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四年生のときに男子生徒が一人、女子から嫌われるようになった。それはあの佐藤で、一体どこが癪に障るのか僕にはわからなかった。彼は根が真面目で優しいために、嫌われて虐めの対象になった際でも、好かれるように努力をするので逆効果になっていた。どうして彼を無視するのかわからず、僕はそれとなく女子に話を聞くと、どうやら彼がグループのリーダー各の女子の告白を断ったことが原因らしかった。自分の感情がいつも相手と同じ感情である筈がない、僕はそのことで改めて学んだ。佐藤は男子の中で嫌われていなかったが、誰かに嫌われると自尊心が失われるもので、臆病になってしまったのか、一人で過ごす姿を何度も見かけた。そんな彼に同情したのか、それとも虐められる人間に興味があったのか、僕にしては珍しく、自ら図書室で同じように本を読む彼に声を掛けた。
「それ、何の本、」
本に興味があった訳ではないので、それは会話をするための手段に過ぎない。いい天気ですね、お元気ですか、そんな言葉に深い意味がないのと同じように、それらの言葉に意味はない。佐藤もそれが分かるのだろう、苦笑しながら本の表紙を見せて、今度は僕の図鑑に眼を向けた。
「いつもそれ見てるけど、星が好きなの、」
「・・・星が好きとかじゃないけど、でも、宇宙とか、見ていてぞくぞくしないか」
「そう」
「うん。夜の空のその先に、もっと広い世界があって、その世界は何もわからない。どれだけ走っても飛行機にのっても、そこに行けない」
宇宙がどうして好きなのかを語っていたが、ふと、何をどう好きかなど僕が彼に何の本を読んでいるのか聞いたことと同じく、どうでも良いことだということに気がついた。けれど、彼は退屈だという表情は見せず、僕の言葉を聞いていた。そう言うところがお人好しで、面倒な人にも好かれる理由になるのだろう。
「一人でいるのつらくないの、」
「さぁ、なか好くなろうとしてないから、つらいとか思わない。佐藤は、いつもイヤそうだな」
答えたあとで、ずいぶん無神経なことを言ってしまったと後悔した。明らかに、あの善良な佐藤の顔を曇らせたのだから、やはり、僕はどうも愚鈍だ。
「・・・気にしなければいい。こちらが何も思わなければ、向こうも何も思わない。佐藤が何か思うから、向こうもかえすんだ。だから、こんな風にそばに行かないで、本を読んでいるだけで、そのうち、あきて何でもないことになるよ」
これは僕が学んだことの一つであり、これを応用すれば大抵の物事は何とかなる。
佐藤は僕のように空気になって、クラスではほとんど会話をせず本の世界に没頭し、休み時間は図書室で過ごすようにしていた。愛想も無愛想もせず、無表情で過ごしていると、人の噂も七十五日だったか、佐藤が無視されることも無くなった。
僕は時折、無性に叫びだしたくなる時もあった。けれど、結局何もせずにただ流れるにまかせて沈黙していた。沈黙してもその衝動がなくなるわけではなく、僕はその時の気持ちをノートに描いた。黒い鉛筆で円を描き、そこに今見えている木の葉や本などをスケッチした。けれど、結局耐えられなくなり、僕はそれをティッシュでぼかして気を静めた。
「絵、上手だね」
佐藤は本から目を離し、僕のノートを眺めていた。僕からすれば、こんな汚い黒のどこが良いのかわからなかったが、佐藤が良いというのなら、これは良い絵なのかも知れない。本を読むより、こうして絵を描く方がずっと気持が和らいだ。そして、このことにより、佐藤は信用足る人物であると確信したのだ。およそ理解できないとは思うが、ありのままの自分を表現した絵を認めた佐藤は、お世辞でも何でも良い、ただ、その時一瞬でも気にかけ認めたという事実だけで、彼が信頼できる証拠になった。
「佐藤、僕のヒミツを教えてやるよ」
「ヒミツ、」
子どもというのは、互いに秘密を明かし合って団結するものだ。けれど、僕の秘密はあまりに大きく、大輝以外には表面的な秘密しか話すことが出来なかった。何しろ、絶対に言わないと女子は言うが、次の日にはあっという間にその言葉が広まっているのだ。例えば、「ぜったい秘密にするからさ、誰が好きか教えて」と聞かれ、大輝以外に友人がいなかったので、「大輝」と答えると次の日には少し大輝と話をしただけで「らぶらぶ、」と男子も女子も揶揄してきたことがあった。僕はそれで、ああ、秘密というものは、大抵の人間はすぐにばらしてしまうのだと悟り、本当の秘密は誰にも話すまい、信用足る人物以外には話してはいけないと心に決めていた。
「僕はね、ほんとうは男なんだ」
佐藤はポカンと馬鹿みたいに口を開けていたが、僕が真剣な顔をしているのが分かったのだろう、妙に神妙な顔をして見返してきた。
「変わってると思ってたけど、そうなの、」
「そうだよ。知ってるのは、今は大輝だけなんだ。でも、これは秘密、知られちゃいけないことなんだ。だから、僕が男だと知ってることを誰にも知られちゃいけないし、話しちゃだめなんだ」
「どうして、」
「わかんない。でも、そう思う。父さんも母さんも、僕が男じゃないようにしてるから、だから、知られちゃだめに思うんだ」
「そっか、」
一人でも僕が男だと知っている人が増えれば、自分を忘れずに済む。佐藤は「誰にも言わない」と誓い、僕も彼ならけして言わないだろうと確信していた。こうして、労することなくこうして佐藤を秘密の共有者に仕立て上げた。彼は女子からの無視が消えても僕を友人として扱い、よく一緒に遊んだ。一人に慣れ始めていた僕としても、誰かと一緒に遊ぶということは楽しかった。佐藤が本を読み、僕は絵を描く。そして、偶に人手が足りないからと大輝たちと外で遊び、身体を動かす。ようやっと、僕は小学生らしい生活をするようになっていたような気がした。




