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部活内での恋愛は、いい加減勘弁してもらいたいと思っていると、ついに付き合っていた二人も別れた。しかし、それには理由があって、彼氏が彼女以外の女子を好きになったから別れたのであり、その好きになった女子というのが実はさくらだった。当然、さくらには恋人が居るのだから話にならない上に、彼女からはその男子から告白されたという話をとんと聞いたことが無い。しかし、女子と言うのは浅ましいもので、さくらの悪口をベラベラと捲し立てるのである。友達の僕としては否定するのであるが、そうすると、僕まで悪人であるように周囲を巻き込む陰険さがある。僕を嫌い馬鹿にするのなら仕方が無い、僕はその程度の人間なのだから甘んじて受けよう。けれど、さくらは僕のような破綻者ではなく、ごく普通の、いや、むしろ善人だ。人の悪口を言わない、誰に対しても敬愛の念を持ち合わせて対応する女性だ。さくらのことをろくすっぽ知らず、外見だけで判断するということが僕には理解出来なかった。あれだけ批判が出来るのだから、彼女らはそれだけの人格と徳を持ち合わせてでもいるのだろうか。いや、徳が無いから批判をしてはいけない訳ではないが、我が身を振り返った時、批判することを恥じ、また罪悪感を持つものではないだろうか。
それに、男の方も男の方だ。人を好きになるのは勝手だが、相手の状況をよく鑑みて発言するべきだ。よもや、別れたいがための言い訳に使ったのではあるまいかと勘繰る。その男子が、さくらに何かしらの行動を示したことは今のところ無い。第一、さくらは男子の名前自体聞いたことが無いと言っていた。
陰口も長くは続かないだろうと思い、僕は出来る限り暴言罵倒に耐えながらさくらのことを庇っていたが、どうにもこうにも耐え難い。もしかしたら、ユメのあの怒りの矛先もついでに付け加えられてはいないだろうか。そもそもどうして僕は、わざわざ汚い言葉を聞き続けなければならないのだろう。
部活が終わり、一人になって、僕はまた屋上に足を進めた。校舎の中にはもう誰も居ない、けれど、窓の外では運動部が掛け声を上げながら、必死になって練習している。あのように打ち込むことが出来たなら、何も考えなくてすむのだろうか、しかし、走る気力もなかった。
一番上の階に行き、窓の前に立ったが、外に出る気も失せて、僕は階段に腰掛けた。泣きたいほど心が疲弊しているが、こんなことで悩んでいる弱い自分に腹が立ち、涙を流すことも弱音を吐くことも別の自分が否定する。しかも、今日は塾のある日なのだから、こんな処で時間を潰していてはいけない。出された課題もまだ完全に終わっていないのだから、家に帰って少しでも多くの問題を解かなければならないのだ。けれど、それらをいつ、僕自身が望んだと言うのだろうか。僕はただ、見捨てられないように、言われるがまま行動してきただけだ。つまり、ここで挫けてしまえば、僕は多くのものから見放されてしまうことになる。弱い僕が、一人で生きることなど出来る筈が無い、一人では何もできないと、他人にもほぼ毎日のように言い聞かされているではないか。
けれど、もう疲れてしまった。どこに居ても、誰かの言葉を気にして行動してばかりいた。いや、誰かにそのような姿であるべきだと望まれることは、まだ見捨て要られていない証拠であり、感謝すべきことだ。ただ、僕の心が他人と違って貧しいから、素直にそれを受取り、人の望む方向に進むことが出来ないでいる。もっと出来の良い人間であったなら、誰も失望させずに済んだ筈なのに、どうして僕はこれほどまでに愚鈍なのだろう。
「・・・、」
息を飲む音がし、はたと顔を上げると、仮面でもつけたような無表情で立つ、大輝の姿があった。どうしていつも、一番みっとも無い姿を彼に見られてしまうのだろうか。
「ミキ、」
呼びかけてきたが、しかし、彼はそれきり何も言わない。こちらから、「何か用、」と尋ねても、やはり中々口を開かない。その代わり、大輝は僕の隣りに腰かけ、下の階に視線を落とした。一体何があるのだろうかと視線を辿ってみたが、白い廊下が見えるだけで何のことは無い。
彼からは汗と剣道特有なのか、畳にも似た重厚な臭いがした。良い匂いとはけして言えない、けれど、僕はこの臭いが昔から嫌いではなかった。
「なぁ、ミキ」大輝に視線を向けたが、彼は下を見つめたまま、僕に一瞥もくれなかった。「嫌なことなら、止めちまえばいい」
僕は、何をと口に出して聞きそうになったが、それを喉元で何とか抑え、小さく首を横に振った。
「途中で諦めたり、放棄することはダメだ。そうで無くとも、僕には取り柄がないんだから、」
「そんなことを言うな」
その時初めて、大輝と目が合った。彼は少し怒っているのか、目を鋭くして僕を睨んでいるようだった。一体何が彼の気に食わなかったのか、僕はただ周囲からも指摘されている事実を述べたまでだ。しかし、これ以上言わない方が良いと思い、「ごめん」と小さく謝った。
「・・・嫌なら、止めろよ。無理して、苦しむな。俺の所為にしていいから、嫌なら止めろ」
本当に、止めても良いのだろうか。僕は根性の無い、堕落した人間なのだから、甘えてはいけないのではなかったか。しかし、その言葉は甘く、僕を誘惑した。楽な方へ向かうのが人間と言うものなのだから、誰か一人でも後押しする者が居れば、簡単にそれに流れてしまう。そうか、こういう考えがすぐに思い浮かぶから、僕は根性無しだと言うことなのだろう。もしも姉だったなら、この状況もうまく立ち回り、成績も上々で両親から叱られることも無かった筈だ。彼女は根性無しでは無く、自分の考えを曲げず貫く強い意志を持ち合わせているのだから、すぐに人に甘えようとする僕はなんてさもしい人間だろう。
「ミキ」
強く身体を揺さぶられ、身体と思考が分離された状態から一つに戻り、肩を掴む大輝の指を静かに払った。
「ごめん、考え事、してた」
大輝の顔を見ると、何かを抑え込んでいるように唇を噛み、八の字に眉を顰めていた。一体何が彼を傷つけてしまったのだろう、考えようとするが、頭がまたバラバラになったように思考を働かせようとしない。
「嫌なら止めろ、な、」
微かに震えたが、しかし、強く肯定を求める言葉に、僕は反射的に「うん」と頷いた。それで一応納得したのだろう、大輝は大きくため息を吐き、僕の身体を立たせた。彼は今も僕の親分であることに、変わりはないのかもしれない。
「帰ろう、校舎はほとんど閉められてるから、野球部の部室の近くしかドアが使えない」
言われて、僕は周囲がもう闇に足をどっぷりとつけこんでいることに気付いた。ずっと薄暗い中に居たので、外の時間軸の変化に気づかなかった。
こんな風に、僕は何かを見逃していたのだろう。そして、今後も気づかないまま、無神経に時間を浪費するに違いない。
本当に、やめてしまおうか。
全部、やめてしまおうか。
やめられるものなら、何もかも放り出して、どこかへ逃げてしまおうか。
それが出来るはずもないのに、思考は逃避のことばかり考えている。そんなことだから、僕はいつまでも何も出来ない、怠け者のままなのだ。愚図で、鈍間で、誰の役にも立たないのだ。
それでも、疲れてしまった。疲れてしまった、我儘だと分かっているが、僕は疲れてしまったんだ。
大輝は何も言わなかった。ただ、挨拶をして、そのまま別れた。




