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 家に帰ると、もう母が居て、「こんなに遅くまで何してたの、」と少し怒った口調で尋ねてきたが、何もしていなかったので応えられる筈もなく、僕は小声で「ごめんなさい」と謝った。

 「もう夕飯は出来てるから、早く食べなさい。塾に遅れるわよ、」

 何のことは無い、平生と変わらない。変わらないことが、どうしようもなく、悲しかった。

 「僕、塾をやめたい」

 声が、微かに震えた。母の肌色の塊である顔が、僕の前に迫った。声を出さないので、怒っているのか、呆れているのか、その判断が出来ない。すると、手が動き、僕の頭を軽く叩いた。

 「あんたね、ただでさえ成績が悪いのに、塾やめたらもっと下がるでしょう。そういうのは、お姉ちゃんみたいに、自力で勉強出来るようになってから言いなさい」至極もっともな意見だった。「それにね、お金払ってるのは親なのよ。本当に、我儘な子ね、行かせてもらってることを感謝してもらいたいくらいなのに」

 反論出来る筈が無い、僕の願いは身勝手な我儘なのだ。姉のように出来が良かったら、自分の思う方向へ行けるだろうが、僕のようにダメな人間は、せめて誰かの期待に成る丈副った生き方をしなければならない。

 分かっていたことだ、分かっていたことだけに、僕はすんなり諦めた。結局逃げようとしても、僕はいつだって、その根性すらない。そんなことだから、見限られ、嫌われてしまう。

 嫌われてしまうくらいなら、最初からいない方がいい。

 味のない、物体の塊のご飯を食べて、僕は塾に向かった。近くの家から、灯りとともに笑い声が聞こえてきた。何がそんなに楽しいのだろうか、嫌気がさし、気分を変えようと空を見上げたが、街灯が邪魔をしてろくすっぽ星さえ見えない。車の走る音、鈴虫の鳴き声が耳に入り、煩わしさに首を振った。

 このまま、気づかぬうちに足元が地獄へつながって居れば、どれだけ楽だっただろう。いや、どこにも行きたいわけじゃない、僕はそのまま、消えてしまいたい。けれど、まだ、怖かった。

 翌日、僕は成績不良を理由に文芸部を退部した。未練は無い、あのような中に居ようと居まいと、僕の文章に何の影響も与えないのだから、所属していたことが間違いだったのだろう。きっと、僕がやめたことで、さくらに対する陰口から、僕に対する批判に移行するだろう。そうなれば、まだ、僕は辛くない。

 さくらだけが、「最近、顔色悪いけど、大丈夫、」と優しく声を掛けてくれ、友達で居てくれた。けれど、きっと、僕の汚い内面を知れば、軽蔑して僕から離れて行くのだろうか。ならば、彼女にだけは悟られないように、出来る限り、明るくふるまおう。

 二学期が終わり、三学期が始まり、一月、修学旅行があった。さくらといつも一緒に行動したので、今までの中で一番、心が休まる修学旅行だったように思う。お風呂は各部屋ごとにあり、着替えも仕切があって、そこで着替えることが出来た。さくらは、僕がそういうことが苦手だと知っていたので、僕に合わせて彼女も同じように振舞ってくれた。よく話し、他愛もないことに笑い、持ってきたマグネットゲームやトランプで遊んだ。

 修学旅行先が都会だったので、見る景色のほとんどがビルと人と車で、灰をかぶったような色ばかりしていた。展望台へ行くことになり、エレベーターで一番高いビルの展望階に行き、綺麗とは言い難い360度ビルに囲まれた街を見下ろした。柵も囲いも無い、ガラスだけが隔てている。下を覗き込むと、怖いというよりもぞくりと武者震いがあった。この高さから落ちたなら、きっと助かるまい。ガラスが急に弾けて、そのまま下に落ちたなら、不幸な事故として処理され、誰にも詮索されずに終わる。

 「ミーキ、危ないよ」

 さくらが僕の身体を掴み、ガラスから離した。振り返ると、さくらの後ろに大輝と河合の姿が見えた。河合はこちらに気づいていないようで、大輝だけが、僕の顔をじっと見ていた。何か言いたそうな目をしていたが、その口は固く閉ざされて何も語らない。

 「ね、あそこで試食やってるから行こ」

 さくらの明るい声が、僕を現実に引き戻す。きっと、彼女は僕が何を考えていたのか知らない。だから、僕もそれ以上無駄なことを考えるのはやめて、彼女の望む方へ向かった。彼女のおかげで、楽しい時間を過ごせているのだ、変なことを考えるのはもう止めた。

 同級生に恋人がいる生徒は、修学旅行でも先生に黙って一緒に行動していたようである。恋愛というものは、何と面倒なことであろう。それが近い者であればあるほど、より、億劫になる。気を使われたのか、さくらは旅行中、彼氏のことは極力話さなかった。

 二泊三日、修学旅行という名でありながら、その実ほとんど学習らしいことをしたとは思えない規制された団体旅行は終了した。これから先、三年生になれば楽しいことがあっても、浮かれてはいけなくなる。先生に進路の紙を提出するように言われていたが、まだ何も書けずにいた。担任が何度も早く書く様に催促したが、それでも僕は、そこに書きたい言葉も、書かなければならない文字も記せない。

 三者面談があり、一体どうするつもりなのか、皆はもうとっくに進路を決めていると担任、親ともども責められたが、僕はただ沈黙した。

 「もし、希望が無いのなら、この成績で順当な大学を書くだけで良いんだよ。君なら、文系が志望になるだろうね」

 「ええ、理系は全然出来ませんから。ここの大学なんかが、丁度良いでしょうか」

 僕には考える力が無いとみなされたのか、進路は先生と親が順当な処を記し、「これでどうかな」と確認するように尋ねた。それでも僕が何も言わないので、辛抱堪らんと二人の声が荒くなっていった。

 「貴方の進路なんだから、貴方がちゃんと決めなさい、」

 「何も考えない人間は、社会に出てもやっていけないよ」

 「お姉ちゃんの方が、貴方よりずっと夢も行動力もあったよ。全く、どうして姉妹なのに、こんなに違うのか」

 違う、そう口に出してみたかった。考えていない訳じゃない、やりたいことがない訳じゃない。ただ、言ってもどうせ、否定されることだと分かっていたから、言わないだけだと、叫びたかった。いや、言っても否定されることなら、言わずに、周囲が納得する順当な道を選ぶ方が軋轢も少ないだろう。それでも、僕は、どうして意地になっているのだろう。

 「まさか、就職したいのかい」

 その言い方では、例え、本当に僕の望みが就職したいことで合ったとしても、それを何かと理由をつけて否定することだろう。僕は別に大学に行って、学びたいことがあるわけでもない。ならば、金がかからない方が、ずっと良いのではないかとその時ふと思った。だが、このような社会知らずで、怠け者の労働力を求める企業が何処に居るというのか。

 「高校生で就職したって、あまり良いところには行けないよ」

 「せめて、大学か短大ででも学歴がないと、結婚も・・・」

 どうして僕が何も言わないうちに、説教が始まるのだろう。どれも、僕の望みでは無い。どれも違う、僕の望みはそうではない。

 ならば、僕の望みとは何だ。人に言うことも出来ないことが、望みと言えるのだろうか。今まで経済的、社会的に投資されて来たのだから、その通りの道に近いようにするのが、本来の姿ではないのか。

 僕は、自分と他人との折り合いの中で、文系の大学を受けることを選択した。案は出されたが、最終的に決めたのは僕なのだ。僕は、恨むならば自身を恨まなければならない。

 頭が混乱し、吐き気が治まらない。

 自分が、見つからない。僕が、わからない。僕は僕なのに、何を考えているのか、何を考えて良いのか、わからない。


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