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三年生の春が来た。ここから一年、いや、一年も無い。塾の講師曰、死ぬ気で勉強をしなければ、受験に生き残れない。大きく、強い目標に向かう情熱が必要だと言われても、僕は未だ、宙ぶらりんのまま、参考書の問題を解いていた。学校は妙に空気が張り詰め、さくらも少し、疲れているようで、あまり二人で話すことも減っていった。時間があれば勉強し、その様に勉強している人が居るから、体面を守るためにこちらも勉強する。ふざけている者もいたが、彼らも教室には居づらいのか、どこか別の場所に移動しているようだった。部活動も春の大会で勝たない者は引退し、今まで部活に向けていた情熱をそっくりそのまま学問へ向けて必死になるものが何人も居た。それほどまでにやる気があるのだから、彼らが皆、目標があるのだろう。
姉は、画家になると言った。さくらは、保母になることが夢だと言った。佐藤は、国立大学に行くことが目標だと言った。羽野も佐藤と同じ大学に通い、教師になることを目指すと言っていた。河合は、消防隊員になりたいと言っていた。
僕は、誰にも言わなかった。聞かれても、「わからない」と答えた。本当は、幼いころから、成りたいものは沢山あったのに、どれも、言えなかった。皆のように、堂々と述べ、誰かに、否定されることが、怖い、臆病者だった。
夏休み前の最後の模試が終わり、まずまずの出来に取りあえず胸を撫で下ろした。周囲の成績がどの程度か分からないが、志望している大学の内、一番ランクの高い大学の合格圏ぎりぎりの得点が取れたのでは無いかと思えた。昨夜は眠れなかったので、早く家に帰って部屋に籠り休みたいと思っていると、突然、肩を叩かれ驚き、びくりと一度身体が震えた。
「え、ごめん」
肩らから手が離れ、その手の後を辿り、後ろに河合が立っていたことに気がついた。塾のことで何か話があるのだろうかと、しばらく黙って彼を見ていると、何か喉に詰まっているのか、何度か唾を飲み込む動作を繰り返し、ようやく声を出した。
「あのさ、明日、暇、」
「別に、特別な用はないけど」
「それならさ、明日、遊びに行かないか」
気分転換をしたいのだろうか。誰かに誘われたのなら、母に遊びに行くことを咎められることが無いので、気分転換になるだろうと思い、了承した。
「何所に行くんだ、」
「動物園って、どうかな。俺の親戚が働いていたから、割引券をもらってて」
高校生三人で動物園というのは奇妙な気がしたが、せっかく割引券があるのだから使わない手は無いのだろう。しかし、大輝がよく同意したものだ。
「・・・どうした、」
疑問が表面に出ていたのだろう、僕は笑顔を取り繕って首を振った。
「いや、大輝がよく動物園に行こうと思ったな、と」
顔を上げると、何故か河合の顔が強張っていた。どうしたのだろうと首を傾げると、「いや、大輝はいかない」と否定した。重い空気が漂っていたので、おそらく、大輝と喧嘩でもしていたのだろう。気を悪くさせてはいけないと思い、僕は笑顔で取り繕った。
「そうだよね、大輝、あんまりそういうの好きじゃないから、一緒に行ったらしらけるよな。うん、楽しみだ」
本当は、動物園があまり好きではない。獣の臭いが嫌いというのもあるが、素直に楽しんで良いのか、可哀そうだと思うべきか、そんな狡いことを考え、嫌になる。けれど、僕の本心は、声に出さない限り誰にも伝わらないので、無邪気に喜ぶ子どもに映っているだろう。
「それなら、11時に迎えに行くよ」
「わざわざ良いよ。11時ごろ、駅で待ち合わせにしたらいい。お昼は食べてから行こうか、」
荷物を片付け、これで話しを終えたと別れようとしたが、河合は僕の隣りに並んで離れそうもない。どうやら、一緒に帰るつもりらしい。学校ではあまり関わり合いになりたくなかったが、嫌だと拒絶するのも不自然なので我慢した。
「迎えに行くよ。それでさ、駅前のレストランで昼食にしよう」
ならば、そのレストランを待ち合わせにすればよいのでは無いかと思ったが、いちいち意見を言うのは失礼だと思い、いや、正確に言えば待ち合わせ云々を話すことが面倒になったので、「わかった」と了承し、話しを区切った。クラスが違うので下駄箱で別れ、再び会わないように小走りで行動し、さっさと学校から出て行った。
苦手な人物の近くに居た所為か、頭がズキズキと疼いた。自転車を漕ぐ度に、風が顔に当たり、鼻から脳にかけてすっと抜ける痛みが起る。歩いたところでこの痛みが無くなりそうもないので、漕ぐ速度を上げてさっさと家に帰った。
家に帰れば今日の模試のことを聞かれ、さらに頑張れと言葉を掛けられる。まるで、僕が何の努力をしていないような言い方に、怒りよりも悲しさが先に募った。だが、いつものことなので、それも次第に失せて、頭は何も考えないように隅へ追いやった。
夜が来て、朝が来る。時間は、やはり止まってはくれない。一日、一日が失われて行く、今までそれほど強く思ったことは無かったと言うのに、時間が、足りない。




