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今日は出かけなければならないので、服を着替え、財布と単語帳を鞄に詰めてリビングに入った。
「今日は出かけるのね、」
母に声を掛けられ、僕は昨日も言った筈なのになぜ再確認するのだろうかと疑問に思いつつ、そうだと答え、朝ごはんを食べ終えるとそれきり黙ってテレビを見ていた。準備は出来ていたので、あとは河合が勝手に尋ねてくるのを待つだけで良い。脅迫的に時間に追われ無くとも、向こうに都合を会わせる方が何も考えなくて済むので、僕には気が楽だった。
チャイムの音がし、荷物を持ってそのまま外に出た。河合は相変わらず、場違いに思えるほどの洒落た格好でそこに立っていた。見たところ、自転車の影は無く、僕は首を傾げて彼の傍に行った。どうやら自転車では無く、わざわざ歩いて来たらしい。そうすると、僕だけが自転車に乗る訳にもいかないので、面倒だが僕も彼に合わせて歩くことになった。どうにも、河合は動物園が楽しみなのか、声が少し上ずり、興奮状態にあるようだった。しかし、それも長く続くわけもなく、レストランで昼食を終える頃には普段の状態に戻っていた。食事をおごると言われたが、自分が食べたものを家族でもない他人にお金を出してもらう謂われは無く、また、誰かに貸しを作りたくなかったので丁重に断った。
昼食も食べ終わり、そのまま駅まで歩いて電車に乗った。昼時の時間であるからか、電車に乗っている人の数は少なかった。二人掛けの椅子に並んで腰かけ、河合の話しに適当な相槌を打ちながら、じっと窓の外を眺めていた。電車から外を眺めることは好きだ、いつも、同じ風景ばかし見つめているので、時折息が詰まりそうになる。
今日は本当に良い天気で、濃い青空に千切れた雲が微かに浮かぶ程度である。山並みを臨み、傍には集落があって、青々とした稲の葉が鋭く空に向かい伸びている。秋になれば稲穂がしな垂れ、黄金色に変わることだろう。
トンネルに入り、外の景色の代わりに電車の内部が鏡のように反射していた。自分のひきつった笑顔と、その奥に座り同じように外を見ていたのか河合の顔が見えた。不意に自分の顔が見えると言うのは、気分が良い物ではない。だが、トンネルをすぐに抜け、また自然と人工が折り重なった景色が広がった。
普段映画の為に降りる駅から二駅先で降車し、すぐ近くにある動物園までの坂を歩いた。日が高くなったために、暑さがどっと肩に押し寄せ、じわりと汗が噴き出した。何か扇ぐものでもあれば違うだろうが、丁度良い物が無かったので、手でシャツを掴み、身体に空気を送った。
「思ったよりも、暑くなったね」
「うん」
河合の方を見ると、額の前に手をかざし、目に入る日差しを抑えようとしていた。風でも吹けば多少変わるかもしれないが、木の葉の音はすれど空気の振動は感じない。暑さに耐えながら歩いて五分ほどで動物園に辿り着き、割引で券を買って中に入った。動物園に入ったからと言っても、室内に入る訳ではないので、暑さ自体に変わりは無い。むしろ、動物特有の臭いの所為で、不快感が増加したように思えた。
最初の内は偏った目で眺めていたが、僕はやはり子どもが抜けきらない部分の方が大きく、ライオンやら熊やらを眺めているとその迫力と美しさに魅入られていた。ペンギンが暑いのか、氷の塊が浮かぶプールへ入る姿は微笑ましく思い、レッサーパンダが餌を食べている姿に心が躍った。何の感の言いつつ、楽しめるというのは、僕の心が繊細などではなく図太い神経の持ち主であるからだろう。
「あそこ、動物が触れるみたいだよ」
猿山を見ていた河合に声を掛けてから、僕は触れ合いコーナーに向かった。一度も動物を家で飼ったことが無かったので、このように触れ合える機会があれば逃したくは無かった中に居るのは小さな子どもばかりであったが、中にはおじさんやおばさんの姿もあり、僕が入ってもそれほど違和感が無さそうだった。
コーナーに居たのはうさぎと仔ヤギ、それからよくわからない草食系の動物だった。最初に、ヤギに餌をやり、端で震えているうさぎを見つけ、抱き上げた。熱と早鐘のような鼓動が腕から伝わって、生きているのだという当たり前のことを改めて思い知った。
「可愛いね、」
頭上から声が聞こえ、驚き身体を震わせた拍子に、今までピクリとも動かなかったうさぎが僕の腕を蹴って逃げて行ってしまった。追いかければ再び抱き上げることも出来るだろうが、それきりうさぎには近づかず、声を掛けてきた河合のところに再び戻った。動物園を周りながら、自分の手首に指を押し当て、脈打っていることをそっと確認した。




