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 新しい季節が来て、僕は男と女のほとんど中間の位置に来たことに気づいた。生まれて五年と少しを男として生き、五年と少しを女として生かされている。そして、この頃から女子たちが少しずつ変わり始めていた。保健の授業で女子だけ呼ばれたり、彼女らはトイレに行くのを戸惑うようになり、身体の大きさ、肉付きの違いが明瞭になりはじめた。僕はもともと生まれた時期が遅く、両親共に小柄だったせいか、体の大きい女子と頭一つ分程違ったりしていた。彼女らは、まだ大人でも女でもない中間で生かされて、突然、身体が女になって行った。それはなんて、気味の悪いことだろうか。身体が、精神を上回って行動する典型的な例だ。人に意思、感情があるというのに、精神は身体に屈服する。それは致し方が無い。まだ、子どもである彼らは自我、自己、感情を制することも出来ていないのだ。より生命に直結した身体に支配されることは、分かり切っていた。この有様に、ますます女子たちの中に居ることが辛くなっていた。見た目だけではない、匂いがするのだ。女の匂いがして、その肌からチロリと見える胸、その膨らみが、子どもの世界を崩し始めるようで、憎らしかった。当然のことだが、僕に胸なんて出来る筈がなく、髪を切れば男か女か、誰にもわからなかっただろう。

 あるとき、女子の誰かがポーチを廊下に落とした。それが何であるのか、僕は知識としては知っていたし、家にもあるので驚くべきことでもなかった。それを男子の一人が拾い、先生に届けたのだが、いったい何を思ったのか、先生はクラス全体を集めて、ポーチの中身についての説明を始めた。保健体育の時間でもないのだから、そんな話をすることに一体何の意味があるというのか。男子たちの顔はみんな前に向かっていたが、女子の数名は俯いているように見えた。教育者として教えなければならないと思ったのだろう、それが正しいか否かはわからない。しかし、それにより、大変不愉快な気持ちになっていた。先生は穏やかな声を出しているが、顔の見えない僕には、先生が内心幼い子供たちだと嘲笑っているように感じた。きっと、馬鹿みたいに真面目な顔をしているのだろうが、僕は大人が本音と建前、表の顔と裏の顔を持っていることを見えなくても知っていた。顔が見えない分、僕は音だけで判断するのだが、おかげでわかりやすい声音に錯覚することは少ない。声はうぬぼれと自分の教育者としてのレベルの高さから、見下していることが伝わってくる。確かに事実であるが、認められるほど大人でもなく、反論するほど子どもでもなかった。

 女と男の身体の仕組みについての説明は、吐き気がするほど気分が悪かった。セックス、すなわち性交のことを何処に用意していたのかパネルで説明してきた。

 気持ちが悪い、そう、それは吐き気がした。

 抑圧しそこなった記憶の鬱積が堤を破って、足先から内臓を潜り抜けて胃に溜まり、僕は口を押さえた。それでも内容物は逆流を訴え、身体の反応に対応するには、僕の意識もあまりに弱過ぎた。

 立ちあがって教室を出た所で、僕はトイレまで間に合わずに床に吐いてしまった。それは一時で終わるのではなく、中身がなくなった後も何度も何度も吐き出されて、唾液を奪い、舌の感覚を狂わせる。同じクラスメイトは何も言わなかったが、移動教室に行く途中だった隣のクラスから「汚ねぇ」「うわっ」と引いている声が聞こえてきた。それでも、一度吐き出してしまうともう駄目なもので、汚いとわかりながら僕は吐くことを止められなかった。

 「汚ねぇな、トイレで吐けよ」

 視線を僅かに挙げると、音楽の教科書をもった大輝が立っていた。いつも、彼に醜態をさらしてばかりいるように思う。今さら、大輝の言葉に傷つくこともない筈だったが、涙が出そうになった。悔しさからか、身体に対する刺激臭からか、けれど、視界がかすみ始めた。

 先生が来て、僕の肩を掴んで立たせた。内容物、胃液、それら全て無くなったからか、口から出るのは唾液だけで、吐くというより、口の中の汚いものを唾液によって洗い流そうと身体が行動しているように思えた。先生が僕を連れ出したが、果たして、あの汚い塊を一体どうするのか、僕は自分勝手な人間で、後のことを気にかけていたが実際には何もしない。心の中で思っているだけで行動に示さないというのは、それは現実では何もしない怠惰な人間と取られても文句は言えない。他人には誰が何を考えているのかわからないのだから、どれだけ贖罪の気持ちを抱こうと声に出さなければ伝わらない。沈黙、それが大人になると増えてくる。言葉をそのまま出すことによる恐怖、甘え、それは許されない。

 保健室で口を濯ぎ、保健の先生の渡す薬を飲んだ後、自分の出したものを処理しようと立ち上がったが、「安静にしなさい」と言われ、確かに起き上がることが億劫だったので、再びベッドに入った。喉の奥がヒリヒリと痛んでいたが、もう吐き気はない。吐き気の代わりに、昼の食糧をすべて出してしまったので、空腹に頭がクラクラした。人というのは変なもので、気持ち悪いほど吐いてしまった後だというのに、空腹からまた何かを食べたいと思ってしまう。吐いて、食べて、けれど、今のぼくではまた吐いてしまう気がする。思えばなんて贅沢なことなのだろうか、心は罪悪感に囚われていながら、僕は貴重な食料を吐き出して、そして新しい食べ物を欲している。それは果たして認めても良いものか、否、本来ならば認められない。けれど、飽和飽食世界に生きている中で、その発想はそれほど異端ともならない。贅沢なのだ、わかっている。でも、贅沢だと分かっているからと言って、何になるというのか。現状で既に食糧はある、それを拒絶したところで変わりはしない。テレビで戦争、貧困、疫病を取り上げて、「私たちに出来ることをしよう」というが、その放送前後では募金をしたり、節約をしようと試みる人もいるが、それは一過性のもの、流行と変わらず、他の人がそうするから、他の人が彼らを可哀想だというから、自分よりも下の暮らしをしているから、何かしてあげなければならない、同じようにしてあげようという傲慢な考えに過ぎない。彼らがそれを望んでいるから、そうするのが人道的だと人は言うが、果たしてそれが全体に対し言えることなのだろうか。ああ、僕は善人でないので、このように捻くれた考え方しか出来ない。けれど、思うのだ。確かに貧困と飢えで苦しんでいる、けれど、その苦しみ方が私たちの感覚、価値観と一致した飢えであるとは考えられない。その世界に手を伸ばさずにいれば、もともとその世界で生きていたのだから、その人たちはこれからも生きていくことができるだろう。けれど、所詮世界は弱肉強食、食物連鎖の流れに居ることに変わりはなく、より強い生命体に命を奪われるという現実、過去がそこにあるのだ。憐れだと思っている時点で、僕らは彼らの上に立つ存在だと思っている。そして、彼らを僕らと同じ地点に引きずり込もうとし、それが正しいと洗脳する。こんなことをいつも考えている僕は、きっと残酷で残忍な人間のカテゴリーに入れられるだろう。けれど、僕は一時的に強く訴え、普段は何一つ考えもしない人たちに言われたくはない。けれど、たった一時のことでも、そのことを訴え行動する人間は褒め称えられる。褒められたいのならば、誰かに尽くせばいい、それも無償であることが好まれる。無償、ああ、この言葉も嫌いだ。自分のものを分け与える、何と言う傲慢さか。直接的にその場に行って奉しもせず、あるいは一時的なもので誤魔化すのなら、僕なら何もしない。彼らが僕よりも不幸であるとも、僕よりも幸せであるとも思わないし、彼らを見下したいとも思わない。僕のすぐ傍に居ない人間にまで、気にかける余裕はない。何もしないことも悪いと誰が決めたのだろう、初めから互いに干渉し合わなければ、それまで生きてきたのだから、これからも生きていくことが出来るだろうし、あるいは死んでしまうなら、それだけの命でしかないということだ。恵まれた人間の言葉だと、僕をあざ笑うだろうか。けれど、自分が恵まれていると心の底から思ったことはなく、ただ、言い知れぬ罪悪感で生き続けている。

 僕の心葛藤など、口に出さなければ無かったことと同じである。保健の先生は、今日は早退した方が良いと言った。僕は保健室のベッドの中で、あの汚い塊は一体どうなったのかと気にかけることは止めて、耳を塞いだ。保健の先生が電話する声が聞こえ、聞くまいと思っても静かな保健室に音が入ってくる。気分が悪いけれど、もう吐き気はない。風邪を引いているわけでもなかったのにこの始末、情ないが心は先ほどに比べると落ち着いていた。これ以上、誰かの傍に居て話を聞かないで済む、吐いたおかげで、僕はあの空間から逃げ出すことが出来た。逃げることは良くないことだと言われて育ってきた。それなのに、僕はこれまでもこれから先も向かっていくことなく、いつも逃げてばかりだ。僕が逃げることにより、誰かがきっと損をしているのだろうか。ともわれ、僕がここにいることにより、誰かが損をしていることは確実だ。


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