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雨が降っていた。
いや、目は開いていないのだから、本当に雨だとはわからない。
何しろ、その音に聞き覚えが無かった。だから、その単調なリズムから、それが雨ではないかと推測していた。
音を認識出来ると言うことは、まだ血が流れ切って居ないのだろう。身体の感覚は無かったが、意識が存在する以上、僕はまだ死んでいない。
どれほどの血が流れただろうか、このまま眠るように死んでしまえば、これほど幸福なことはない。
けれど、感覚の無い身体は痙攣し、一度覚醒させようと目蓋に光を当てる。僕は目覚めたくなぞない、このまま、終えてしまい。しかし、哀しいかな、意識はやはり身体に勝つことが出来ない。僕はやはり、脆弱な人間だ。
白い光が目に入る。それは光か、それとも世界の色なのか、その違いは白濁とした僕の視界からは判断できない。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、先ほどまで無くしていた感覚が戻り、僕は深く息を吸い込んだ。
どうして、血の色が見えないのだろう。何故、僕の身体は仰向けになっているのだろう。
身体に触れているものは、シーツだ。そして、断続的に鳴り響く音は、雨と似ても似つかない電子音ではないか。
夢を見ていたのか、それとも、まだ夢の中なのか。しかし、僕の夢はいつも不透明で、これほど冷静に思考が働くということは、現実だと思うしかない。そして、現実であるならば、ここは僕の部屋では無い。単純に推測すると、ここは病院だ。
突然、肌色の塊が、ぬっと姿を現した。黒髪が波打ち、僕の瞳に入る光を遮った。化粧粉、あの、不快な臭いがした。
「ああ、目が・・・」
聞き覚えのある声だ。けれど、それが誰か、僕にはわからない。
「なんて馬鹿なことを、」
「一体何が不満なの」
耳元で犬のように喚く声が煩わしい。洗いざらい罵詈雑言を吐き出し、言葉で心を殺してやりたかった。いや、今の状態では、どのような言葉もナイフのように鋭く、惨忍なものとなり果てただろう。だから、僕は何も言わない。言えば、誰かを傷つけることしか出来ない。同時に、憎悪が自身に返って、苦しくなるだけだ。
状況から察するに、僕は失敗したのだ。
失敗した。
何と言うことか、失敗した。僕は終わらなかった。いつか終わるその日を自分で選択した筈であったのに、無残な結果に終わってしまった。違う、終わらなかった。ああ、言葉遊びなどもう如何でも良い。
兎に角僕は、死ねなかった。惜しくも、僕は、無知であるがゆえに失敗したのだ。
浅かった。死ぬ気ならば、もっと深く、手首を切りつけなければならなかった。こんなことなら、首を括れば良かった。そうしたら、こんな失敗はあり得なかっただろう。
一度失敗すると、二度、同じことはそう出来ない。出来ないように監視されるということもあるが、その恐怖と勇気を奮い立たせることが、学習したことでより臆病になってしまい、実行に移せない。
ただ、死にたくない、生きて居たいと思うことはやはり無い。僕が生きていて、誰かが得をする訳も無く、子孫も残さない僕が生きて、代わりに死ぬ命に申し訳が立たない。悲しむ人がいるからだとか、そんなことは如何でも良い。悲しむ人は、勝手に悲しめば良い。皆、勝手じゃないか。僕が勝手にして、一体何が悪いのか。反抗せず、自分の出来る範囲で勝手を抑え、従ってきた。だから、生死くらい、好きにしたって良いではないか。向こうが勝手に生んだのだ、だから、生まれた僕が勝手に死んでも文句を言われる筋合いはない。
どうして僕を生んだのだ。それがそもそもの間違いではないか。生まれなければ、僕は悩み、苦しみ、悲しみ、淋しいと思うことも無かった。身体も思考も要らない、僕の死によって命を奪う量が減るのだから、死にたいものは死なせてくれれば良いではないか。
生きたい人が居るというのなら、死にたい人がいることも認めてくれたって良いじゃないか。死んだら終わりだと言われても、僕は終わりたいのだから、望むことは整合性が取れているだろう。
病院の次は、四角い監視された部屋の中で、僕は日々生活している。家を離れ、入院させられ、「恥さらし者」と泣き喚かれて生かされている。そうやって僕が憎いのならば、死なせてくれればよかったのだ。警察に捕まることが嫌だったなら、僕に死ぬチャンスを与えれば良いではないか。誰の責任にもならぬように、せっかく遺書も書かずに、一人静かに死のうとしていたというのに、迷惑なことだ。
刑務所に入ったことは無いが、きっと、ここと同じだろう。自分を殺すことも人殺しの罪なのだろうか、自分を殺したいと思わなくなるように、治療しなければならない。治療と言うが、僕は長いことそれを一つの軸に生きていたのだから、治るような問題ではない。そもそも、生きていて、僕に意味など何も無いではないか。数万人を助けるような知恵もなく、遺伝子、能力を後世に伝えて行く為の機能も正常に働かない。
母と父、それから姉が僕を尋ねに来た。きっと、僕は動物園の畜生と変わらないことだろう。鉄格子の窓は、春を終え、夏が足早に去って行く空と風だけを教えた。
ここに居ることは、大変恥ずかしいことで、僕にとってだけではなく、家族にとっても恥ずかしい、不名誉なことであると言う。そんなに嫌なら、僕をここから連れ出して、家に帰せばよいのだ。そうすれば、今度こそ一人の時間に、手首ではなく首を切って死んでやろう言うのに。
ほとんど毎日、白衣の大人と対峙させられ、僕は何が不満なのか、何でも語ってほしいと告げられた。しかし、僕は何を言えただろうか。初めて会う大人の声は穏やかであったが、執念深く忍耐強い色を感じ、少し怖かった。
一度、僕は誰の顔もわからないと答えた時、興味深く根掘り葉掘り、言葉を駆使して聞き入ろうとしていたが、それをどう説明すれば良いか、いや、何も言葉にしたくないので、結局言葉自体を無かったことにして、やはり僕は沈黙した。ここから早く出るには、先生に心の中身を洗いざらい吐き出し、従順な態度を示さなければならないのだが、どうにもそれが出来そうもない。声を出すたびに、誰かを傷つけてしまいそうで、結局黙り込んでしまう。そうして黙り込んでいること自体に罪悪感が生じ、居たたまれない気持ちになってしまう。それでまた、早く死ななければならないと焦燥感が募るのだが、24時間監視下に置かれた状況では、簡単に実行することは出来ない。突発的に窓か、屋上から飛び下りればそれで終わるかもしれない。だが、窓には格子、屋上には鉄の厚い扉があって、外に出ることすらままならない。
どうせ、生きる気力などありはしないのだから、どうしてあの時、死なせてくれなかったのだろう。むしろ、死にたいと言うことが分かって居たなら、積極的に死ねるように仕向けて欲しかった。ああ、それは無理か。そんなことをしようものなら、それこそ犯罪者になって、刑務所に入れられてしまうだろう。




