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ようやく動物園を見終えた頃、思ったより時間が経っており閉園時間が近付いていた。見る途中で、動物ショーや店に入っていたため、予想以上の時間が流れていたようである。他に用事も無く、僕らは特に話しをするわけもなく、自然と動物園から出て行った。今日の予定はこれで終わったのだから、また駅に向かって歩き始めたが、突然、河合は何も言わずに僕の手を引いて、傍にあった公園に連れて行った。遊具も何もない、殺風景な公園であるために、子どもの姿は何処にも無かった。いや、最近の子供なら、遊具があろうと家でゲームをして遊んでいるのかもしれない。
「どうしたの、」
僕の手を掴む河合の熱は、獣の柔らかな体温と異なり、少し、怖かった。
「あのさ、ミキは今、付き合ってるやつ、いるのか」
少しだけ、どういうことか分かってきた。僕は河合の手を払い、逃げたものかどうか考え、押し黙った。
「ミキ、」
催促するような声に、僕は嫌気がさしながら、「いない」と答えた。
「そっか。それじゃあ、今、好きな人、いる、」
「いるよ」
「・・・大輝、か」
何を当然のことを今更聞くのだろう。僕は大輝も佐藤も羽野も安奈もさくらも、ずっと変わらず好きなままだ。僕はある程度好意を持とうと思った人間以外の名前は、覚えない。
「大輝も、好きだ」
河合は腑に落ちない顔をして、僕を縛りつけるように見つめてきた。黒い瞳が、逃がそうとしない。きっと、言いたくないことを言わされてしまうのだろう。
「どうしてなんだ。あいつは、俺よりも勉強も運動も下で、女にだってすぐフラれる。性格も悪い奴じゃないが、乱暴で、時々、」
大輝の全てを知っているわけじゃない、だから、今聞いた中で新たに知った彼の姿が合っても、大輝本人が変わるわけじゃないから、「うん」とただ相槌を打った。それがいけなかったのか、よくわからないが、河合の瞳が揺れた。けれど、僕に一体何が出来ると言うのだろうか。
「ごめん、そういうことを言いたいんじゃなかった。俺、俺はただ・・・」
顔を赤くして、河合が僕と向き合った。彼は逃げず、正面から伝えようとしている。それに対し、僕が逃げ出すわけにも、聞かなかったことにするわけにもいかない。
「俺、前からずっと、ミキが好きだ」
それがどういう意図の告白か、わからないほど子供じゃない。だから、僕は悲しくなった。
「僕も河合は好きだよ。けど、僕は君の恋人には、たぶん、なれない」
一度彼女が欲しかった。一人は嫌で、自分のことを常に思ってくれる誰かが欲しかった。河合はきっと、しばらくは僕のことを好きでいてくれるだろう。だが、すぐに嫌われてしまうのは明白だ。その理由を、安奈によって、思い知らされていた。
「どうして、」
「僕は、君の望みには応えられない。だから、付き合っても、河合がそういうことを望んだとしても、僕には多分、一生出来ない。僕に触れず、何もしないのなら、恋人になってもいい」
嘘偽りの無い、正直な言葉を返した。河合の驚いた顔が、刹那、霞んだ。目が乾いている所為かと擦ってみたが、そういう訳ではないようである。
「・・・嫌いなら嫌いだと、言って欲しかったな」
彼にはきっと、解からないのだろう。それでも恋人になれるか、そういう僕でも許してくれるのか、ただ、それを問いたかっただけなのに。
「僕は、河合が嫌いな訳じゃない」
本当に大嫌いだったなら、名前すら覚えず、こうして一緒に遊ぶこともない。ただ少し苦手なだけで、彼は優しく思いやりのある人物であることを知っていたので、嫌いになることが出来なかった。
「もしも、俺が大輝だったら、答えが変わったか、」
おかしなことを聞く。大輝が僕に、こんなことを言う筈が無い。言う筈が無いのだから、僕にはそれの答えなどわからない。
「俺が、大輝だったら、触れて、キスをして、それから、」
これ以上聞きたくなかった。だから、僕は顔を上げて河合の声を止めた。
「お前は、大輝じゃないだろう」
誰も誰かじゃない。そんな当たり前のことを、どうして、河合は何度も問いかけるのだろう。
目の前にある河合の、傷ついた顔が目に焼きついた。同時に、世界から人の顔が失われた。そこにあるのは、夕焼けに赤く染まった塊で、河合と同じ服を着たものだった。
「河合、ごめん。僕は、誰とも恋人にはなれないと思うよ」
笑顔を作り、僕は一歩後ずさりした。
「ごめん、傷つけるつもりじゃなかったのに、傷つけた。でも、これが、僕なんだ。軽蔑して、嫌っていいから、」
河合から手の届かない位置に来ると、僕は居たたまれなくなって、そのまま走って逃げだした。一度、名前を呼ばれたような気もしたが、結局のところ、何も聞こえやしない。嬉しいのか、悲しいのか、心臓は不規則に高鳴り、呼吸を荒くさせた。
駅まで逃げてきたが、しかし、電車は先ほど出たばかりで、次に来るのは三十分後だった。これではおそらく、次に電車に乗る時、河合と出くわしてしまうだろう。逃げた手前、同じ電車で帰ることは大変気まずい。その次の電車は、さらに20分後に来ることになっていた。それくらいならば待てるだろうと思い、僕は駅を後にして街を少し散策することにした。もう夏と言えども、風は冷たく、少し、肺が凍りついてしまったのか、呼吸が冬のときのように鋭く荒い。
通りすぎる人の顔は、もう誰も見えない。大人も子供も赤ん坊も、誰の顔もそこには無かった。それは当り前のことのように、世界に溶け込んだ事実で、僕は、思ったほど傷ついていないようだ。
しばらく歩くと、海が見えた。赤い太陽の光が、波に反射し、安奈の舌のようだと何とはなしに想像した。防波堤に腰かけ、目を閉じて波と風の音を聞いた。まるで、鼓動のようだ。以前テレビで見た、母のお腹と似た音だ。どうして、生まれてしまったのだろうか、そんなせん無いことばかり考えて、また、虚しくなった。
海が生臭いのは、たくさんの命が生まれ、生き、死んで腐っているからだろうか。磯の香りというけれど、僕はこの臭いは好きじゃない。どうしようもなく、淋しくなる。淋しくなるのに、それを解決する手段がない。
船の汽笛が遠くから聞こえた。目を開けると、当たりは暗く、波の色さえわからなくなっていた。時計は無かったが、おそらく次の電車は行ってしまっただろう。
このまま、海に落ちてしまえば、また、せん無いことを想像し、僕は首を振った。帰らなければならない、帰りたいか帰りたくないか、そんな感情は如何でも良い。ただ、帰らなければならない。
帰りの電車では、トンネルの中で無くとも窓に外の景色が映っていた。けれど、すぐ目の前にある人の形をしたものには、普段見慣れた左右反転した僕の顔は、もう、見えなくなっていた。分かっていたことだ、こうなることを知っていた。きっと、僕は、不思議なほど冷静な顔をしているだろう。




