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雨のように五月蠅かった蝉の声が、一匹外れて鳴く様になった頃、その旅愁と共に夏休みが終わった。まだ暑さは幾分か残っていたが、朝夕になると肌寒いほど冷たい空気に包まれていた。夏休みの間、遅くまで眠っていたのだろうか、皆どこか眠そうな顔で席についていた。
始業式は午前中で終わったが、体育館に集められて去年とほとんど変わらない校長の話を聞くと言うのは、身じろぎもほとんど出来ないのである意味拷問に近い気がした。しかし、それをないがしろにするわけにはいかない、学校の長に生徒全員を指導出来る権力が与えられていなければ、個々人が好き勝手に行動することを許してしまうだろう。本当のところはどうか知らないが、こうして自分たちは、先生や大人たちに比べると地位が低いと認識した方が、社会という更に大きな権力の世界では辛抱堪らなくなるのだろう。
翌日、夏休み前とほぼ変わらない一日が過ぎ、放課後、文芸部の集まりがあった。あの日以来、ユメから電話も無く、僕のせいではない筈なのに彼女に会うことに罪悪感があった。それでもクラスの女子にいつものように連れて行かれるので、逃げることも不自然なので仕方なく部室に顔を覗かせた。全員が同じ服であること、誰の顔も見えなくなっていたために、そこにユメがいるのかどうかすら、わからなかった。文芸部は珍しくまともな話合いで、今度の文化祭の冊子と出しものについてアイディアを募り、具体案を出し合った。僕は正直どうでも良かったので、皆の提案にただ従うだけで、建設的な意見を出しはしなかった。
声の中にユメが誰なのかが分かったが、部活中、部活終了後も彼女から話しかけてくることは無かった。嫌われたのか、もう怒りが失せてしまったからなのかは分からないが、関わり合いにならないことは大いに結構なことだと自分を納得させた。迷惑だと思っていた人に嫌われ、喜ぶならば兎に角、どうして悲しむ必要が在るのだろうか。けれど、僕がもっと確認をして居れば、彼女はあれほど傷つくことは無かったのだと思うと、自分の無能さに腹が立ち、申し訳なさが頭の中から離れない。こんなことを考えている暇は無いと言うのに、今までの失敗も同様に思い返され、腹立たしさと悲しみが思考を支配する。どこに居ても、何をしていても、ふっと記憶が蘇り、呼吸することすら億劫になって行く。いつも眠っているような感覚で、しかし、夜はどれだけ身体を動かした後でも中々寝付くことが出来ない。しなければならないことばかりが増えて行くが、そのどれもが中途半端なものになり、きっと皆が失望していると思い、また罪悪感が蘇る。
その頃は、さくらだけが僕のよき友人だった。彼女は何も強制せず、利益だけの友人関係ではなく、何の価値も無い僕の傍に居てくれた。特別面白い話も出来ないというのに、よくも飽きもせず僕の話を聞いて居られたと思う。けれど、二学期が始まって一カ月が経った頃、彼女が僕に秘密を打ち明けてから、複雑な感情が胸に疼いた。
「あのね、彼氏が出来たの」
共に喜ぶべきことだと分かっていた。しかし、一瞬心臓が止まってしまったのではないかと思うほど、僕は呼吸も忘れ、身体を強張らせた。何とか声を絞り出そうと思い、口を開けて見たが呼吸が出来ない。
「ミキ、どうしたの、」
さくらの心配する声を頼りに、思考が纏まり、僕はようやく呼吸することが出来た。そしてすぐに笑顔を返した。
「ちょっと、びっくりしてさ。よかったね・・・」
「ありがとうっ」
きっと、さくらはいつもより輝いた笑顔を浮かべていることだろう。果たして、僕は笑顔を作ることが出来ているのだろうか、口元を更に強く引き上げた。
「えっと、誰なの、」
「働いてる人だから、多分ミキは知らないと思う」
名前を聞いても、確かに聞いたことのない名前だった。そのようなことより、さくらの彼氏が同じ学校の生徒では無いということが、せめてもの救いだった。もし同じ学校だったとしたら、僕はこれから先、校内でどう彼女と過ごせば良いのかわからなくなる。しかし、これほど喜んでいるのだから、もし、二人が別れでもしたら、僕はさくらを慰めることが出来るだろうか。だが、それは杞憂に終わりそうだった。彼女と恋人は互いに尊敬し合う仲であり、恋の欲目もあるだろうが、悪口も無意味な賛美もとんと聞いたことが無い。相手が社会人であること、さくらの性格を考えれば、子どもの匂いが抜けきれない他の女子と同じだと思ってはいけないのだろう。しかし、話す内容が、彼氏を軸展開されて、誰も僕らの会話に入りこんでいないと言うのに、二人の仲に無断で入りこんでしまったような奇妙な感覚があった。一体どうしてそのような幻想を抱いてしまうのだろうか、彼女は直接的に彼氏の話をしようとはしない、ただ、僕が彼女に彼氏が出来たというそれだけで、前と同じように接することが出来ない。けれど、それを彼女に気づかせるわけにもいかない、だから、前にも増して僕は聞き役に回ることに決めた。そうすれば、少なくとも余計なことを言って彼女を傷つけてしまうことはないはずである。
どうして誰もが人を好きになり、恋をするようになるのだろうか。そして、どうしてそれに優先順位が決められてしまうのだろうか。想い人の前にすると、他の者は皆取るに足らない畜生と変わらない。いや、畜生よりは愛玩動物くらいだろう。兎にも角にも、恋人以外の価値は下がる。本人の意識が無かろうと、やはり前とは変るのだ。そして、別れた時、その愛の分だけ憎悪が芽生え、これも本人の自覚なしに周囲のものを撒きこむ。




