをみて「新しいランドセル、よかったね」と言ってきた。どうせなら、自分に言いわけが出来るように、姉のお古を使わされるほうがまだ良かったというのに。
教科書を詰め込み、リコーダーを立てて体操服の入った袋をひっかけてランドセルを背負うと、少し右側に身体が傾く。子供は馬鹿に出来ないものだ、楽をしようとしたわけではないが、自然と両手を開けて歩けるようにしている。自ら考えたというより、気付くと周り同じようにしている。学ぶという字は真似るという意味があるというので、小学生、学生としては、考えるまでもなく正しい成長をしている。
「ミキ、おせぇぞ」
教室の入り口で声が聞こえ、顔を上げた先に大輝がいた。先に帰っていたと思っていたので、慌てて足を出したところ、椅子に躓いて転んでしまった。尻餅をついたが、机の角が頭に当たらなかっただけ、まだ良かった。
「何やってんだよ、ホントにトロいな」
「暗くてよく見えなかっただけだよ」
佐藤なら手を貸してくれるだろうが、大輝はこういうときは自分で起き上がるように待っている。厳しいわけではなく、何処にもいかずに、自分で立ち上がるのを待っている。
「ちょっとすった」
唾を付ければ治る程度の擦り傷だったので、指に唾を付けようとしたが、その前に大輝が腕を引くので、仕方なく彼の方へついて行った。彼は流しの前でとまり、持っていたハンカチを水で濡らして僕に渡した。唾をつければ早かっただろうが、人の好意をむげにするわけにもいかず、せっかくのハンカチが汚れることを惜しく思いながら、血がにじみ始めた膝小僧を拭いた。水は冷たく、思ったより傷に滲みた。
「もう大丈夫なのか、」
「何が、」
「吐いただろう」
言われて、自分が嘔吐して先ほどまで眠っていたことを思い出した。人の記憶とは思う以上に、身勝手に修正され、時に他所へ追い払われるものなのか。この場合、僕は先ほどの失態、嫌悪感から逃れるために変な思考ばかり働かせて、記憶を追いやっていた。いつも、大輝は記憶が遠のくことに邪魔をする。
「もう平気だ。お腹がすいたけど」
「まあ、吐いたしな」
誰が嘔吐物を片づけたのか聞こうと思ったが、クラスの違う大輝が知る筈がないと黙り込んだ。明日、佐藤にでも聞けばいいことで、場合によっては吐いてしまった可哀想な子として、何も知らないふりをしていても構わないのではないだろうか。以前他の生徒が吐いた時、誰が片付けたかなど誰も気にしていなかった。
「家にきのう、父さんがもらって帰った菓子があるから、宿題しながら食べようぜ」
「うん、そうする」
大輝の家にはいつもお菓子が置いてあった。反対に、僕の家には甘いお菓子というものはほとんどなく、あったとしても姉が友人たちと部屋で食べてしまう。どうしてもお腹が空いた時、僕は冷蔵庫に入れてある父のつまみを勝手に食べているのだが、やはりチョコレートやガムなど普通のお菓子を食べていたい。大輝の家には確かにいつもお菓子が用意されているが、彼の家族の仕事場のあまりものなので、基本的には和菓子ばかりあった。西洋菓子の魅力には勝てないが、大輝の家の和菓子はお土産品として人気の高い物なので、引けを取らないほどおいしいものだ。それで結局、今日は一体何のお菓子があるのだろうかと、目先のことばかりに意識を向けて、再び気持ちの悪さを追い払っていた。
僕は別に、吐いてしまったことが嫌なのではない。ただ、先生の話すことに、どうしても耐えることが出来なかった。少し言葉になる度に、僕の感情を黒いものが覆いかぶさり、窒息してしまいそうだった。小学生の僕にあるのは、言い知れぬ嫌悪感だけで、具体的なものはまだ良く分かっていなかった。僕は無知で、周囲も僕が無知で純粋、こう書くととても心根の綺麗な人間に思えるがそうではなく、人を疑うことを未だよく知らなかったという意味だけで、何でもそのまま事実とし受け取っていた。そのため、周囲は僕に世俗的な話を聞かせまいとしていた。家族だけでなく、それは友人間にも適応され、みんなが知っていることを前提で話しながら、理解力の鈍い僕には「まだ知らなくていい」との態度を示す。そうやって、僕をのけ者にし、下に見ている。彼らは僕が愚かだと知っているため、のけ者にする以外に、よく仕様もない嘘や噂を聞かせて騙していた。単純で信じ易い人物というのは、からかうには絶好の逸材だったろう。もちろん、人間は学ぶものなので、反動からか何に対しても疑う心を身に付けるようになっていった。
成長してからも、僕は出来る限り、だれか他の生徒に混じって、学校から帰るようにしていた。不審者の話題が尽きることがなく、学校側も誰かと必ず一緒に変えることを義務づけていた。大輝は特に母から、「一緒に帰ってあげるように」と言われていたらしく、僕が掃除で遅れるときも退屈そうにしながら待っていた。彼にしてみれば、やはり、僕は弟、子分のようなものだという意識がまだ抜けていなかったのだろう。近所という以外、僕と大輝の共通点はあまりなかったのだから、そのつながりを忘れれば、ふいと糸が切れるように離れただろうに。その大輝が迷惑に思っていたのかどうか、次第に表情を表さなくなった彼のことはよくわからなかった。
吐いた翌日、佐藤に話を聞くと嘔吐物は先生を中心に片付けたので、僕が気に病むことはないと教えてくれた。先生という人はみんな勝手な大人だとばかり思っていたが、少しは傲慢さを顧みて行動を起こしたのかもしれない。とにかく、その日以降、その先生からそう言った話が口に上ることはなかった。




