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冬が来て、学校に行く時間は限りなく減った。その代わり、試験が連続して続き、そのどれもまともに答えられた自信は無かった。ようやく最後の試験が終わった頃に、今度は卒業式が待っていた。たった一日、リハーサルしただけで、翌日には本番というまさに形式的な行事である。生徒会や代表で卒業証書やら感謝の言葉を発表する者を除き、一般生とは号令以外では座席に着いたまま、何もする必要が無い。高校の卒業式では、小学、中学の卒業式に比べて、泣いている人の数が多いように思われた。やはり、ほとんどが街を遠く離れた大学へ進学するため、会えなくなることがわかっているからなのだろうか。それとも、単純にここまで育ててくれた両親、保護者への感謝から涙を流しているのかもしれない。
校長の話、先生の話、生徒の話。そのどれも、僕にはどこか外れたものに思えた。何かが違う、どう違うのか明確なことは言えないが、どの言葉も心に響かない。僕が冷たい人間だからなのだろう、もっと共感性のある、優しい人であったなら、誰かと比べられることもなかっただろうか。
考え事が過ぎた所為か、頭痛と腹痛が僕を襲った。卒業式を途中で抜けるわけにも行かず、眉間を押さえてなんとか堪えた。ようやく式が終わり、教室に戻る途中に人の輪から抜け出し、トイレに駆け込んだ。まず、胃の内容物を吐き出し、水に流してから、便器に腰かけた。下着を降ろし、ヘドロのような赤い血に染まったものを見て、僕は、堪え切れなくなって、涙を流した。もう、間違い無いのだろう。これは月経だ、そしてそれは、女特有のものだ。僕は、僕は、女じゃないのに、僕の身体は女だ。身体の丸みも胸の膨らみも、僕が女だと追い詰める。
違う、違うと否定した言葉全てを、身体が絶対的なもので拒絶する。僕が女ならば、どうして最初から、女だと教えなかった。どうして、こんな、気持ちが悪い。
僕は一人、気分が悪いからと式に参加した母と共に家に帰った。部活も辞めた僕は、後輩との別れもないのだから、式さえ終わればそれでこと足りる。
車中で、何とは無しに、ふと、「死にたい」と呟いた。僕の呟きなど普段なら気に掛けない母が、珍しく声を荒げて「やめなさい」と叱咤された。
「世の中にはね、生きたくても生きられない人がいるのよ」
つらつらと、僕の甘えを否定した。それはまさしく正論で、これを否定する人間はとても残酷で非情な奴だと蔑まれても仕方が無いように思う。けれど、僕は違うと思った。
僕は、ただ、違うと思ったんだ。
ああ、確かにそうだ。生きたい人に死にたいと言うのは残酷だ。だが、同時に、死にたい人に、生きたいと言われる方も残酷ではないのか。生きる希望の無い人に、生きる希望をぶつけられて、余計惨めになる。自己嫌悪、言い知れぬ憎悪が沸き起こり、そんなことを思う自分に、嫌悪のサイクルが繰り返される。
他人の願いと、僕の願いを一緒にされても困るのだ。僕はいきたい訳じゃない、僕はただ、今すぐ、消えて、しまいたい。申し訳ない、生きたい人、才能のある人、望まれる人が死に、どうして僕なんかが、何もせずとも惰性で生きていられるのだろう。生きていることが申し訳ない、けれど、死んでしまうことも申し訳ない。
そんなこと、誰にも言えるはずが無い。いや、言えていたのなら、これほど、苦しい思いをしないで済んだ筈だ。僕は誰にも嫌われたくないのに、本当のところ、誰も信じちゃいない。
卒業し、あとは合格発表を待つだけだった。一つ受かり、二つ落ちた。また新たに一つ受かり、三つ落ちた。無理にランクの高い大学まで受けたのだから、落ちるのは火を見るより明らかだ。一応、無難であった本命大学は合格し、残るのはランクが二三落ちた大学であったので、もはや結果を聞く必要も無く、本命大の入学手続きに追われた。推薦合格の生徒に比べて、合格から入学までの期間が短い為、諸所重要な判断を即決しなければならない。本来なら、もっと吟味し考えなければならないのであるが、何もかもどうとでもなれと言う気持ちになり、本気になって考えてはいなかった。
大学入学の必要書類と入学金の払い込み用紙を見つめながら、両親はため息を吐いた。私立大学なので、僕の想像する遥か上の額の費用が掛かるのだから、その反応は至極当然であった。
「もう、お姉ちゃんと逆だったら良かったのに。あの子なら、国立大学にも行けるぐらいの頭があったのに」
本当のところ、姉の成績や評価の信を僕は知らない。だが、僕自身はどう足掻いたとしても、国公立に行けるほどの頭は無い上に、言ったとしてもついていけない。何しろ、努力もしない人間なので、これから入学の決まった本命大学ですらついて行けるのか分からない。
それよりも、僕は、これから女子しか居ない大学生活を送らなければならない。つまり、本当に、僕は、自分で自分を女であると認めなければならない。身体が意志に反して女になろうとすることとは違う、僕が、僕の意志で決めなければならないのだ。それは、とても、敢え無い。
僕は、嫌だった。そうだ、僕は行きたくないのだ。忍耐が無いと思われても良い、唯々、逃げたかった。
母の肌色の塊が僕に向かい、ゆっくりと頭を揺らした。
「・・・あんたが、何を考えてるのか、本当にわからないわ」
僕は言いたいこと、伝えたい言葉があった筈なのに、周囲の者全てに、否定されるような気がして、沈黙した。出かかった言葉は喉で詰まり、何を言われてもそれ以上上へ行かず、僕の中で閉じこもり、何を言いたかったのか、それすら形になりはしない。
まるで、暗い、闇の中に落ちて行くようだ。いつが夜で昼か、分かって居る筈なのに、分からない。
きっと、これはきっかけに過ぎなかっただろう。本当は、もっと、前から、僕はこうすることを望み、躊躇していただけだ。
どこからが始まりか、わからない。あの日からか、それとも、それ以前からか、いや、生まれたその瞬間から諦めていたのだろうか。今となっては、その時の正確な気持ちなぞ分かりはしない。
明日、書類と入学金を学校に納める。今日は朝から用事があるからと、僕以外の誰も家に居ない。この日しかない、この日しか残っていない。
息が、毒を撒く様に重く、熱い。
身体は寒さに震え、胸が、疼く。
首筋に指を押し当ててみたが、脈は平生通り、何事も無く働いている。しかし、やはり心臓は、何かから逃れるように、肋骨、肺を取り込んで、感覚のない痛みを植えつける。そうだと言うのに、頭は至って正常で、静かな湖面に佇んでいるかのように、落ち着いていた。
心臓だけを休めようと、目を閉じ、両腕で身体を抱きかかえるようにして床に倒れて見るが、この苦しさは変わらない。
周囲は妙に静まり返り、時折、鳥の声が無遠慮に響いた。今日も昨日と変わらない朝で、遠くの方で、車の走る音もした。皆、日常を送っているのだと、改めて感じた。
僕は、本命である女子大学に受かり、そこに行くことを皆が賛成したのだから、行かなければならない。それ以外の大学は、ランクが低く、将来性が無いからだ。
嗚呼、僕はもう、女でしかない。受け入れなければならない、受け入れなければ、社会的に、生きていけない。
けれど、果たして、生きていて何になるのだろう。未来、将来、それが何になるというのだろうか。
僕には何の発言も出来ない、誰も僕の感情なぞ知りはしないし、聞こうとも必要ともしていない。いや、そもそも、僕はいつ、誰に必要とされただろうか。
家族にとっては姉。友達にとっては恋人。
僕は二番か、それ以下の存在じゃないか。
いや、一人だけ、居た。河合だ、けれど、彼は表層だけで、僕のことなど知りもしない、それだけを認めてくれはしなかった。なにより、今は新しい恋人が出来、睦まじくしているそうではないか。
それなら、僕が居なくなったとしても、ロミオとジュリエットのように後を追って死ぬ人は誰も居ない。誰も同等の悲しみを感じず、例え些細な悲しみが訪れたとしても、それぞれの愛する人と分けあうことが出来る。
嗚呼、そうだ、良かったじゃないか。
いっそ終わろうとしているこの時に、心残りなぞ無く、終われるじゃないか。最後の最後で、悔いが出来なくて済む。
今日、太陽は昇ったのだろうか、それにしては、嫌に薄暗い。カーテンを閉めただけで、闇に近づいた。視界は歪み、音もくぐもって聞こえる。
浴槽に僅かな水を張り、包丁を手にし、正坐した。
遺書でも書こうかと思ったが、何か残すほどの言葉が思い浮かばない。書いたとしても、僕の言葉が誰かに届くことも必要とされることもないだろう。
突然死んだとしても、僕はほとんど影響を与えないように、少しずつ人と距離を置いて生活してきたのだ。この日、決心がつくこの日まで、耐えて来たのだ。
もう、休んでも良いだろう。
何もしていないけれど、休んでも、良いだろう。
三度、深呼吸を繰り返し、僕は撫でるように手首を切った。
目に鮮やかな紅い血が溢れだし、浴槽にしとしとと流れた。痛みよりも、その溢れる血に意識を奪われ、僕は目を閉じ、不思議と襲う眠気を受け入れた。
思えば、僕は長く生きたものだ。あの日に、殺されていた筈だったのだというのに、無駄に長く生きたものだ。
もっと早く決断出来て居たなら、胸の痛みも少しは和らいだのではないだろうか。
何 より、両親に経済的、精神的負担を与えることも無かっただろう。良かった、今日、死ぬことが出来て良かった。明日だったら、振り込んだお金が無駄になるだけで、そちらの方に落胆させたかもしれない。あのお金は、彼らの愛する娘の為に、とって置いた方が良いのだ。彼女なら、男を愛し、結婚し、子を生み、子孫を後世へ繋げて行くことが出来る。僕のようなみそっカスではない、まっとうで知的な誰かが生まれることだろう。
死ぬ前にはよく、過去が走馬灯の如く蘇ると聞いていたが、なるほど、確かに身体の感覚が無い所為か、思考ばかりが働いて、どうでも良いことばかり思いだしてしまう。何か幸せで、楽しい日々が思い浮かばないものかと記憶を辿るが、このような状況である為か、誰にも認められない、必要とされていない思い出ばかりが蘇って、一層胸を重くする。
早く思考よ、停止してしまえ。
そうして身体よ、出来るならそのまま融けて消えてくれ。
妙に冷めていた思考が、纏まらなくなってきた。どうやら、身体だけでなく、思考の死も近いようである。
最後に何か思い浮かべようと思うが、都合のよいものはこれと言って無いものだ。両親の顔も、姉の顔も、思い出せない。友人の顔も、記憶の中からも消えてしまっていた。
そういえば、僕の顔はどんなものだっただろう。卒業アルバムに映っていた筈だが、しかし、今ではそれすら判別することが出来ない。
嗚呼、困ったことだ。最後に思うことが、自分の顔についてだなんて、自己愛で利己的な僕らしい、酷い最期じゃないか。
結局僕は、自分しか好きじゃなかったのだろう。もう、それでも良いや、それで、




